第九話
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「ええと。今日一応学園の方は全て回ってみました。伊部さんの仰るような、悪霊の噂みたいなものはありませんでしたし、異変も見受けられませんでした」
 緋ヶ崎は、そう言った時の伊部老人の反応を予想しながら、それでもうわべを取り繕う気など毛頭起こさず、正直にそう報告した。依頼人とは言えども、その顔色を伺いながらご機嫌取りのように仕事をする気など最初から無いし、そもそもそんな風に振舞えるなら儲からない探偵業などとっくの昔に辞めて、依頼人の気の済むように既成事実でもでっち上げ、それなりの稼ぎを叩き出すエセ探偵にでも転職していることだろう。
 予想通り、伊部老人は不服そうな顔をしていた。緋ヶ崎の言葉が切れるのと同時に反論すべく息を吸い込んだ伊部に向かい、緋ヶ崎は咄嗟に片手を上げてそれを制した。
「ストップ」
 依頼人に対して、それはあまり誉められた言葉遣いでは無かったが、伊部はもじゃもじゃの眉毛を跳ね上げただけで一応その制止を聞き入れたようだった。遮られたことが不満なのか、緋ヶ崎の言葉遣いが不満なのか、その両方なのか判断はつかなかったが、緋ヶ崎は出来る限り伊部を刺激しないような言葉を選んで、弁解を始めた。
「ええと、ですね。まあ、今日一日の調査ですから、これで全てだと言う気はありません。勿論、もう暫く調査は続けさせて戴きます。これは、今日一日の御報告です。ただ……」
 緋ヶ崎が言い淀むと、伊部は面白くなさそうな表情のまま、先を促した。緋ヶ崎は、伊部の促しがあろうが無かろうが、訊こうと思っていたその疑問を口にした。
「ひとつだけ、お訊きしたいことがあります。何故、貴方は学園に悪霊が出る、と思われたんです?」
 そう、生徒の間には、そんな噂は立っていない。例のオカルティックな少女でさえ、入ってきたのは『獣』だと言い、『悪霊』などとは言っていなかった。無論、教員の間にそんな噂が立っているわけでもない。もしもそうなら、緋ヶ崎が学園を調べるのに、わざわざ『耐震調査』などという名目を使う必要も無い。その表向きの理由が、生徒たちに無用の心配(或いは混乱を)させない為の気遣いだというのならばまだしも、彼の調査は教員達の間でも伏せられ ていたのだ。この疑問は至極尤もなものだった。
 伊部はもう一度、もじゃもじゃの眉毛を不機嫌そうに動かした。自分の言葉を疑うのか、とでも言いたげな表情だったが、こればかりは爺の機嫌を伺って譲歩するわけにはいかない。緋ヶ崎はクソジジイの小言や嫌味に備えて、密かに深呼吸をして身構えた。
 が、伊部は緋ヶ崎が予想したよりも遥かに出来た人物であった。
「……ふむ」
 伊部は呟き、顎を掻いた。
「この依頼の根拠を、まだ聞かせていなかったか。それは済まんことをした。この歳になると、物忘れも多くなってな。申し訳ない」
 伊部はそう言って微かに頭を下げた。正直、肩透かしを食らったような思いをしながら、緋ヶ崎は伊部の説明を待った。
「本棟の屋上に、稲荷があるのを見たかね」
 伊部の言葉に、緋ヶ崎は記憶の中をまさぐった。確かに、校舎の屋上の片隅に、この学園には不似合いな朱塗りの祠が奉ってあったのを見た憶えがある。こういう霊障話でよく聞くように、寒気がしたり嫌な気分にでもなるのかと思ってみたが、そうでもなかったし、何処にでもありそうな稲荷だったので大して気にも留めていなかった。どうせ、信心深い学園の創設者が建てたものだろう、とでも思っていたのだ。
「ああ、ありましたね。別に変な所は無かったように記憶していますが……」
 緋ヶ崎が同意すると、伊部はもっともらしく頷いた。
「あれが、以前の悪霊騒ぎの時に、中に悪霊を封じ込めた祠なのだ。稲荷の様に見せかけてはいるが、実際は全く違う。その中に、厳重に封を施した石を収めておいたのだが、2週間程前か、その封が破れておるのに気付いたのだ。それからと言うもの、ほんの些細な事ではあるが、学園のあちらこちらに兆候が現れ始めた。深夜の学園に何者かが居た形跡が残っていたり、体育館ではここ最近生徒の怪我が続いている。これが気のせいならば、どんなに良いことか」
 伊部はそう言って微かに笑った。緋ヶ崎は記憶の中の稲荷を、不信感たっぷりの目で批判的に眺め回した後、ふとある事を思いついて意識を元に戻した。それはかなり魅力的な考えに思えた。彼は言った。
「それなら、伊部さん。一応、夜中の稲荷も確かめておくことにしましょう。もしも、それで何もないようでしたら、その『悪霊』とやらはもう学園には居ない可能性も考えて下さいよ?」
 そう。正直、何も無いのに何かを調べさせられるのは沢山だったのだ。



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