休み時間は大抵本を読んで過ごしている私ですが、そうすると、どうしてもクラスメイトの会話が耳に入ります。
 決して盗み聞きをしているつもりはないのですが、そのクラスメイトの会話で、いつが何の日なのか知ることもしばしばです。

 その日、私が文庫を読んでいるときに耳に入ってきたのは、チョコレートの話題でした。
 商店街に、新しいケーキ屋ができて、そこでチョコレートのセールをやっている、とのことです。

 どうしてケーキ屋でチョコレートなのかと思いましたが、教室に掲示されているカレンダーをみて、ああ、と納得しました。

 

 今日は2月7日。
 一週間後は――――――――――

 

 

 

セピアの情景

 

 

 

(ヴァレンタイン、か…)

 カレンダーを見つめながら、頭に浮かんだ単語を考えます。
 正直、私には全く縁のない行事、といっても過言ではありません。
 元々私自身、洋菓子よりは和菓子のほうが好きですし、母子家庭で一人っ子の私には、家族にもあげる人間がいません。

「…いえ」

 ひとりだけ、いました。
 今はもういない、あの子。
 私の前で消えてしまった、あの子が。

 それはもう、10年近くも昔の話―――――

 

 

 

 

 その日、私は給食で出たチョコが食べきれずに家に持って帰りました。
 よくあったでしょう?ヴァレンタイン近くになると、ハートのチョコレートが給食のデザートとしてついてくることが。

 家に帰ってもお腹が減っていなかった私は、居間で絵本を読んでいたあの子にそのチョコをあげました。
 あの子はチョコを食べたことがないらしく、最初不思議そうな目でそれを見て、匂いをかいで、それからぱくっ、と口の中に放り込みました。

「―――!!!」

 見る見るうちに、あの子の瞳が輝きだしました。
 甘く、美味しく。
 その瞬間、あの子はチョコレートが大好物になったようでした。

 もっとないの、とあの子は言いましたが、私は和菓子の方が好きで、母もそれをわかっているので家にはお饅頭やお煎餅しかありません。

「うーん……」

 困ってしまい、部屋を見渡しました。そして目に入ってきたのは母がたまに購読している婦人雑誌。
 そこに載っていた、「ヴァレンタイン」の文字……

 テレビ脇の日めくりカレンダーが指しているのは、2月12日の文字。
 時期的には、ちょうど良かったのでした。

「……いまはないから、あさって、わたしがつくってあげるね」

 そう言って、指切りをして約束した、チョコレート…

 翌日母に話をして材料は準備してもらいました。
 雑誌を見ながら、必死でコンロの前でチョコを溶かしたりしていました。
 最初、直火にかけて鍋を焦がしてしまったのも、今ではいい思い出です。

 …一番忘れられなかったのは、あの子の笑顔。
 決して上手くは出来なかったのに、顔をくしゃくしゃにしながら、「おいしい」と笑ってくれました……。

 

 

 

「懐かしい…」

 ページを捲る手も止まり、思わず呟きました。
 あれから一ヶ月もしないうちに、あの子は消えてしまいました。
 辛い、あまりに辛い出来事。
 楽しかった幾多の思い出も、このとき一緒に封印してしまったのでした。

 

 

「おーーーーいっ、天野ーーーーーっ!!!」
「…ッ!!!」

 思い出に浸っていた私の耳に飛び込んできたのは、全く無遠慮な相沢さんの声。
 思わず後ろを振り向くと、案の定、彼が教室の戸から顔を出して笑いながら手を振っていました。

 …クラスメイトの視線が痛い。
 私はすぐに本を机に放り込んで、教室の外へ行くと、相沢さんの服の袖を引っ張って階段の踊り場まで走りました。

「お、おいっ!なんだよ、どうした天野っ!」
「それはこっちの台詞です……!」

 おそらく私の顔は赤くなっているでしょう。
 振り向いて、きっ、と相沢さんを睨みつけます。

「無遠慮にも程があります…!いきなり教室に来てあんな大声で名指ししないで下さい…!」
「ああ、それは悪かった。ちと急ぎの用でな」

 全く悪びれた様子も見せずにさらりと言います。

「用…?」
「おう。帰り、ちょっと付き合って欲しくてな」
「……たったそれだけのためにあんなに大声で私を呼んだのですか?」
「いや、だって天野本に集中してたみたいだし。あまり普通の声だと聞こえないだろ?」
「それならせめてクラスの人に呼んで貰って下さい…!本当に恥ずかしかったんですよ私…!」
「うむ。恥ずかしがる天野なんて滅多に見れないからな。いい目の保養をさせてもらった」
「……ッ!!!!!」

 私は踵を返し、教室に戻ろうと階段を登り始めました。

「おーい、帰りどうするんだよ?付き合ってくれるのか?」
「知りませんッ!!!」

 一言そう言い放ち、私は足早に教室に戻りました。
 ……クラスメイトの視線が、やっぱり痛くて仕方ありませんでした。

 

 

 

「はぁ…」

 ため息。これで何度目でしょうか?
 それというのも―――――

「どうした天野?さっきから…。疲れたのか?だからおばさんみたいとか言われるんだぞ?」

 彼のせいです。
 放課後、出来うる限りの最高速度で帰り支度を済ませて教室から出た途端、相沢さんと鉢合わせたのでした。
 私のクラスはかなり早いほうだと思ったのに、どうしてこんなに早いのでしょう。
 聞いたところ、

『3年はもう殆ど授業がないから終わるのも早いのだ』

 などと、無意味に胸を張って言われてしまいました。
 …ずるいです。

 それで結局、彼に付き合うことになったのでした。

「失礼ですね…。本当に去年から、ちっとも変わっていません」
「……ああ、そうだな。もう、1年―――早いもんだ」

 何か反論があるかと思っていたのに、相沢さんはぽつりとそう呟き、黙ってしまいました。

 

 

 そのまま、歩くこと30分。
 私たちは、丘の上に立っていました。

 夕日に照らされて、赤く染まる草原。
 私も、相沢さんも、無言で街を見下ろしています。

「…全く。1年経っちまったじゃないか。いつまで待たせるんだよ…」

 ぽつりと。
 相沢さんは、呟きました。

「……」

 ふぅ、と息を吐き出してから、相沢さんは私に向き直り、

「未練がましいな、俺」

 と、困ったように笑いました。

「ここにいたからって何かなるわけでもないのにさ。天野にも無理言って付き合ってもらって…」

 私は、ゆっくりと首を振って、

「……1年そこそこで未練がましいなんて言いませんよ。私なんて、もう10年近くです」
「……ああ。そうだったな……。苦労するな、お互いに……」

 いつも突飛な行動や言動で私を困らせて、からかって、いつでも笑っていた相沢さん。
 今この場でさえ、無理に笑おうと勤めて……

 そして、出来たのは、哀しい、寂しい笑顔。
 笑っているのに、泣きそうな、そんな顔―――――。

 

 

 

 

「…寂しそうだったから。そう、義理なんです。寂しそうだったからなんです」

 ぶつぶつと呟きながら私は台所に立って、コンロの前でチョコを湯煎で溶かしていました。
 今日は2月13日。
 今までの生涯の中で、2度目のチョコ作りでした。

 大き目の鍋でお湯を沸かし、沸騰したら中火にしておいてから、小さ目の鍋にチョコレートの塊を入れて、その中にお湯が入らないように鍋を湯の中に沈める…

 昔はなかなか上手くいかなかったのですが、流石に今ではきちんとこなせます。
 見る見るうちにチョコは液状化して、とろりとしてきました。

 軽くさいばしでかきまぜて完全に溶かし、先日買ってきた星型の型の中に流し込みます。
 そしてラップをかけて、型を置いたトレーを冷蔵庫の中に入れました。

「……作り方、これでよかったでしょうか……」

 正直あまり自信はないのですが、食べられないことはないだろうと納得して、私はエプロンを脱ぎました。
 あとは固まるのを待つだけです…。

 

 

 

 

 翌日。
 夕日が学校を照らす午後4時半、私は相沢さんの教室に向けて歩いていました。

 …行こう行こうと思っているうちに、結局この時間。
 寂しそうだったから、義理だから…と何度自分に言い聞かせても、緊張してしまったのでした。

 教室についても、中に入るまでの心の整理に何分かかかりました。
 深呼吸。2回ほど繰り返し、

「…よし」

 呟いて、教室の中を覗くと―――――

 

「…」

 相沢さんが、ひとりで、窓際の机に突っ伏して、眠っていました。
 教室には、他に人影はありません。

「…相沢、さん?」
「…」

 教室の入り口から声をかけても、彼が気付く様子はなく。
 わたしは音を立てないように気をつけながら近くへと行きました。

「……」

 相沢さんは、ぐっすりと眠っているようでした。
 夕日を浴びて、穏やかな表情で、柔らかく寝息を立てて―――――

「…相沢さん?」

 声をかけても、全く反応しません。
 私は、隣の席に腰掛けて、なんとなく、彼の寝顔を見ていました。

「……」
「……」

 穏やかに、流れる時間。
 世界に、彼と私しかいないような、錯覚。

 セピアの情景。

 …結局、この気持ちがあるのが真実なのかもしれません。
 相沢さんを見ていて心に生まれる、暖かい気持ち。

 それが―――――

 

 

 

「……ん……」

 声をあげ、薄くまぶたを開ける。
 そんな彼に、私は微笑みながら、

「……おはようございます」

 手にもった小さな包みを差し出しながら、そう伝えました――――――――――

 

 

Fin.