第四話
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 止んでいた雨が、再び降り始めたようだった。細かな雨の降る優しい音が、庭に面した硝子戸を通して耳に届く。
 五分間もの間、二人は黙ったままだった。
 この奇妙な睨めっこを、先に止めたのは伊部老人の方だった。
「……足を崩したらどうかね。君のような若い連中に、堅苦しくしていろと言うほど、私は老いぼれてはいないつも りだよ」
 そう言って伊部は皺だらけの顔に微かな笑みを浮かべて見せる。
「年に似合わず、随分と辛抱強いんだな、君は。ただ、年相応に意地っ張りのようだが」
 伊部の台詞の中に、今までの沈黙が自分の観察の為にあったという含みと白状を認めた緋ヶ崎は、まるで氷が 溶けるように今までの態度を一変させて、苦笑いを浮かべた。
「そりゃ、両方とも自信がありますよ。必要とあらば、ですが」
 その緋ヶ崎の台詞に暗に含まれた、必要に迫られなければこんなことはしない、最初にそう仕掛けたのは貴方 でしょう、という真意を、伊部はきちんと汲み取った様だった。伊部老人は声を上げて笑い、機嫌の良さそうな表情 を満面に浮かべて膝を打つ。
「うむ、あの先生の下で働いていただけの事はあるようだな。では、早速仕事の話をしようか」
 ……先生?
「ちょ、ちょっと待ってくれませんか」
 緋ヶ崎は慌てて伊部の言葉を遮った。しかし、遮った時には疑問は既に氷解していた。『先生』というのは、緋ヶ 崎が今の事務所を設立する前に助手を務めていた私立探偵のこと以外有り得ない。その『先生』は、今は訳あっ て探偵を廃業しているが、昔は広い人脈と人間離れした優秀な頭脳でかなりのキレ者として知られていた。余談 にはなるが、キレていたのは頭脳だけでなく、頭の筋も2、3本切れていたような感もあった。少なくとも、頭のネジ は2、3本緩んでいた、と緋ヶ崎は思っていたし、今でもそう思っている。
「先生の事を、ご存知で?」
「おお、知っているよ。5、6年前に世話になってな。だから、君を呼んだんだよ」
 伊部はそう言って人を安心させるような微笑みを浮かべたが、緋ヶ崎はちっとも落ち着かなかった。落ち着くど ころか、その一言で余計落ち着かない気分になったのは確かだった。
「はあ」
 何をどう言っていいか判らず緋ヶ崎が曖昧な返事をすると、伊部はそのまま話し出した。
「5、6年前に、あの先生に頼み事をしたのだ。無論、それはその時に解決したが、万一再び何かあるようなら、も う一度声を掛けてくれ、と言われていてな」
「はあ」
 緋ヶ崎はもう一度間の抜けた返事をした。伊部は気にせず先を続けた。
「しかし、あの先生はもう探偵を廃業したと言うではないか? だから、元助手の君にこれを頼みたいのだ」
「はあ」
 緋ヶ崎は困ったような表情を浮かべて頭を掻き、やや首を傾けて上目遣いに伊部の目を見た。5、6年前の話 をされても、緋ヶ崎はその頃はまだ学生で、『先生』と知り合ってもいない。伊部と先生の間で交わされた約束など、 知る筈もなければ、聞いた事も無い。正に寝耳に水、の話だ。
「……で、その依頼ってのは……」
 恐る恐る訊いた緋ヶ崎の言葉に、伊部はさらりとした口調でとんでもないことを言った。

「悪霊祓いだよ」

 緋ヶ崎は伊部の言葉を理解するのに、たっぷり2秒間掛かった。その後、言葉を発するのに更に2秒を要した。
「……悪霊、祓い、ですか?」
 間の抜けた鸚鵡のように訊き返した緋ヶ崎に、伊部は真顔で深く頷いた。
「そうだ。学園にな、出るんだ。そいつの処置を、君に頼みたい」



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