第八話
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「こんなとこに落ちてきたのか? もうちょっとキレイなとこに落ちればよかったのに」
コンクリート剥き出しの上、あちこちに鉄骨やらセメントの袋やらが積み上げられている建物
の屋上で、慎二は呆れ半分に天使に向かってそう言った。
建設途中で工事が中断されたとおぼしき、地上二十階建のビルである。外壁の塗装も終わっ
ておらず、肌寒い感じがする。
「多分、ここらで一番高い場所だから……」
天使の自信なさげな声が告げるとおり、このビルよりも高い建造物は、このあたりにはない。
遥か遠くに、キラキラと光る高層ビルが見える。
「せめて、あっちとか。……でも、あっちだったら、こんな時間に忍び込めねぇか」
時刻は既に十一時を回っている。
――兄貴の仕事、見に行けなかったな。
ふとそんなことを思ったが、慎二はとりあえずそれを脇へ除けて、天使の方に向き直った。
「やってみ。飛べるまでは付き合ってやるから」
「……うん」
翼を失くした天使は、はにかんだような笑みを浮かべて頷き、積んである資材を足場にして、
この屋上でも一番高い、東屋らしき骨組みの上によじ登った。緊張した面持ちで夜空を見上げ、
何かに集中するような、そして祈るような仕草で、手を胸の前で組み合わせる。
その時、慎二は僅かな物音を捉えて、眉を寄せた。
――足音?
微かでまばらなその音は、確実にこの屋上へと近付いてきている。
――警備員? いや、そうじゃない。
彼の勘が、違うと告げている。頭の端を、感情を無くしたような男の顔がかすめた。
次に邪魔をすれば命は無い、とご丁寧に忠告をくれたあの男。
天使はまだ気付いていない。手を胸の前で組み合わせたまま、じっと空を仰いでいる。
慎二は東屋の屋根に登る足場の前に陣取り、この屋上へいたる階段の出口をじっと睨み
付けた。
足音が少しずつ大きくなってくる。天使はまだそこにいる。
三人……、四人……、いや、それよりも多い。正確なところは判らないが、それも直に判る
ことだ。
――そう、嫌でも判るさ。
慎二は口元を歪めて笑みを作り、階段の出口をじっと睨み続けた。
そのぽっかりと空いた口に、影が揺れた。
「……呆れた小僧だ。次に邪魔をすれば命はない、と言った筈だ。死にたいのか」
聞き憶えのある声が聞こえた。
ありふれた服装も、無機質な表情も、片手にぶら下げた手製の槍も、記憶の中にある通りだった。
影の正体は、やはり天使を殺そうとしていたあの男だった。
「……」
慎二は何も応えなかった。
屋上へ歩み出てきたその男の後ろに、六人ばかりが続く。さっきの路地で出会った三人の
他に、知らない顔が三人。しかし、そのそれぞれが物騒な代物で武装していることに変わりは
ない。
「ダメよ、アンタは逃げて」
頭上から切羽詰ったような天使の声が聞こえた。慎二は振り返らずに、言い返した。
「それじゃ、あんたが殺されちまうだろ」
「それじゃ、アンタが死んじゃうよぉ!」
天使は泣き出しそうな声をしていた。
「……そう思うんなら、さっさと帰れよ。俺は、『あんたが帰るまで』、付き合うって言ったんだぜ」
視界の中で、七人の男達が散開する。その真中で鉄パイプの槍を持った男が、槍を無造作
に両手に持ち直しながら、微かな興味を宿らせた目で慎二のことを見詰めている。
「あくまでも、邪魔をすると言うのだな」
「邪魔なんかしてるつもりはないぜ。ただ、少しだけ待ってくんないかな。彼女が飛べるまで」
「待てんな。地に落ちた天使は、魔界に堕ちる前に始末せねばならん」
男は槍の切っ先を低くして身構えた。同時に他の六人がじわりと輪を狭める。
「……見かけによらず、せっかちなんだな、あんたたち」
慎二はワザと大袈裟な溜息をつきながらそう言って、警戒を緩めずにゆっくりと天使を振り仰
いだ。心配気な天使の視線を受け止めて肩を竦め、苦笑いを浮かべながら彼は言った。
「待ってくんないってさ。急いでくれよ」
「危ないッ!」
視界の中の天使の顔が急に青ざめ、耳に彼女の叫び声と、コンクリートを蹴る足音が入った。振り返り、
足音の主に向かって反射的に左の裏拳を叩きつける。手応えが返ってくるのと同時に、鈍い
痛みが肩に走った。
慎二に飛び掛った男は、慎二の拳を顔面に受けてぐらりとよろめき、膝をついた。右手に握っ
ていた重たげな鉄棒を取り落としかけて、堪えている。
鈍器で殴られた肩は確かに痛むが、別に耐えられないほどではない。
――相変わらず、洒落になんねぇもん振り回しやがって。
慎二は心の中で悪態をつき、右から斬り掛かってくる、あの切れ味の悪そうな刀剣使いの
一閃を大きく跳び退ってかわす。
跳び退った先に突っ込んできた別の男が振り回す大型の釘抜きを片腕で薙ぎ払い、渾身の
力を込めた右の正拳を相手の肩にぶち当て、殴り飛ばす。男の手を離れた釘抜きが宙を
飛んで屋上の縁を越え、夜の闇の中に消えた。
その時、強烈な殺気が吹き付け、慎二は総毛だった。殺気の主が何であるかを知るためと
言うよりも、墜ちた天使を守るためと言うよりも、自分の身を守る為に彼は弾かれたように
振り返った。
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