第十一話
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早朝。白っぽく色褪せて見える街を、傷付いた右脚を引きずりながら慎二は独りで歩いていた。
天使は空に帰ったが、自分には行く当てもない。
脚の傷も掌の傷も、自分なりの手当ては済ませている。医者に行くのは面倒だった。
早朝の繁華街は、ゴミだらけに見え、ひどく汚れて見えた。ゴミ捨て場に群がるカラスが、野良猫
と喧嘩をしている。酔いつぶれた浮浪者が、路肩でいびきをかいている。
その時、ふと、脇道から現れた見覚えのある人影が、慎二に気付いて片手を上げた。
「……よぉ、早いな、お前。何やってんだ?」
眠たげな顔つきで、眠たげな声で、そう言いながら近付いてくるのは、兄の誠一だった。
「……何やってんだ、は俺の台詞だっつーの。また帰らなかったな、兄貴」
「お? お前は、ナイスバディの女の子が誘ってくれてるのを、無視して帰るような、無作法者なの
か? それは可哀想ってもんだろ」
のうのうと言い放つ兄の台詞に頭を抱え、慎二は大袈裟な溜息をついた。
「いい加減、なんとかしろ、その女遊び」
「へぇえ? 昨夜、見に来なかったお前に言われたくないなぁ。あの後、あの娘と一緒にいたんだ
ろ? この心優しい兄上サマの好意を無にしやがったな、このバカ」
へらへらと笑いながら言う誠一の言葉には、額面どおりの棘はない。誠一はわざとらしい仕草で
腕を組み、弟の頭の先から脚の先までを見回した。
「……しっかし、満身創痍、ってカンジだな、慎二。昨日の連中、そんな物騒だったのか?」
慎二は自分の身体を見下ろした。右脚の傷は上からバンダナをきつく巻き付けて隠しているが、
スボンに飛び散った血の微かな染みまでは隠せていない。左手の傷には途中で買った真新しいハンカチ
を巻きつけてあるし、脇腹をかすめた傷は見えなくともTシャツの破れ目は隠しようがない。額の
上の切り傷は、出血は止まったものの、新しいことは誰の目にも明らかだった。
慎二は昨夜の出来事を思い出して苦笑いを浮かべ、はぐらかした。
「ちょっと、な」
「そんなんじゃ、ロクなお付き合いできなかったろ。……もったいねぇなぁ、あんな美人」
「……」
慎二は上目で誠一を睨み、ふと、自分が天使の顔を憶えていないことに気がついた。
瞳の色も髪の色も変わり続ける彼女の姿は、何故かぼやけて見える。
同じように、彼女を追っていた男たちの顔も、はっきりとは憶えていなかった。
目の前でしきりとカワイイを連発する兄の言葉は半分以上信用できない。自分の気を引いた以
上はカワイイものだと思い込んでいるフシがある。
この世ならぬものは、憶えておけないのかもしれない。
――そんなものか。
「……で、あの娘どうしたんだ?」
誠一の問いに、慎二は余計なことを喋らないように気をつけて、短く一言だけ応えた。
「帰った」
「ふぅん……」
誠一は途端に興味を無くしたような呟きを漏らし、背伸びをする。興味を無くしたというよりも、最
初から興味など半分以上無かったに違いないが。
「ま、どうでもいいか。……で、お前もいい加減、帰ったら?」
「え」
慎二は意外なものでも見るような目で、誠一を見た。誠一は普段、他人を気遣うような台詞は滅
多に吐かない。
「どーせ、行くあてもねぇクセに」
そう言って誠一は意地の悪い、人をバカにしたような笑いを浮かべて見せた。
その笑いが本音なのか、それとも本音を隠すための取り繕いなのか、慎二には判別がつかな
かった。どっちにしても、台詞の内容は事実であったし、それが痛いほど判っている今は、怒る気
にもなれない。
「……そうしとく」
慎二は呟くように言って頷いた。
帰る場所があるうちに帰らなければ、自分の居場所はいつか本当になくなってしまうだろう。
「よし、素直でよろしい」
誠一は微かに頷いてそう言ったかと思うと、突如、慎二の胸板を拳で殴りつけた。
外傷は無いとは言え、胸は痣だらけだ。慎二は痛みに身体を竦ませ、そして怒鳴り声を上げた。
「……ッ! 痛ってェな、何しやがんだ、この、クサレ兄貴!!」
が、誠一は涼しい顔で慎二の顔を一瞥し、当然のような口調で言うだけだった。
「朝メシ奢れ。迷惑料だ」
「は?」
「家出の、迷惑料。人に心配かけるんじゃねぇよ。それと、昨日のチケット代」
誠一は慎二が何かを言おうとする前に、図体ばかり大きな弟を横目で睨み、言葉を継いだ。
「勘違いすんな。俺がお前の心配したわけじゃねぇぞ。お前なんか、殺したって死ななそうだから
な。んなこたぁ充分判ってる。他の周りの連中のことだぞ」
「……それをなんで、兄貴にメシ奢らにゃならんの」
「決まってんだろ。そんなバカな弟がいる、なんて評判は俺には相応しくない。そんな肩書きを
この俺サマに押し付けやがって。だから、朝メシ奢れ」
「……」
慎二は誠一の勝手な言いぐさに、がっくりと肩を落として溜息をついた。
「いつまでもふらふらしてるいい加減なロクデナシの女たらしの遊び人の兄貴持った俺の立場は、
どうしてくれるんだか」
「ん? 何か言ったか、慎二?」
「なんでもねぇ!」
首の後ろを掻きながら慎二は応え、誠一の顔に目をやった。
本人にその気があったかどうかは判らないが、昨日からの他愛ないやりとりで、幾分気が楽に
なったのは紛れも無い事実だ。
――ここは素直に兄貴に感謝しとくか。
慎二は身体を起こし、誠一に向き直った。
「……分かった。朝メシ奢る。その代わり」
急に慎二の瞳に悪戯っぽい光が灯った。誠一は、悪い予感を覚えたが、取り消すには手遅れだ
った。慎二は誠一が逃げ出す前に肩に手を置き笑い掛けた。
「チケット代は二万だったよな。……二万円分の朝メシが食えるなら、食ってもらおうじゃないの。な?」
終
あとがき
『ほんの些細な〜』と同じシリーズでございます。
主人公が前作と少々違って見えるのは、彼の心境の変化とご理解下さい。
無謀とも言えるくそ度胸だけは同じですがね(笑)。
若さゆえの『幼い』苦悩を、ありがちに書いてみました。
前回の後書で触れた、兄弟の兄が出て参りました。
まあ、あんなロクデナシ兄貴です。……痛ッ。
(ちゅうか、ゲーマー日記参照?)
『ARRS MYSTIC PUNK』らしく、非人間がようやっと登場です。
そういった代物にも驚かない、鈍感でアホな主人公ですが、見捨てないでやって下さいませ。
ご意見ご感想などは、意見交換ノートへよろしくお願いいたします。
一応次回も更に続編です。
前作が1999年6月上旬。今作が1999年7月。次作は大幅に飛んで、2000年3月という背景です。
またまた、この馬鹿主人公の別の側面を描きますです。
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