帰還
その老いた男は、ぼろぼろに崩れかけた大岩の上で、荒い息を無理やりに静め、ぴったりと岩肌に身体を張り付かせた。
耳障りな声が遠くで何かを叫んでいる。その声はたとえすぐ近くで聞いたとしても、何を言っているか判らないであろう。
その声の主は"悪魔"であった。
老いた男は"悪魔"から逃げていた。そして、"悪魔"を使役する者からも逃げていたし、"悪魔"が使役するものからも逃げていた。
心の臓が張り裂けんばかりに痛んでいる。老い衰えた肉体には余りに酷な任務だった。ほぼ大陸を横断するような旅をして、山を越え、目的の地の情勢を探り、再び戻るなど。
だが、彼はなんとしても戻らねばならなかった。
懐かしい故国の今を、なんとしても伝えねばならなかった。
二十年前に失われたその黄金の都市は今、当時と寸分変わらぬほどに美しく蘇っていた。
だが、その美しさとは裏腹に、そこに宿っているのは大いなる邪悪だった。
なんとしても、このことを伝えに戻らねばならなかった。
彼は"悪魔"の気配が遠ざかって消えるまで息を殺し続け、そしてそろそろと身体を起こし、再び険しい岩肌をよじ登り始めた。
指先の感覚がいつ無くなったのか、彼にはわからなかった。腕の痛みはとうに感じなかったし、喉の奥には焼けた砂が詰まったかのような感覚がある。
だから、自分の指先が脆く剥がれ掛けている岩の縁を掴んだことには、まったく気付かなかった。
急に腕が軽くなり、いぶかしい思いをした後、彼は何一つ覚えていなかった。
なんとしても、帰らなくては――
なんとしても――
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