過去になる


 
 細くやせたあの男は、いつも現実ではないどこか別の場所を見つめていた。
その目を自分の方に向けて欲しくて、躍起になっていた昔。今は悟りの境地に
至ってる。




「なぁ、兄貴」

 むすっとした顔で弟である春樹が話しかけてきたのは、北川の妻と息子が買
い物へ行くと出ていった直後の事だった。

「なんだ。」

 大分年の離れた弟の顔を見上げながらも、北川の手はせわしなく動いている。
妻に頼まれた洗濯物を畳んでいるのだ。

 春樹はむすっとしたまま北川の隣りに腰を下ろすと、北川の手から洗濯物を
取り上げた。

「何するんだ。」

「話がある。」

 北川の非難を洗濯物ごと放り投げ、春樹は北川の目をじっと見つめた。

 真剣な、目だった。何かを一身に追い求めている、そんな目だ。春樹の目の
向こうで熱い炎が燃えさかっている。

 まるでかつての自分の様ではないか。よく似ていない兄弟だと言われたが、
まさかこんな所が似てしまうとは思いもしなかった。

「一体どうした。」

 そう訊ねながら北川自身、春樹が何を言い出すのか半ば予測していた。かつ
て自分が春樹の様な目をしていたとき、追い求めていたもの。答えはきっとあ
いつが握っている。

「幸田さんの事だ。」

 ゆっくりと春樹が口を開く。ああ、やはりあいつの事なのか。

「幸田さんが、近ごろおかしいんだ。あいつの事ばっか構っててさ…。」

 あいつというのはモモの事だろう。幸田は、モモに懐いている。懐いている
という表現は妙かもしれないが、昔からの幸田を知っている北川にしてみれば
懐いているとしか表現のしようがない。

 きっと幸田はモモが好きだ。そしてモモも幸田が好きだ。二人は相思相愛、
それで万々歳さ。

 北川がそんな事を考えている間にも、春樹はやり場のない怒りを募らせてい
く。

「絶対、おかしいよ。幸田さん、俺の事は絶対見ないのに…。」

 幸田は人を見ない。いや、見ることはあるがそれはあくまで視界に入るとい
うだけなのだ。北川が知る限り、幸田が人を見たのは後にも先にも一度だけ。

「…モモと、できてるんじゃねーの。」

 ボソリと呟くと、春樹はハッと顔を上げた。そして北川を睨み付ける。

「……嘘、だ……。」

 その声は震えていた。けれどここで弟を労ってやるほど、北川は親切ではな
い。

「あいつはモモの事を気に入ってる。それくらい、お前も知ってるだろう。」

「知ってる。でも、それだけだ。」

 できてるなんて信じない。そんな、口調だった。

 春樹の思いは痛いほどよくわかる。幸田がモモを見る目、自分には決して向
けない目を他人に注いでいるのを見た時北川は見なかったことにしてしまいた
かった。

 けれど北川は、春樹の様に若くはなかった。妻もあり、子もあり、世間一般
に一人前と評される男になっている。現実は現実として受け止める、それだけ
の理性があった。

 だが春樹は違う。熱情だけで突っ走る事の出来るまだ年若い雄だ。

「…幸田さんは…」

 何かを言おうとして、春樹は口を閉ざした。それとほぼ同時に玄関の扉が開
く。

「忘れ物したの〜〜。」

 どこか甘ったるい幼児特有の口調で喋りながら、息子は家の中へと入ってき
た。妻の姿は無い。恐らく階段の下ででも待っているのだろう。

「何を忘れたんだ?」

 春樹に向けていたのとは違う、父親の顔で北川は息子に話しかける。その顔
を見て春樹は顔をしかめていたが、そんなものは気にならない。

 息子はタンスに走り寄り、一枚のハンカチを取りだした。先日買って貰った
とかで、ひどく気に入っていた代物だ。

「ハンカチ。」

 にんまりと満面の笑みを浮かべると、息子はそのまま玄関の方へ向かった。
その足取りは、今この部屋に漂っている空気とは裏腹にとても軽やかなものだ。

 そしてあっという間に息子は出ていった。北川は再び閉まってしまった扉を
見ながら溜息をつく。

「俺に言わずに、幸田に言えばいいだろう。」

「幸田さんにはもう言った。」

 ああなんて行動が早い。流石若人だ。自分が年をとってしまったという事実
を噛み締めながら、北川はガラスに映る自分の顔を見つめた。目の横に少しで
はあるが皺が寄っている。

 年をとるはずだ。幸田に出会ってから、もう何年だ?片手じゃ足りないほど
の歳月が流れてしまった。

 それだけの長い間、幸田は少しも変わらないように思えた。だが、実際は違
う。今の幸田は、幸せそうだ。

「俺が口出すべきことじゃない。」

「兄貴だって、幸田さん好きだろ。」

 確信めいた春樹の口調に、今度は北川の方がはっとする番だった。

 だが弟に手玉に取られるのも面白くなく、平静を装って春樹の方を見た。弟
の顔がかつての自分と重なり、目眩がする。そう、春樹は紛れもなく北川なの
だ。

「昔話だ。」

 同様を悟られまいと出来るだけゆっくりとそう言って、北川は再び洗濯物を
畳み始めた。春樹はそれ以上何も言わない。ただ恨めしげな目で北川を見てい
る。

 春樹よ。そんな目で俺を見るな。 

 俺にはもう何もできない。俺はもう、ずっと昔に手放してしまった男だ。本
当は、意地でも掴んでいるべきだったのに。

「行って来る。」

 短く告げると、春樹はそのまま玄関の向こうへと消えた。恐らくまた、幸田
の家へでも行くのだろう。






 
 細くやせたあの男は、いつも現実ではないどこか別の場所を見つめていた。
その目を自分の方に向けて欲しくて、躍起になっていた昔。

 今も、どこかであいつを求めてる。


 教習所、暇だったんです…。キャンセル待ちとか、ねぇ?  久しぶりに高村読んで、書きたくなったのですよ。


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