■日々の徒然■
日記? にしてはくどいかも(笑) 日々思うことを、思うままに書き連ねてみました(;^_^A
August.6(MON) 「無念」
今朝の7時までは頑張って起きていたんだ(>_<)
最近、
世界陸上にちょっとハマってます。世界水泳も結構見てたんだけど、そのノリで「陸もー!」みたいなカンジでしょうか?(謎)それで、今朝の3時頃まで例によって4チャンで放送される世界陸上に一喜一憂しつつ、そろそろ終わりも近づいてきたので「さて、寝るかな」と思っていたところ、なんと、わずか3時間後に、まず、
男子100mの準決勝があるとのこと! うおおおお朝原〜!(>_<) そして、極めつけ、ハンマー投げ決勝!! う゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛おおおおぉ室伏の兄貴いいいいいい!(≧▽≦)(爆) こりゃ、起きとくっきゃないでしょ!しかし、 予定の6時を過ぎても、織田裕二が引っ張るばかりで、一向に男子100mさえ始まる気配なし。たっぷり1時間後、7時頃になって、男子100mの準決勝がようやく始まった。このとき、すでに意識混濁状態。なんとか途切れ途切れの視界のなかで朝原の惜敗を認識はしたものの、最早悔しいとか云々以前に、
はやく室伏っ!(怒)状態(笑)けれども、時すでに遅し。つぎに意識が回復したときには、もうすでにお日様はお空の真ん中に高々と上がっていましたとさ。無念(T-T) 結局、その日の晩の再放送で室伏の活躍を目に収めました。あ゛〜生で見たかったな〜(>_<)
それにしても、織田裕二の「あ゛〜今夜も眠れないのかよー」とかって頭を抑える、あの大袈裟なリアクションはなんか腹立つ(爆) といいつつ、しっかり、その
「織田裕二マジック」に引っかかってるσ( -_-;)なんだけどさ(苦笑) 別にいいけどさ……。May.
14 (MON) 「あなたならどうしますか?」『バトル・ロワイヤル 特別篇』を見てきました。
昨年末の上映前から民主党の石井紘基議員等から激しい批判を受け、口撃の的となりながらも、興行収益20億円突破、ブルーリボン賞受賞(作品賞・新人賞)の快挙を成し遂げたこの作品。監督は『仁義なき戦い』で有名な深作欣二監督。
話題になっていたときから、上映期間中に是非一度見ねばと思っていながら、ズルズルと「特別篇」の公開終了間際の今日まできてしまいました(汗) ま、見れて良かった良かった。
さて、10分近く遅れて入場したσ(。・_・。) スクリーンには、孤島の廃校の一室に押し込められた42人の中学生が、これから起こるであろう不測の事態に戦々恐々としているシーンが映し出されていた。そして、早速繰り広げられる残酷な虐殺シーン。σ( -_-;)は正直、物語の前半部分では不快感を禁じ得なかった。
実は、σ(。・_・。)がこの映画を見たかったのは、監督である深作欣二氏が、
国会議員と論戦を繰り広げてまで現代の若者に伝えたかった「メッセージ」に非常な興味があったからだ。そして、σ( -_-;)はそれを、少なくとも映画の前半部分では感じることができなかった。間髪いれずして繰り広げられる惨殺シーン。それぞれのアイデンティティを主張しながらも、次々と倒れてゆくクラスメイト達。
「なんやこれ……」
口からこぼれ出る不満。どうしようもなく立ち去りたくなる衝動(いや、一瞬本気で帰ろうかと思いました(笑)) 結局、なにが言いたいんだろう? 不信感が溢れてくる。
しかし、途中でふと、
なぜこんなにドキドキ、ムカムカしてるんや? と不思議になってきた。確かに、そのタイトルに恥じない残酷なシーンの連続を売り物にしている、この作品。けれども、
この程度のシーンであれば、近年流行った「戦争モノ」でイヤというほど目にしている。そして、そういった作品であっても、目を覆うようなシーンの連続のなかで一貫したストーリーを感じられ、それなりに楽しむことができたのに、この『バトル・ロワイヤル』では、なぜ?しかし、ほどなく、その疑問は氷解する。あ、そうか、
日本人が出てるからだ(笑)いや、笑い事ではなくって、そういえば、
これだけの映像技術で、これだけの惨殺シーンをスクリーンで表現した日本映画は、過去ない。しかも、出演者の年齢層はσ(。・_・。)と近い人達ばかりだ。あまりにも率直な暴力表現に不快感を感じるσ( -_-;) しかし、それは逆に言うと、それだけ日常的に見る洋画を、目の前で惨殺シーンが繰り広げられているという点では同じハズなのに、非現実、バーチャルなものとして割り切ってσ(。・_・。)達が鑑賞していたということに他ならないのではないだろうか。「人を傷つける」ということの恐ろしさを、σ( -_-;)達は果たして、これだけ情報化された社会のなかで確かに掴んでいただろうか?そういう視点で見てみると、この作品のなかでは、しつこいくらいに登場人物達の学校生活が所々で挿入され、
この非現実との対比が強調されている。そこには、この常軌を逸した光景が、σ(。・_・。)達が暮らす日常と表裏一体のものなんだという、強烈なメッセージが込められているような気がした。実際、現在においても、この世界の至るところで、この映画と全く同じような、いや、それ以上の過酷な戦場が存在する。決して夢物語などではないのだ。
そして、それは、
σ(。・_・。)達がふとしたことで振り上げることになるかもしれない「コブシ」、その延長線上にも、この戦場が存在するということである。つまり、この映画で散々繰り返されているのは、人間なら誰しもが容易に行い得る「暴力」なのだ。そんな当たり前のことに気づかされ、そして、その恐ろしさを、単なる仮想現実を通じて実感させられた瞬間、この映画はスゴイと思った。終了後、映画館のあるビルを出て、外気を肺に入れると、いま自分が目にしている当たり前の光景が、妙に違和感のあるものに感じた。
女子高生をひっかける若者。安売り漫画雑誌を引っ繰り返すサラリーマン。足早に横断歩道を渡る人々の群。ごくごく見慣れたその風景が、張り詰めた糸に支えられた、ひどく不安定な頼りないもののように思えた。
そう、手を伸ばせば、あんな非現実がいくらでも、そこに転がっているのだ。そして、そうはさせてくれないものをσ(。・_・。)は確かに持っている。近年の常軌を逸した犯罪に走る少年少女達には、それがなかったのだろうか? いや、どこかで見失ってしまったのだろうか。
ならば、そうならないようにしてあげるのが、大人の責任ってもんでしょ。ねぇ、キタノ先生(笑)結論。いや、めちゃ面白かった。最近見た邦楽のなかでは、ダントツかなぁ(゜-゜) 久々にハマりました。
昨年も散々議論された、中高生に見せることの悪影響という点に関しては、正直、多感な時期の子供に見せることへの不安もある。けれども、そういった非難の声を挙げる政治家達に、深作監督はこう言った。
「政治家が日本のこどもたちを全く信じていない。だから若者はすぐキレるんだ」
要は信じるか信じないかということ。そういった見地に立てば、やはり、この映画はそれら多感な世代の子供にこそ見て欲しい映画だなと純粋に思える。少なくとも、頭ごなしに「有害だ!」と否定することの愚かしさをσ(。・_・。)は感じる。
しかし、山本太郎はかっこえかった……。いや、惚れるね(笑)
May.5 (SAT) 「学校はどう変わるのか?」
ある小学校で、
「教育復興担当」という仕事にあたられている教員の方にお話を伺う機会を頂いた。「教育復興担当」とは、阪神大震災を経験して、心に深い傷を負った子供のケアを学校でも行うために設けられた役職。震災後6年が経過した現在においても、震災によるPTSD(心的外傷後ストレス傷害)に苦しむ子供から、そのほか複雑な家庭事情から学校での集団生活を送ることができない、学校まで来ることができても教室に入ることができない、そんな子供のケアに別学級を設けて当たっている。
言葉で説明すると、なにやら非常にカッコイイ仕事をしているように聞こえるのだが、現実は苦労の連続だそうだ。
まず、子供の抱える問題というのは、本当に根が深い。
一言に不登校児といっても、その原因は千差万別で、現在では不況の最中、経済的にも精神的にも余裕を失っている家庭も多いと聞く。そういった余裕のなさは、対話不足などを通じて全て子供の心的ストレスの要因となり、頼れる存在を見失った子供は、授業中もじっと座れなかったり、突然大声を出したり、また、母親から離れられなくなったり、色々な形でその日常生活に影響を及ぼす。その対処をしろと言われても、第三者の立場からでは非常な困難を伴うことが容易に想像できる。では、実際にどういうことを心掛けて子供と接しているのかというと、まず、
先生とはいえ、その子供と一緒にいることが本当に楽しいと素直に思えることが大切だと言う。自分の存在を認めてくれる他者を見失った子供は、必要としてくれる、ただそれだけのことが大きな支えになるのであろう。そこからお互いの信頼関係に繋がっていく。根気のいる仕事ではあるが、40人もの生徒を抱え、一年単位での評価が求められる学級担任ではできない肌理細やかな教育がそこにある。また、震災後、子供の心のケアが注目されてからは、外部のカウンセラーとの連携も大幅に取りやすくなったという。今回話を伺った先生が受け持つ子供のなかにも、市の紹介を通じて、両親と一緒に、週に一回の専門家のカウンセリングを受けるようになった子供もいるという。小中ともに、週に二回程度スクールカウンセラーの来訪を受け入れるシステムもあるということだ。
最早、学校単独では教育が成り立たなくなったことの表れだろう。一方で、
震災後6年が経過し「教育復興担当」という役職は縮小傾向にあるという。単純に震災後の心のケアを目的とした仕事であればともかく、幅広く不登校児などの集団生活に馴染めない子供のケアを試みている現在においては、この傾向は非常に悲しいことだと先生は仰っていた。震災後、子供の心的なケアが注目されるなかで、ようやく、いわゆる過去の学校規律のなかでは劣等生と呼ばれる子供たちにスポットがあてられるようになってきた。いま必要とされるのは、そういった子供たちにも手厚いサポートができる人的、金銭的支援体制である。しかし、コストの観点から、現実の流れに逆行し、現場が不満を覚える提案を上層部から成されることは実際にあるようだ。そこに現場と上層部との現状認識の不一致が見られる。2002年度から新指導要領の実施が予定されている。「総合的な学習の時間」の導入、「学習内容の3割削減」等、目新しい変更点が目に付くが、今回お話を伺った先生は、
この外殻、つまりハード面からの変化を志向する旧文部省の姿勢に異論を唱える。例えば、「総合的な学習の時間」で幅広い実施を見込んでいる体験学習や、外部講師を招いての特別授業など、比較的新しいと言われている取り組みに実際に取り組んでいる学校は、実は多い。各学校で自由にできる時間枠を与えられた意義は大きいが、
現場にしてみれば「いまさら」といった感が強いらしい。「学習内容の3割削減」についても、とりわけ、学力の基盤作りが重要な小学校においては頭の悩ませ所である。削減項目の精選が十分に行われたかどうか非常に疑問の残る今回の削減ではあるが、学力構築の「必要最低限度」という慌てて追加された解釈から見るに、これに縛られる必要もないらしい。もともと授業の進行速度を見て、教科内容を取捨選択するケースもあった現場であるだけに、これについても特に大きな感銘を受けるわけでもないようだ。そんなものよりも、いま必要とされるのは、
複雑化する子供の問題に対処し得る重厚な人員体制、そしてそれを維持し得る金銭的支援である。実際、
欧米では担任一人あたり20人の生徒を17,8人に減らそうかという議論も進められているなか、日本は依然として40人体制である。近い将来導入されることが予想に難くない「英語教育」も、そもそも英語を教えるような姿勢になかった小学校教員の誰が教えるんだという問題がある。似たような状況が、近年の情報教育に見られる。また、学生の学力低下が叫ばれるなか、研修などの形で、その教授者たる教員の知識の再拡張に充てられる時間も資金も、まだまだ支援体制が手ぬるい。そういった
ハード改革に対して表裏一体で進められるはずのソフト面での改革が先延ばしされているのだ。これでは現場に混乱を招くばかり。いずれは着手するにしても、のんびり構えていると、教育の恩恵を正しく受けられなかった何百万人もの子供を次々と世に送り出すことになるのだ。教育は生き物、スピードが求められるのである。また、先述の外部カウンセラーのように、
積極的に教育機関外、第三者の支援を求める体制も今後さらなる拡充が求められるだろう。それは専門家に限らず、保護者や地域住民の教育への参加も含まれる。そして、学校に限らず、もうひとつ子供の成長に欠かせない教育環境である、家庭教育へのサポートについても言える。そういった周辺社会ぐるみで子供たちをサポートする体制の確立が、複雑化する少年少女問題の解決に向けて一石を投じる打開策となるのではないだろうか。と、ここまで書き連ねていて、それはつまり、
昔の日本の集落社会、その長所こそが、目指すべき教育の在り方の原点にあるのではないかということに気づく。欧米化を無心に進めてきた日本の発展。その歪が現代社会の様々なところで発見できるが、それは教育についても同じなのではないだろうか。欧米流を無闇に導入しても、それが日本社会に馴染まなかった例は多い。教育についても、バウチャー制度など、先進的な事例はあちこちにみることができるが、その導入を考える前に、
忘れ去られた日本流についてもう一度考え直してみることが必要な時代になってきたのかもしれない。そのためにも、内実を置き去りにして、外枠だけ整えてばかりでは見当違いもいい所であろう。それにしても、これからの学校は面白くなりそう。週休二日だし(笑) ちょっと、小学生に戻ってみたい気もした一日でした(* ̄ー ̄*)にやり
April.9 (MON) 「上京物語①」
今日は本当に慌しい一日だった。
東京の某出版社一次面接受験のために、朝から新幹線に乗り込んで上京。久々の東京である。
会場に着くと、おお、緊張の面持ちの就職生がたくさん。知り合いはいないかとキョロキョロしつつ、しばらくして、待合室に揃って案内された。そこで、簡単な質疑応答があって、いよいよ面接。ブースで区切られた会場では、学生一人に対して、三人の面接官が付いて、随時面接を行っていた。
そして、いよいよσ(。・_・。)の番。ブースの外にカバンをおいて、「失礼します!」と、入室。自己紹介をして、着席。いくつかの質疑応答があること、うーん、大体10分足らずくらいだったのではないだろうか。あっという間に面接が終わって、「ありがとうございました。よろしくお願いします」と、退室する。やはり、一次だけあって、あっさりしたもんだ。言いたいことは言えたとは思うんやけどね。しかし、この出版社、仮に次の筆記試験に進んだとしても、また、東京まで来なあかんようだ。うーん、痛いところやな(-_-;)
さて、気を取りなおして、上京のもう一つの目的を片付けるため、会場のインフォメーションへ。
実は、
この出版社が発行する某有名アイドル誌。その80年代初頭のバックナンバーを入手することが上京のもうひとつの目的だったのである。会場のインフォメーションで人事の方に頼み込んで、そこで教えてもらった編集部の責任者の方に電話して、またここでもお願いして、どうにかその編集部を訪問させて頂くことになった。会場を出て、時間がもったいないのでタクシーに乗り(!)一路、編集部のあるビルへ。一階の受付のお姉さんに、自分の名前と呼び出して欲しい人の名前を告げて取り繋いでもらうと、直接上がってきてくださいとのこと。いよいよ、編集部にお邪魔することになった。
扉を開けると、そこは、蛍光灯の明かりが明るい部屋。机に向って、なにやらせっせと仕事に取り組んでいる人が目に入ったり、息抜きの最中か、イスを寄せ合って談笑する人たちの笑い声が聞こえてくる。空き机には高積みされた資料の山。うーん、散らかってるなぁ(笑) おおっ、これは、懸賞ハガキの束でわ! この中から当選者を決めるのか〜。読者の必死の思いが、遠目にも伝わってくる。なんだか感動(笑) パソコンもたくさんあるけれど、やはりマックばかりだ。そして、なぜか、側のテレビには「モー娘」のコンサート映像が……さすが明○(爆)
そして、丁寧に応対をしてくれた副編集長さんに改めて用件を伝えると、資料室に案内してくれた。本棚にぎっしり詰められた、バックナンバーの山。よーし、やりますか。
そして、バックナンバーと格闘すること一時間。あった。
80年代初頭と言えば、学校で校内暴力が横行し、その後警察やマスコミの介入をもって事態は鎮静化。けれども、その学生のやり場のない不満が、90年代に至るまで続く陰湿なイジメ問題に発展する、
現代の少年少女に起こる様々な問題を占う上で、非常に重要なターニングポイントとなる時期である。実は、σ(。・_・。)が最近読んだある新書で、
このアイドル誌が、その当時の読者の声を取り入れ、盛んな問題提示を行う数々の誌上企画を組んでいたことが記述されていたのだ。予想に違わず、小中高生を対象としたアイドル誌の読者コーナーでは、
当時の教育現場が抱える様々な矛盾に苦しむ学生たちの生の叫びが書き連ねられていた。ある子は、鼓膜を破られるほどのイジメに会いながら、事なかれで済まそうとして見て見ぬフリをする教師達に人間不信になり、ある子は、人よりも少し自尊心が強いがため、横並びを強要する学校と折り合いがつかず登校拒否に陥る。確かに、一部の不幸な事例と言ったらそれまで。しかし、いまも決して変わったとは言い切れない学校の閉鎖的な体質に、読みながらうんざりしてくる。そのなかで、ある登校拒否を続ける女の子の叫びが目に止まった。「登校拒否は病気じゃない!」
正直、ショックだった。最近になってようやく本人外の問題として捉えられるようになった登校拒否。
その本質に至る手がかりは当時から盛んに叫ばれていたのだ。いまの位置に辿り着くまで20年も要したのか。その間、どれだけの大人が内なる葛藤に苦しむ子ども達の声を看過したというのか。だとしたら、現在頻発する常軌を逸した少年犯罪も、なにも突発的に起こったものじゃない。一向に解消されない矛盾に不満を爆発させた少年達が、ついに学校という枠を越えて牙を剥いた、ただそれだけのことなのではないだろうか。いまの教育改革も、最悪の事態に至り、慌てた周囲がようやく動き始めただけなのだ。記事をコピー機にかけながら、σ( -_-;)の心中は複雑だった。断片的ではあるものの、正直、当時の生の声に、これだけのインパクトがあるとは予想していなかったのだ。同時に、
これだけ後追い的で来た文部省であり、教育現場のいまの対処が、本当に現在の問題を解決する処方箋となり得るのか、非常に疑問に思えてきた。なにか、本質を見失っている気がどうしてもするのだ。うーん。お世話になった方々に一礼して、編集部のあるビルを後にしたσ(。・_・。)は、腕組みをしながら、東京の空を見上げていた。時刻は、もう5時。周囲も次第に暗くなり始めている。
実は、σ(。・_・。)の志望する就職先というのは、どれも、なにかしらの形で教育分野に関わる可能性のある仕事なのだ。企業人として、また業界人として、その問題解決の一端を担うことを迫られるかもしれない。そのときに、σ( -_-;)ならどうしたいか。それを、最近ずっと考えている。今日の出来事で、σ(。・_・。)の問題意識に一本軸が加わったような気がする。リアリティが伴ってくる。しかし、問題の本質はまだまだ見えない。
「んー……とりあえず、動くか」
宵闇の街に一歩踏み出す。まだまだ、これからこれから (* ̄ー ̄*)にやり
<おまけ>
就職活動で遠出したときの、もうひとつの楽しみ!
「食べ歩き」(爆)今日は、上京前から見当を付けていた、秋葉原の
「元祖一条流八代目がんこラーメン」を食べに、神保町から一路東へ!歩くこと、一時間足らず、この辺りのはずなんやけど……あれ? もう一度ガイドマップを取り出して、確認して、ウロウロウロ。おかしいなぁ、同じ道を何度も何度も。目印の看板が出ていない。さらにもう一度ガイドマップを取り出して……あ……
定休日(T-T)(自爆) あほおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!普通一番最初に確認するところを、σ(T-T)は一体? 一時間もなにをやっていたんだろうと自己嫌悪に陥りつつ、気を取りなおして(笑) ならば、南に下って、
池波正太郎がひいきにしたという、江戸下町のそば屋で、おいしいそばを食おうではないか! と、秋葉原の電気街を南下。高架下をくぐって、神田川を渡って、(こないだ『ア○キー』で特集されてた)交通博物館を横目に、こんどは開いてた♪ 「神田まつや」に到着。ガラガラっと戸を空けて、暖簾をくぐると、おお、にぎやか! しかも、なんだか明治の情緒たっぷりだ(◎_◎) 田舎者満点に店内をキョロキョロ。着席してからもキョロキョロ。注文してからもキョロキョロするもんだから、お店の人が「注文取りに来ました?」と不安気に(爆) ごめんなさい、もう注文しました(;^_^A アセアセ・・・
そして、来た来た「月見そば」。本当は「天そば」にしたかったんだけど、高いから(泣) でも、濃い目のスープに、喉越しの良いそば! ううん、素朴な味だけど、確かに美味いぞ〜! 熱々のスープまで飲み干して、ごちそうさま! 満足満足。
「神田まつや」を後にして、小休憩。……さて(☆☆) 続いて、
夏目漱石が好んで食べたという、「松栄亭」の洋風かきあげを食うか(爆) 「まだ食べるんかい!」とゆー内なる声はシカトして、再度ガイドマップ片手にウロウロウロ。あった♪ しかし、残念。もう、閉店だったようだ(T-T) うーん、「がんこラーメン」を求めて費やした一時間がここで悔やまれる(泣)しかし、ここでもうひとつ、時間に関わる大きなミスが! なんと、新神戸行きの「ひかり」がなくなってしまったのだ!(爆) しまった……。うっかりしてた(-_-;) やむを得ず「のぞみ」の切符を買う。あう、なんて贅沢な(T-T) まぁ、いいか。「のぞみ」初体験(笑)
そして、さらにもうひとつ事件が。実は、神戸に着いたら着いたで、
酔っ払ったσ( -_-;)の親父と、その友人に、夜の東門街へ拉致られた(爆) そして、クラブ初体験(笑)いや〜……濃い一日でした。
March.
25 (SUN) 「現代医療事情」実は、うちの両親は共に医療関係の仕事に従事している(注:お医者さんではない)。
去年、うちの近所の病院で医療事故があった。入院していた女性患者の点滴チューブに誤って栄養剤を注入してしまったのだ。最近、その事故が話題に上がった際、
古い規制と因習に縛られるなかで変化を迫られる日本の医療事情について、親父から話を聴いた。いまは
「医療もサービス」の時代だという。保険診療の自己負担分が拡大する方向に流れるなかで、患者にも利用者意識が芽生え、厳しい選別の目に晒された「競争の時代」に突入しようとしているのだ。病院環境にもアメニティ(環境の快適さ)が求められるようになり、無論、その病院で診察にあたる医師にも高い技術水準が求められるようになる。一方で、日本では
「医療はビジネスではない」という基本理念に基づいた、様々な規制が医療法で定められている。代表的なものとして、競争には不可欠な
「広告」についてのものが挙げられる。先月二日、厚生省から提示された医療法改正案の概要では、「医師の写真」「医療機器の有無」「得意な診療分野」が対象外とされるなど緩和の方向には向ってはいるものの、いまだ厳しい規制が数多く存在するのが現状である。情報開示の進んだアメリカでは、
「医療ミスの少ない医者の多い病院」なんて検索までWeb上で行えるというから驚きだ。サービスを重視するには設備投資費も人件費もかかる。しかし、医療のビジネス化は法律で厳しく制限されている。また、良い設備を揃え、良い人材を確保しても、それを宣伝することができない。利用者側の病院選択の基準としては、いまだ
「口コミ」にその大部分を委ねているのが現状である。いまの日本の医療現場は、そんな二律背反的な現実と理念の間で揺れ動いているわけである。
しかし、ここで問題となるのは、医療を完全に市場原理のなかでビジネス化、合理化すれば良いかというと、どうも一概にそうとは言いきれないという点である。
親父がアメリカの医療現場を見学に行ったときの話である。日本なら七日から十日ほどの入院扱いになる患者が、二日ほどでどんどん退院していったのだ。なぜかと聞くと、
医療保険を民間で扱っているアメリカでは、長期の入院にかかる費用のほとんどは自分で負担するしかないのだという。自腹で払えない人は短期で退院するしかないというわけである。また、そのためアメリカは、急性期医療では確かに世界トップの技術を有しているだろうが、成人病や高血圧などの慢性期医療では、その患者のほとんどがおいてけぼりをくらっているのが現実である(そのためかアメリカは太っている人が本当に多い)。アメリカの例に限らず、例えば、臓器移植を前提として、韓国では60才以上の患者には透析が打ち切られ、イギリスでは階層制限があるという。しかし、移植手術は免疫力の低下を招き、感染症にかかることが命をも危うくすることもあるなど、高齢者や体力のない者には非常に厳しい選択となる。
つまり、
合理化や自己責任の名の元に、社会的な弱者が不利益を被ることを容認している国が世界にはたくさんあるのである。そもそも、日本は先進国のなかでも、
孤独な「死生観」を持った国であると言える。日本では、まだまだ広がりを見せない移植医療も、アメリカでは、紙切れ一枚の意思確認次第で、葬儀屋までが解剖を手掛け、肉以外なにも残らなくなった死体に綿を詰めるなどして彩る
「死体化粧」という仕事がビジネスとして成立していたりする。年間30万人が処刑されるという中国では、国が公然と臓器売買を手掛けている。一方、そんな臓器を私的に日本国内に持ち込もうものなら、医療法違反で一発御用である。つまり、徹底的にプラグマティズム(実用主義)的な、
魂に重きを置き、残った「容れ物」は骨の髄まで使い尽くす、そんな価値観が大勢を占めるなかで、日本的な「死して尚魂は体に宿る」といった死生観は非常に少数派であるといえるのである。しかし、
それら「死生」を神聖視する価値観が、医療を聖域化し、身内に甘く、責任の所在を明らかにしない医療従事者を生み出したこともまた、近年多発する医療事故の報道を見ていれば明らかである。結局、理念も技術も機械も制度も、扱うのは全て人間なのだ。日本では諸手を挙げて受け容れられない移植医療も、「再生医療」という次のステップでは広まりを見せるかもしれない。広告規制もネットワークの発展までは遮ることができないだろう。変化は確実に目の前に迫ってきている。真に重きを置くものがなにかを見極め、それを公知の場で協議し、早期に社会に還元できるシステムを構築する。変化を前にして「医局制」などの旧体質を含んだ医療システムの抜本改革がいま求められている。
March.1
7 (SAT) 「子育てって大変ですか?」NHK教育で放送されていた
「徹底トーク・子育ては楽しいですか?」という特番を見た。全国から子育て中の母親・父親が参加して、それぞれの胸中をさらし合うという、八時から三時間にも渡って放送された、かなり熱い番組だった。
そのなかで一際大きく掲げられたのが、
「なぜ、かわいい我が子にあたってしまうのか?」というテーマ。
参加した母親のほとんどが子供に手を上げた経験を持つなか、そこに見え隠れするのは、
母親がひとりで背負い込んでしまう育児の辛さや、それを解決しようと思っても大きく立ちはだかる夫婦間の認識のズレ。しかし、その「辛さ」というものも、「ズレ」というものも、それぞれの家庭で千差万別で、無論、議論も共有できる経験と価値観がわずかなため、その多くは平行線を辿る。しかし、そんななか一際目を引き、その言動に大きな説得力を感じたのが、仕事を辞め、
専業主夫になったある男性の言だった。「育児は甘くない。男性であっても、悩み、我が子に手を上げてしまいそうになる」
(σ(;^_^ )も含め)「男」として母親の気持ちを想像していた会場の男性の多くが、一瞬言葉を飲んだ。
彼も、育児に専念し始めた当時は、まず、社会との隔絶に戸惑い、そして、その不安を打ち明けられる人間が誰もいないことに、ときに深酒をあおることもあったそうだ。しかし、そんなときに一筋の光明を与えてくれたのが、他ならぬ奥さんで、朝方の五時頃まで彼の話を聴いてくれたこともあったという。とにかく、
モヤモヤとしたものを抱えていた、その胸の内を明かせた。たったそれだけのことでも、彼は大きく救われたのである。また、彼はこうも言う。
「育児や家事というものは、企業人的な視点を用いた『時間』や『仕事量』といったもので測ることができない。つまり、評価基準が曖昧なため、どれだけ大変なことをやっても誰にも評価されない。なにより、自分自身で評価することさえもできない。私は、まず、自身の評価基準として『どれだけ育児を楽しめたか』というのを挙げています」
「いま育児が楽しくて仕方がない」という専業主夫四年目の彼はこう語る。
やはり、
育児におけるあらゆる危険を回避し得るのは、まず、母親の努力であると同時に、父親の協力でもあるということだろうか。父親が、企業人としての忙しい生活のなかで、どれだけ我が子のことを、育児をする母親のことを見てあげることができるか、そこが肝要なのではないか。
また、それも、
「育児・家事にどれだけの時間を割いた」「どれだけの労力を払った」という基準だけでは、一概に測ることもできない(男はついついこういった視点で見がち)。たった数言の思いのこもったねぎらいの言葉が、母親の一日の苦労をふっ飛ばすこともあるように、そこには数字や論理で測りきれない、なにか大きな「心のメリット」のやりとりがあるような気がするのだ。加えて、父性が不在になるのも、制度は整っていても、風土として父親の子育ての参加を容認し難い企業社会にも問題はあるのかもしれない。
そして、なにより、どんな状況においても、
母親の「仕事」を評価できるのは一番側にいる父親しかいないということだろう。世のお父さんよ、お母さんのこと、一週間にどれだけ褒めてあげることができているだろうか(゜-゜)まぁ、なにはともあれ、この番組を通じてハッキリしたこと。
育児は直接関わったことのない人が想像するほど、甘いものではない。追い詰められれば、人一人の命をも容易に奪いかねない危険性を秘めているということ
誰もが好き好んで我が子に手を上げているわけではない。そこに、頭では理解できても如何ともし難い「なにか」があるということ
傷つけられた子供は、その傷を深く、永く心に残し、また、その痛みの矛先をやがて授かる我が子にさえも向けてしまうことがあるということ
そして、それらの問題を回避する術を持ち得るのは、まず、母親自身であり、その夫である父親でしかない。「育児」は二人の協力なしには、とても乗り切るのが困難な時代になっているということ
就職試験の勉強そっちのけで「なるほど、うんうん」と夢中になってしまいました。σ(☆☆)も面接のときには「御社は男性の育児休暇を保証していますか?」くらい聞いてみようかな!(`´)
まぁ、その合否のほどは、保証されないこと必至ですが……。
March.
10 (SAT) 「遥かなる政治」森首相が、首相公邸で古賀幹事長ら自民党五役と会談し、九月まで任期がある党総裁を途中で辞任して総裁選を繰り上げ実施する意向を示し、事実上、退陣を表明した。
しかし「事実上」ってなんだ。
一方で退陣の趣旨を臭わせ、一方で「そんなことには言及していない」と突っぱねる。最近の政治は本当にわからない。ニュースや新聞では
「花道」という言葉が踊る。19日に予定される日米首脳会談、25日に予定される日露首脳会談を経て、予算案と関連法の早期成立、首相は「自己判断」のもと、前倒しされた総裁選に出馬せず、自然退陣する。側近が仕立てた無難な退陣へのシナリオだという。つまり、今回の二枚舌も、この花道に乗せるための時間稼ぎの詭弁だというわけだ。本当に最近の政治はわからない。まず、
退陣を臭わせた首相が、米露という一大大国の両首脳と顔を合わせるという状況が、日本人として本当に恥ずかしい。えひめ丸の衝突事故もあって、米大統領との会談に限っては、一握の主導権が日本側に感じられる。が、いずれにしても、両国ともに、強力で政権が長く続く首相と会談したいのは当然の気持ちだろう。そこを、いつ退陣するともしれない首相と会わせるわけだから、向こうにすれば本当に失礼な話だ。次に、マスコミの影響もあるとはいえ、
これだけ国民の支持を得られない首相を、早期に退陣させられないというシステム面での不備にもイライラさせられる。野党の伝家の宝刀「内閣不信任案」も派閥の論理に押されポーズで終わり、あとは花道まで用意して、たっぷり1ヶ月以上をかけて辞めさせる。確かに政治的な空白を作ることには賛成しがたいが、
近年の1分1秒を争うハイスピードな時代の流れの最中、政治がこれだけ結論を出すのに時間がかかるようでは、本当に取り返しのつかないことにもなりかねない。市場はどんどん答えを出しているのだ。最近、強く思う。
政治は遠いっす。マスコミに対する対応ひとつ見ていて思うのだが、その向こう側にある国民の存在を本当に感じてくれているのだろうか。政治家も人間だ。確かにマスコミほど日常生活を送る上で迷惑なものもないだろう。しかし、私たちのほとんどはメディアを通してしか政治の姿を窺うことができない。二枚舌を使う首脳部も、新聞を読むのをやめて現実逃避する首相も(先日の国会で疲れるので最近読まないと言っていた)、その言動のみならず、表情の端々までが国民に対するメッセージになっていることを忘れないでほしい。じゃないと、誰もが心の底に重く沈殿した政治に対する不信感を、いつまでも一掃できないままになってしまう。と、その一方で、伝える側のマスコミにも問題を感じてたりするんだけどね。まぁ、その話は別の機会にゆずるとして、とにかく、国民の意志を明快かつ迅速に反映し、メディアに対しては、笑って「心配するな」の一言くらい言える政治家に日本の未来を担ってほしいものだ。そんな熱血体育教師みたい奴も、ある意味どうかとは思うが(笑)
March.9 (FRI) 「人生の先輩に会いに行く」
就職活動真っ只中! 実はσ(。・_・。)マスコミ関係にも関心があったりします。で、企業研究にと、今日、某放送局の元記者の方に会いに行ってきました。
場所は大学の近所の喫茶店。やや緊張の面持ちのσ(;^_^ )は、メモ帳片手に質問を繰り返していました。今日お会いしてくれた方は、最近退職されたとはいえ、40年間近く記者一筋で働いてこられたという人。
まず、印象的だったのが、その表情。大幅に症状は改善されたそうなのですが、
長年の記者仕事で、顔の半身が麻痺してしまったそうです。「勲章だと思っているよ」と、ぎこちなく笑われたその表情が、いまでも記憶に強く残っています。うーん、カッコイイ。さて、そのやりとりのなか、
「もっとも印象に残っている仕事はどんな仕事でしたか?」
とσ(。・_・。)が聞いた、その返答にめちゃくちゃ心揺さぶられました。
そこでお話頂いたのが、
昔、ある遠洋漁業船が外洋で他国の船の衝突、沈没した際に、その家族や関係者の人たちが集まっていた地元の漁協に取材に行ったときの話でした。最近起きた「えひめ丸」の事故とは違って、沈没に時間がかかり、いまほど通信技術の発達していないなか、無線で逐一状況の報告を受けていたそうです。
「いま、機関室に浸水があった」
「いま、船体の半身が沈んだ」
そんな通信がある度にどよめく人々。そして、ついに
「沈没」の一報が入ったとき、会場は一瞬水を打ったように静まったそうです。しかし、間を置かずして、ある人は泣き出し、ある人は叫び声をあげ、会場は瞬時に混沌とした感情の渦に巻き込まれました。そんななか、被災者の家族に
「いまの心境は?」
と問い掛けるのが、仕事とはいえ、本当につらかった。もう、いやでいやで仕方なかった。搾り出すように、彼はσ(。・_・。)にそう話してくれました。
それを聞いたσ(。・_・。)は、なんとも言えない複雑な心持ちと、熱くなる目頭とで、どうにもしばらく顔が上げられなくなってしまいました。一方で考えた。σ( -_-;)ならどうするだろう。その場に留まっていられるだろうか。逃げ出したくなるかもしれない。
端的なエピソードではあるものの、報道という仕事の意味、重さ、その一端を垣間見せられたような気がしました。そのほかにもたくさん勉強になるお話を頂けました。いや、やはり実際にその仕事に携わっていた人の話には説得力がありますな。
いろいろな業界を志望するなか、マスコミを志望する自分というのが、自身のなかでどれだけ大きな存在なのか、正直測りきれていない部分があります。でも、やりがいはあるんだろうな。本気を感じたら、何年かけてでも目指す価値はあるかもしれない。
まぁ、まずは、筆記試験に合格しないといけないんだけどね(汗) 道のりは険しいです。
February.27 (TUE) 「過激化する少年犯罪を止める術はあるのか」
今日、名古屋地裁で、1994年の大阪、愛知、岐阜の三府県で若者四人が殺害された連続リンチ殺害事件で、主犯格として強盗殺人、殺人、死体遺棄などの罪に問われた事件当時少年(19,18歳)の三人に対する論告求刑公判が開かれ、そのなかで検察側は厳しい批判とともに死刑を求刑した。
それをニュースで知って、無論、求刑内容にも驚いたが、そんな事件があったことを知らなかったσ(。・_・。)は、その事件の内容に肝を抜かれた。
1994年の9月末からわずか2週間足らずの間に、通り掛かりの会社員からアルバイトまで次々と四人もの人間を殺害したという。検察側も
「少年犯罪史上、前代未聞の事件」とまで言い切ったそうだが、確かに近年起こった数ある凄惨な少年犯罪事件のなかでも、また違ったインパクトのある事件だと思った。最近、大学の法学部のとある教授に会いに行った。
その教授は、少年法改正案の通過、4月の施行を目前にして尚、少年法改正反対を声高に掲げ、積極的な活動をされている人である。一度、是非、その反対論拠を伺いたいと思い、アポ取りをして忙しいなか時間を割いてもらった。
その会話内容を詳細に触れると、ちと、ここでは書ききれないので、要約を次に。少ない時間のなかで伺った限りではあるが、大別して彼の主な反対論拠は、
歴史的な流れを勘案に加えた判断
少年が犯罪に至る要因は複合的で非常に複雑
少年の更正のためには教育こそが必要
厳罰化による犯罪減少効果への疑問
全体的な厳罰化の呼び水となり、国内の拘禁施設が不足、予算も増加
の五つだった。
その他諸々の具体例なども伺って、なるほど説得力があったが、やはり、心の底にわだかまる疑念はすっきりとは晴れなかった。
私が心に引っかかること、それは
「それが本当に少年のためになるのか?」
ということ。
以前参加した少年犯罪に関するシンポジウムで、σ(。・_・。)は
「もう少し抑止力としての少年法を意識してもよいのではないか」
とパネリストのある弁護士の方に聞いてみた。すると、
「少年は少年法のことなんか意識して犯罪を犯してはいないよ」
との返答を頂いた。
うむ、確かにそうだろう。あの神戸児童殺害事件の容疑者の少年も、取り調べを受けるまで自分が死刑になると思っていたという。少年が犯罪に至るのは、もっと突発的な要因なんだというのが一般の見解だ。
しかし、
では、なぜ意識させてあげないのか。σ(。・_・。)が強く疑問に思うのは、そもそも、少年にとって、自殺行為に近い「重大犯罪を犯す」という逃げ道が残されていること自体がおかしいと感じるのだ。自分たちを律する法律について意識していないのなら、意識させてあげるのが「教育」というものなのではないか。
確かに、真剣に少年少女のことを思って少年法改正反対を掲げている人は沢山いる。しかし、改正反対論者は、ともすれば、歴史や理屈に目を奪われ、真の利益享受者を見失ってはいないだろうか。
先の事件を起こした三人を精神鑑定した専門家は、
「三人ともがお互いを信頼できず、一人が強気でいるのに、自分だけが弱気を見せるわけにはいかないという、未熟な虚栄心の悪循環が今回の悲劇を生み出した」
と分析した。
また、取り調べを受けた三人のうちの一人がこう言っている。
「誰かがもう止めようと一言いえればよかった」
考えなければならないことは山ほどある。けれども、例え判断能力を失おうことがあろうとも、
決して越えてはいけない境界、その敷居を少年たちに高く持たせ続けるためにはどうすればよいか。まず、注意を払わなければいけないのはそこではないかとσ(。・_・。)は思う。公判は来年2月28日に弁護側が最終弁論を行って結審する見通しだということである。
January.4 (THU) 「人間はどこから来て、どこへ行くのか」
明けましておめでとうございます_(_ _)_ みなさまいかがお過ごしでしょうか?
σ(^-^)はというと、年末悩まされた風邪も年が明けるころにはすっかり治ってました(^^) 調子にのって、元旦は睡眠時間2時間で山登って初日の出見に行ったり(見えなかったけど(T-T)) 初詣で引いたおみくじが「大吉」でなんだかハッピー気分だったりと、なんだかハイな年の初めですな。元旦ってなんかやる気が出てイイね(^^) まぁ、この一ヶ月後くらいにははやくも減速してそうな気もするのですが(笑) このテンションをできれば維持したいものです。
さて、ここまでの調子と急に一転してしまうのですが、今日はまたなんだか難しい話。
最近、『平然と車内で化粧する脳』という、わりと話題になってる本を読んだのですが、これがまた結構おもしろかったです(^^) その内容に関しては、まぁ、また別の機会に譲るとして、そのなかで「脳内物質」の話が出てきました。
「脳内物質」(脳内伝達物質)とは、神経回路の情報伝達に関わる化学物質のことで、ニューロンとニューロンをつなぐシナプスの部分で分泌され、特定の受容体に受け取られることで、神経ネットワークに情報を伝えたり、情報伝達の仕方を調節したりする役割を果たしている物質だということです。その数としては、わかってるだけでも200種類くらいはあるらしいのですが、その内、更にその作用や化学構造が解明されているものはというと、わずか10種類ほどしかないそうです。まだまだこれから解明が進むであろう分野ということですね。
代表的なものでいうと、よく知られているのが、カテコールアミン類の「ドーパミン」や「ノルアドレナリン」、インドールアミン類の「セロトニン」や「メラトニン」など。これらの脳内物質が、ときに人の興奮を促したり、逆に落ち付かせたり、幸せな気分にさせたり、またときには憂鬱な気分にさせたりと、
人の感情の起伏に大きく関与するということです。また、この本のなかで、著者は、近年の少年犯罪などを「こころの病気」という曖昧な捉え方をせずに、これら脳内物質の分泌異常による「脳の機能不全」という、ある種、ほかの臓器病と同一の視点で捕らえています。現在数多くある精神病も、脳内物質の解明が進めば、そのうち、ほかの病気と同じように薬一つで治るようになる時代も来るかもしれません。いまから10年ほど前に、イギリスはオックスフォード大学の生物学者であるリチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』という著書のなかで、「人間は遺伝子が繁殖するための体の良い乗り物に過ぎない」と、進化論を逆から考えた自説を発表して話題を呼びましたが、人間の体の構造や精神活動というものは、分析されればされるほど、その原理にはどこか無機質で機械的なものが感じられるような気がします。全ての事象には理由がある、そう考えれば当たり前のことなのかもしれませんが、古くから人が信じてきた「魂」のような概念は、ひょっとしたら、近い未来では古典的な迷信として一笑に付されるようになるのかもしれない。人間は、意外と、そんなに神秘的で精神的な存在ではないのかもしれないな、この『平然と車内で化粧をする脳』を通じてそう感じました。
そこで、ようやく今回の本題である「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という話に繋がります(;^_^A アセアセ・・・
最近ふと思ったのですが、ここまで機能的で機械的な人間の体構造について知ってみると、人間とは、たまたま複雑な構造を有しているものの、実は、単に偶然に偶然が重なった結果、大気の構成物質が組み合わさって生じた「物質」、それこそ、そこらの「石ころ」と全く同じような存在ではないか、そう思いました。そこにそんな人間の信じている「魂」のような、ある種、神懸り的なものなどは介在しないのではないでしょうか。そして、石の行く先は、時を経て、次第に土に埋もれていくか、風にさらされて風化するかしかありません。では、人間は? 人間は死んだあと、どこに行くのでしょうか。天国? 地獄? それとも単なる個体としての完全な消滅? それはいまのところ誰にもわかりません。
人間は、どこから来たのか、そしてどこへ行くのか、その答えは、結局のところ、なにもわからなかったのですが(-_-;) ただ、二つだけはっきりしていることがあります。それは、σ(^-^)たちは生きているということです。そして、石ころにはできないことがσ(☆☆)たちにはできるということです。不幸な時代に生まれたなんて言い訳したくない。来世では幸せになりたいなんて思いたくない。いまできることを精一杯やろう、いまを力の限り生きよう、結局、そう考えるに至ったわけです(*^-^*)
世紀が変わって21世紀、少しだけ違うことができる石ころたちが、この世紀に成すことはどのようなことなのでしょうか?
December.30 (MON) 「衝動買いの行く末……」
いよいよ、この日がやってきましたねぇ(* ̄▽ ̄*) もう、明日は大晦日です。しかも、ただの年の終わりというだけでなく、泣いても笑っても、ひとつの世紀の終末なのです(知ってると思うけど(汗)) 来世紀がこの世に息づく全ての生き物にとって良いものとなりますように(=人=)合掌
しかし、このめでたい時代の境目に、σ( -_-;)は風邪なんぞをひいておりまして(泣) しかも、ここ一週間くらいずっとひいてる気がするねんけど(T-T) 知人の症状を見てても思うねんけど、今年の風邪はほんまにしつこい! なにやら、ずっと喉が痛いし、咳はでるし、鼻はグシュグシュするし、度々の頭痛も……。とかって、しっかり療養しないσ( -_-;)がいけないんですけどね。今晩は、これ書いたら、明日までしっかり寝ようと思っとります、ハイ。
さて、長々と書きましたが、ここからが本題(笑)
体調悪いのを引きずって、今日はちょっとした所用のため、三宮まで出張ってまいりました。ほんま、道中も咳が出る出る(=。=)ゴホッゴホッ 移しちゃった方いらっしゃっいましたら、ほんまゴメンなさい(>人<)
で、その帰りにジュンク堂(本屋)寄って、お目当ての本を探していましたところ……久々にやってしまいました(-_-;) 衝動買い。一般的な若者は、服とか、アクセサリーとかの服飾品を主に衝動買いするのでしょうが、σ( -_-;)の場合は本なんですね。今日は必要なものも含めて七千円飛びました(T-T) うーん、この時期にちとイタイ。まぁ、服飾品を衝動買いするよか、よっぽど安上がりなんだろうとは思うのですが、ほんま、ちょっとでも関心を持った本を手に取ると、「ここで買わんかったら、もう二度と読む機会がなくなるかもしれない!」なんて思うんだからタチ悪い。
そこで買った本。さっそく一冊帰って読んでみました(さっさと寝ろっちゅーに) 蛇足ですが、
本はやっぱ、その日のうちに読むに限ります!(マンガとかは別として) 買ったその日が一番読めるんですね。面白かったりすると集中して一気に読めちゃったりする。しかし、一旦その旬を逃しちゃうと、ダラダラと読むのに時間がかかっちゃったりして非常に効率が悪いこともある。まぁ、ほかにやらなきゃいけない優先事項があるときに、無理して読めとはいいませんが(てか、そんな日に買うなっちゅー話やね(笑))、やっぱ、本は買ったその日に、帰りの交通機関のなかからでも、すぐ読むことをオススメします(*^-^*)また脱線してしまいましたが、話を戻して、で、衝動買いした本のうち、一冊をさっそく帰って読んでみた。が、しかし、その本がまた、ほんまにおもんない! いや〜、ひさびさにやってしまいました(-_-;) ハズレくじ引き。「黒ヒゲ危機一髪」の初っ端で黒ヒゲ飛ばしちゃった気分です(泣) しかも、「ハードカバー」!(爆) 値段は……1300円。まだ、文庫とかならまだしも……本気でちょっとヘコみました。いや、ほんま犯罪級に面白くない本でした。てか、ほんまに犯罪です。最初のほうはわりと関心の持てることをいくつか書いていたのですが(そこにひっかかって買った)、読み進めるにつれ、期待していたこと全てを裏切られました。ひょっとしたら、過去最悪かも。もー、全力を以って飛ばし読みしたりましたもん(読んだんかい(笑))
とゆーわけで、読み終わって、なんかあまりのイケてなさに腹さえ立ってきて、ここで書くと同時に「書籍街」のほうにも書評を追加しちゃいました。初の「オススメ本」以外の書評です。興味のある方は是非どうぞ(;^_^A
あー、しかし、他のどんな買い物よりも、本ってハズすとヘコむよなー。しかも、ハードカバーって……(T-T) これからは、もう少し考えてから、本を購入したいです。高い買い物やもんね(-_-;) しかし、あー、頭ズキズキ(T-T)(はよ寝ろっちゅーねん)
December.
18 (MON) 「行ってきました、ルミナリエ」今年もやってまいりました、神戸冬の風物詩「ルミナリエ」(*^-^*)
えーと、このルミナリエ、地震の年からだから、今年で何年目になるのかな? たしか、σ(。・_・。)が高校受験の年に地震(&地下鉄サリン事件(汗))があったわけだから、6年目ってとこか。いやー、製作側の方々は毎年毎年ほんとご苦労様です(-_-;) お蔭で、神戸は冬も元気です! 週末ともなると、
人は増えるし、人は増えるし、人は増えるし(爆) や、毎日行ってるわけじゃないんだから、日々、生活のキーポイントとして三宮を利用してる人間にとっちゃぁ、ちと、うっとーしぃときもあるのですよ(-_-メ)(笑)とはいえ、今年も折角やってきたわけだから、見なきゃ損! とゆーわけで、見に行ってまいりました。一緒に行ったツレ(注:別段特別な人ではない(泣))とメシを食ってから、さー、見にいくぞ! とばかりに店を出ると、なんと外は雨!(爆) うーん、これはムリかなーなどとちょっと考えもしたものの、いや、逆にこれは人混みを避けるチャーンス♪ とばかりに、コンビニで傘を購入(ふたりとも準備が悪い(汗))、一路、会場へ。するとそこは、おおお、そこそこの混み具合ではあるものの、やっぱり、人は少なめ(☆☆) こんなゆったりとしたルミナリエは初めてだーとばかりに光りの街道を行く! 行く! 行く! が……
短い!(爆) あれ? ルミナリエってこんなに短かったっけ? そ、そうか! 人がいないからだ!( ̄□ ̄;)ガーン!! 混雑してるときにしか行ったことなかったわけだから、別段滞ることもなくスイスイ進んじゃった今年は随分短く感じたのでした。正体を見たり、ルミナリエ!(☆☆)(笑)でも、恒例、東遊園地の……なんてったっけ? あのルミナリエの親玉みたいなやつ(爆) あれは、今年のが一番キレイでした(*^-^*) 前年までは壁状のものだったのが、今年はループ状。中に入ると、まさに「光りに包れる」という感覚でした。思わず昇天しちゃいそうな……いや、ダメダメ、まだ早い(笑) 途中のやつを(ずっと喋ってて)あまり見てなかった分、ここはしっかりと目に焼き付けました。うん、これはナカナカ。
さて、仕上げとばかりに、市庁舎の展望室に向う途中、なにやら募金を集めているのを見かけました。どうやら、来年もルミナリエを開催するための募金のようです。先述した通り、今年でもう6年目のルミナリエ。近隣への経済効果はそこそこなものなのだろうけど、毎年毎年その開催にかかる資金は膨大なものだそうです。昨年、有名な原宿表参道のイルミネーションが中止されたというニュースがまだ記憶に新しいですが(今年は場所を変えてやるらしい)、実のところ、もっと問題なのは「来訪者のマナーの問題」。表参道のイルミネーションも一昨年の経験から、ゴミのポイ捨てや、違法駐車、騒音の問題から地元に反対者が続出、結果準備までの足並みが揃わず中止になったという経緯があります。そう思って周りを見回してみると、やはり神戸も同じ、あちらこちらに食べガラやジュースのコップなどが散乱している。違法駐車は……もともと、駐車スペースの少ない三宮。こちらのほうは付近を見る限りあまり実感が沸かないけれども、でも、もしかするとあるところではあるのかもしれない。もし、ルミナリエが中止に向うとしたなら、開催資金の問題のほかに、これらの問題も確実にその中止原因としてリストアップされることでしょう。
もともとは震災における数千人もの犠牲者への鎮魂や神戸の復興を願って開催されたルミナリエ。お祭り気分は大いに結構なことだけど、楽しむ上での最低限のマナーをも守れない人たちは、その痛みを忘れた人たち、あるいは知らない人たちなのでしょうか? この世の物とも思えない荘厳な景色を演出する冬の神戸だけど、そこは確かにたくさんの人の生活が根付く「街」という名の生き物なのです。汚れもすれば痛みもする、それが現実なのです。夢見心地も結構、だけど、自分たちの世界に没頭する前に、ふと周りに目を向ける余裕も持って楽しんでほしいものですね。そう思って地上100mの市庁舎の展望室から見下ろした神戸の街は、どこか儚げな雰囲気が漂うように感じるのでした('-'*)
しかし……うーん、ムードとしては最高なんだろうけど、これで横にいる人が、もー少し特別に感情移入できる人だったらなぁ(T-T) や、まぁいいか。楽しいことは楽しいし。贅沢はゆーまい……などと考えつつ過ぎ行く、とある真冬の一夜なのでした(ちゃんちゃん♪)
December.9 (SAT) 「学力が低下したσ( -_-;)が思うに」
さて、そろそろ年の瀬も押し迫って参りました。期末レポの季節です(泣)
今年は授業に関してはほんとに不真面目でした。どうしても課外活動のほうに時間が取られてしまい、結果犠牲になったのは一番優先順位の低い授業だったようです(笑) 最近、「大学生の学力低下」が叫ばれていますが、こと専門に関してはσ( -_-;)もその「学力が低下した」学生のひとりなんでしょうか。
大学生の学力低下、それを測る基準も様々で、一時評判になった「分数」のような基礎的な算数であったり、各学生が専攻した専門分野であったり、もっと一般常識的なものであったりと色々な視点から問題が論議されています。その原因となるものも、少子化のなかでの大学新設や学部学科増設の当然たる結果だだとか、文部省の主導による小中高の「ゆとり教育」の罪過だだとか、大学入試制度にそもそもの欠点がある、日本の大学は単位の認定が甘すぎる等々、こちらも様々なものが挙げられています。
その一方で、現在の大学生に対して、一層の学習意識の向上を求める論調も多い。実際、σ(。・_・。)の周りにも、授業にほとんど出席しないが、それでも押さえるところは押さえてなんとか成績評価を「可」で切り抜けていこうとする人たちが結構います(もちろん失敗者も続出(笑)) そして、そういった学生たちを、ある種冷笑しながら展開される論調も新聞や雑誌の特集記事などを読んでいると頻繁に見かけられます。有名大学教授のコメントという形で掲載されているものも見かけます。しかし、σ( -_-;)はそういった記事を読むと、無性に腹が立ってしかたなくなります。外郭や学生自身の問題だけでなく、教える側の教授、または、大学の教育システムそのものにも問題があるのではないのか?
確かに、最近の大学生には、学習意識が乏しい人が多いように見えます。実際、なんのために大学来とんやろ? みたいな連中もいることはいますし、期末が近づくと、学内の人口が途端に上昇する現象は、その表れとも言えないこともありません(笑) バイトや課外活動、プライベートを優先して授業に出ない人が(とくに文系学生に)多いようです。
そんな出席状況で単位認定してしまう大学が存在するということにも問題があるのかもしれませんが、それよりも、もっと根本的な、「日本の教育慣習」にそもそもの原因があるのではないか、そんな気が最近してなりません。
σ(^-^)の好きな大学の授業のひとつに、後期の間だけオーストラリアの大学から来日されて教鞭を振るっている先生の授業があります。その先生が以前授業中に「日本は教授天国だね」と言ったことがありました。
まず、一般的に日本でも、ひとつの授業でいくつものレポート提出が義務付けられますが、現大学生のみなさん、それって返ってきてますか? 学習分野の特性上、返却がやむを得ない授業もあるようですが、日本の大学には、普通、なぜかレポートを「返さなきゃならない!」という風潮がないのです。その先生が教鞭を振るっているオーストラリアの大学では、もしそんなことをしようものなら、学生に袋叩き(ちょっと大袈裟)に合うそうです。もちろん単に返せば良いってものでもなくって、専門的見地からのコメント(採点)をしっかりと付けた上での返却です。教授側にしてみれば、それがものすごい負担になるそうなのですが(特に自身の研究発表が押し迫っているときなど)、それでも、レポート返却というのは、学生の学習結果を正しく評価、それを学生に返すことによって、学生にはそのレスポンスを元に更なる向上が求められる、そういった授業の形態としてはごく自然な流れ、その要(かなめ)となるものなのです。つまり、どんな小さなレポートも返却しないことには、授業効果も半分にしかならないのです。しかし、日本においては、それが教授側に義務付けられていません。大学側もそのレポートを一時学生部で預かり、返却の窓口となる、そういったシステム的な対応をしているところはあまり一般的ではありません。酷い場合、いくつもレポートを提出させておいて、その結果は「優」「良」「可」「不可」の成績評価だけでしか窺えない、そんな授業さえあります。その成績評価でさえも、日本は曖昧です。オーストラリアでは、ひとつの授業あたりの学生成績の最終分布にも厳しい規定があるようで、日本のように、授業のなかで2、3人「優」が付く人がいればいい、というわけにはいかないようです。また、成績評価後にはその評価に不服な学生の質問責めにも合うそうです。そういう形になるよう、大学側もシステム的に支援しているのです。
このような日本の大学の現状は、「講義式」の授業、つまり、教授から学生への一方的な知識の流動(「教授⇒学生」)が一般的な日本の教育慣習に沿ったものです。また、その結果、知識の源泉としての教授の立場を重んじるあまり、大学側が授業方針を教授に任せきっている、つまり、極端なまでの「教授偏重主義」も指摘できます。しかし、現在の情報化社会においては、学生側にも多種多様な情報を得る窓口が様々に確保できるようになり、一昔前のように教授の言うことを一言一句漏らさずノートに書きとめる、その必要がなくなったと言っても過言ではないかもしれません。つまり、「講義式」の授業では満足できない学生が増えたのです。にもかかわらず、日本の大学の現状は旧態依然としていて、学生はどんどん学習への意欲を失っていく、単位を取ることが出席の目的となっていく、または、孤独な独習に走っていく(独習が専門とリンクしていれば、まだ幸せ) 大学生活のなかにおいての「授業時間の空洞化」です。では、その現状に対して何が求められているのか。それは、教授から学生への一方的な知識流動ではなく、教授から学生へ、学生から教授へといった、両者の双方向コミュニケーション(「教授⇔学生」)が授業時間を含め全般的に確保されることが重要なのではないでしょうか? また、それを教授に一任するのではなく、大学そのものもシステム的な支援をする、例えば、先に挙げたレポート返却の窓口を設けることや、レポートや最終成績の評価過程や基準を学内LANなどを使って学生側に公開することや、教授を学生が囲む「リング型」レイアウト教室の常設等々、いろいろなことができると思います。また、学生間の知識流動(「学生⇔学生」)、つまり、ディベートなどの機会をある程度確保してやるのも、学生の学習意欲を刺激することになるでしょう。とにかく、他で得られない、大学の授業でしか得ることのできないものを学生に与えようとする、それが大切なのです。
しかし、「自己主張をしない日本人」らしく、講義式の授業のなかでも、あまり質問をしない、そういった学生側の問題もあります。
とある来日したアメリカの大学教授が日本の大学で教鞭を振るうことになり、その教授が来日後初の授業の途中で恐る恐る学生に対して質問・疑問点の有無を問うと、誰も手を上げなかった。その教授の母国では、一度質問を求めると、その対応だけでその授業が終わってしまうこともあるので、その教授はほっとする一方、嘆息した。そういった文化の違いを指摘した有名な逸話もあります。
σ(;^_^ )が先日受けた授業でも、教授は授業の最後に一生懸命質問の有無を聞いてきましたが、σ(T-T)を含め、誰も手を上げませんでした(σ(T-T)の場合は何がわからないのかということさえわからないだけ(泣)) 日本の学生も変わらなければいけないことはたくさんあります。しかし、どちらからが先にというのではなく、教える側である教授側から、大学側から、そういった学生たちに「授業が楽しい!」と思わせるような対策を講じて頂けないものでしょうか? 質問・疑問がないように見えても、実は手を上げて教授に聞きたいことがたっぷりの学生も絶対にいるハズなのです。そういった学生をどれだけ引っ張り出せるか、それが授業を盛り上げる、学生の学力を向上させるキーポイントなのではないかと思います(事実、そういったことがとても上手い教授の授業もあるのです♪) 議論盛んな教育問題ではありますが、問題の本質をあまり極大化、曖昧なものにせず、もっと身近な学生本位のものから焦点を当てて改善を進めていってほしい、そして、各大学も、少子化のなかでの大学間競争の重点を、学部や施設の増設といったハード的な点ではなく、もっとこういったソフト的な点に置いてほしい。一学生として、そう願うばかりです。
さて、それはそれとして、レポート仕上げるか(T-T) しかし、来週発表のものがまだまだまだ……(泣)
November.
14 (TUE) 「強者(ツワモノ)に会う」最近面白い人に会った。バイト先の先輩である。
σ(。・_・。)のバイトは、その特質上、学生バイトがほとんどいないのだが、その人も社会人。フリーターではなく、平日会社勤務で、週末は向学のためにうちでバイトしてるそうなのだ。女性なんやけど、すご(汗)
どーいう風に面白いか……うーん、これはちっと口で説明するのが難しいんやけど、とにかく、普段、あんまり社会人で、やや若いってくらいの世代の女性と会う機会ってのが、そんなにあるもんじゃないので、キャラクターとしてはすっごく新鮮でした(笑) なんか「ふっ、若いな……」とかって悟られましたもん(-_-;)(笑)
で、今回はなにが言いたいかというと、まぁ月並みですが、
やっぱり出会いは宝だね、ということです。σ(・ー・)も大学入ってから、先輩、同回、後輩、先生、職員、大学関係だけでもいろんな人に出会ったわけですけど、やっぱり、その中には今後も自分の記憶に残りつづけるんだろーなーという人がたっくさんいます。大学に入る前に、中谷彰宏さんの『大学時代 しなければならない50のこと』という本を読みました。そのなかに、「コイツは凄いという人に出会う」、そして、「このままではヤバイ、と感じることを体験する」、つまり、
「このままではヤバイと感じさせてくれる人に出会う」ことをしなければならない、そう書いてありました。そして、そのままその言葉がσ(^-^)の大学生活においての出会いの哲学になっているのです。自分の先輩かもしれない、同世代の人かもしれない、ひょっとしたら年下にいるのかもしれない、とにかく、自分の価値観に革命を起こしてくれるような人に出会う、そして、「第2の自分」に目覚めることが、大学時代に絶対しておかなければならないことだ、この本のなかで中谷彰宏さんはそう言っています。「第2の自分」に目覚めたかどうかはわかりませんが、σ(;^_^ )も幸いなことに何人か、その「このままではヤバイと感じさせてくれる人に出会う」ことができました。その当時、それは焦りましたさ。そして、後々に思い返してみて、「もし、あの人にあの場所で会わなかったら、σ( -_-;)は、いまどーなっていたのだろう……」とかって、ふと思いながら背筋が寒くなることも度々あります。貴重な出会いというものはそーいうものなんでしょう。そして、願わくば、自分がこれからの周囲の人間にとって、そう思われるようになりたいですね(*^-^*) なかなか、そー上手くはいかないんですけどね(汗)
同じ、中谷彰宏さんの『大学時代 出会わなければならない50人』という本の冒頭で、彼はこう言っています。
大学時代に、
未来に出会うすべての人に出会う。
大学を出ると、
もう新しい出会いはない。
大学時代に誰に出会うかで、
君の人生が決まる。
出会いは、
価値観の拡大だ。
自分自身を広げていくことだ。
面白い人に出会おう。
変な人に出会おう。
危ない人に出会おう。
大学時代に出会った人の中に、
未来の君がいる。中谷彰宏『大学時代 出会わなければならない50人』(’97ダイヤモンド社刊)より
「大学を出ると、もう新しい出会いはない」ってのは、ちと、どーかと思いますけどね(;^_^A 新しい出会いなんて、その気になれば、いつでも、どこでもできるものだと思います。けど、ともすればつい軽く考えてしまいがちな、そのひとりの人と出会うということが、実は、様々な偶然の複雑に重なりに重なった結果だと思うと、なにやらふと不思議に思うことがあります。そして、
自分に本当に必要な人というのは、実際、なかなか出会えないものだったりもします。出会いは大切にしましょう(*^-^*)November.
7 (TUE) 「アメリカ大統領選決着前夜」アメリカ大統領選、ついに決着の日! 今日、一般投票です。明日の昼頃には体制が判明するそーです。なんか、割と最初の頃から目を掛けてた海外の動向だけに、ちょっとドキドキしますな。アメリカ人ちゃうのに(笑)
さて、どっちが大統領になるかなぁ? 事前の世論調査では数ポイント差でブッシュさんのが上やったみたいで、大方の予想もブッシュ勝利ってとこみたいですが、はてさて。でも、σ(。・_・。)ちょっとゴアさんが勝ちそうな気がするんやけどなぁ。
やっぱ、実績あるでしょ。8年間やったっけかな? とにかく、それくらいの副大統領の在任歴があるらしく、人柄とか庶民性とかといった割とあいまいな部分を武器に戦ってるブッシュさんに対して、政策能力では高く評価されてるのよね。加えて、空前の好景気の最中、変化を求めない国民は、いざ投票するとなったら、やっぱ民主党に〜って、そういった投票所での大逆転みたいなのがありそうな気がする(゜-゜) キーポイントはやっぱ、財政黒字の使い道、かなぁ? 大型減税か、政府債務削減と社会保障の拡充か。σ(゜-゜)やったらどっちかな〜?まー、ぐたぐた言っても、ここまで来たら、あとは神のみぞ知る! 明日の昼頃は携帯で速報をチェックだ♪(*^-^*)
November.
6 (MON) 「わからないことが多い世の中で」今日は、ふと自分のことについて。
σ(。・_・。)のモットーは
「自然体」です。気の向くまま、時の流れの向かうまま……というのとはちょっと違うくて、うーん、なんて言ったらいいかなぁ(-_-;) ときに流されもするけど、ときに抗うこともする。ただ、その選択をするにあたっては、できるだけ「自分」との対話だけはしっかりとしたいな、そう常々から思っております。しかし、その「自分」というのが意外と難しい。懐疑心、臆病心、妥協心、とにかくいろんな心、それこそ前回から挙げているような、
様々に「色眼鏡のかかった先入観」をどけにどけた、そのやっと先に、本当の「自分」というものがあるのです。つまり、本人はちゃんと「自分」自身との対話を行っているつもりでも、実はそれは、そういった曲がった心が上手いこと成り済ました”偽者”かもしれない。そして、そういった”偽者”と対話した末に出した決断を、ときに「妥協」だとか「逃避」、場合によっては「狂気」と呼んだりするのでしょう。では、その本当の「自分」と対話した末に出した決断はどうなのかというと、それがどんなに間違ったことであろうとも、本人には後々の後悔など残らないのです。例え、周囲の人間には「気の迷い」としか写らなくても、です。きっと、そういうものなのでしょう(*^-^*)ごくごく基本的なことのようですが、σ(;^_^ )がこれに気づいたのは、つい最近のことでして。また、気づいたと言っても、それを、実際、その言葉通りに実行できてるかというと、無論そんなことはありません。ただ、常に心掛けてはいます。そして、はたと周りの世界に目を向けてみると、世の中には、なんて、このごく基本的なことができていないことが多いのだろう、そう思いました。
そう、世の中は「基本」に溢れているのです。一般的に「ひらめき」と呼ばれるものの多くは、実のところ、普段の生活にとても密着した事柄のなかからヒントを得たりするものです。そこからビジネスチャンスが広がることもありましょう。社会の名誉と名声を得ることに繋がった人もいることでしょう。ちょっとした改善の結果、倒産寸前の会社が息を吹き返した、そんな話は、昨今の不況の最中でさえ、よく耳にします。また、長く争っていた両者を再び結び付けることのきっかけも、時折、いくつかのごく当たり前なことを改めて見直すことから始まったりもします。政治不信を増大させ続けている行政の多くも、真に重きを置くべきものを根本的に見失っている、ただそれだけのようにさえ写ります。
つまり、重要なのは、
「なにが大切か」、「なにが重要か」、そういったとても基本的なことを自分のなかにも、また、周囲のなかにもしっかり見出せるかどうか、ただそれだけのことだと思うのです。これで世間の問題の八割方は解決しそうなもんです。しかし、それを実行するためには、どれだけ自分の色眼鏡をはずしたクリアな視界で自分自身を見つめ、また、周囲を見渡せるか、そこが問題であり難しいのでしょうな(-_-;)話はなにやら大きくなってしまいましたが(;^_^A ここでオススメのテクニックをひとつご紹介。なにか決断を迫られて、それに迷ったとき、自分のなかで、落ち着いて、それに関わる事柄の優先順位をつけるクセをつけてみてください。そして、そのトップに位置する事柄にメリットがあるものを「決断」として挙げればいいわけです。簡単なようで、意外と難しいですぞ。どうぞお試しあれd(’-^*)
ただ、それを実行する際には、「決断」を主張する「勇気」、そして、なによりも、今までの自分に対する揺るぎない「自信」、この両者が不可欠となってきます。「勇気」のほうはともかくとして、「自信」のほうは一朝一夕で身につけろと言われても、よっぽどの裏付けでもない限り、なかなかできるもんじゃないですよね( ̄▽ ̄; でも、まぁ、
生まれてから○十年付き合ってきた「自分」を信じてやろう、要はそういうことなのです。本当の「自分」の決断は、まず、自分たち自身が認めてやらなきゃね。そうすりゃ、あとは野となれ山となれ、です(* ̄ー ̄*)にやり目指せ、基本の分かるヒト(☆☆)9 さぁ、σ( -_-;)の場合、達成できるのは、いつになることやら・・・。
November.
5 (SUN) 「CM大好き!②」CMネタ<パート2>!(笑)
言わずと知れたauのコマーシャル。あの浅野忠信が出てるやつです。今日、初めて「結婚式編」の言ってる意味わかりました( ̄▽ ̄; それはもー、閃光のよーなひらめきでしたさ。
やー、「愛より良いものってほんとにないんですか!?」とか言ってるし、以前から、わけのわからんCMやなーとか思ってたのですが(なんや宣教師が愛の素晴らしさを訴えてたりしてね) ああ、i−○odeに掛けてるのかっ!(爆) え、ひょっとしてみんな気づいてた?(-_-;) σ( -_-;)ってニブイのかしら……。
November.1 (WED) 「CM大好き!①」
最近、ロッテのチョコレートのCMが好きです(笑)
そそ、あの、中居君が出てるやつです。「これもらうよ」とかって、30個入りチョコレートのうちの1粒を取って行こうとしたら、いきなり警察に連行されるやつ。見ました?
「30億円あったら1億円取ってもいいんですか?」
このセリフが大好きです(笑) 犯罪人扱いされた中居君の「30個のうちの1個じゃないですか」みたいなセリフに対する警官のセリフなんですけど、あ、そーなんかなぁ? なんて思わずそんな気にさせられたりして( ̄▽ ̄; 暗示って怖いです。
てゆーか、数が問題なんじゃなくって、チョコレートかどうかってとこが問題なんやろ。
思わずツッコミ入れてます。テレビの前で(笑)
October.2
7 (FRI) 「神様を信じないσ(。・_・。)だけど」先の停戦合意もむなしく、やっぱり争わなくてはいけないのだろうか? 言わずと知れた、イスラエルとパレスチナの和平決裂(?)問題についてである。
以前、「価値観」について言及したが、ただでさえ難しい問題なのに、やはり、宗教が絡むと、もう部外者には収集のつけようがないのだろうか? どうも、長年日本人やってると、この手の話題に弱い。争う理由に、いまひとつ実感が乏しいのである。そんなにまで大切なことなのか?
隣人を傷つけてまで、家族を危険にさらしてまで、そこまで、その「理由」はあなたたちにとって重大な問題なのか? いくら「知識」としてそれを理解しても、いつもテレビの前で問いかけてしまう。そして、ブラウン管を通しての問いかけなどむなしく、現実は淡々と深刻な様相を呈し始めている。宗教とは、その昔、自然の摂理に対し、あまりに無力だった人間が、その現実を耐え抜くため、自分たちの精神の安定を得るべく空想のなかで様々に作り上げたもの、そういう話を以前聞いたことがある。が、しかし、これだけ各宗教の「聖地」とやらが一箇所に集っていると、あながち宗教やら神様というのは絵空事ではないのかも、そんな気にさせられることもある(ちなみに、σ(☆☆)は宇宙人は信じてるけれども、宗教的な神様は信じてないのである) つまり、
神様は実は一人だったりするのでは? ということで、それが各地で様々な形で人間に影響を与えた後、その教義を人間が勝手に解釈、分割してしまって、いまのような大きくわけて5つの宗教(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教、仏教)が分在してしまったのではないか? 少なくとも、この5つのうち、3つまでもが聖地をこのたかだか約1km四方の土地に集中してしまっているわけだから、結局、帰るところはひとつだった、導く場所はひとつしかなかった、ということではないのか? そんなことに、つい、思いを馳せてしまうのである。ユダヤ人がモーゼに導かれて、かの地を訪れたとされるのが紀元前13世紀。その後、その時々の統治者によって宗教的色彩が様々に塗りかえられてきた場所であるわけだが、ユダヤ教においては、約2000年前に破壊された神殿の跡地「神殿の丘」、また、その神殿の一部であった「嘆きの壁(西の壁)」が最も重要な聖地とされている。一方、イスラム教では、「神殿の丘」を「ハラム・アッシャリーフ」(高貴な聖域)という名で呼び、メッカ、メディナに続く、3番目に重要な聖地としている。なかでも「岩のドーム」と「アル・アクサ」の2つのモスクは、教祖モハメットの昇天の地と伝えられる場所に建てられている。さらに、キリスト教においては、キリストが十字架を背負って歩いた「悲しみの道」と、その自らが運んだ十字架にかかった「ゴルゴダの丘」の上に建つ「聖墳墓教会」がある。まさに聖地の密集地帯。そもそも、イスラエルとパレスチナの争いとは、このまさに猫の額ほどのわずかな土地の主権を巡っての問題に端を発する。先に挙げたように、この辺で祭られてる神様が実は同一人物なのだとしたら、
本当に迷惑この上ない話である(-_-;)先の米国キャンプデービッドの3首脳会談でも、従来から国連が主張していた、エルサレムを国連管理下の国際都市にするという案のみならず、米国が主張した、イスラエル・パレスチナの共同統治という案も結局実を結ばず、結果としてこの会談は破綻を迎えた。それが、自国の世論に圧力を感じてのことか、自らの宗教心にかけてのことなのか、詳細は定かではないが、つまるところ、両者ともに単独統治を捨てきれないのだ。結局、愚かなのは人間なのだろうか? もういーや、もー無理、
この際、実際に出てきてよ神様!(爆) ほんとにいるんだったら、もう、あなたが出てきて一喝するくらいじゃないと、いつまでも同じようなことやってると思うよ、人間は! ま、一喝で済めばいいけどね。なにせできの悪い子供達ですから(;^_^A最近読んだマンガで、ふと、面白いセリフあった。とある科学者が謎を掛ける場面なのだが、
「人類の歴史上最も多くの人間を殺した科学者は誰だと思う!? ダイナマイトを作ったノーベルでも、原子爆弾(を作るきっかけ)を作ったアインシュタインでもない……答えは”進化論”のダーウィンだ!!」
環境に適応した勝者だけが生き残り、敗者は自然淘汰で死滅する。この進化論を人類社会に当てはめた社会ダーウィニスト達がやがてドイツ優生学を生み、あのアドルフ・ヒトラーを生み出すことなった、そういう論理だそうだ。
なるほど、一理あるな、と思った。ナチスのホロコースト(大虐殺)も、ユーゴスラビア大セルビア主義のエスニッククレンジング(民族浄化)も、そこに社会ダーウィニストの介在の有無に関わらず、種の優劣にも言及した”進化論”の影響を少なからず受けていてもおかしくないわけだ。
しかし、宗教の影響を受けていようが、常識的な論説の影響を受けていようが、結局、最も恐ろしいのは、人間の愚かで臆病な価値観、いや、「先入観」といったほうが適当だろうか? そういった色眼鏡によって様々に屈折させられた致命的な「思い込み」が全てを狂わせているのは認めざるを得ない。そして、そういった種々の矛盾に満ちていたとしても柔軟性に極めて乏しい感覚は、その許容量をはるかに越えるカタストロフ(精神の崩壊)なくしては、方向の修正、完全なる是正は適わないものなのである。
つまり、一度痛い目みないことには、その間違いに気づくことはそーそーない、ということである。人類の未来への道のりは険しい……。October.20 (FRI) 「(自称)まだ政治に関心がある若者の叫び」
アメリカ大統領選が盛り上がっているようである(*^-^*)
いや、世間で言われているように、空前の経済的繁栄の最中、莫大な財政黒字の使い道が有権者の最大の関心事というなかで、ブッシュ、ゴア両氏共に争点に欠くという点では盛り上がっているとは言えないのかもしれないが、でも、なんとか票田を広げようと両候補者が心理戦、情報戦を繰り広げる様は、日本のような議院内閣制の国では味わえない、どこかエキサイトな気分にさせてくれる。そう、不謹慎かもしれないが、政治は本来面白いものなのだ。
日本国民が政治に無関心だというレッテルを貼られて久しい。しかし、σ( -_-;)も先の衆議院選挙で初めて有権者やってみて思ったのだが、そりゃ仕方ないな、といった感じである。投票するにも、各党の特色は見えづらいわ、なによりも、実際に票を投じる、その各党の候補者の人間性が全く不透明である。各党の方針なんかは新聞などで大々的に取り上げられてたり、日曜日の朝番で各党代表が激論してたりで、まだ差別化ができたが、候補者のほうは例のたまに見かける街頭演説以外なんかやってるのか!? などと思わざるを得ない。以前、市議会議員選挙かなんかの候補者演説会みたいなのに出席したが、あんなもんは自分の後援会やら、その党びいきのおっちゃんおばちゃん等くらいしか参加しないだろうし、なにより各候補者のそれにいちいち参加してたらキリがない。また、街頭演説以外に、運が良ければ、繁華街で手をニギニギしながら歩き回ってる候補者に遭遇する機会もあるかもしれないが、あの場でいきなり捕まえて、自分の疑問点をぶつけるなんてできるわけないだろうし、なによりニコニコしながら手を差し出してくる姿には、ややもすればススッと後退りしてしまうような近寄り難い雰囲気がある。絶対ある。
しかし、それだけ不透明ななかで、インターネットによる選挙活動には大幅な規制をかけている。ここに来て、いわゆる永田町のデジタルデバイドってやつだろうか?(-_-;) しかも、その一方で「選挙にお金がかかりすぎる!」なんて論議に華が咲いてりゃ、灯台下暗しもいいとこである。地域によっては、重大焦点を抱えてたりして、テレビなどのメディアの協力のもと、パネルディスカッションみたいな討論会を開いているところもあるが、あまり一般的ではないだろう。そりゃ、まだ親に養われてる身で、世間様に「モラトリアム族」なんて言われる学生身分なわけだから、ひょっとしたら、思わぬところで見落としている「選挙攻略法」みたいなものがあるのかもしれないが、しかし、(自称)まだ政治に関心のあるほうのσ( -_-;)ごとき若輩者に伝わらずして、一体誰に伝えるつもりなんだろう? その選ぶべき候補者の人となりが分からないのに選べっていうのは全くもって無理な話である。経歴や職業なんてものにも全く興味はありません。日本は、「議院内閣制」なのであって「政党内閣制」ではないのだ! σ( ` ´ )達は歯車を選んで国会に送り出しているわけぢゃあない!
そして、これだけ基本的なことがおざなりになっているなかで、国会では、もう選挙制度の見直しに入ってしまったようである(-_-;) 一説によると、中選挙区制の復活みたいなものも、中長期的には視野に入っているらしい。まだ、小選挙区制も100%活かしきれてないのに……。制度そのものに問題はそんなにないだろう!(`´) 問題はそれを扱う側にあるということを何で無視するのか? 政治が有権者のほうを向いていないということを、改めて実感したような気さえする。
さて、ここで冒頭のアメリカ大統領選なわけですが、入念な計略と準備の末の言動であろうが、やっぱり、これから選ぶ予定の人その人の口から自分たちの意見や考え方、行政方針を聞けるっていうのは明解でいいな。しかも、ただのリップサービスで終わるわけじゃなく、それがメディアの発信に乗れば、それは確固とした公約になるのだから。
そして、もうひとつ。就任以来、随分とマスコミに叩かれております、わが国の首相、森喜朗首相でありますが、マスコミの過剰反応や、野党の圧力等、様々な要因を加味しても、やはり勉強不足なのが否めない点が多い。いくら、首相に過度の権力集中を認めない制度であっても、これでは、国の顔として、あまりに情けない(-_-;) そして、それは本人の準備不足にも原因がある、とσ(。・_・。)は思うのである。
アメリカ大統領選に見られるように、国民の厳しい選別眼のもとでは、各候補者とも必死である。自身の主張を強化し、有権者との接触を求めては、他候補者との差別化を行う。約一年近くに渡って行われる、この厳酷な競争のもとでは、まさに弱肉強食、「考えない者」「学ばない者」は負けるのである。そして、その競争に打ち勝った者は、例えば、森首相のような失言をするだろうか? そんなイージーミスはしないはずである。
一方、日本国流議院内閣制に置いては、有権者代表に行政府形成が一任されているとはいえ、時によっては、そこに「公益」の存在しない人事が見え隠れすることは、もはや常識でさえあろう。そういった人事は、ときに、「急」なものである。選ばれる本人にも実は準備するヒマなんてありゃしないのでは? カンと才覚だけでできるほど甘い世界ではない。そして、そういった公を向いていない行政が、後々の莫大な財政の損失、時間の浪費と行政の非効率を招くのである。
結論。先にも挙げたが、制度には罪はない。ただ、そんなに有権者不在の行政が続くようなのなら、もう、「首相公選制」で、せめて国民に選ばせた上で、もっと、「有権者の責任」を目に見える形にすべきでは? そうすれば、責任の自覚と共に、多少はお祭り気分で、国民の政治への関心も向くんじゃないだろうか?
しかし、先進各国で、ようやく市場が消費者を向き始め、ITにより、企業と顧客の距離が縮まってきてるなかで、なんで、たかだか700人ちょいの国会と有権者の意思疎通が取れないんだろう?(-_-;) いつまでも、「経済一流、野球二流、政治は三流」と言われないようにしたいもんだ。(ただでさえ、経済一流が名目化してるのに……)
October.12 (THU) 「世界でも孤独な価値観」
学校の帰り、久々に会った友人の「K」と近所に新しくできた喫茶店で、しばらくダベることにした。
店に入って、まずは注文。σ(^-^)はアイスコーヒー、Kはキリマンジャロである。絶対アイスコーヒのが量多いし、お得やろ、などと思いつつ、話題にあがったのは、つい先日閉会したオリンピック。その中でも中心となったのは、やはり、柔道100kg超級の決勝戦の話だった。篠原×ドゥイエ戦の誤審云々の話である。
あれやこれやと憤慨するσ(;^_^ )に対し、Kが言うことには、
「確かに篠原は試合には負けたけれども、勝負には勝っていたかもしれない。でも、いまの国際社会ではその勝ちを自分からアピールしないということは、即ち自分の負けを認めてるも同じやで」と言うのである。
Kは、つまり、ドゥイエが自国に帰ってから、自らの勝利を再アピールし、山下監督も含めた日本柔道協会に対して批判の声を挙げたことに対し、協会のほうはともかく、篠原本人は「自分が弱かっただけです」と沈黙を守っていることについて言っているわけである。彼はバイトで金を貯めては、休み(自主休講も含めて)に海外を放浪するのが趣味のようなヤツなので、飛行機にも乗ったことのないσ(。・_・。)なんかよりも海外のことについて語る言葉には現実味がある。つまり、言い訳をしない篠原の姿勢は、日本的な価値観では良しとされるが、国際的に見たら、
法廷において反論をしない被疑者も同じだと言うのである。無論、んな意見は断固として認めないσ( ` ´ ) 結局、この話題は両者ともに一致点を見つけることなく終わったわけだが、実際のところ、Kにも確かに一理はあった。
篠原が直接意見をしたところで、果たしてルール上、認められたかどうかという点は置いといて、自分の勝利を信じて疑わない気持ちが少しでもあるのなら、その妨げとなるものを批判し、もう少し真の勝者として堂々としていてもいい、そういう価値観が世の中には存在するのかもしれない。むしろ日本的な「語らず」を良しとする風潮は少数派なのかもしれない。価値観なんて所詮、千差万別で、自分が小さな世界のなかで必死に固執しているものが、ほんの数百km離れた他地域では実は全く別のもので「正しい」とさえ認められないことなど、いまの世の中では決して珍しいことではない。
が、しかしである。確かに、証拠もへったくれも絶対ないという自信のもとで、自分の不利益を主張するようなお人好しは、国際競争のなかでは生き残れないかもしれない。しかし、事この問題に関しては、全く別なハズである。
だって、VTRに残ってるやん! つまり、動かぬ真実というものがあるわけで、そりゃぁ、それに対しても見方は十人十色かもしれないが、少し柔道をかじった人間なら、誰もが分かる「勝ち」である。「言葉」はしばらくすれば忘れられるかもしれないが、「映像」はいつまでも残るのである。つまり、バレるかもしれない嘘を突き通そうとするのは、致命的な構造上の欠点を露呈しつつも、それを必死に隠蔽、結局自らの信頼を失うに至ったバブル崩壊後の日本の諸企業と同じことではないか! 世界を語るなら、尚のこと、これからの時代はそういった不透明さは通用しないハズである。と、やたらと話がでかくなってしまったわけやけど、とりあえずσ(☆☆)はそう思うに至ったわけである。とにかく、篠原×ドゥイエ戦については、やっぱり、納得のいかなかったσ( -_-;)であるが、価値観の難しさについては改めて考えた一日だった。宗教が絡むと、よりややこしいんだろうなぁ。
しかし、しつこいようやけど、ドゥイエは試合で勝っていながらも、終了後、一転負けを認めるって筋書きのが、絶対カッコイイと思うんだけどなぁ。「君との勝負を2分やそこらで終わらせたくなかったんだよ」とか言ってさぁ〜!(≧▽≦)(爆) 絶対そっちのが、ドゥイエの株も上がると思うんだけどなぁ。経営するスポーツ会社の株も……(ぶつぶつぶつ)