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紫苑 −SHION−

Chap.1 FORGET

確かに君は ここにいるのに

僕の知らない 君のまなざし

 静かなせせらぎの森の湖で、僕達は想いを打ち明けあった。
「君が好きだよ」
 内気な少女は僕の言葉に驚いて、そして微笑んだ。
「わたしも、好きです……」
 大きなサファイアの瞳から、真珠の涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい」
 拭っても、後から後から流れる涙。
「どうして謝るのさ」
「だって、セイラン様はすぐ泣く子がお嫌いでしょう? だから……」
 俯く彼女に少し呆れたが、それでも彼女だから許せる。
 指で頬に流れた涙を拭い、そのまま抱き寄せた。
「それとこれとは、話が別だよ。泣く行為そのもの自体を否定しているわけじゃない。まったく、君らしいね」
 おかしくなって、思わず彼女の耳元でクスクスと笑ってしまう。
「あっ……あのっ、セイラン様っ?」
 うろたえて身を捩る。頬を染めた顔が目に映るようで、ますます僕の笑いは止まらなくなってしまった。
 僕をいらつかせるような仕草や態度も、なぜか彼女だと許せる。
「何故なんだろうね。君が原因なのかもしれないな」
「え?」
 内気でおどおどして、少しの衝撃にもすぐ倒れてしまいそうな、泣き虫の少女。
 だけど、優しい微笑みの裏に見える負けず嫌いの心と意志の強さに、何度驚かされただろう。
「きっと君は僕を変えていくよ。君といると、新しい自分を発見できそうだ」
 その言葉に、僅かに彼女は笑い、僕の背中におずおずと腕を回した。
 顔でしか判断できない女達に嫌気がさし、少なからず女性不信になっていた僕の前に現れた、天使の名をもつ少女。
 突然、彼女のことで一杯になっていた心。
 そして今、彼女は僕の胸の中にいる。
 僕はもう一度、囁く声でこう言った。
「好きだよ、アンジェリーク……」

◇         ◇

 僕たちが付き合っていることは、しばらくの間誰にも話してはいなかった。
 僕は僕で回りから興味の目で見られるのが嫌だったし(別にアンジェリークと2人でいるのが嫌だって言ってる訳じゃない)、彼女は彼女でレイチェルが女王に決定するまで協力したいと言っていたからだ。
『レイチェルにだけは話してもいいですか?』
 そう言い出した彼女を、正直言って僕は本当に呆れてしまったのだが、その方がアンジェリークが女王になる可能性も少なくなるだろうと思い直して、それを承諾した。
 それからというもの、僕はレイチェルから言われっぱなしだ。
「で? アンジェリークとはもう寝たんですか?」
 今日の学習の時間、レイチェルの口から出た突拍子もない言葉に僕は絶句した。
「……寝たとか寝てないとか、君に関係があるのかい?」
「いいえ〜。単に興味があるだけですよ♪」
「まったく……どういう好奇心してるんだい、君は」
「フツーでしょ? アンジェリークが遅れてるだけですって」
 カラカラと笑うレイチェルを冷たい視線で見たのだが、効果はなかった。
 遅れてるというレイチェルの言葉は正しい。
 抱きしめるだけで戸惑う彼女を見るのが、僕は楽しみなのだ。
 可愛く、そして心底愛しいと思う。
「アンジェリークも人並みに知識はあるようですケド」
「人並み、ねぇ……」
「ただ、内気で奥手だからなぁ。頑張ってくださいよ〜」
「……何を頑張るのさ、何を」
「イヤだな〜。分かってるク・セ・に
 丁寧に語尾にハートマークをつけてレイチェルは言った。
 そして、こう付け足す。
「でも! 親友を泣かさないで下さいね、セイラン様」
「分かってるよ」
 彼女なりにアンジェリークを心配しているのか。
 そう思って気を許したのが悪かった。
 口元を緩ませた僕を見て、レイチェルが面白そうにニヤリと笑う。
「うっわ、しまりのない顔。アンジェの前ではそういう顔してるんですか?」
「……それは、アンジェリークにしか分からないことだと思うけど?」
 溜め息交じりに僕は呟いた。
 まったく……人をおちょくるのが好きな子だね。
「それもそうだ。あっ! もうこんな時間だ。帰らないとアンジェが心配する」
 妙にアンジェリークの名前を強調して言う。
「いい度胸してるね」
「羨ましいですか?」
 意味ありげな笑みを浮かべ、レイチェルは執務室を出て行った。
 今日三回目の溜め息をつき、窓越しにぼんやりと空を仰ぐ。
 今日も彼女は来ない。
 僕がこんなに待っているのに。
 誰かと逢っているなんてことは……あの子にはないか。
 一体どうしたというんだ。
 毎日のように僕のところに来ていたというのに、彼女が来なくなってもう五日だ。
 他の教官のところにも、守護聖様方のところにも来ていないという。
 病気なのか?
 しかし、レイチェルからはそういう感じは受けなかった。
 じゃあ、一体何故……。
 そう思ったときだった。
 執務室の扉が勢い良く開かれ、精神の教官ヴィクトールが入ってきたかと思うと、たった一言僕に言った。
「……アンジェリークが、滝壷に落ちた」

◇         ◇

 アンジェリークはロザリア様の執務室で、静かな寝息をたてて眠っていた。
 顔色は青ざめ、頬は冷たい。
 生きているというのが不思議なくらいだ。
「一体どうして……」
 思わず呟いた僕に、水の守護聖リュミエール様が説明してくださった。
「私が第一発見者です。偶然森の湖付近を歩いておりましたら、彼女の叫び声が聞こえました。急いでそちらに向かうと、もう彼女の姿が見当たりません。黄色のリボンだけがそこに落ちていたので不思議に思い、滝壷を見ますと……」
「彼女が浮かんでいたと言う訳さ」
 リュミエール様の言葉に続けて、オリヴィエ様が言った。
 オリヴィエ様の言葉には真実味がなかったが、アンジェリークが青ざめて目を覚まさないのだ。
 嘘だと言うことも出来ない。
「幸い水を飲んでいなかったので、命に別条はありません」
 命に別条はない。
 どうしてそんなことが言える?
 彼女は今にも消えてしまいそうな顔をしているのに……!
「ちょっとセイラン? どうしたのさ?」
 オリヴィエ様の声に、僕は我に返る。
「え?」
「え、って……あんた、顔色悪いわよ」
「そうですよ、セイラン、あなたは帰って休んだ方がよろしいのではありませんか?」
 冗談じゃない。
 ここを離れるなんて、出来るものか。
 僕はリュミエール様の言葉に首を振り、言った。
「彼女が……アンジェリークが目を覚ますまでここにいます」
「……あんたらしくないね」
 軽く笑って言ったオリヴィエ様を、僕は少し睨む。
「僕らしくない、か。そうかもしれませんね。何せ、皮肉屋ですから。僕の口から素直な言葉が出るなんて想像も付かない。自分自身そう思ってきましたから、あなた方から見てもおかしいと思われるでしょう。だけど、僕にだってこういう感情があったということを気づかせてくれたのは、他の誰でもないアンジェリークです。大切な人の側にいたいと思うのは我儘じゃないのではありませんか?」
 思ってもみない僕の台詞に、お二人とロザリア様は目を丸くしていた。
 それもそうだ。
 真実を今初めて知らされたのだ。
 驚くのも無理はない。
「……そっか。ま、そんな気はしてたよ。あの子はすぐに顔に出るからさ」
「ええ……。最近のアンジェリークはとてもいい笑顔をするようになりましたからね。それにセイラン、あなたも」
「……僕も、ですか?」
 妙に納得した答えが返ってきて僕は少し驚いたが、なるほどとも思う。
 嘘のつけない彼女のことだ。わざわざ言わなくても、表情や態度に出ていたんだろう。
 でも、僕の変化に気が付いたとは、リュミエール様も目ざといというか、抜け目がないというか……。
「それでは何故……アンジェリークは滝壷に落ちてしまったのでしょう……」
 リュミエール様の何気ない一言に、僕は凍りついた。
 横でしまったと顔を強ばらせたのが見える。
 でも、もうその言葉は取り消すことが出来ない。
 アンジェリークが滝壷に落ちた原因は一体何なのだろう……。
 そのことだけが頭の中を駆け巡る。
 その時だった。
「う……ん」
 小さく呻き、彼女の瞳がゆっくりと開かれた。
「アンジェリーク!」
 僕が呼ぶと、顔だけこっちに向く。
「アンジェリーク、気が付いたかい?」
 彼女が頷いたのを見て、僕は安堵の溜め息をついた。
「ここ……は?」
 掠れた声……。顔色はまだ青く、唇の色も紫色をしている。
 それでも、彼女が目を覚ますまで生きた心地がしなかった僕にとって、生きているという実感さえ感じるのだ。
「ロザリア様の執務室だよ。君は滝壷に落ちたんだ」
 その言葉に首を傾げ、次の瞬間、信じられないことを、言った。
「ロザリア様? 滝壷……?」
「アンジェリーク……!?」
「……アンジェリークって、誰……?」
 彼女の言葉に、僕たちは息を飲んだ。
 いや、僕は確実に自分の心臓が止まるのを実感した。
「まさか……!」
 ロザリア様の声が遠くに響いて僕に届いた。
 そして、僕の思考とシンクロする。

「記憶、喪失―!?」


この物語はChap.2に続きます。こちらからどうぞm(__)m

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