第1話 ソックスバトラーの誕生


 ……何故オレは、ここにいる。
 薄暗い部屋の中で、少年は目を覚ました。
 パジャマのような服を着せられ、固いベッドに寝かされている。
 ……何故オレは、ここにいる。
 自問して、少年は辺りを見回した。文房具やら工具箱やらが乱雑に散らかっていて、それでいて殺風景な部屋。機械油の匂いがする。部屋の片隅で情報端末のディスプレイがオンになっていて、冷たい光を放っていた。部屋の中で唯一の光源だった。
 そして、ベッドの傍らには一人が少女が立っていた。
 少年は驚いて、彼女を見上げた。年の頃は同じくらいだろうか。青いバンダナで頭を覆い、Gパンとおぼしきズボンをはいた少女。その黒い双瞳は冷たい光をたたえ、静かに少年を見下ろしていた。
「目が覚めた?」
 語りかける少女。少年は、曖昧に頷くことしかできなかった。
 その後方には更に二つの人影があった。
「ふフフフフ。おはようございます。調子はどォです?」
 白衣を着た男が、妙に腰をくねらせながら、さも面白げな口調で語りかけてきた。だが、状況を把握しきっていない少年は、返答することができなかった。
 その隣には、赤い髪の女。少年を値踏みでもするように、鋭い視線を投げかけている。
「では早速始めましょうか……ソックス・ダイアモンド。くれぐれもやりすぎないよォに。ふフフフフ」
 男は、少女の名を呼んだようだ。
 少女はその言葉に頷くと、少年の手を取り、なにかを握らせた。
 ソックスだった。
 ……待て。
 目を覚ましたばかりではっきりと頭が働いていない少年も、ここにいたってはじめて状況の不可思議さに気がついた。
「立って」
 いつの間にか少女もその手の中に靴下を握りしめていた。
「なあ、これは一体どういう……」
 問いを発した刹那、少女の靴下による鋭い一撃が鼻先を掠めた。
 反射的に少年は身をかわした。勢い余ってベッドから転がり落ちてしまう。
 あと一瞬でも動くのが遅れていたら、少年は鼻先に靴下を突きつけられ、その臭いに悶絶失神していたに違いない。
 少年が四つん這いになって呆然としている間にも、少女はためらいの微塵もない歩調でベッドを回りこんでくる。状況をいまだに把握できない少年だったが、分かったことが一つだけあった。
 このままだと、この少女に靴下の臭いを嗅がされることになる。
 少年は跳ね起きて飛びすさり、己が置かれている場所を見回した。窓は? 扉は? 脱出口は? だが、部屋には扉が一つあるだけだった。少女と、二人の人間が立つ、その向こう側にただ一つ。
 つまり、この場所に逃げ道なんて、ない。
 ……これは、夢だ。
 少年は突如として悟った。夢だ。理解しがたい法則に則って繰り広げられる夢の一幕なのだ。こんな突拍子もない状況が、少女が人に靴下の匂いを嗅がせるべく迫ってくるという状況が、現実であるわけがない。
 じゃあ、嗅がされる前に、嗅がせなくちゃ。今、俺の手の中には、靴下がある。
 しかしどうやればいいのだろう、と少年は必死に頭を働かせる。眼前の少女は一分の隙もなく身構えている。どうしかけてみたところで、少年の方が先に嗅がされるのは、目に見えていた。
 付け入る隙を作らなきゃならない。でも、どうやって?
 少年はじりじりと後ずさった。視界の片隅に、白衣を着た男の姿を捉える。薄笑いを浮かべながら、熱っぽいまなざしで、男はこの対決に見入っていた。
 さっきこの男は、少女に命令を下していた。
 ……ならば。
 叫び声を上げ、少年は大きく靴下を振りかぶった。標的は、少女ではない……白衣の男だ。
「…………!!」
 予想外の行動に、少女は一瞬驚きを見せた。靴下と白衣の男を結ぶ軌道上にその身を投げ、妨害しようとする。だが、それこそ少年の待ち望んでいたことだった。少年は少女に体当たりし、もみ合って床に落ちた。
 不意をつかれ、床に仰向けで投げ出された少女の上に馬乗りになる形になった。今、彼女の鼻先に靴下を押しつければ、勝負は決まる。少年にためらいはなかった。だが、体の動きは封じたが、すべての抵抗を封じたわけではないことを少年は失念していた。少女の腕がヘビのように伸びると、次の瞬間には靴下を少年の鼻先に押しつけていた。
 思い切り臭いを吸い込んでしまった少年は、悶絶した。
「ふフフフフ……バトラー。ばとらァァァ」
 急激に意識が遠のいていく中、白衣の男の狂熱に浮かされた声が聞こえた。
 そして、少女の声が気絶する寸前の意識を掠めてゆく。
「あなたの名前よ……ソックスバトラー」
 最後の瞬間、少女に深い悲しみと哀れみの目で見返されたような気がした。

 気絶した少年の体を囲い込むようにして立ち、三人は三者三様の感情で彼を見下ろした。
「イイ! すごくイィ〜!」
 白衣の男は軽い興奮に包まれた口調でいった。
 赤い髪の女は、たった今戦いを終えたばかりの少女に視線を注いだ。
「無様やったな、『ダイアモンド』」
「……申し訳ありません」
 少女は目を伏せたまま答えた。
「ふフフフフ。彼は素人です」白衣の男が説明する。「特別な訓練を受けたわけでもないのです。今、彼は本能でやってのけたのです。状況に対応し、即時に判断して、……そして与えられた靴下を武器として扱った。これはまさに天与の才能としか言いようがありません。彼こそ我が組織が必要とする才能の持ち主だとは思いませんか、ソックスマーチャント。まさしく彼はソックスハンターの才能の持ち主! 我々は、彼を迎い入れる必要がある」
 マーチャントと呼ばれた赤い髪の女は、冷たい眼差しを白衣の男にくれる。
「やけど、こいつがそれを望むやろか」
「望む?」何を当たり前のことを、とでも言いたげに白衣の男は肩をすくめた。「選択の余地などありませんよ、彼には」
「……お得意の洗脳ちゅうわけか」
「ふフフフフ。脳と神経が持つ才能、能力はそのままに、名前、過去など個人的記憶に関わる部分だけを消去してあります。まさに白紙ですよ。これほど指導教育しやすい状態はない。その実績は」少女の方に顎をしゃくる。「このダイアモンドで証明済みのはず。ふフフフフ」
 興奮のためか、白衣の男は腰をくねらせる。
「警察の方はうるさないんか?」
「彼は既に幻獣との戦いで戦死したことになっています。彼の足取りを辿ることはもはや不可能事なのです。……彼は見てはいけないものを見てしまった。本来ならば処分されているところを、我々が彼のために第二の人生を用意してやろうというのです。彼を生かしたい、と思う気持ちは貴女だって同じでしょう」
「いいだろう。この少年はお前に任せる、ソックスバット」
 冷たさを帯びた声で、マーチャントは命令した。
「……それにしても、自分の教え子にもうちっとマシな名前つけたろおもわへんのかい」
 吐き捨てるように言うと、マーチャントは部屋を出ていった。
 ソックスバットと呼ばれた男は、一礼して彼女を見送った。身を起こした彼の顔には、薄ら笑いが張り付いていた。

 夢から覚めていることを祈って、少年は目を開いた。
 だが、そこはやはり、さっきと同じ薄暗い部屋の中だった。
 ここに来て少年も悟らざるを得なかった。さっきのは夢でもなんでもない、確かな現実だったのだ、と。
 扉を押し開けて、外に出てみる。
 庭が広がっていた。まるで学校の校庭のような。今出てきた建物を見上げれば、安普請のプレハブではあるが、まるで校舎みたいだ、と言えなくもない。冷たい風が、グラウンドを吹き抜けていく。
「目が覚めました?」
 声は背後からした。咄嗟にふり向くと、先ほどの少女が立っていた。
 反射的に、少年は後退する。
「もう襲いません。心配しないでください」
 少女はぶっきらぼうな口調でいう。たしかに、彼女の手にあの凶悪なソックスはなく、代わりに防寒着を抱えていた。
「君は……」
「名前なら、ありません」
 問うより早く、低くうなるような答えが返ってきた。
「言いにくいなら、ダイアモンドと呼んでください。いつもそう呼ばれていますから」
 聞きたいことは、たくさんあった。たくさんありすぎて、何から聞けばいいのかわからない。
「……さっきは、なんであんなことを」
 最初に少年の口をついて出た質問は、しかし少女をとまどわせるものではなかった。
「あなたの才能を証明するため」
「才能?」
「そう。生まれついての、靴下を狩るものとしての才能。ソックスハンターとしての才能を」
「……ちょっと待って。なんで俺がそんなものの才能を持ってると断言できるんだ」
「さっき、私を靴下で気絶させようとしたでしょう」
「……それは」
 言葉に詰まる。
「あんな状況に追い込まれたら、普通の人間だったらパニックになって、何の抵抗もできず靴下を嗅がされているところです」少女は淡々と解説する。「でも、あなたは状況を把握しようとするより早く、状況に対処しようとした。そして」
 少女の目が、少年の瞳を捉える。
「あなたは靴下を武器として認識し、私に立ち向かいました。これはあなたのソックスハンターとしての才能がなせる技」
 言われてみれば、そうだ。
 少年は自らに問いかける。あの時、組み敷かれた少女――ダイアモンドがアッパーソックスを放たなかったら、俺は彼女の顔に靴下を押しつけていただろうか。
「そんなことを証明するために、俺に靴下を持たせたというのか」
「……そうね」
 少年は声を荒らげた。
「無茶苦茶だ! 一歩間違えれば廃人になっているところだぞ!」
「……そうね」
 相変わらず、少女の言葉は平板だ。苛立ちよりも、当惑が先に立つ。
「君は何とも思わないのか。君だって命がけだったんだろう」
「私は、靴下を狩るためだけに生かされている人間ですから。靴下を狩れなかったときは、死ぬときですから」
 少女は、淀みない口調で言ってのけた。重みのこもった言葉に、少年は反論することができなかった。
「君は……ソックスハンターなのか」
「ええ。そして、あなたにもソックスハンターになってもらう、バトラー」
「イヤだからちょっと待って。どうしてそういう話になる」
「生きるためよ」さも当然のことのように、ダイアモンドは言う。「あなたはソックスバトラー。二人目の私……。あなたも、靴下を狩ることでしか存在を証明できない人間なんです」
「俺をそんなこっぱずかしい名前で呼ぶな! 俺にはちゃんとした名前が……」
 そこまで言って、少年ははじめて気づく。
 自分の名前を思い出せないことに。
「無駄です。あなたの記憶は消されてしまっている」
「……君が、やったのか」
「いいえ」少女は首を振った。「やったのは私の主、ソックスバット。ソックスハンター協会の一員。あなたは見てはいけないものを見てしまった。だから、始末される予定だった。でも、ソックスバットがあなたの才能に気づいたから、あなたに第二の人生を用意したんです。ソックスハンター協会の一員としての人生を」
「……どうして」
 がくり、と少年は膝をついた。
 その言葉を認めざるを得なかった。何も、思い出せない。自分の名前も、どんな生活をしていたのかも、どんな家族が居たのかも。胸の中に巨大な穴が空いてしまったかのようだった。
「どうして、俺がこんな目に遭わなくちゃならないんだ!?」
「……拒んでも、いいんです。その時は、当初の予定通り、あなたにはこの場で死んでもらいます」
「……こんなの、夢だ」
 少年は両手で地面を叩いた。もはや、理性的な言葉を口にすることすらできなかった。
「……ひどい……悪い夢だ……」
「慰めになるなら構わないわ。夢だと思っておきなさい」
 ダイアモンドの声は、吹き渡る風よりも冷たかった。
「……でも、長い夢になるわよ」

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