第9話 靴下の闇の中へ


 すっかり道に迷ってしまった。
 人っ子一人見当たらない路地裏で、中村光弘は途方にくれていた。自由気ままな一人旅と浮かれて、無目的に出歩くべきではなかった、と光弘は後悔し始めていた。
 春から戦車学校へ行くこととなったのを受けて、光弘の両親は彼に福岡旅行をプレゼントしたのだった。幻獣戦争のこのご時世、隣県に行くことですら「旅行」なのである。表向きは戦車学校入学記念だが、その裏には、いつ死が訪れるとも知れぬ仕事につく前の自由時間を悔いなきよう過ごしてもらいたい、という両親の思いが込められていた。だが所詮十五歳の子供である光弘は両親の気持ちを汲み取るには至らず、旅行先では大いにはっちゃけた。
 その結果が、これだった。
 いい加減日も沈みつつある。しかし、路地裏はあまりにも複雑で、入り組んでいた。日没前に迷路を脱出できる見込みは薄い。そして、日没してしまえば脱出はますます難しくなる。光弘の焦りは刻々と増していた。
 せめて人に道が聞ければいいのだが、人どころかねずみ一匹すら見当たらない。おそらくは、幻獣戦線の接近により放棄された区画なのだろう。あるいは、実際に幻獣の蹂躙を受けたのかもしれない。
 とすれば、日没はますますもって危険だ。気持ちだけをはやらせながら、光弘は歩いた。道はわからなくとも、歩きつづけるよりなかった。
 そんな時だった。わき道の物陰からぬっと人が現れたのは。不意をつかれて光弘は驚いたが、すぐに気を取り直すと、すぐさまその人物に飛びついた。
「すいません! 道に迷ったんで教えてほしいんですが……!」
「…………」
 その男は、上目遣いで光弘を見上げた。
 恰幅の良い中年から壮年の男性だった。よれよれしたスーツを着て、表情も憔悴しきっているが、身だしなみさえ整えれば為政者としても通るだろう、という雰囲気も持ち合わせていた。たとえば、熊本市長とか。
「いいところで会えました……」男は、光弘にすがり付いてきた。明らかに、光弘の言葉を聞いている風ではない。「ああ……私は怪しい者ではありません……」
 見るからに果てしなく怪しいのだが、肩と腕とをつかまれている以上、光弘は逃げることができない。
「どこのどなたか存じませんが」男は、光弘の様子にはかまわず続ける。「これを……最寄の警察か……熊本生徒会風紀委員に持っていってください……」
 上着のポケットから何かを取り出し、光弘の手に押し込む。
 それを見て、光弘は驚いた。
 靴下だった。
「お願いです……その靴下には、『ソックスハンター協会』の実態を暴く貴重な情報が収められているんです。これさえあれば奴らを一網打尽にできるんです」
「……???」
 もちろん、光弘には男の言葉が理解できず、目を白黒させるばかりだった。
「私はもうダメです。奴らに目をつけられました。だから……お願いします」
 一方的に男はまくしたてると、再びもと来た道へと戻っていった。
 自分の常識から激しく逸脱した出来事だったため、光弘はしばしの間呆然としていた。が、やがて自分の手に一本の靴下が握られていることに改めて気づいた。
 光弘は男の跡を追った。といっても、男の足取りは蝸牛のごとく遅い。追いつくのにさほどの時間もかからない。
「なあ、これはいったいどういう……」
 やや遠間から声をかける。その時、男がばたりと倒れた。
「……やれやれ。大丈夫ですか?」
 男は見るからにやつれていた。だから、倒れるのも不思議ではない。しょうがないなあ、と思いつつ光弘は男を助け起こそうとした。しかし、男はぐったりとしたまま動こうとしない。
 と、異常に気がついた。男は涎を垂らしていた。そして、呼吸をしていなかった。
「…………!?」
 うつ伏せになって横を向く男の頭のそばには、一本の靴下。
 気配を感じて、光弘は路地裏の奥に視線を投げた。
 道の奥、冷たい双瞳が、光弘を見ていた。
 頭に青いバンダナを巻き、青いズボンをはいた少女が、立っていた。
 光弘は本能的に悟った。この少女が、今ここに落ちている靴下で、この男を殺したのだ、と。
 靴下を拾うと、脱兎のごとく逃げ出した。
 逃げながら、背後を振り向く。少女が、光弘の跡を追ってくるのが見えた。

 何日かが過ぎた。
 光弘はとある廃ビルの一室に身を潜めていた。
 いまだに追われているのは、間違いなかった。見つかった瞬間、靴下を嗅がされて殺される。死への恐怖が、光弘に思い切った行動を取らせるのをためらわせていた。光弘は、隠れ場所から逃げ出せずにいた。ここは熊本から遠く離れた異郷、福岡。誰を頼ることもかなわない。
 だが、もはや限界だった。光弘自身の忍耐力はもちろん、もうすぐあの少女がこのビルを発見するに違いない。
 ポケットに突っ込んだ靴下を、手にとって見る。男に渡された靴下と、男を殺した靴下だ。どういう理由かはわからないが、おそらくあの少女はこの靴下を奪還すべく男を追い、殺したのだろう。ということは、この靴下を返してやれば、俺を見逃してくれるだろうか?
 その問いを、光弘は頭を振って否定した。そんな都合のいい話が期待できるものか。現に、あの女の子は男を殺しているんだ。つまり、俺を待っているのはあ靴下を嗅がし殺されるという運命だ。
 …………
 …………
 …………
 ……そうだ。
 じゃあ、嗅がせなきゃ……
 嗅がせなきゃ……
 嗅がされる前に、嗅がせなきゃ……

「……だから」ソックスバトラーは、うわごとを口ずさむかのように、喋りつづけた。「俺は手元にあった二本の靴下で、俺の隠れ場所をみつけたダイアモンドと戦った……そして、あっさりと靴下を嗅がされた」
「そん時のことは、ちょっとソックスバットから聞かされててなあ」マーチャントは微笑を漏らした。「『ふフフフフ! 彼は素人であるにもかかわらずダイアモンドの手から三日間も逃げ回ったのですよ! 素晴らしい! すゥばらしいィ!』とかえらい興奮しとったわ。ま、今やったら、あいつが興奮してたのもよォわかるわ」
 が、その柔らかな口調も、バトラーの受けた衝撃を和らげるには至らなかった。いや、和らぐはずがなかった。
「どうして、どうして今ごろそんなことを思い出させるんだッ!」
 我知らず、怒鳴っていた。
 す、とマーチャントは表情を消した。
「自分に選ばせたるわ。今なら、自分が記憶を取り戻したことを知っているのはウチしかおらん。……逃げるなら今のうちや」
「…………なッ」
 なんだって?
 バトラーは一瞬、自分の耳を疑った。
 あろうことかソックスハンター協会の幹部ともあろう人間が、逃亡をすすめるだなんて。バトラーはマーチャントの言わんとすることを理解できず、呆然とした。
 真剣なまなざしで、マーチャントはバトラーの目を見返した。
「協会の中でのウチの微妙な立場は知っとるやろ? ウチは信頼に足る、そしてしかるべき実力を持ち合わせている同志が欲しいんや。そして、自分こそウチが欲しい人間なんや、ソックスバトラー」
「…………」
 ではなおさら、何故逃亡をすすめるのか。当然の疑問がバトラーの胸に浮かんだが、それを制する形でマーチャントは語を次いだ。
「でもな。ウチ、信頼しあう者同志に二心とか隠し事とかあったらいかん思うねん。だから、自分に選ばせたる。事実を事実として受け止めた上で考えてや。ウチは自分が欲しいけど、自分にはすべて納得ずくの上でウチといっしょに行く道を選んで欲しいし、そうでなきゃあかん、と思ってる」
「……俺が実力を持ってるだなんて、そんな。買いかぶりだ」
 やっとのことで、バトラーは反論した。急な自体の展開に頭がついていかない。とにかく、何か反論したかった。
「ダイアモンドのほうが力が上ってのは誰の目にも明らかだ……」
「ダイアモンドじゃ、あかんねん」マーチャントは首を振った。「たしかにあいつの腕は確かやけど、所詮はロボットや。任務を完璧に遂行することはできるけど、自分で考えるってことがでけへん。ウチが要るのは、自分で判断し、自分で行動できる人間なんや」
「……もし俺が、逃げてしまったらどうするんです」
「そん時はそん時やね。縁がなかった思って諦めるわ。ただ、逃げるなら早いほうがええで……時間が立てば立つほど、逃げるのは難しくなる」
 マーチャントは席を立った。そして、笑みを見せた。今まで幾度となく見せてきた、無垢な少女の笑みだった。
「さ、選択権は与えたで。どうするにしても、後悔のないようにな」

 マーチャントに見込まれてしまったのだ。そのこと自体が良いか悪いかどうかはともかく。
 マーチャント邸を辞去し、バトラーは再び指揮車のハンドルを取っていた。
 しかし、あまりのことにバトラーの心は千々に乱れていた。事実、どこに向かっているのか自分でもわからなかった。
 必死になって、状況をまとめる。そう、マーチャントはバトラーに選択肢を与えた。ソックスハンターとして、マーチャントの右腕として、ソックスハンター協会に身を投じるか、それともソックスハンターとしてのすべてを捨てて、以前の生活へ舞い戻るか。ソックスハンターの訓練にふけっていた頃なら、ためらわず後者を選んだことだろう。だが、その時とは違い、バトラーは現実というものを知らされてしまっていた。すなわち、自分が天性のソックスハンターである、ソックスハンターの才能を持つ人間であるということを。そして、ソックスハンターとしてたくさんの人間を狩ってきた、という事実。
 いまさら、元の生活に戻れるのだろうか。あの頃は、ソックスハンターとして活躍する自分を思い描くことができなかったが、いまや、自分が普通の一般市民として生活する姿を思い描けなくなってしまっている。そもそも、自分は本当に一般市民として生活していたのだろうか、と逆に疑問に思えるほどだ。
 不意に、ダイアモンドのことが心をよぎる。一人で逃げた後、ダイアモンドはどうするんだろう。または、どうなるんだろう。
 なんにせよ、一人になって、考えをまとめる時間が欲しかった。だが、あの隠れ家に戻るのは、気が引けた。
 この福岡で、一人になれる場所はどこか。
 漠然と走るうちに、バトラーは自分がどこに向かおうとしているのかを悟った。

 どうやら雨はやんだようだった。
 バトラーは指揮車を止め、久しぶりに廃校舎に降り立った。
 廃校舎は、ここを最後に去った日の姿をそのままにとどめていた。月の明かりを背景に、黒く巨大な影となって、廃校舎は荒野のど真ん中に建ちつづけていた。
 ここがいい、とバトラーは思った。ソックスハンターとしてくる日もくる日も訓練を続けたこの場所こそ、これからの身の振り方を考えるのにふさわしい、とバトラーには思われた。逃げるなら早いほうがいい、とマーチャントは急かしたが、少なくとも一晩くらいの余裕はあるはずだ。
 まず、整備員詰め室へと向かう。ソックスバトラーとしてはじめて目覚め、ダイアモンドと戦い、そしてダイアモンドとともに寝泊りしたあの部屋だ。
 ドアには鍵はかかっておらず、半分開いていた。まあ誰もいない場所ならあきっぱなしになっていても不思議じゃないかな、とバトラーは思った。が、次の瞬間、妙なにおいを嗅ぎ取ると、一挙に警戒心が鎌首をもたげた。
 ドアの向こうからは、ほのかに血の匂いがした。
 無意識のうちに、バトラーはポケットから靴下を抜き取り、構えた。いつでも中からの不意打ちに対応できるようにしながら、慎重にドアを開ける。
「…………バトラー?」
 少女が一人、床に腰を下ろし、壁にもたれたまま、靴下を今まさにバトラーに投げつけようとしていた。
「……ダイアモンド」
 バトラーは、驚いた。そこにいたのは、ダイアモンドだった。地べたに座りこんだまま、ダイアモンドは窓の月明かりを受けていた。
 バトラーの姿を認めると、ダイアモンドは緊張を解いた。
「……どうして、こんなところにいるんです」
「来てみたくなっただけさ。それより、君こそどうしてこんなところに」
「……ちょっと、手違いがあったみたいなんです」
 ……手違い?
 バトラーは、一気に自分の体温がすうっと下がっていくのを自覚した。
 ダイアモンドの顔色が妙に昏いのは、単に月明かりに照らされているだけだからだろうか?
「……ここに来たのがあなたで、助かりました……」心底ほっとしたように、ダイアモンドは言った。「追っ手だったらどうしようかと――」
 言い終わらないうちに、ダイアモンドの体は崩れ落ちた。
「……ダイアモンド……!?」
 バトラーは、やっと血の匂いの発生元を発見した。ダイアモンドのわき腹が、月の光を浴びて黒く輝いていた。銃痕が、穴を穿っていたのだった。
 ダイアモンドは、死に瀕していた。

 

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