狂気の深淵
濡れたような漆黒の石で築かれたその城は、さながら深い緑の海に浮かぶちっぽけな岩礁だった。絶え間なく打ち寄せる深緑の波に削られ続け、今にも海中に没しようとしているその小さな岩の塊が、
かつては堅牢な城壁と城郭を備え、鉄壁の護りを誇った、ある古の都市の変わり果てた姿だった。
その街の名をヘルハンと言う。
かつては活気に溢れたその都市も、いまや住むのは人ではなく野の獣となり、かつての栄華は跡形もない。
黒い城郭の尖塔は時の移ろいによって無惨にも崩れていたが、辛うじて残るひとつの塔の最上階に彼らは居た。
「何を躊躇うか。これより先、至福の千年が貴様を待っておる。――さあ、贄を捧げよ。あの美しく穢れを知らぬ生贄を、貴様の手で穢し壊すがよい」
「……あれは、貴方の贄ではないのか。何故、私が――」
「得たのは我だが、神前に供えるのは我が手でなくとも構わぬ。我が神は、己が為に人が働くことを喜ばれる。我は神の手、我は神の目。我が手の代わりに働く事は、我が神の為に働く事に等しい。
さあ、立って贄を捧げ、貴様の神に仕えるがいい」
そう告げられた方の一人は、微かな苦渋の表情を浮かべてうつむいた。もう一人は、その表情が告げるその男の苦痛と迷いを貪るように味わい、密かな喜悦の表情を浮かべた。そして、止めを刺すかの
ように彼は続けた。
「さあ、仕えよ。我に仕えたと同じに神に仕えよ。行け。貴様の願いは叶えられるだろう」
「…………」
長く重苦しい沈黙のあと、その部屋から一人が出ていき、一人が残った。
やがて、どこか遠くから悲痛な絶叫が響き渡り、残った一人は幽かな笑みを浮かべ双眸を閉じた。
我が贄はあの贄にはあらず。我が真に求むるは――
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