虚ろなる輪舞曲
ハルーダは広大な牧草地の真ん中にぽつんと浮かぶ都市だった。そのなだらかな丘陵には、のんびりと草をはむ牛や羊の姿が見え、幾つもの垣根や木柵がそれらの家畜が離散してしまうことを
防いでいた。
しかし、今はその緑の絨毯のあちこちに無惨な鉤裂きができ、惨たらしい死体が幾つも転がっていた。
火球が炸裂し、兵を薙ぎ倒した。
天から降り注いだ稲妻が、同じように隊列を組んだ兵団の真ん中目がけて空を裂き、唐突に煙のように儚く掻き消える。
お返しとばかりに、矢の雨がその隊列から放たれ、ハルーダへ向かって突き進んでくる敵の一部隊が矢ぶすまになって立ち往生する。
ハルーダは攻められていた。しかも、敵は人間だけではなかった。
上空を、降り注ぐ矢など何ともないように、異形の影が過ぎり弓兵隊を切れ切れに切り裂いた。
ハルーダは、《魔王》の軍勢に攻められていた。
ハルーダを預かる将である男は、自らが陣頭指揮を執るべく、今まさに出立しようとしていた。奇襲を受けて崩れかけた戦線は、魔術師団の投入で何とか盛り返している。
黒い甲冑に身を固めた彼は、副官である若い騎士から愛馬の手綱を受け取った。
「お気をつけて」
「後は任せる。まあ、じきに……」
そう彼が言い掛けた時、目の前が真っ白な光に包まれ、耳を聾せんばかりの轟音がとどろき渡った。光に眩んだ眼を懲らしながら、咄嗟に剣を引き抜いた時、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ヴィド……」
その声はまるで、黄泉から聞こえてくる亡者の声のように虚ろで、寒々しい響きを伴っていた。
閃光が止み、眩んだ視界に戻ってきた光景は、一瞬前とはがらりと変わっていた。
目の前に居た筈の副官は、足下に崩れ落ちていた。身に纏っていた鎧ごと強烈な炎に炙られたかのごとく、黒こげになり目も鼻も定かではなくなった顔が在らぬ方向を見詰めていた。
周囲に居た兵達の絶叫が耳を覆い尽くした。さっきまで、この場にいなかった筈の異形の化け物が5体、恐怖に惑う兵士を貪り食っていた。
その地獄のような光景の向こうに、見覚えのある漆黒の甲冑を身に纏った姿が立っていた。
「レスター……」
その《黒騎士》の事を、彼は知っていた。その男は、親友だった。既に死別した妻の兄だった。そして、今は、彼の命を付け狙う敵だった。
何故、自分が狙われているのか、彼は知らなかった。親友であったその男が、何故、《魔王》の手先となっているのか、彼は知らなかった。しかし、彼はその親友が
《魔王》に魅入られ、己を失っている事を確信していた。そして、必ずやその呪縛から、その親友を救い出す事を、己に誓っていた。
《黒騎士》はいつも通りの虚ろな声で彼に向かって喋り掛けた。
「ヴィド……。――《王子》はどこにいる……?」
その言葉は、彼を驚かせた。今まで、《王子》の話など彼がしたことは無かった。《王子》の事を知っているのは、ごく限られた人間だけの筈だった。《黒騎士》がそれを知る筈はなかった。
「な……」
「答えろ、《王子》はどこだ……? しらばっくれても無駄だ……俺は……知っている……。あの、赤毛の小僧は、どこにいる……?」
「レスター、お前の目的は、このわしではなかったのか」
干上がったような喉から、ようやくそれだけの言葉を絞りだすと、《黒騎士》は陰鬱な声で笑い声を上げた。
「ああ、お前の命が、俺の目的だ……。《王子》は我が主が……求めておられる……」
《黒騎士》はそう言って、鎧を鳴らしながらゆっくりと歩き出した。背中に背負っている大剣をゆっくりと引き抜き、引きずるように低く構えながら、《黒騎士》は威圧するように彼へ迫っていった。
「……さあ、小僧はどこだ……? 諦めろ……あの魔王が、俺に教えたのだ……お前が、《王子》を連れていると……。俺も……お前も……あの魔王の掌の上で踊っているに過ぎん……。
諦めろ……受け入れろ……絶望しろ……魂を捧げ……我が苦痛を……」
凍り付くような冷気が、不意に足下に絡み付いた。《黒騎士》との間合いを引き離そうとしていた彼は、急に足が大地に張り付いたように動かなくなった事を悟った。
「くッ……」
今まで、《黒騎士》がこんな真似をした事はなかった。それ故に、彼は油断していた。その間に《黒騎士》は目前まで迫り、大剣を振り上げた。
「どうした……? 歳か……?」
《黒騎士》は嘲笑った。
面頬の隙間から、苦痛と狂気に彩られた親友の瞳が見えた。そこには、彼の知る親友を伺わせるものは、何一つ浮かんでいなかった。そこに在るのは、全き虚無だった。
彼は恐怖した。
「ヴィド……、我が苦痛を……」
彼が聞いたのは、そこまでだった。
漆黒の刃を持つ大剣が何のてらいもなく振り下ろされ――
――全て、順調に進んでおります、我が主よ。
――よろしい。では、彼の帰還を待ち、次に移りなさい。
――承知いたしました。
報告を受けた魔王は、口唇を歪めて微かに微笑んだ。
――ようやくだ。
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