第十話
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夜の学園と言うのは、非常に薄気味が悪いものである。教育現場というのは、大勢の人が存在することを前提に造られているし、その場所を見る者も無意識の内にそれを前提として考えているからだ。現に、『学校』と言う言葉を聞いて、人一人いない校舎だけを思い浮かべる者はそうは多くないはずだ。
伊部老人の連絡を受け、この常識外れな時間帯の訪問者を迎え入れてくれた警備員の竜城は、明らかに機嫌の悪そうな顔つきをしていた。
無理も無い。理事長の命令とは言えこんな時間に部外者を中に入れて、万が一にも問題が発生すればとかく面倒なことになる。問題と言っても、せいぜい何か備品を壊したりする程度だろうが、それでも面倒臭いことには変わりない。緋ヶ崎は、心の中で「そっちも面倒だろうが、俺もかなり面倒なんだよ」と、断りを入れ、顔では愛想笑いを浮かべて頭を下げながら校舎に足を踏み入れた。
疑わしげな表情の竜城から借り受けた鍵を使って、屋上の鉄の扉を押し開くと、夜風が随分と涼しかった。窓を閉めきった校内とは比べ物にならないぐらいの快適さだ。
「これで何にもなけりゃあ、言うこと無しなんだがな」
緋ヶ崎は苦笑混じりにぼやき、件の祠が奉られている一角へ足を向けた。
朱塗りの稲荷は、光のない夜の中では真っ黒な影のように見えた。緋ヶ崎は信心深い方ではなかったが、一応気休めに手を合わせてから、その小さな観音開きの扉をそっと開き、ペンライトを点けて中を覗き込んだ。
別段中には変わった物は無い。何やら曰く有りげな拳大の灰色の石に白い紙紐のようなものを巻き付けた『何か』が収められているだけだ。恐らく、これが『悪霊』を封じ込めた石なのだろう。確かに、よく見ると紙紐の幾本かが千切れ、糊だか何だかで接着したように見える。
「……接着剤で悪霊が封じられるんなら、拝み屋は商売上がったりだな」
緋ヶ崎は思わずそう漏らすと、祠の扉を元通りに閉めてもう一度形だけ手を合わせて一礼した。
結局、昼間来た時と何ら変わるところは無い。『悪霊』だのの気配は無いし、勿論目にも見えない。気配も姿も何もかも緋ヶ崎に見えないだけであって実際は居るのだ、と言い張られたらお手上げだが、そうならそうで「見えない物相手に何をしろと言うんだ」と言い返すのみだ。
緋ヶ崎はそう心に決めて稲荷から振り返り、屋内へ戻るべく鉄の扉へ立ち戻った。金属のノブに手を伸ばし、ふと違和感を憶えて彼は動きを止めた。
誰か居る。
当然、屋上には緋ヶ崎以外誰の姿も見えない。しかし、誰かいる。これは漠然とした、勘にも等しい感覚だが、彼はそれを信じていたし、信頼もしていた。この直感に裏切られたことは殆ど無い。間違いなく、誰かが居る。
緋ヶ崎は微かに目を伏せて、居るはずのその何者かに意識を傾けた。こんな時間にこんな場所で隠れているなど、怪しいことこの上ない。まあ、深夜の学校でデートなどと洒落込んでいる生徒なら問題は無いのだが。もしもそうであれば、学園に侵入した形跡を残しているのはそいつらだと言うことで、この依頼は片付けられるかもしれない。うん、そうあって欲しい。
この屋上で隠れられそうな場所は限られている。そのひとつひとつに意識の目を向け、彼はその隠れている何者かが潜んでいる大体の場所に見当をつけた。
間違いない。居る。
それは、この目の前の鉄の扉の向こう、と緋ヶ崎の勘は告げていた。この扉の向こうに、誰かがいる。彼は軽い深呼吸をひとつして、何の予備動作もなくいきなりその扉を引き開けた。
「きゃ……」
微かな、悲鳴を飲み込んだような声がした。
「……み、瑞穂さん?」
緋ヶ崎は自分の目の前で驚愕に目を丸く見開いている私服姿の女の子を見て、そう呟いた。これは、予想外の展開だ。
確かに、そこに立っていたのは、学園理事長の孫娘、伊部瑞穂だった。
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