第5話 こわされた少年


 聞こえるのは、ただ、風の音。
 ハンガーの中に広がる深い静寂と闇。それはいつものことだ。が、バトラーは違和感を覚えた。
 静寂と闇は、緊張と殺気で満たされている。
 この闇の中に、殺意を抱き、自分を殺しに来るであろう一人の男が潜んでいる。目では捉えられないものが、確実に存在した。けれども、テントの中の見た目になにか普段とは違うものが表れるわけではない。
 普通であることが、怖かった。何の予兆も感じないまま、自分は永遠の闇の中へ引きずり込まれてしまうのではないか。そんな漠然とした不安が、バトラーの心を捉えて離さなかった。
 だが一方で、期待感に似たものが心の片隅で鎌首をもたげてもいた。闇に引きずり込まれる瞬間、敵の靴下を嗅がされた瞬間、今度こそこの悪夢から目覚めることができるんじゃあないか? 暖かいベッドで目を覚まし、寝汗を拭いながら「悪い夢を見てしまった……」と思うことができるんじゃあ、ないか?
 …………
 何が待っているにせよ、今なすべきことはただ一つ、だということは心得ている。
 意を決して、バトラーは暗闇へと踏み出していった。

「……相手は現役の学徒兵なのだろう。大丈夫なのかね」
 ソックスコロンビアが、ソックスバットに一瞥をくれた。
「ふフフフフ。彼は素養の上ではこのソックスダイアモンドを上回る逸材です。今日皆様をお連れしたのも、彼のブリリアントな才能を目の当たりにしていただきたい、と思ったが故」
「ほう。いつのまにあのような少年をスカウトしたのかね」
「ダァイアモンド」質問には答えず、ソックスバットに尋ねた。「この勝負、どォ見ます」
「ソックスロボはそれなりに経験のある学徒兵です。その点ではバトラーを上回っていると思われますが、今日はゲリラ戦のような状況です。ゲリラ戦は地形を熟知している方に利がありますから、つまりバトラーが一方的に不利というわけではありません」
「で、結局の所、どうなのかね」
 ソックスコロンビアの催促を受け、ダイアモンドは語を継いだ。
「全体的には五分五分です。あとはお互い、自分に欠けているものをその場で補う潜在能力の高さが勝敗を決するでしょう」
「もしバトラーが負けた場合は、どうなるんやろね」
 マーチャントが、冷徹な表情を崩さぬままに問う。
「そうしたら、ソックスロボは次に我々に牙を剥くでしょォねェ」ソックスバットが答えた。「この熊本荒野、身を隠す場所なんてありませんし、このよォな戦場に近い場所から幻獣に襲われることなく無事逃げるには、どォしたって車が必要です。なんなら、あらかじめ指揮車の中でお待ちしていたらどォです」
「ふむ。無用な危険に身をさらすのは、無益だな」
 ソックスコロンビア、ソックスマーチャント、ソックスマシンガンの三人は、それぞれの乗ってきた指揮車へ戻っていった。あとには、ソックスバットとソックスダイアモンドの二人だけが残った。
 ソックスバットは二台の指揮車に目をくれると、ニヤリと笑った。
「……ソックスロボは平均よりやや下の学徒兵です。そう想定した場合、所要時間はその程度だと思います」
 問いかけに、ダイアモンドはバトラーが向かったテントから目を離さぬまま答えた。
「十五分程度でしょう」
「結構。実に結構」

 靴下倉庫の扉が見えるところまで、バトラーはやってきた。
 扉は開放されていた。
 足を止め、靴下を構えたまま、ダイアモンドに教わったことを思い出す。
「追うときは逃げる気持ちになって、逃げるときは追う気持ちになって考えてみてください」
 相手がどの程度の靴下を装備したか、倉庫の中を見て確認する。追う側としては、有益な選択肢の一つである。あのように露骨に扉を開け放しているというのは、追っ手に倉庫に入るよう仕向けているように感じられる。
 では、追われる者はそこでどうするか。
 十分という時間で倉庫内に効果的なトラップなトラップを仕掛けることは、可能ではある。だが、それはバトラー自身のように、倉庫内の構造を分かっていれば、の話である。何も知らない人間にとって、十分という時間は自分の命を賭けるには短すぎる。
 狭い場所に誘い込んでの接近戦ソックスコンバットは、どうか。これは、可能性としては高いかもしれない。最初の一人を倒したところで、テントの外には協会の面々が何人も残っている。一対多数を行うのなら、倉庫のようなせまい場所が適していると言える。だが。
「待ち伏せを行うときは、常に自分が逃げる道を確保しておくことが大事です」
 ダイアモンドの言葉を、思い出す。倉庫の入り口は一つだけだ。待ち伏せに適した環境ではあり得ない。
 そもそも、倉庫内は靴下の匂いがきつすぎてとても待ち伏せなどやってられないのではないだろうか。
 ここからは倉庫の扉がよく見える、という事実を再認識する。遮蔽物がないから、扉付近は丸見えだ。
 バトラーは結論を出した。
 ……ソックスロボは、扉が見える場所に身を隠し、オレが扉をくぐろうとした瞬間を狙おうとしている。
 では、狙撃ポイントはどこか。暗がりの中でも相手を狙える距離は十メートルと見た。その範囲内にある遮蔽物といえば……
 バトラーの視線は、吸い付けられるように軍用補給車へと向かった。
 それは絶好の遮蔽物だった。一本目の靴下を外したとしても、一方的に靴下を投げ続けることができる。
 身長に横手に回り込むと、影が見えた。人なのか、それとも単なる鉄くずなのか。この距離では視認しきれない。
 ひょいと腕を振って袖の中から靴下を出し、右手で握って投擲のポーズを取る。
 バトラーは反射的に構えていた。
 冷静な自分と、動揺しまくる自分のが心の中でせめぎ合うのを、バトラーは感じていた。本当に補給車の影に敵はいるのか? ひょっとしたら今この瞬間、自分の背後にこっそり近寄っているかもしれないんだぞ?
 しかし、もう一人のバトラーは力強い確信を抱いていた。理性とかそんなものじゃない。魂の奥深い場所が、そこに敵が居ることを知っていた。おびえる獲物の焦燥、怒りが匂いとなって漂ってくる。それは狩人、ソックスハンターの本能だけが嗅ぎ取れるものだ。
 ……今靴下を放り投げれば、狩れる。
 外から風が吹き込んで、倉庫の扉を揺らした。
 その時影は、補給車とそれ以外のなにかに分離した。
 彼は、身じろぎしただけかもしれない。ゴーグルをかぶり直そうとしただけかもしれない。
 バトラーは、靴下を投げていた。

 静かにバトラーは補給車の影に歩み寄った。
 ぴちゃり、と足下で音がした。鼻を突く異臭。これは……
 よだれだった。
 靴下による速やかな死特有の、光る液体。
 両手両足を力無く伸ばし、うつろな目をしたソックスロボの死体が、そこに転がっていた。
 ……嘘だろう?
 靴下を投げるという行為と、今眼下に広がる光景とがどうしても結びつかない。だが、時が流れるとともに、理解がゆっくりとバトラーの意識にしみこんでいった。それは、ついさっきまで、死にたくない、生きていたい、と必死に歯を食いしばって恐怖に耐えていた男の残骸だった。体が痙攣するたびに、涎溜まりは静かに広がっていく。
「……ううッ」
 己の行為が招いたこの結果を、正視できなかった。バトラーは膝をついて四つん這いになった。嗚咽がこみ上げてきた。
 もう、終わりにしてくれ。ここまで必死に耐えてきたんだ。これがゴールのはずだろう?
 終わりにしてくれ……!

「また……泣いているんですね、バトラー」
 背後にダイアモンドが立っていることに、バトラーは気がついた。
「俺は、……どうして、こんな……俺は」
 支離滅裂な事を口走るバトラーを落ち着かせようと、ダイアモンドは背中に手を添えた。
「長い夢になる、といったでしょう。これは、あなたが死ぬか狂うまで終わらない、悪い夢なんです」
「そんなの……俺には、耐えられない……」
「塞いでしまえばいい。目も耳も、……心も」ダイアモンドの声は深く沈んでいた。「全部ソックスバトラーの目で見て、ソックスバトラーの耳で聞いて、ソックスバトラーの心で感じればいい。あなたがあなたでなくなればいい。それで悲しみも忘れられる。……楽になれるわ」
「俺は……」バトラーは、言った。「俺は、バトラーなんて名前じゃ、ない……」
「そうね……そうだったですね……」
 ダイアモンドは靴下を取り出し、バトラーの目の前に掲げた。
「これでどう?」
 怖くなかった。それは、バトラーの心にはむしろ、安らぎをもたらすものだった。
「どうして欲しいですか……私に」
 ダイアモンドは問う。
「狩ってくれ」少し間をおいて、しかしためらわずに、バトラーは答えた。「俺をこの世から……消してくれ」
 右手に持った靴下を、ダイアモンドはバトラーの鼻先に押しつけた。
 バトラーは、この世の最後のものとなる香りを、思い切り吸い込んだ。

 靴下は、新品だった。

 バトラーは、ただ速やかなる死を静かに待っていた。だからこそ、靴下が新品と気がついたとき、バトラーはずるりと手足を投げ出し、力無く床にくずおれた。
 恥ずかしさのあまり、死んだふりをしたのだ。
 ソックスロボと視線があった。同じ視線の高さで、そのうつろな表情をのぞき込む。あの体とこの体、何が違うというのだろう。心音が、無機質に拍動し続ける心音があるかどうか、ただそれだけの違いがあるに過ぎない。
 つまりは、それだけのことだ。
 恐怖は、もうなかった。死んでしまったのだ。靴下で人を狩ることを恐れ続けていた、哀れな少年のちっぽけな魂とともに。
 ……俺は、ソックスバトラーだ。
「立ってください、バトラー」
 ダイアモンドはいつもの調子で言い、ソックスロボの靴下を狩るように無言で指示した。が、その声にいつもとは違う感情がこもっているのを、バトラーは聞き取っていた。
 どうしてそんな哀しい顔をする? ダイアモンド……君が俺を、楽にしてくれたんだ。
 この状況にあって人の心配ができることを、バトラーは面白いとすら思った。まるで一人の自分が高みからもう一人の自分を見下ろしている、そんな錯覚にかられているようだった。
 バトラーはソックスロボの靴を脱がし、靴下を奪い取った。
 ダイアモンドは、静かに息を吐き出した。
「ソックスハンター協会へようこそ……ソックスバトラー」

 

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