第十四話
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「また、ですか?」
 半ば呆れたような、胡乱げな表情の警備員竜城から、以前と同じように屋上の鍵を受け取った緋ヶ崎は、言い訳がましく(いや、本当に言い訳なのだが)説明をした。
「屋上の稲荷のですね、重さが屋上の床にどんな負荷をかけているのか調べておかないといけないんです。明日には書類を提出しなければならないんですよ」
 愛想笑いと共に口から出任せでそう喋ると、竜城は明らかにどうでもよさそうな表情を浮かべて片手を振り、緋ヶ崎の言葉を遮った。
「まぁ、構いませんがね。……屋上の稲荷には、出るって噂がありますから、気をつけてください? 足を滑らせたりなんかしないで下さいよ?」
 まさか実は、その『出る』ものを始末しに来たのだとも言えず、緋ヶ崎は愛想笑いを崩さずに黙ってその言葉を聞き流し、屋上への階段へ足を向けた。
 空気の淀んだ嫌な夜だった。生ぬるい空気がまるで肌に張り付いて離れないような不快感を与えている。真っ暗な廊下はしんと静まり返っているが、何故か誰かに見られているような、嫌な感じが纏わりついて離れなかった。
 屋上の鉄扉はひんやりと冷たかったが、鍵を差し込んで押し開けた外の空気は期待を裏切って内側と大差なく淀んでいた。緋ヶ崎は疲れたような溜息を吐いて、自分の太い首筋を撫でた。微かに汗ばんでいるのは、風が無いせいだけではない。屋上に一歩足を踏み出すと、空気に混じっている微かな非好意的な気配が肌を刺した。
 緋ヶ崎は張り上げるでもなく声を押し出した。
「……いるんなら、出てきな」
 ふと、これで誰もいなかったならまるで道化だな、などと言う思いが心を掠めたが、道化を演じるのは慣れていたし、何よりも夜の空気の中を漂う砂のようなざらついた敵意が、明らかにこの場所に潜む何かの存在を主張していた。
 その時、急にざわざわと空気が鳴った。風はそよとも吹いてはいないが、まるで暴風のような轟きが耳の奥に痺れを残す。全身の血から温かさが奪われるような冷たい害意を急に背後に感じ、緋ヶ崎は飛び退りながら振り返り、大きく腕を振ってその『何か』に叩き付けたが、手応えはまるで無く、黒い霧のようなものが顔を掠めて背後に飛んで行っただけだった。その霧を追って更に振り返った緋ヶ崎の目の前には、ぼんやりとした人型のような黒い『もの』が立っていた。
 さきほど黒い影に掠められた頬がひりひりと痛み始め、彼はその黒い影が実際に身体に害を及ぼせる事を悟った。が、今更後に引く訳にもいかない。
「本物かよ」
 緋ヶ崎はうんざりしたような口調でぼやき、コンクリートの地面を軽く蹴って身構えた。影がその霧のような身体を揺らし、同時に、周囲の空気や壁や床から滲み出る汚水のような粘ついた声が虚ろに響く。
「……お前にできるのか? お前の拳は私を傷付けることはできなかったぞ……」
 嘲笑を含んだその言葉に、緋ヶ崎は口元を捻じ曲げて強張った笑みを作って返答に代えるに止めた。『悪霊』はゆらゆらと揺れながら、腕のように見える部分を伸ばして彼を指差した。
「だが、私はお前に触れることができる……。階段から突き落とされたいか? それともこの金網を越えて下に落としてやろうか? せいぜい、お前が勝手に足を滑らせたぐらいにしか、誰も思うまいよ……」
 影は陰鬱な含み笑いを漏らし、いきなりその手の指を鉤爪のように折り曲げて緋ヶ崎に向かって振り上げた。軽いフットワークで一歩下がった彼の鼻の先を風圧が通り抜ける。
「そうだ、逃げろ。こんな風に楽しめるのは、滅多に無い。楽しませておくれ」
 弱った鼠で遊ぶ猫が喉を鳴らすような声音で、影はそう言った。緋ヶ崎は、呆れたような口調でそれに応えた。
「よく喋る悪霊だな。寂しがりやか? やっと構ってくれる相手を見つけた、ってワケかい? あんた、友達いねぇだろ? ……っと、悪ィ、幽霊に友達なんかいるワケねぇか」
「貴ッ様ァ……!」
 緋ヶ崎の言葉に、影は逆上したようだった。周囲で轟音のような風が渦を巻き、その一筋が緋ヶ崎の長い髪を幾本か切り飛ばしたが、彼は意に介さずに影に向かってニッコリと微笑んだ。
「図星かい? ま、あんたが誰であろうと、とりあえずこの場所から出てってくれや。そいつが俺の仕事なんでね」



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