第十一話
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「……何やってるんすか、あんた」
 相手が依頼人の孫娘である事も忘れ、つい、そう口を滑らせた緋ヶ崎に、瑞穂は気まずそうな表情を浮かべて慌てた様に頭を深く下げた。ショートカットの髪が勢いよく揺れた。彼女は細身のジーンズにTシャツという飾らない姿をしていたが、女らしさは少しも損なわれておらず、むしろ健康的な色気さえ感じさせる。
「ごめんなさいっ、邪魔するつもりは無かったんですっ……」
「いや、俺が言いたいのは、そうじゃなくて」
 困惑した緋ヶ崎はそう言い、適切な言葉を捜して更に困惑した。瑞穂は羞恥に顔を赤らめて、俯いたままやはり言葉を捜してもじもじとしていた。
「……つい、気になって……。昼間、緋ヶ崎さんが意外と真剣に調べられてるのを見て、もしかして……って思って……。まさか、緋ヶ崎さんがここに居るなんて思わなかったものですから……」
 消え入りそうな声でそう弁解する瑞穂の言葉を聞きながら、緋ヶ崎はこっそりと苦笑いを浮かべていた。
 真剣、と瑞穂は言うが、実際は大して真剣に取り組んでいるとは言えない。悪霊話が虚構のものだという証明の為に、四苦八苦しているだけのことだ。緋ヶ崎は本心を隠して思わず話を逸らせた。
「いやいや。しかし、思い切った真似をしますね。どうやってここへ?」
 瑞穂は、彼が自分の侵入を不快に思っていないらしい事を感じ取り、ほっとしたのかようやく笑みを浮かべて顔を上げた。まるで悪戯っ子のような表情でぺろりと舌を突き出して、彼女は言った。
「実は、テニスコートの裏のフェンス、穴が開いてるんですよ。……で、何かありましたか?」
 先ほどとはうって変わって興味津々な瞳で、瑞穂は緋ヶ崎の顔を見上げる。緋ヶ崎は、この状況を明らかに楽しんでいる彼女の表情に、内心げんなりとしながら作り笑いを浮かべて首を横に振った。
「いや、別段変わった所はありませんでしたよ。……貴女がここに居た事を除いてね」
 軽くそうやり返すと、瑞穂は密やかながら楽しげな笑い声を上げてわざとらしい悔しそうな表情を作って見せた。
「ふふ、そうでしたね。ところで……」
 瑞穂は緋ヶ崎の顔から目を逸らし、屋上を見やった。そして、聞き間違えようも無く、理解不能な台詞を口にした。

「後ろの方は助手さんか何かですか?」

 さっき屋上には、誰も居なかった。これだけは事実だ。自分以外の気配と言えば、鉄の扉の中にいた瑞穂のものしかなかった。これも事実だ。では、瑞穂が見ている『後ろの方』とは、一体誰だ? さっきまで居なかった筈の、その『方』とは、一体何者だ? いや、『何』なのだ?
 ほんの一瞬のうちにそんな思いが巡り、緋ヶ崎は少なからぬ恐怖感と共に背後を振り返った。否、振り返ろうとした。その瞬間、強い風が緋ヶ崎の背を押したような気がした。急な眩暈が彼を襲い、極度の倦怠感が全身を押し包む。突然の事に耐え切れず膝が砕けるように崩れかけた時、彼はこの場が狭い階段の踊り場であることを唐突に思い出した。
 やばい、と思った時には、彼の身体は強く横方向に押されて、当たり前の様に階段を踏み外していた。恐らく背後の『何か』に突き飛ばされたか押し退けられたかしたに違いない。重い疲労感に抗って身体を丸め、頭を庇いつつ下の踊り場の壁に激突し、身体のあちこちに走る痛みに思わず身を竦めていると、頭上で息を呑んだような強張ったような微かな悲鳴が聞こえて、彼は反射的に上を振り仰いだ。
 振り仰いだ視界の中で、瑞穂が黒い影に突き飛ばされて、彼と同じように階段を踏み外していた。身体の重い緋ヶ崎と違い、細身の瑞穂の身体はまるで宙に投げ出されたかの様に見えた。
「やべっ」
 緋ヶ崎は立ち上がるのももどかしく、飛び出した。まるで身を投げ出すように瑞穂の身体を両腕で受け止め、その衝撃で彼は再び狭い階段を仰向けに転げ落ちた。今度は頭を抱えることもできず、したたかに後頭部を壁に打ち付けたが、痛みに怯んでいる暇は無い。
 恐怖に震えてしがみつく瑞穂を抱えたまま身体を起こして、彼が階段の上を睨み付けると、既にそこには誰もおらず、ただ開け放したままの鉄の扉から吹き込む夜風だけが微かな鳴き声を上げていた。



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