第十五話
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『悪霊』は今や完全に猛り狂っていた。ごうごうと唸る旋風がその怒りを表現していた。
「出て行け? お前のような若造に、何ができる? 聖書でも読むのか? 聖句でも唱えると言うのか? 貴様にそんなことができる頭があるとはとても思えんな!」
烈風に削られて、古びたコンクリートの床にヒビが走った。風に巻き上げられたそのコンクリート片が礫のように緋ヶ崎に襲い掛かり、いくつもの擦り傷と切り傷をその身体に刻む。彼は腕を掲げて目を埃から庇いながら、風音に負けじと怒鳴り返した。
「んな、器用なマネが俺にできるか、ボケ!」
怒鳴ったワリには、余り誇れるような内容の台詞ではない。が、彼はそのまま言葉を続けた。
「俺に出来んのは、ぶっ壊すことだけ。ちょっと痛ぇかもしんねぇが、勘弁してくれや」
「『痛い』? これはおかしなことを言う若造だ。私に触れることすら出来ないのに、どうやって『壊す』と言う?」
影が微かに背を逸らせた。人間臭い仕草に、緋ヶ崎は別の確証を抱きつつ、風に抗って一歩足を踏み出した。影はそんな彼を迎え入れるように大きく両手を広げた。
「壊されるのは貴様だ、若造。望み通り、下に叩き落してくれよう」
影の左手が伸び、緋ヶ崎の右腕を掴んだ。氷のように冷たい感触が電流のように走ったが、彼は動じなかった。動じる代わりに、彼は再び口元だけで微笑んだ。
「捕まえた」
氷のような影の手を、緋ヶ崎は左手でしっかりと掴んだ。影が動揺するのがはっきりと判った。実体の無い『悪霊』の身体を捕まえられる訳がない。しかし、緋ヶ崎の手は影の手を確かに掴んでいた。
「な、何故だ? は、放せ」
まるで触れられていること事体が苦痛ででもあるかのような『悪霊』の叫びに、緋ヶ崎はわざとらしい済まなそうな表情を浮かべて語り掛けた。
「悪ィな。『悪霊祓い』とか小難しいこと、俺できねぇんだ。言っただろ? 壊すことしかできねぇ、ってよ」
「き、貴様みたいな、薄ら馬鹿の木偶の坊に、何が――」
人間臭いもがき方で緋ヶ崎の手を振り払おうとする影に向かい、彼は押し被せるように言った。
「悪霊だか、何だか知らねぇが、変わった手品が出来んのは、お前だけじゃねぇってこった。つけあがるんじゃねぇな、――竜城さんよッ」
「な……」
影が、まるで雷にでも打たれたように動きを止めた。
「何で判ったかって? あんたが自分で白状したんじゃねぇか」
緋ヶ崎は『何を今更』、という風に呆れた口調でそう応えた。
「『屋上の稲荷に出る』噂なんざ、学校じゃ広まってねぇんだよ。昨日『悪霊』を見た娘は、今日学校にゃ来ちゃいねぇ。噂が広まる訳がねぇ。『足を滑らせて落ちないでくれ』? 最初っから、そうやって片付けるつもりだったんだろうが? 同じセリフを『悪霊』に喋らせちゃいけねぇな。いくらバカでも気付くっての」
小馬鹿にしたように緋ヶ崎が鼻で笑った時、背後で大きな音が響いた。金属製の重い扉が乱暴に開けられた時の音だった。緋ヶ崎は『悪霊』の手を掴んだまま離さず、肩越しに一瞥して、その音を立てたのが警備員の竜城であることを見て取ると微笑んだ。
「ほら、ビンゴ」
竜城の右手首に、まるで火傷でもしたかのような真っ赤な手の跡がついているのが見えた。彼の顔は苦痛に歪み、憔悴と憤りも加わって紅潮している。
「へぇ、あんた、こいつと繋がってんのか」
「その手を離せ……ッ」
竜城の呻くような声は、『悪霊』のそれとダブって響いた。緋ヶ崎はせせら笑うように『悪霊』の腕を掴んだ左手に、まるで鉤爪を立てるように力を込めた。悪霊の呻き声が一際大きくなり、竜城の右手首から先が鬱血したように青くなり始めた。
「離すのは、お前の方だぜ、竜城さん。……どうやってこんな事ができるようになったかは知らねぇが、間違いなく、こいつは死霊だ。こいつをどうやってあんたが操ってるのかも知らんし、興味もない。大方、そこの祠の封を間違って破っちまって、こいつ良いように利用されてるだけだろうがな。けど、『死』の側に居たら、あんたその内、くたばるぜ。……警告はしたぜ? さ、離しな」
「出鱈目を言うな! 貴様に何が出来ると言うんだ!」
竜城はヒステリックに叫び、腰に差していた警棒を引き抜いた。鋼鉄製の警棒を振り上げながら真っ直ぐに走り寄ってくる竜城を一瞥し、緋ヶ崎は軽く息を吸い込んで息を止め、無造作とも言える動作で『悪霊』の手を自分の腕から引き剥がした。背後から振り下ろされる竜城の警棒を軽いサイドステップでかわし身体を捻ると、彼は竜城に構うことなくそのまま目の前に揺れる『悪霊』を思い切り殴り付けた。まるで弾力のあるゴムの様に拳を押し返そうとする圧力を力任せに突き破り、彼は囁いた。
「――消えちまえ」
影が、まるで水面に映るもののように揺らいだ。耳の奥に唸り声が震え、冷気と熱気がない混ぜになったような圧力が周囲に撒き散らされた。緋ヶ崎の背後で、竜城が絶叫を上げてもんどりうった。影は急激に膨張したかと思うと、まるで限界にまで空気を詰め込まれた風船が破裂するように唐突に弾け、夜風に吹き散らされるように消え失せて行った。
耳の奥に残された痺れを払うように、耳の後ろを人差指で掻きながら緋ヶ崎は振り向いた。まるで、熱湯を浴びせられたかのような真っ赤な跡に全身を染められた竜城は、彼にしか判らなかった激痛の余韻に身体を震わせながら、起き上がることもできずに呻いていた。
「あんたは『死』を使う。俺は『命』を使う方法を知ってる。だから、『離せ』って言ったんだ。正反対のものがぶつかりゃ、ろくな事が起きねぇ。悪霊と心中するなんて冗談にもなりゃしないぜ」
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