Canon





「ほら、来いよ。」

 ぶっきらぼうに彼が差し出した手を掴んだ瞬間、僕はあの人の物になった。





「バノッサさぁ〜〜ん、何処にいるんですか〜〜〜。」

 バノッサの名前を呼びながら、カノンがスラムの街を駆け抜ける。それは北
スラムの人間にとって見慣れた光景だった。

 数年前、バノッサが子供を拾ってきた。少女と見まごうばかりの綺麗な少年
は、名前をカノンといった。けれどその名前はバノッサが与えたもので、本当
の名は解らないと少年は云う。もしかしたら名前が無かったのかもしれなかっ
た。

 そんなカノンをバノッサはそれなりに可愛がっていたし、カノンもバノッサ
によく懐いていた。バノッサの姿が長いこと見えないと、カノンはバノッサを
探し回る。その姿は微笑ましくて、心の荒んだスラムの連中も目を細めてカノ
ンを見ていた。


「あ、バノッサさぁ〜〜〜〜ん!!」

 バノッサの姿を見つけたカノンが、バノッサに向かって駆け寄る。けれどそ
の隣りにいる人物を見て足を止めた。

 バノッサの隣りにいたのは、バノッサの配下の人間だった。前にバノッサが
紹介してくれたので知っている。けれどカノンは、どうしてもこの二人が好き
になれなかった。

「よぉ、カノン。」

 カノンを見て、バノッサが軽く声をかける。そしてカノンが顔をしかめてい
る事に気がついた。

「どうしたんだ?」

 何時も笑っているカノンが顔をしかめる事は珍しい。せいぜいバノッサが
悪事を働いている時位だ。

 けれど今、バノッサは別段悪いことをしているわけじゃない。何かを盗んだ
わけでも、人を襲ったりしているわけでもないのだ。

「…ご飯ですよ…。」

 不機嫌そうに言い放つと、カノンはくるりと踵を返しその場を去った。ご飯
だと告げていたのだから、きっと家に帰ったのだろう。しかしあの不機嫌さは
なんなのか。

「…カノン…?」

 呆然とバノッサが呟くが、カノンの姿は既に無し。カノンが何を考えている
のか解らず、バノッサはボリボリと頭を掻いた。










 何なんだ、何なんだ、何なんだ!!!!

 常にと言って良いほど、バノッサの傍にいるあの二人。僕の方が役に立つの
に、何故バノッサはあの二人を連れて歩くのか。考えると嫌になる。

 カノンにっとってはバノッサが全てなのだ。バノッサが黒と言えば、白いも
のも黒になる。バノッサが望めば、何だってする。そうする事でバノッサの傍
にいられるなら、それで良かった。


「バノッサさん…。」

 すっかり冷めてしまったスープの入った鍋を抱えながら呟く。自分にとって
バノッサが全てだけど、バノッサにとってはそうじゃない。それは知っていた
けれど、あの二人を見ていると改めてその事を眼前に突きつけられた様な気が
して嫌だった。

「いっそ、諦めてくれたらな…。」

 バノッサが世界を手に入れるという野望を諦めてくれたらいいと思う。そう
すればバノッサと二人、何処かで静かに暮らしていける。バノッサが諦めると
だけ言ってくれたら、カノンはバノッサの全てを引き受ける覚悟があった。

 バノッサが働きたくないというのなら働かなくても良い。自分が働いて、バ
ノッサを食べさせていく。外見は弱々しい自分だけれど、召還獣の血が入って
るだけあって強いから、傭兵をやるのもいいだろう。けれどそれではバノッサ
の傍にいられないから、やはり樵や狩人にでもなるべきか。

 其処まで考えて、カノンは鍋を床へと投げつけた。板の隙間にスープが流れ
る。

 知っている。自分は知っているのだ。決してバノッサが、世界を手に入れる
という野望を諦めないという事を。二人で静かに暮らしていくなんて、夢のま
た夢…。


「カノン?」

 キィと小さな音を立てて、玄関の扉が開いた。そこにはバノッサが立ってい
る。

「何やってんだよ。」

 転がった鍋を拾いながらバノッサが呟くと、カノンはバノッサに飛びついた。

「バノッサさんっ!!!」

 バノッサの胸に顔を埋めながらカノンは叫んだ。

「バノッサさんっ!バノッサさんっ!バノッサさんっ!!!」

 繰り返し、繰り返し叫び続ける。そうすることで、バノッサを縛り付けるよ
うに。バノッサは不可思議なカノンの行動に戸惑いながらも、カノンを引き離
せないで居た。

「…おい、どうしたんだよ?」

 訊ねるが、返事は無い。ただ狂ったようにバノッサの名前を呼び続ける。

 何かあったのだろうかと思う。しかし、バノッサには何の心当たりもない。
カノンは強いから、喧嘩で誰かに負けたという事もないだろう。それでなくて
も戦闘があまり好きではないカノンだ。誰かに喧嘩を売られたとしても、軽く
流してしまうだろう。

 だとしたら、何が。考えてもバノッサの頭では解らない。カノンは訊いても
答えないし、仕方ないのでバノッサはカノンの好きにさせていた。

 

 
 バノッサの温もりを感じながら、カノンは思う。自分がこの人のものである
様に、この人が自分のものになってくれたならばと。敵わないことだとは知っ
ている。けれど、この温もりが愛おしい。自分のものにしたいという欲望が、
ふつふつとわき上がってくる。

 もしここで、自分がバノッサを襲ったら彼はどんな反応をするだろう。驚く
だろうか。カノンを罵るだろうか。そして、激しく拒絶するのだろうか。

 一緒に暮らしはじめてから随分経つから、カノンはバノッサにそっちの趣味
が無い事を知っている。それどこころか、性的な事にあまり興味が無い様だ。
それよりもバノッサは、切実に自分の居場所を求めている。カノンが、バノッ
サを求めるように。

「バノッサさん…。」

 小さく呟く。するとバノッサがカノンの顔を覗き込んだ。

「気は済んだか?」

 と訊いてくる。その問いにカノンは頷いた。

「ごめんね、バノッサさん…。」

 謝って、カノンはバノッサから身体を離した。名残惜しい気はするけれど、
何時までも抱きついているわけにはいかない。そんな事をしたら、バノッサに
嫌われてしまう。そうなったら最後カノンは自分はきっと生きていけないだろ
う。バノッサだけが、自分の全てなのだから。

「…本当に、ごめんなさい…。」

 バノッサに邪な感情を抱いている自分。謝っても許される問題じゃないけれ
ど、それでもカノンは深々とバノッサに頭を下げた。そのあまりに丁寧な謝り
方に、バノッサは居心地が悪そうに頭を掻いた。







 もしもこの時、カノンが自分の思いを告げていたらどうなっただろうか。バ
ノッサは自分が求められている事に気づき、破滅へは至らなかったかもしれな
い。けれどカノンを拒絶し、救われないまま破滅したかもしれない。それは、
誰にも解らない「もしも」の世界。

 現実にカノンは死に至り、バノッサもその後を追うようにして死んだ。

 もしも。そう、もしもだ。死後の世界というものがあるのなら、彼等はその
世界で幸せになれるのだろうか。

 それも、誰にも解らない「もしも」の話。



 カノン×バノッサでお願いします。(え?)精神的にそんなイメージがある んです。  カノンは、名前からして悲しい響きがある。本来は「基準」という意味の単 語らしいが、私の中では「パッヘルベルのカノン」(きっと誰もが中学時代に 一度はリコーダーで吹いた筈)追い続ける、というイメージがあります。


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