第三話
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一体どんな人が住んでいるのだろう、と目を見張られるような豪邸というものがこの世にはある。それが日本という狭い国で、東京都内であれば尚更だろう。
今朝方ファックスに届いていたのは仕事の斡旋を頼んでいる香西という男からの伝言で、どこぞの私立学校の理事長が緋ヶ崎を指名して雇いたがっている、という内容が几帳面な筆跡で簡潔に書かれていた。
当然、緋ヶ崎には私立学校の理事長などに面識はない。最終学歴は公立高校、しかも口が裂けても進学校などとは言えない高校で、その上彼は卒業までに四年を必要とするような問題児だったのだ。そのファックスに書かれた私立学校の理事長とやらに指名される理由も判らなければ、肝心の要件すらそこには書かれていなかった。
訳が判らない。
香西と緋ヶ崎との信頼関係を考えるに、事情さえ判れば決して理解できない理由ではないだろう、――つまり、理解できないような理由の仕事を回してはこないだろう――、とは推察できたものの、思考が行動に直結していると陰口を叩かれている緋ヶ崎にしては珍しく、実際の行動に移るまでに2分もの時間を要した。
出た結論はただひとつ、
『考えても判らないものは、考えてもしょうがない』
である。
その2分間の熟考の末緋ヶ崎が訪れたのが、先に述べた都内の豪邸であった。この豪邸が、その私立学校の理事長の私宅で、広い敷地に沢山の木々を植え込んだ庭は、この屋敷が都内にあることをすっかり忘れさせてしまうように造られていた。
奥まった座敷からは、今朝方降った雨に濡れたままの緑滴る庭の風景が見えている。床の間には掛け軸と季節の生け花が飾られていたが、緋ヶ崎にはミミズののたくったような字と地味な花、としか見えず、掛け軸の価値も華道の流派も判る訳がなかった。この座敷は十二畳ほどの広さの和室で、彼の他には一人を除いて誰もいない。もちろんその一人とは、緋ヶ崎慎二を指名してここまで呼び出した張本人の、某私立学校の理事長殿である。
年の頃は七、八十を越えた観のある白髪の老人で、渋茶の作務衣に身を包み、その顔は老人斑と皺に覆われている。頑固爺を絵に描いたような、への字に結ばれた口元やもじゃもじゃの眉毛。耳毛まで生えてるんじゃないかと緋ヶ崎は邪推したが、彼はそれを確認するようなへまは犯さなかった。
上品に言えば世話の焼ける老人、普通に言えば偏屈な爺さん、本音で言えばクソジジイ、と言うのがその理事長に対する緋ヶ崎の第一印象だった。
緋ヶ崎は無意識のうちに、座り馴れない柔らかい座布団の上で今日幾度目かの身じろぎをした。
「わざわざ呼び立てして済まんな。私が伊部秀次郎だ」
正面に座ったクソジジイは最初にそう言ったきり、緋ヶ崎が型どおりの挨拶と自己紹介をする間、黙ったまま緋ヶ崎のことを見詰めるきりだった。
緋ヶ崎は、この伊部と名乗った老人の目に、控えめな好奇心が宿っていることを一目で看破した。自慢じゃないが、人を見る目だけは確かだと彼は自負している。間違いはない。
自分を指定して呼びつけておきながら、値踏みをしている。つまり、この伊部という男は『緋ヶ崎慎二』についてわざわざ指名までするだけの価値を意味する何らかの予備知識を持っていながら、自分ではそれに確信を持っていない、ということになる。一体誰から聞いたものやら。別に探りを入れられても痛い腹など持っちゃいないが、こう遠回しに詮索されるのは好みじゃない。むしろ、嫌いな方だ。
緋ヶ崎はその不快感を隠して、いたって平静な顔つきで挨拶を終えたあと、伊部と同じように黙り込んだ。その表情からは、苛立ちも好奇心も気まずさも窺うことはできなかった。かと言って、伊部を無視しているわけでもなく、伊部に注目しているわけでもない。逆に言えば、その全てに当てはまりかねない、曖昧な表情だった。しかも、曖昧なのは表情や態度だけではなく、その存在感もであった。気配を殺している、と言うよりも、自分自身を空に溶かしてしまったかのようなその雰囲気。
雇用主と被雇用者の二人は、五分ほどそのまま差し向かっていた。
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