第八話
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 騒がしい女生徒の波が去り、思わず深呼吸と溜息の混じったような息を吐いた緋ヶ崎は、形だけでもこの学園の中を一通り回っておこうと思い立ち、まだ歩いていない方へと振り返って仰天した。
 制服を着た女生徒がそこに立っていた。今までの強烈に騒がしい女の子たちとは正反対の、まるで淀んだ水のような印象の女の子で、真っ直ぐの長い黒髪といい、微かに俯いた加減といい、心霊特集のテレビ番組で出てくる幽霊役に抜擢したくなるような姿形をしていた。
 そこで幽霊と勘違いするような緋ヶ崎ではなかったが、あまりに突然のことで、彼は咄嗟の言葉が出て来なかった。取り合えず、
「な、何か……」
 用ですか、と続けようとした時、その幽霊っぽい女生徒は、これまた幽霊っぽい陰気な口調で言った。
「……探し物、ですか」
 緋ヶ崎は、その女生徒が、彼がここにいる本当の目的を見抜いていることを直感した。が、だからと言って、どうしたら良いものか、彼には浮かばなかった。何しろ、悪霊話を信じているのはこの学園の理事長だけだ。ここで下手にそんな話題を広めて、理事長の家族や学園関係者に白い目で見られてはたまったものではない。
 緋ヶ崎の心中を知ってか知らずか、陰気な少女は言葉を続けた。
「西の果てから入ってきた大きな獣……」
「は?」
 緋ヶ崎が呆気に取られてそう訊き返すと、彼女はうっすらと気味の悪い微笑みを浮かべてゆっくりと頭を下げた。
「東の端に、陰が。まだ誰も見ていません」
 深々と頭を下げたその陰から少女は言い、彼女は頭を上げて緋ヶ崎の顔を見詰めてから再び微かに笑い、さっと身を翻すと廊下の端へと姿を消した。緋ヶ崎は当惑して頭を掻いた。
「獣……ったってなぁ……」
 獣と悪霊では、天と地ほどの違いがある。それとも、この学園には狐や狸の怨霊でも出るとでも言うのだろうか。しかし、狐や狸が『大きい獣』だとも思えない。
 まあ、学校という多数の人間の集まる場所には、ああ言う風変わりな子が必ず居るものだ。オカルト好きが高じて、何もかもが心霊現象に見えたり、ちょっとした不自然を何か別のものに思い込んだりする。緋ヶ崎自身は、そう言った不可思議な話題の正体は、大概が噂や思い込み、目の錯覚に過ぎないと思っていたが、世の中には彼のような現実的な人間ばかりいる訳ではない事ぐらい弁えていた。それに、オカルトめいた話の全てが、作り話だと思い込んでいるような頑迷な人間のつもりも無い。噂や思い込み、目の錯覚を取り除いた、ほんの僅かな数パーセントは、それを語る者が語っている通りの事象が発生しているのだろう、と彼は思っていた。
 だからと言って、今の女の子が、その残り数パーセントとも思い難い。
 マンガやゲームじゃあるまいし、そう都合よくゴロゴロしていてたまるもんか、というのが彼の率直な意見だった。
 彼は気を取り直して廊下を歩き出した。明るい内に学園内を回っておけば、いつか暗くなってから再びここを訪れた時に、何が何処にあるのか迷わずに済む。万が一にも『悪霊』だか『獣』だかが出たとして、右も左も判らずに右往左往するようなみっともない真似はしたくない。迷い込んだ野良猫に驚いて、階段を踏み外すような間抜けにはなりたくなかった。
 この学園は大きく分けて、教室のある校舎と、体育館のある別棟、後は校庭と分類することができる。校舎には、一学年三クラス分の教室と、AV教室・音楽室・化学室などの特殊教室に、職員室等があり、別棟には通常の体育館と柔道・剣道場に更衣室、講演会や議事会などを開くためのホール、余分な什器備品を仕舞っておくための倉庫があった。残る校庭には、陸上競技用のトラックに、野球用のグラウンド、テニスコート、プールと様々な施設が用意されていて、その上、芝生に覆われた散策路まで整っている。
 羨ましいような、腹立たしいような、何とも複雑な想いでその全てを一通り歩いた緋ヶ崎は、成績の良さというものが、こういった環境に左右されるのか否かについて、答えの出ない思いを巡らせていた。もしもこういう恵まれた環境にあったのなら、自分は今のようなロクでもない社会人にはなっていなかっただろうかと嘆息しつつ、彼はその学園を後にした。



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