龍哭
その部屋は闇に沈んでいた。闇は、暖かい泥のように心地よくもあり、同時に口や鼻を塞いでいるようで苦しくもあった。
その部屋の主は、その暖かく息苦しい闇の中に身を沈めて永劫とも思える刻をただ待っていた。ただ座して待っていた訳ではないが、もはや彼がするべき事は殆ど無かった。賽は投げられ、駒が揃うのを
待つばかりだった。
時が流れて行くのが、頬に感じられるような気がしていた。その感触は、まるで蜘蛛糸で織った薄絹のように軽やかで滑らかだったが、男はそれが正に蜘蛛の糸のごとく絡み付き、あらゆるものを
絡め取る呪縛である事を知っていた。
この地に流れる“時”は、かつて“時”が殺された瞬間から歪み捩れ、全てを萎え枯れ果てさせる力となって世界を覆い尽くしている。
男は微かに首を振り、傍らのテーブルに置かれた黒い鋼の仮面を手に取った。そして彼は、時の愛撫を遠ざけるように、その仮面を顔に当てた。頬を流れる感触が消えたが、時はまだ流れていた。
男は黒い絹の手袋を取り上げて手にはめた。手の甲をなぶるような感覚が消え、滑らかな絹の感触が取って代わった。それでも時はまだ流れていた。男は立ち上がり、脱ぎ去っていたマントを取り上げると
その肩にまといつけ、フードを深く被って一筋の髪すらも覆い隠した。髪を撫でる感触が消えた。
そして時が止まった。
男の無言の求めに応じて、部屋の四隅に暗い緑色の炎が灯り、薄暗い明かりを投げかけた。その部屋は、深く青い石で作られていた。夜の闇のように青いその石には継ぎ目ひとつ無く、所々に散らばる
金粉のような輝きが、まるで星々の合間に立っているかのように錯覚させる。目を上げると、四隅の角は天井まで真っ直ぐには伸びておらず、途中で苦しげに捩れている。それはまるで、この部屋自体が
何かの苦しみに身を捩っているかのようだった。
ただそこに居るだけで、陰鬱な気分に囚われそうなその部屋中にいながら、男は鋼の仮面の陰で満ち足りたような微笑みを浮かべた。事実、彼の魂は恍惚感に包まれていた。彼が仕える神が
すぐそばに居て、一挙一動を見守ってくれているのを、彼は感じた。その悦びは何ものにも代え難いものだったが、その至福の瞬間をただ貪っている訳にいかない事は、彼にはよく判っていた。
不意に、重々しい叫び声が彼の魂を激しく揺さぶった。それは、彼が信頼を寄せる一頭の神龍の咆哮だった。龍の下に“災厄の子”が辿り着いた徴だった。
「……いよいよ、か。閉ざされたこの世にもたらされるのは、災厄か、それとも……」
虚ろに響く声で男は呟き、溜息のような息を漏らした。
「……我が縛め、今こそ解かん。我を妨げんとするものは皆、神も人も呪われるがいい……」
外伝前話<<
戻る
>>外伝次話