第七話
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 しばらくそのまま黙り込んでいた彼女は、やがて身体を起こし、軽い口調でぽつりと呟く。
「……アンタ、面白い人だね。アタシの言ってるコト、信じるんだ」
 そして、軽い微笑みを浮かべて、ほつれた髪を掻き上げた。
「普通、頭がおかしい子なんじゃないかって、思わない?」
「いや……」
 思わず反射的に、彼はそう応えた。
「本当に天使がいたって、ちっともおかしくねぇと思うよ。……人の中にだって、悪魔みてぇな 連中はいっぱい居るんだ。さっきの連中みたいな、な」
 励ましではなく、本気だった。
「……あいつら、何者なんだ? あんたの正体、知ってる風だったけど……」
「判らない……。でも、アタシのこと、殺さなきゃいけない、って……」
 彼女の言葉の最後はくぐもって、聞き取ることはできなかった。
 肩を丸めて震える天使の姿を見詰めながら、彼は彼女に聞こえないような小さな溜息を ついた。
 ――この娘は、俺と違う。帰りたくないんじゃない。帰りたいんだ。
 夕方会った兄の台詞が、不意に脳裏に甦った。
『揃いも揃って心配してやがる。おめでたい職場だな』
 帰る場所が有りながら、いつでも受け入れてくれる場所が有りながら、自分がただ帰りたくな いだけで帰らない俺とは違う。帰りたくない俺がいつでも帰れて、帰りたいと心から望んでいる 彼女が帰れないなんて、馬鹿な話があるだろうか?
「……帰りたいんだろ?」
 そう彼が尋ねると、天使がびくっと身体を震わせたのが判った。
「手伝ってやるよ、帰り道探すの」
 慎二は励ますように天使に笑いかけた。天使はきょとんとした顔付きで彼の顔を見返した。
「どうして? だって、アタシは……」
「あー、それ以上言うな。説明すんの、面倒臭い」
 顔をしかめ、髪を掻きむしる仕草でごまかそうとする慎二に、天使は強く首を振った。
「違うわよ。そんな事聞いてるんじゃないわ。アタシと一緒にいると、アイツらが来ちゃう、って 言ってんのよ! 聞いてたでしょ、アイツら、次は手加減しないわよ」
 精一杯脅かすように天使は言ったが、今度は慎二の方がきょとんとした表情を浮かべて彼女 の顔を見返した。
「だから、あいつらが来る前に、帰り道探せばいいんだろ?」
 天使は言葉を失った。
「なんで……? なんでそんなにしてくれるの……? 危険だし、無駄かもしれない。それなの に」
 慎二は困ったように頭を掻きむしった。
「だから、説明すんの面倒臭いって言ったんだ……。あー、んーとな。俺もな、今、訳あって家 に帰ってねぇの。だから、あんたの気持ち、少し解るんだ。そんだけ」
 言葉を切っても、天使の追求するような視線は止まなかった。慎二はもう一度頭を掻き、まる で崖っぷちに追い詰められたような怯んだ表情を浮かべて、仕方なく言葉を続けた。
「……俺、色々と他人に迷惑しか掛けられねぇ人間なんだよ。周りの人に、一杯迷惑かけてきた。 だけど、みんな嫌な顔ひとつしねぇで、俺が居ること許してくれた。……だけど、そのままそこに 居たら、俺、そうやって甘えて生きるしかできなくなっちまうような気がするんだ。俺って、結構 ダメな人間だからさ。はは」
 ごまかすような乾いた笑いを漏らし、慎二は天使の顔から目を逸らした。
 ――何で、こんなことを話しているんだ、俺?
「何だか、話が逸れちまったな。俺が言いたかったのは、あんたは俺みたいにダメな人間…… じゃなかった、あんた天使だっけ。とにかく、そういうヤツじゃないんだからさ、大手を振って帰る 権利があるって……。ああ、何喋ってんだ、俺」
 しどろもどろになった慎二に、天使は優しい微笑みを浮かべて首を横に振った。淡い金の輝き を持つ髪が風もないのにふわりと舞い、碧い瞳で彼の事を見詰めながら彼女は立ち上がった。
「アンタ、優しいんだね。ありがと。全然ダメじゃないよ。……あーあ。天使が人間に励まされる なんて、前代未聞の話よね。アタシこそダメ天使じゃん」
「そうか? アンタ、自分で思ってるような天使じゃないよ。さっきのサラリーマンの事、本気で 心配してたじゃないか。それに、俺を巻き込んだら悪いと思ってる。だから、さっきからさんざん 俺を追い払おうとしてる。そうだろ?」
 そして慎二は、真面目な口調で天使に向かって言った。
「なぁ。……本当に飛べないか、確かめたのか? 出来ることの証明は簡単だけど、出来ない ことの証明は難しいんだぜ?」
 なんだかよく判らない喩えを持ち出した慎二の言葉に、怪訝な顔付きで天使は首を傾げた。 そんな彼女に向かって、彼は歯を見せて笑いかけた。
「もっかい、やってみようぜ。それに、あんたが落っこちてきた場所なら、まだ空に穴でも開いて るかもよ?」



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