月下氷人



 海へと向かったのはただなんとなく足が向いた、それだけの理由だった。

 もう六月になったとはいえ、夜はまだまだ肌寒い。Tシャツからはみ出した
腕をさすり、半ば震えながら浜辺を歩いた。

 寒いならこんな所にこなければいいのに。自分自身でもそう思うが、来てし
まったものは仕方がない。こうなったらやけくそで、いっそ海にでも飛び込ん
でやろうか。そんな事を考え出した矢先のことだった。

 波のざわめきに混ざって、何か楽器を弾く音が聞こえてきた。

 最初は調整でもしているのだろう。意味を成さない音が途切れ途切れに聞こ
えてきただけだったが、やがて音は一つの流れとなり耳へと飛び込んできた。

 何の曲かは判らない。けれどどこかで聞いたことがあるような曲だった。恐
らくはクラシックか何かだろう。

 しかし、それにしてもこんな夜中に浜辺で演奏とは酔狂なヤツがいたものだ。
一体どんなヤツが弾いているのだろうかと好奇心を刺激され、月明かりだけを
頼りに人影を探した。

 人影は、苦労するまでもなく見つかった。障害物など何もない、だだっぴろ
い浜辺なのだから当たり前だ。それよりも寧ろ今まで自分が人が居ることに気
づかなかった事の方が不思議に思えた。

 じっと、人影を見つめる。こちらからでは後ろ姿しか見えなかったが、月明
かりに照らされたその姿は文句なしにきれいだった。女だろうか?それとも男?
恰好からまだ年若い人物である事は伺えたが、性別までは判らなかった。

 風が吹くたびに、白いシャツの裾がひるがえる。けれどその人物はそんな事
を気にした風もなく、ただひたすらに手にした楽器を弾き続けた。
 
 どれくらい時間が経っただろうか。気がつけば風は止み、演奏も終わってい
た。空も徐々に白んできている。夜明けが、近いのだ。

 時計を覗き込んでみて驚いた。時刻は四時。実に三時間もこの場につったっ
ていた計算になる。そしてあの人物は、三時間もぶっ続けで演奏をしていたの
だ。

 考えるだけで寒気がした。三時間、寒空の下立ちつくしていた自分にも。そ
して、演奏を続けていたあの人物にも。

 ふと、楽器を手にしたままあの人物が振り向いた。陽の光の下で見るその顔
も、やはりきれいだった。そして男か女か性別不詳なのも相変わらずだ。

 どんな態度を取ればいいのか判らなくて、取り敢えずぎこちなく笑って見せ
た。すると向こうからも笑みが返ってきた。その笑みに知らず心が温かくなる。

「すごいな。」

 思ったままの素直な気持ちを口にすると、大したことはないという返答が返
ってきた。その声で漸く相手が男である事に気づく。

 こんなに綺麗な顔してるのに男だったのか。少し勿体ない様な気持ちを覚え
ながら、気を取り直してずっと気になっていた事を口にした。

「でも、何だってこんな所で演奏なんてしてるんだ?」

「何だって貴方はこんな所で演奏なんて聴いてるんです?」

 聞いたつもりが聞き返されて、思わず言葉に詰まった。すると少年はクスク
スと笑い、楽器の弦を一つ弾いて見せた。

「待ってるんです。」

 次々と指で弦を弾きながら、歌うように少年は言った。その顔は楽しげであ
ると同時に寂しげでもあり、見ているこっちまでを切ない気持ちにさせた。

「何を?」

「友達を。」

 そう答えると少年は楽器をケースの中にしまい込み、名残惜しげに海を、そ
して空を眺めた。

 けれど直ぐに表情を引き締めると、少年はケースを担ぎ上げて去っていって
しまった。別れの言葉も、何も残さずに。

 浜辺に一人取り残されて、正直俺は困惑していた。

 あの少年は友達を待っていると言った。だがこんな場所で、あんな時間に?
どう考えても正気の沙汰じゃない。けれど少年が狂っているようにも思えなか
った。

 太陽が輝き始める。そして、俺は気づいてしまった。

 巨大なうさぎがじっとこちらを見つめていることに。

 

 書いてないですが楽器はバイオリンです。どっかでバイオリンだって入れよ うと思ったのですが、普通弦楽器だという事はわかっても、楽器の種類までは 判別出来まいと思って楽器で通してみました。…そんな私は音痴で楽器の種類 もいまいち判りません…。  星兎、結構楽しいです。…突っ込みたくて仕方がない私を、誰か叱って…。


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