第ニ話
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 薄い扉をいつも通り乱雑に開いた緋ヶ崎が目にしたのは、いつも通り必要最低限の備品以外何も無く殺風景な事務所の風景と、その数少ない備品の中でも一応資金を割いているつもりの応接セットで丸くなって無防備に眠 っている制服姿の美少女の姿だった。年齢の頃は中学生程度、栗色の長い髪に、驚くほど綺麗で自然なカールを描いた睫毛をしている。形のいい眉に、小さな鼻。唇は桜色で、丸い頬もほんのりと同じ色に染まっている。
 それを見た緋ヶ崎の反応は真っ当なものだった。まず言葉を失い、次に当惑してこめかみのあたりを人差し指で掻いた。そこまでは真っ当な反応だった。
 その後が少々常人とは違っていた。
 続いて、彼は眠っている美少女におもむろに近付くと、その眠っているソファの脚を蹴り飛ばした。これが美少女中学生に対する扱いであろうか。
 がたん、と合皮張りの安物のソファが揺れた。無論、力の加減はしている。彼が本気で蹴り飛ばせば、実際は揺れるどころでは済まない。
「ひゃっ」
 安らかな眠りを乱暴に妨げられた美少女は、小さく叫んでソファから転げ落ちた。緋ヶ崎は、転げ落ちて目を覚ました美少女を冷めた目で追いながら、うんざりしたような声で言った。
「何でお前がここで寝てる」
 床に転げ落ちた美少女は起き上がり、自分を蹴り起こした男の姿を目に留めるやニッコリと微笑んだ。
「あ、おはよう。――ん、おはようの、キ・ス」
 そう言って目を伏せ唇を突き出した姿は、下手な女性誌のモデルよりも可愛らしく、危うく、儚げで、妖しい魅力に満ちていたが、緋ヶ崎は意にも留めなかった。
「何でお前がここで寝てるんだ、ユカ。ここはホテルじゃないんだぞ」
 このユカという名の少女は、彼が日頃世話になっている人物の縁者で、そう邪険に扱うこともできない。彼女が襟首を掴まれて放り出されずに済んでいるのは、単にそのおかげだった。本音を言えば、そうしたいところだ。
「判ってるわよぉ。ホテルだったら、そんな起こし方しないもんね」
 ユカと呼ばれた女学生は微かに下唇を突き出し、不服そうな表情を作ってそう答え、気だるそうな仕草で立ち上がると迷惑そうな表情の緋ヶ崎を尻目に、事務所の隅に備え付けられた冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取リ出した。そのミネラルウォーターが、この事務所の備品のひとつであることは言うまでもない。
 ユカは慣れた手つきで電子ポットにミネラルウォーターの中身を空け、勝手知ったる何とやら、コーヒーカップ、スプーン、インスタントコーヒーのボトルにシュガースティックを、それこそ魔法の様な鮮やかさで揃えて並べ出し た。1セット並べ終えたところで、彼女は初めて気が付いたように緋ヶ崎を振り返った。
「あ、慎ちゃんもいる?」
「『いる?』じゃねぇだろ。人ン家のモン、勝手に使うな!」
「いいじゃない、減るもんじゃなし」
「水とコーヒーと砂糖と電気と、俺の気力が減る。ついでに洗う時の洗剤と、時間と、俺の労力もな!」
 腹立ちまぎれに難癖つけようと緋ヶ崎が並べ立てると、
「図体デカい男のクセして細かいこと気にしちゃダーメ」
 ユカはころころと笑い声を上げ、少しも気にせずにもう一人分のコーヒーカップを戸棚から取り出した。
 緋ヶ崎は、まるで頭痛でもするかのようにこめかみを指で押さえつつ横目でユカを睨み、ユカが本当に何も気にしていないのを見て取ると、やがて諦めたように嘆息し、肩を落とした。
「……そのコーヒー飲んだら、さっさと帰れよ。夕べ、帰ってねぇんだろ? きっと心配してるから」
「うん、ありがと」
 ユカは緋ヶ崎の許容に可愛らしく微笑み、制服の胸ポケットから小さく折り畳まれた紙きれを取り出した。
「はい、優しい慎ちゃんに、プレゼント」
「何だよそれ……」
 疲れたようにその紙片を摘まみ上げる緋ヶ崎に向かい、ユカは悪戯っぽい笑みを浮かべてこう言った。
「さっき、そこのファックスに来てた紙ぃ。お仕事の依頼じゃないの?」
 緋ヶ崎は凍りついた。
 もしも無理にでも追い返していたら、この依頼は宙に浮いたままどうなっていたことだろう。彼は、そう思って青くなると共に、たった今ついた『優しい』の肩書きをかなぐり捨てるように罵声を上げた。
「……ッこンの、小悪魔ァッッ!」



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