第十六話
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その時、
「ありがとうございました」
呻いている竜城と自分以外いないはずの校舎の屋上で、そんな声が聞こえて緋ヶ崎は仰天してうろたえて辺りを見回した。先ほどまで『悪霊』と対峙していたときの覇気は何処へやら、滑稽ささえ感じさせるその姿に声の主はつい笑い声を漏らしたようだった。
見回した視線の先に、黒々とした陰のような社があった。そして、その傍らに立つ女生徒の姿があった。
微かに俯いた顔に、真っ直ぐの長い黒髪。その陰鬱な表情に、緋ヶ崎は見覚えがあった。
「あんた、確か学校の放課後に廊下で――」
「はい」
頷く彼女の顔の向こうに、背景が透けて見えることに気が付いた緋ヶ崎は、今更ながら素っ頓狂な声を上げた。
「あ、あんたも幽霊だったんかーッ?!」
「はい」
彼女は同じように頷いた。狼狽する緋ヶ崎を尻目に、彼女は社の方へと顔を向けた。
「この封は、彷徨う死んだ者の魂を束縛するのです。これ以上、私たちがこの世に彷徨い出ないように。この封は、あの時この学園を騒がせた『悪霊』を封じましたが、その後、近くを通りかかった『もの』も引き寄せて捕らえるほどに強いものでした」
それを聞いた緋ヶ崎は狼狽から立ち直り、まるで頭痛でもするかのように額を押さえて呟いた。
「……あの先生、やり過ぎたってワケかい」
この社を作った彼の元上司は、どうやら少しばかり力を入れ過ぎたらしい。周辺を彷徨う下級霊の類まで次々と引き寄せて内に閉じ込めていれば、いつかはパンクする。それを判っていて、いずれ自分で処置をする気だったのか、それとも単なる過失だったのか、今となっては確かめる術はないが、そのしわ寄せを食ったのが自分だと言うことだけは、確かだった。緋ヶ崎はこめかみを掻いて、苦笑した。
「……悪かったな、お嬢ちゃん。代わって謝っとくよ。で、あんたこれからどうする気だい?」
「この石を、壊して下さい。私たちが開放されるように」
既にこの世のものではない少女に真摯な眼差しで見詰められ、彼は一瞬たじろいだ。そのたじろぎを隠すように、彼は訊き返した。
「開放されたら、どうなるんだ?」
少女は首を振った。
「判りません。でも、私達を引き留める『もの』が無くなれば、いずれ――」
「じゃ、あんたは、どうする?」
「私、ですか?」
突然の質問に、少女は驚いた様子だった。虚を突かれたような表情を浮かべ、微かに首を傾げて彼女はしばらく考え込んだ。沈黙の後、彼女は言った。
「……もう、ここには何も未練はありません。未練があるから、こんな風になって残っていたんでしょうけど、ずっとここに居ても、そんなに楽しいことはありませんでした。だから……」
彼女のその返事を聞いて、ひんやりとした夜の空気を胸一杯に吸い込んで深呼吸をした彼は、ゆっくりと社の前へと歩を進めた。
「判った。壊すことなら、任せときな」
冗談混じりに緋ヶ崎がそう言って幽霊の少女に微笑みかけると、彼女は首を微かに横に振った。彼は意外そうな表情を浮かべながら社の扉を開き、中に納められている封じ石に右手を掛けた。細く息を吸い込んで、彼は自分の中の『命』の力を右手に集めるように意識した。
手の中で、砂岩を砕くように封じ石が崩れた。指の隙間を縫うように、見えない何かがすり抜けていくのを感じた彼は、その見えない『何か』たちの為に祈りの言葉を呟いてやろうとしたが、肝心のその文句を彼は知らなかった。
「あなたは、『壊す』者じゃありません」
少女の声に目を上げると、さっきよりもずっと薄くなった少女が真摯な瞳で彼のことを見詰めていた。薄れゆく少女は微笑んだ。
「あなたは、『護る』者でしょう? 『西の果ての聖なる獣』――」
緋ヶ崎は目を丸くした。
「あんた、判ってたのか――?」
だが、少女はその問いに応える前に、その姿を消していた。
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