第一話
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仕事場の扉は開いていた。
厳密に言えば、扉の鍵が開いていた。
ノストラダムスの予言で有名な1999年7月に発生した大震災で崩れなかったのが奇跡と思えるような、古い小さな五階建てのビルの四階に、その仕事場はある。薄暗い照明に照らされた、人一人がやっと通れるような狭い階段を登り、踊り場から一歩分の通路に踏み出すと、塗りが剥げかけ、所々錆びの浮いた握りのついた扉がある。
それがその仕事場の扉だった。
古びた建物によく有りがちな擦りガラスの扉には、急場凌ぎで作られたとおぼしき、紙製の表札がセロテープで貼り付けられており、そこには何の装飾もない明朝体の黒い文字で『緋ヶ崎探偵事務所』と綴られている。
その扉(というよりも通路)を塞ぐように立って、鍵の開いている扉を見詰めて何やら思案している男が一人いた。
身長はおよそ2m。ぶ厚い胸板や背中、太い腕や脚から察するに、体重は3桁を上回ると思われる巨漢である。
黒い髪と黒い瞳、黄色い肌から判るとおり東洋人、しかも日本人であることは明らかなのだが、その体躯は日本人離れし過ぎていた。現に、この狭い通路にまるで詰まっているかのような錯覚さえ覚える。長く伸ばした髪型も、
おしゃれというよりも無頓着の結果に見えるし、着ているものも、Tシャツと洗いざらしのジーンズにラフなジャケットと言う、動き易さと廉価さで選んだと思える取り合わせだった。
この人物が、この仕事場の主、つまり『緋ヶ崎探偵事務所』所長兼事務員兼雑務兼以下略の緋ヶ崎慎二である。
この常人離れした体躯からは想像できないような、どこか幼さの残る整った顔立ちをしており、所長という肩書きに似合わず年は随分と若く見えた。尤も、その整った顔立ちも若さも、岩の塊のような両の拳や、剥き出しの逞し
い二の腕に走る傷痕で相殺されていて、近寄りがたい威圧感を周囲に与えているのは否めない。
確かに、鍵の開いた扉の前で大男が困惑している姿というのは滑稽さがあって可愛げがあるかもしれないが、彼の場合は、何か気に食わないことでも見つけたかのように見えた。
しかし、実際のところ、彼はただ困惑しているだけだった。
昨日は確かにこの扉には鍵を掛けたはずだった。窓の鍵を閉めたかどうか記憶は定かではないが、扉の鍵を閉め忘れるようなことは無い。そりゃあ確かに、こんなちゃちな扉の鍵ならものの数分で開けてしまえるような手先の器用なヤツは、知り合いにもいるぐらいだから世間には山ほどいるだろうが、だからと言って、こんな寂れ果てた事務所に空き巣に入るような馬鹿はいるまい。現に、この事務所に金目のものなど置いていない。……営業妨害か? しかし、今手掛けている依頼など無く、過去に受けた依頼に関する書類や資料もここには無い。何たって、まともに来た依頼なんぞ、今年の2月に開業してからたったの1度しか来ていない。もう少しまともに宣伝行為でもしなけりゃ、日照っちまうかな。いや、今はそんなことが問題なんじゃなかった。そう、掛けたはずの鍵が開いていること、そいつが問題なんだ。
彼は微かに目を細めた。自分では気付かないうちに、片眉がぴくりと動く。
じゃ、この鍵を開けたヤツは、何が目的だ? 正当な理由なんかないだろう。どうせ悪意か害意でやったに違いない。心当たり? ……ンなもん、山ほどある。
彼の口元が微かに歪んで笑みを作った。
じゃ、考えても仕方ねぇな。
そして彼は扉のノブに手を伸ばした。
この扉の鍵を開けたヤツが害意を持って、未だにそこにいるのなら、とっくに自分に気付いているはずだ。今更回れ右をしたところで、また別のところで同じように待たれるだけ。それなら、今その面を拝んでやるのが手間も省け
て丁度いい。
この決断は、彼がこの扉の前に立ってから、きっかり16秒後のことだった。
が、その彼の決意は、ものの見事に裏切られた。
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