獅子の御子
白い大理石で築かれた白亜の神殿には、至る所に獅子のレリーフが刻み込まれている。鬣の一筋一筋に至るまで精巧に彫り上げられたその彫刻は、その姿を照らし出す炎の揺らめきによって、
まるで生きているかのように脈動して見えた。
これが獅子神ロガールの総本山である。
獅子神ロガールは、神々の戦いの折りに地上の善き動物たちを率いて悪の神々と雄々しく戦った神であり、主タイタンの先兵として、この世にあまねく善がもたらされることを望み、悪を憎む者達から
崇拝を受けている。
そのロガール神殿を預かる最高位の巫女は、頭を悩ませていた。
若かりし日々はとうに過ぎ去り、かつては善き神々の為に戦う為に積んだ修行でも、身体の衰えはいかんともし難い。その代わり、彼女には完成された知性と聡明さが宿っていた。
その輝きには未だ一片の曇りもない。
巫女は頭を悩ませていた。
戦神ロガールの巫女として、彼女は悪の神々の企みを打ち砕く事に生涯を捧げてきた。しかし、彼女は《善》でも《悪》でも《中立》でもない、何かの存在に気付いてしまったのである。
《それ》は、まるで布を食い荒らす虫のように、この世界をじわじわと侵食していた。
《それ》は、《善》や《悪》のように、己が意志に沿わせ、意のままに染めようとするのではなく、本当の意味で『食い荒らし』ているのである。虫に食われた部分は、もはや何の色にも染める事はできない。
それと同じに、この世界に幾つもの虫食いが蔓延り始めているのだった。
奇妙な事に、神々はその虫食いに全く気付くことはなかった。彼女が声を振り絞り、祈りを捧げても、彼女が使えるロガール神はその跡を認める事ができなかった。
ところが、ある時、中立神ロガーンの巫女が現れ、耳慣れぬ《虚無》という言葉を持って、その傷跡を指し示した。――神々さえ気付かぬその傷跡を。
中立神の巫女は、《善》と《悪》は戦い合っている場合ではない、と言い切った。この世界そのものが滅亡の危機に瀕しているのだ、と。
獅子神の巫女は、彼女の言葉に耳を傾け、一部には頷き、一部を否定した。
この世界はもともと善き神々のものであるのだから、この世界を救うのは善き神々の眷属であって、略奪者の悪しき神々の入り込む余地はない、と獅子神の巫女は応えた。
中立神の巫女は、何も応えずに去った。
獅子神の巫女は、《虚無》と名付けられた傷跡を調べ、神殿の総力を挙げて原因の追及に当たった。
そして、ついに《虚無》の力を振るう悪しき元凶を見出したのである。
それは、この大陸の中央に居城を構え、長きに渡りこの世界を睥睨してきた《魔王》ザラダンであった。
今まで、ザラダンは《悪》にも《善》にも組みしていなかった。その理由が今、はっきりと明らかにされたのである。
そして彼女はひとつの決意を固め、厳かに聖戦を宣言した。
この世界を滅亡から救うため、獅子神の代弁者として《魔王》に戦を挑もうと言うのである。
ところが、思わぬ問題が持ち上がった。
それが巫女を悩ませていた。
今まで、聖戦が宣言された事は幾度かあった。主に、悪神に仕える巨大な軍勢が現れた時、地上の獣を統べるロガール神の名において聖戦が呼び掛けられ、人間に限らずあらゆる善き生き物たちが
集って戦いに臨んだのである。
聖戦が宣言されると、必ずその総大将には《獅子王の御子》と呼ばれる人物が選ばれる事が慣例となっていた。
《獅子王の御子》とは、獅子神ロガールがこの世に使わした代行者の事を指し、来るべき争乱に備えて神がこの世に生を授けるとされている。聖戦が呼び掛けられる程の争乱が、全知全能の神の目に
留まらぬ筈はなく、今までの聖戦の折りには必ず《獅子王の御子》が居た。
ところが、今回はその《獅子王の御子》が居ないのである。
正確に言うならば、《御子》は確かにこの世に生を受けているのだが、それが何処にいるか、誰も知らないのである。
二十数年前、この総本山が属する都市で政変があり、その際の混乱の中、生まれたばかりの《獅子王の御子》は行方知れずになってしまっていたのだった。
神権と王権との諍いに端を発したこの政変において、いずれは《神の代行者》としての資格を持つと言われる《獅子王の御子》が計り知れない価値を持つ事は、誰にでも想像が付く。
ともかく、《獅子王の御子》は不在だった。
将を欠いた軍勢が勝利を収められる筈がない。
しかもそれはただの将ではない。神の恩寵の徴たる《御子》なのである。
巫女は頭を悩ませていた。
――神の導きのない聖戦は、果たして聖戦なのだろうか?
獅子神は未だ応えてはくれない。
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