第九話
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「失礼します」
慇懃な言葉と共に入ってきた金髪の女秘書は、生真面目な仮面のような表情を浮かべたまま一礼し、小脇に挟んでいたホルダーから書類を取り出した。これは、毎日定例のことで、何ら珍しいことではない。
マスクラットは秘書の整った顔立ちと首筋のあたりを眺めた。その美が、造られたものだと知っている彼にとって、それは欲望の対象とはなるものの、愛情の対象とはなり得ないものだった。
「新参者が、図に乗っているようですわ」
真新しい紙の束をデスクの上に置き、ほつれた髪を掻き上げながら言う秘書の言葉に、マスクラットは口を大きく歪めて笑いながら微かに頷いた。
「ああ。お陰さまで、無能な部下の選別ができた。……高い授業料だったな」
言葉も笑いを含んでいたが、その目は決して笑っていなかった。冷ややかな緑色の目には紛れも無い怒りが浮かんでいる。例の部下は、事態を収めるどころか拡張を許してしまったようだ。
「……承知いたしました」
女秘書はマスクラットの言葉の裏にある指示を汲み取り、軽く一礼するとオフィスを出て行った。あの女秘書は、いつもオフィスでマスクラットの傍らに控えているが、その実体は腕利きの殺し屋だ。普段はマスクラットのボディガードを務めているが、何かあれば一声で獲物の首を狩ってくる猟犬へと変貌する。無能な部下の首など、それこそ瞬く間に吹き飛ばしてくるだろう。
彼は幾分気分を良くして、秘書が置いて行った書類に目を通した。それは、彼の仕切るテリトリィでの闇帳簿の一部だ。ドラッグの売り上げの落ち込みは、全体から見れば微々たるものだが、放っておけば組織の威信に関わる。それが判らない部下など、組織には必要ない。
「……?」
マスクラットは帳簿に並んだ、一見無意味な数字の羅列に違和感を覚えて身体を起こした。今日の数値に、異常が見える。
無言のままのマスクラットの緑色の瞳が、すうっと細まった。
この数値の乱れは、新参者の販売方針に何らかの異変があったことを意味している。ドラッグの客層を変えたか、捌き方を変えたか、何を変えたかは詳しく調べねば判らないだろうが、縄張を荒らしている立場の連中が今までの方式を切り替えて挑んでくるとは考え難い。こっちが既に動き出していることは連中も知っているはずだ。この時期にヘマをしでかせば、根こそぎあの世行きになることぐらい、判っている。
無論、それは考え過ぎかもしれない。だが、考え過ぎたからと言って、しくじるような事は何もない。それに、彼の勘が、何かがあった、と告げてならなかった。
「……誰だ?」
微かに面白がるような口調で、マスクラットは呟いた。微かに鼻がひくついた。それはまるでネズミのように、その見えない誰かの匂いを嗅いでいるかのように見えた。
何者かが、このドラッグ競争にちょっかいを出している。そのちょっかいで、連中はアプローチの変更を余儀なくされているに違いない。
「つくづく、面白いヤツがいるねぇ……この街にゃ」
自分の目の届かない所で好き勝手振舞おうとするその連中に思いを馳せ、密かな怒りを心の奥に淀ませながら、マスクラットは再び呟いた。同時に、頭の隅ではこのトラブルを如何にして乗り切り、そしてそれをどうやって更なる高みへ這い上がるための踏み台へと変えるか、目まぐるしい計算が始まっていた。
(そう、これはチャンスなのだ)
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