白い山脈が一望できる展望台。そこを今、私たちは目指していた。この季節は雪に覆われるというデメリットもあって、登山向きでもない冬の山というものは比較的人気が少ないらしい。だからこそ、恋人達のデートには最適だ。そう思ったらしい相沢さんが学校帰りの私を連れ出してこの山に来るというプランを立てたのはつい昨日のことだった。そして、今、何故か相沢さんの運転する車で頂上への道を登っていて、「・・・・ッ」ズルッタイヤが滑る感覚、相沢さんはとっさにカウンターの切り増しをはかる。横向きにかかるGの衝撃に耐えながら、コントロールを立て直した(と、あとで相沢さんの解説をうけた)。「あ、相沢さんっ!!」思わず挙げた、私の声は震えていた。シートに体が貼り付けられている。助手席から見たスピードメーターの表示は軽く100キロを越えていた。「ん、何だ、美汐」なのに、平然と鼻歌交じりに片腕ハンドルで、相沢さんは笑顔で答えた。「あの、いつ免許をとったのでしょうか?」「ああ、つい昨日のことだが」とっさに流れたテールを切る。手足が神業のように早くきびきびと動いているのに、私に向けた表情は緩んだまま。「この車は誰のものでしょうか」二人乗りのツードアで、加速が何だか普通じゃない。どこからどうみてもスポーツカーだった。しっかりとウイングなんてものがついている。「さあな。今日、美汐と出かけると秋子さんに話したら、こんな車を持ってきてくれた」今はこの場にいない秋子さんを私は心底恨みがましく思った。この気持ちは同じ恐怖を味わった人にしか分らない。例えるなら、命の保証が無いジェットコースターに無理やり乗らされた感じだろうか。絶叫を上げそうになる口を手で押さえながら、窓の外に目を向ける。登り始めたばかりの山の全景がちらりと見えた。見上げるばかりのその高さ。頂上に到達するにはまだまだ時間がかかりそうだった。特別な日に伝えたい特別な言葉展望台の少し手前の道路脇に少しだけ開けた駐車スペースがあった。そこに車を止める事にする。「美汐、着いたぞ」「は・・・うー、はっ」ぐったりとしていた美汐がもうろうとした視線を向けた。・・・もしかして、酔ったんだろうか?「大丈夫か、美汐。車に弱いなら言ってくれれば良かったのに」「弱いというかその・・・・そんな酷な事はないでしょう・・・」「ん? 何か言ったか?」「何でもないです」おかしなやつだな・・・。まあ、山道だったし、少し位酔っても仕方ないか。しばらくして、美汐の気分が落ち着いたのを確認して、二人で外に出かける事にした。「わあ、綺麗ですね」子供のようにはしゃぐ美汐の声。見下ろせる風景は確かに絶景と呼ぶに相応しい風景だった。その絶好のロケーションをバックにして、美汐は笑顔で立っていた。太陽の光が、降り積もる雪に照り映えて、まるで美汐が雲の上を歩いているようだった。こんなにも喜んでいる美汐を見る事が出来ただけで、俺は美汐をここに連れてきて良かったと思った。「ああ、一度、美汐とはゆっくりドライブしたいと思ってたんだ。この場所は、昔、一度来た事がある、思い出の場所だしな」「は、はい。うれしいです」一瞬、美汐の笑顔が硬直したような気がしたが、どうしたんだろう?「まあ、卒業したら、あまり美汐とは会えなくなるしな」「あ・・・」沈黙が二人の間を支配した。「大学、決まったんですか?」「ああ、推薦で決まった」「車の免許を取りにいかれていたということは、もっと前から決まっていたんですか?」「美汐を驚かそうと思ってな」また、少しだけ沈黙。美汐の顔は下を向いていて、こちらからは表情を伺う事は出来ない。だけど、次に美汐が顔を上げたとき、その表情はあふれんばかりの笑顔。「おめでとうございます」そんな、まるで自分の事のように喜んでくれている笑顔。それが嬉しくて、「ありがとう」いつもの俺らしくもなく、素直に礼を言っていた。「今日は結構暖かいな」「はい。相沢さん、上着脱いでください。私も脱ぎますから」「そうだな」美汐に上着を預ける。そして、二人分の上着をまとめて、美汐は丁寧に、しわが出来ないよう、後部座席にそっと置いた。「美汐、待った!」「えっ?」バン俺の声と、美汐が車のドアを閉めるのとはほとんど同時だった。「あの、どうかしたんですか?」「あ〜、車の鍵がさ、上着の中に入れてあったんだよ・・・。しまったな」「あ・・す、すみません!」「いや、俺が悪いんだし」謝る美汐をなだめると、う〜ん、と腕を組んで、解決策を考える事にする。「あ、相沢さん、JAFを呼ぶとか?」「加入してない、そもそも俺の車じゃないし」「修理を呼ぶとか」「携帯持ってないしな。美汐は?」「コートの中です」当然、美汐のコートも後部座席に置きっぱなしだった。「しようがない、走って人を呼びに行くか」「・・・1時間ほど前にコンビニの前を通りましたけど、そこまで歩いていったら多分一日はかかります。それに、山道は相沢さんも私も素人ですから、遭難してしまうかもしれません」冷静に状況を分析する美汐さん。どうやら、あまり救いはないようだった。「仕方ない、壊すか」「だ、駄目ですよ、借り物なんですよ、これ」手ごろなサイズの石を拾って窓を割るふりをすると、美汐に怒られた。「仕方ない、人が通るのを待つか」「そうですね・・・。あ・・・」ぽつぽつと、顔にかかる水滴。あっというまに黒い雲が空を覆った。「雨だ・・・」「雨ですね・・・」山の天気は変わりやすいというが、踏んだり蹴ったりとはこのことだろうか。こう言う場合、雪ならまだ濡れない分、救いがありそうなのだが。「とりあえず展望台までいきましょう。雨宿りも出来るし、それに電話もあるでしょうから」「そうだな」誰に電話するのかも問題だ。出来れば秋子さんに迷惑はかけたくは無い。もしかしたら、展望台には誰か先客がいるかもしれない。その時はその人達に頼ろう。そう思い、俺と美汐は展望台へと向かった。「相沢さん・・・」「ああ・・・」展望台に着くと、何故か、入り口は閉まっていた。古めかしい南京錠でしっかりと施錠されたガラス張りのドアには一言、閉鎖中、という張り紙が貼ってあるだけだった。「どうしようか・・・」途方にくれたような相沢さんの言葉に、どう答えようか迷っていると、隣に小さな丸太小屋があるのを見つけた。「相沢さん、こちらに小屋がありますよ」「あ、ほんとだ。よし、ここで雨宿りするとしよう」幸い鍵は開いていた。まず相沢さんが、続いて私が中に入った。誰かいないかな、と思ったけど、中はやっぱり無人だった。中に入ると、まずハーフコートを壁にかかっていたハンガーでつるした。私と相沢さんを傘の代わりに雨から守ってくれたハーフコートは、もうびしょびしょに濡れそぼっていた。「すみません、相沢さん」「いや、それより美汐、濡れなかったか?」「大丈夫です。相沢さんのコートのおかげで・・・あっ!」さわり、と。相沢さんの大きな手が、私の髪をすいていた。突然の事で、おもわず胸が高鳴った。「髪、濡らしちゃったな」「は、はい・・」すっと手をひいてしまう相沢さん。「服も濡れているみたいだし、乾かさないとな」そう言うと、手馴れた手つきで部屋の中央に置かれていたストーブに火を入れる相沢さん。マッチを擦って、炉の部分を開けると、直接芯に火を入れる。すると、ぼぼぼ、という音がして、すこしつんとした匂いがあたりに漂った。「ちょっと時間かかるけど、すぐに温まるから」「初めて見ました。ストーブってそうやってつけるんですね」「美汐は生まれたときからエアコン派か」「あ、いえ、小さい頃はストーブでしたけど、一度も触らなかったですから」「まさか、俺の方が美汐より暖房器具のことで詳しいとは思わなかったな」ははは、と相沢さんが笑い、そうですね、と言って私も笑った。「・・・・そこでだ、美汐。提案があるんだが」しばらく経って、相沢さんがその事を口にしたのは、やっと部屋が暖まったころだった。「はい、何ですか?」「その、さ、濡れた服を乾かさないか。風邪を引くと大変だしな」「はい・・・。え・・・。今、ですか」「ああ、いつまでもこのままじゃ、まずいしな」風邪を引いちまうしな、と、相沢さんは冗談めかして言った。実を言えば私も濡れた服の肌触りが気持ち悪いと思っていた。けど、着替えも無いのに、まさか・・「あの、そのそれは、つまり・・・」「い、いや、下心があるわけではなくて、ただ、美汐のことを考えてさ、その・・・女の子が体を冷やしていたらさ・・・その、何て言うか・・・」慌てる相沢さん。自分で言い出しておいてこんなに慌ててる相沢さんを見ているうちに何だかかえって落ち着いてきた。何より、慌てた顔と照れた顔で忙しい相沢さんの顔がおかしかったから。「はい、わかりました。でも、なるべくなら見ないで下さいね」「あ、ああ、わかった。なるべく努力する」こころもとない返事だった。「あ、あの、なるべくというのはその、恥ずかしいからですよ」「わ、わかってる。俺は絶対何が何でも美汐の方は決して見ない、見ないから」それも、なんだか私としては複雑です。相沢さんにとって、私の裸なんか見る価値もないんでしょうか・・・。「そ、それじゃ、むこう向いていてください」「わ、わかった」後ろから、がさごそと、衣擦れの音がする。なにぶん、密室に二人きり、一メートルと離れていない所で、女の子が着替えているのだ、耳を塞ぐのも不自然なので、非常に“その音“は良く聞こえる。それはもう、音だけで、美汐の一糸纏わぬ姿を想像してしまう位は、健康な男子である以上、許されるだろう・・・、多分。「い、いいですよ」「お、おう」自分でも声が裏返っているのがわかる。振り返った俺の目に映ったのは、上着も、スカートも脱ぎ捨てていて、下着だけの姿になって、立ち尽くしている美汐の姿だった。ストーブの揺らめく火の明かりが、その肌に微妙な陰影をつけている。「・・・・」「相沢さん、あの、見ないでください・・・」「あ、わ、悪い、美汐」火の粉が散るたびに、炎が揺らめくたびに、美汐の瑞々しい肢体が、俺の目を釘付けにする。慌てて目をそらすと、美汐が差し出していた衣類を受け取った。それを先程のコートと同じようにハンガーにかける。「相沢さんは」「な、何だ?」「相沢さんも、脱いでください」「あ、ああ、そうだな」言われて、そういえば俺も体中びしょ濡れに濡れていたんだということを思い出した。慌てて、上着を脱いで、上半身裸になり、ジーンズに手をかけて、「じーっ」「・・・・」そこで、美汐の熱心な視線に気付いて手が止まった。「じーっ」「あの、美汐?」「じーっ」「美汐さん」「は、はい、何でしょうか、相沢さん」「あまり見られると脱ぎにくいんですけど」そしてはっ、と我に返ったらしい。「す、すみません。どうぞ、私見ませんから、脱いでください」激しく赤面して、くるりと後ろを向いてしまう美汐。「あ、ああ、それはどうも」日本語の使い方変だぞ、俺!心はもはや大波の前の小船の如く揺れ動いている。しかし、男として、今、美汐の前で取り乱すわけにはいかない!そっと、美汐の方を見る。背を向けて、ただ下着だけの姿になってそこにいる美汐の姿。頼りないほどにほっそりとした、肩から腰にかけてのくびれ、炎にあぶられても尚闇に浮かぶ白い肌。美汐の姿、その全てが、俺の心をさんざんにかき乱していく。そういえば、昔の映画でこんな場面あったなあ。二人、差し向かいで焚き火に当たっている男女。妙に期待してしまう。・・・いかん、いかんぞ、情勢に、感情に流されては!とはいえ、一番好きな女の子が、手の届くところで、全くの無防備なままの姿でそこにいる。・・・理性を押さえきれる自信は、時間が経つにつれ、無くなっていた。見てしまった。肩から張り出した胸骨のライン、うっすらと張り出た肋骨。意外に筋肉質な胸の様子に、鎖骨が張り出したたくましい肩口。男の人の裸なんて、初めて見るけど、全然自分とも、他の同性の女の子達とも違っていて、なんだか、私・・・・。「美汐さん」「は、はい。なんでしょうか、相沢さん!」一瞬、息が詰まるかと思った。突然の相沢さんの声に飛び上がる。「あまり見られると脱ぎにくいんですけど」その相沢さんの声には、恥ずかしさがはっきりと現れていて、「す、すみません。どうぞ、私見ませんから、脱いでくださいっ!」慌てて回れ右をする。ドクドクと脈打つ心臓が相沢さんに聞こえてしまいそう。手で顔を覆う。今、私がどんな顔をしているか分からないけど、絶対に相沢さんには見られたくない。でも、何故? 何故なの?ちらり、と指と指の隙間から、相沢さんの着替えを盗み見る。(わあ・・・相沢さんの足ってたくましい・・・)(お腹たるんでない・・。良かった・・・)自己嫌悪。それにつきるけど、でも、どうしても止められなくて、目が離せない。そんな自分が嫌になって、だけど、押さえきれなくて目線を上げると、「あ・・・」「え・・・」私のほうを見ている相沢さんの目と、相沢さんを見ている私の目が、はっきりと見詰め合った。私と相沢さんは、多分そのとき、同じ事を考えていた・・・。翌日。祐一さんが登校するのを私は待っていた。朝、何でもないいつもの登校風景が、こんなにも新鮮で、はっきりと輪郭まで詳しく見える気がする。すごく嬉しい事があると、世界が変わって見えるって、本当だったんだなあ、と実感できる。今日は、2月14日。女の子が好きな人に、好きだと言う事が出来る、一年で一度しかない、大切な日。昨日の事は、もう私にとって一生忘れる事ができない日になっていたけれど。だけど、昨日言わなかったあの言葉を、今日、祐一さんに伝えよう。何故か、祐一さんの顔を見るのが恥ずかしくて仕方が無いけど、でも、今時下駄箱とか、机の中とかいうのもどうかと思う。それに、やっぱり、一生懸命作った手作りだから、直接渡したいし、食べてもらいたい。「あ・・・美汐」「おはようございます・・・。ゆういち、さん」「おはよう。・・・初めてだな、美汐が俺の事を名前で呼んでくれたのは」「はい・・」何だか、すごくくすぐったい気持ち。ただ、祐一さんが私を見ている、それだけで、恥ずかしくなってしまう、そんな変な感じがする。「祐一さん」顔を上げれば、そこにはやっぱり私を見ていてくれている祐一さんの目と目があう。不思議だなあ。昨日もそうだったけれど、たったこれだけで祐一さんの考えている事がわかるような気がする。「あ・・あの・・・え・・・チョコレートです。その、出来れば、受け取ってくださいませんか・・・・」手が震えているのが分かった。もし、受け取ってくれなかったらどうしよう・・・、そんな事を想像すると、怖くてたまらない。「お、チョコレートくれるのか。良かった、今年は一個ももらえないと思っていたからな」だけど、そんな私の不安な気持ちはきっとお見通しなんでしょうね、祐一さんは。私のそんな不安を吹き飛ばすかのように、笑いながら明るく祐一さんは受け取ってくれた。「それは、嘘です。祐一さん、他にもたくさんの方からもらえるってわかっていたんじゃないですか」名雪さんとか、香里さん、栞さん、あゆさんに真琴だって・・・。「かもな。でも、俺が一番欲しかったのは美汐からのチョコなんだぜ」「祐一さん・・・」ありがとうございます。うれしいです。私も、チョコを上げたかったのはあなただけです。そんな、伝えたい言葉がたくさん、たくさんあったけど、昨日伝えたくても伝えられなかった言葉を、祐一さんに言おう。だって、ずっと前からこの言葉は、バレンタインのこの日に、チョコを渡してから言うんだ、と、心に決めていたから。「祐一さん、私、祐一さんのことが好きです・・・。大好きです」