転章
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 藤姫は夢を見ているようだった。
 目を閉じて身体を丸め、時折くすりと微笑みを漏らす。耳を澄ませば穏やかな寝息も聞こえるだろう。
 寒薙はその様子を見守りながら、夢を見ていた。
 かつて、彼がまだ人であったころ、側近く仕え、そして己の力の足らぬばかりに死なせてしまった姫君の(ゆめ)を。
 もう二度と。
 寒薙は強く想った。
 もう二度と、失いはすまい。
 もう二度と、失いはすまい。
 もう二度と……。
 そして寒薙は夢から目覚めた。
 気配が、する。
 誰かが、近付いてきている。
(誰だ……、おれの夢を破るのは……)
 寒薙は傍らの忍刀を掴み取り、ゆっくりと立ち上がった。薄暗い洞穴の中を細々と照らしている灯明の炎が、微かに揺れる。
 きぃ、と膝が鳴った。
「……ん……」
 その気配に気付いたのか、藤姫が微かにうめいて薄目を開けた。
「どこ……行くの……?」
「ここにいろ」
 寒薙は無機質な響きの裏に微かな想いを込めてそう言った。
「誰か、来たの? ……敵?」
 藤姫は、あどけない顔に不安をにじませて、まるで寒いかのように衣を掻き合わせる。
「それを確かめに行ってくる。ヨロイには乗るな」
 寒薙はそれだけを言い捨て、隠れ潜んでいる洞穴から忍び出て行った。
 洞穴の入り口が巧妙に隠されている事を確かめてから、寒薙は音もなく木々の陰の中に姿を溶け込ませた。
 近付いてくる何者かに悟らせぬように用心しつつ、陰から陰を伝ってじりじりと近付く。草を踏む音が聞こえてくる。迷い人 や狩人では有り得ない、足運びとその気配。
 敵。
(敵が来た……)
 寒薙はそっと、手裏剣を六つの手に掴み取り、近付いてくる気配に狙いを定めた。
 気配が立ち止まった。
「おい」
 気配が声を発した。
 寒薙は咄嗟に跳び、木々の梢の中へ舞い上がった。木の葉一枚揺れる事は無かった。
「寒薙……、と呼んでも構わんだろうな」
 気配は尚も語る。
 寒薙はそっと気配の主の姿を盗み見た。
(あいつは……)
 気配の主に、寒薙は見覚えがあった。幾日か前に山中で遭遇した……。
 屍丞である。
 寒薙は努めて気配を断ち、静かに言葉を返した。
「……何をしに来た……」
 そして再び音も立てずに木から木へ、枝から枝へ、そして影から影へと跳び移り、身を潜める。
「……姫は返さぬぞ……」
「そんなものに興味はない……。いつぞやの決着(ケリ)が欲しい」
 屍丞は薄い微笑みを口唇に浮かべ、寒薙の気配を追って顔を上げた。
「来い。おれを殺してみろ。さもなくば、姫はおれが連れ帰る。それでも、いいのか」
「……そのようなまねはさせぬ……、させぬゾ……」
 木々の梢の合間から、寒薙の怨嗟の声が聞こえてきた。
「さ、させぬ、サセヌ……、サセヌ、サセヌ……」
「狂え、寒薙。……来いッ」
 屍丞は一声呼ばわるや、おのれの中の狂気を解き放った。ほぼ同時に黒い旋風が、木立引き裂くようにするどく迫る。
「サセヌゥゥゥゥッッ」
「うぉおおおおおぉッ」
 屍丞は咆え、迫る殺気に向かって太刀を振り下ろした。
 手応えは、まるで黒い霧か霞を斬ったかのごとく、何もなかった。かわりに、鋭い鉄の爪が全身を引き裂いた。
 寒薙の爪である。
「……ふふ」
 屍丞は全身に走る熱い痛みが引いていくのを感じながら、笑いを漏らした。
 身体の内の蟲が、傷の多さに耐えかねて力尽きるのも、じきだ。
(今度こそ、終えることができる)
(空虚な時間を終えることが)
(だがな、寒薙。おれは素直に殺られはせん)
(あいにく、おれには斬ることしか、できないんでなァッ)
 屍丞は、それきり考えることを止めた。
 黒い影を斬ること、それだけが心を占めていた。
 いくつもの白刃のきらめきが、視界をよぎった。
 忍刀を弾き返す。新しい傷が生まれる。金剛機の右腕をひとつ斬り落とす。目の下の肉を、爪がえぐり取っていく。
「……」
「……」
 狂気にとりつかれた二人は、呼吸を整えるために睨み合った。
「………ル」
 言葉が耳元を行き過ぎる。
「……ゼ……ニ……ガル」
 ヤツが何か言っている。聞きたくない。聞こえたら、狂気が醒める。
「ナゼ、ソウ、シニタガル」
 何故、そう、死にたがる。
 ヤツはそう言っていた。
(何故)
(何故、おれは)
 屍丞は、急速に引いていく戦意に、爪を立ててしがみつきながら、死に物狂いで太刀を振った。
 黒鋼の腕と刃が噛み合って火花を散らす。
「その命、いらぬのならば、おれにくれ」
 真摯な口調で寒薙はそう言った。
「なに……」
「お前の命をおれにくれ」
 寒薙は、まるで囁くように言い、そして掻き消えた。
 寒薙という支えを失い、体勢を崩した屍丞の耳に、鈍い斬撃音が届いた。鮮血が頭上から降り注ぎ、嗅ぎ慣れた血臭が濃く漂う。
 どさ、と目の前に、四肢を引き裂かれた忍装束の男の骸が落ちた。
 何かが空を裂く音に咄嗟に身を屈める。
 微かな風が頭上を通り過ぎ、木の幹に当たって、かかかっ、と音を立てた。
 ふと脳裏に、木津屋の主の柔和な顔がかすめた。
(もろとも、葬り去るつもりか)
 背後から襲い来る別の忍びを反射的に斬り伏せ、屍丞は微笑んで、再度の狂気に身を委ねた。
 赤く霞んだ視界を、虚ろな目で見る。
 口唇に浮かんだ微笑が、悪鬼のごとく歪み始めた。

(誰でもいい)
(おれを、止めてくれ)
(死ぬことを恐れ、そして恐れるあまりに、死ぬことができなくなった、このおれを)

(……そうさ、あんたは怖がりなんだ)
 身体の内の誰かが再び囁く。
(あんたには、命を捨てる度胸も無ければ、魂を捨てる度胸も無い。いわんや、体を盗られる事まで恐れてる)
(もう、あんたの肉体は、半分あんたのもんじゃないのにな)
(何度も言っただろう)
(あんたは、ただの意気地無しなのさ――)

 返り血にまみれて、屍丞は咆えた。
 哀しい絶叫であった。



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