いつもと違う日
  ピピピ、ピピピッ……
無意識のうちに手が伸びて、目覚ましのスイッチを切る。
「ふあああぁぁ……」
むくりと起き上がり、ベッドの上に座り込んだまま腕を伸ばして、うーんと伸びをする。
体の節々が伸びて、とても気持ちよい。
ベッドから下りて窓際まで歩いていき、
カシャッ
カーテンを開けると、澄み切った青空が目に飛び込んできた。
「今日もいい天気だぁ……」
天気がいいと何となく気持ちがいい。昨日のアルバイトの疲れも吹っ飛ぶ感じだ。
世間は事件がいっぱいで何かと物騒だけど、こんな景色の前ではかすんで見えてしまう。
人間が考えていることなんて、なんてちっぽけなんだろうと思えてくる。
さっき止めた目覚ましを見てみるとAM8:00を指している。
(さあ、支度しよう!)
私はベッドメーキングを済ませると、部屋を出た。
  階段を降りてリビングに入ると、お母さんはちょっとした用事で出かけているらしくいなかった。
お父さんと兄さんは、早い時間に家を出てもういない。
とりあえず、毎朝の日課であるコーヒーと新聞のセット(コーヒーを飲みながら新聞を読む)で
時間を過ごす。一通り新聞を読み終えて(すでにコーヒーは3杯空けている)、外着に着替えると、
電車の時間まで残り1時間ほど。今日はお昼から授業なので、のんびりモードだ。
お腹が空いたので、エプロンを着けて簡単な朝食を作る。
トーストとハムエッグ、サラダにヨーグルト。ごくごく普通の朝食だけど、天気がいいので
気分はウキウキ。簡単な食事もおいしく思えてしまう。
時間が余ったので、部屋を掃除して身支度を済ませ、のんびりと家を出た。

  私が通う大学は、電車で1時間と自転車で20分ほど走ったところにある。
今日は時間が遅いので、通勤ラッシュにあうこともなく、のんびりと座ることができた。
ちょっとだけ窓を開けると、隙間から風が吹きこんできて気持ちいい。
カバンからウォークマンと文庫本を取り出して、音楽に耳を傾けながらお気に入りの小説を愉しむ。
時折外の景色に目を向けると、農作業をするおじさんの姿が目に入ってくる。何となく微笑ましい光景だ。
電車に揺られること1時間、ようやく大学がある街の駅に到着。ここからは自転車だ。
大学までバスも出ているのだが、本数が少ないのでかえって不弁だったりする。
私が自転車好きということもあり、通学方法は自転車をとっている。
てくてくと駐輪場までの道を歩く。途中、授業が終わったのであろう同じ大学の子を数名見かけた。
駐輪場に入ると、係のおじさん(年齢的にはおじいさんかな?)がせっせと自転車を移動させていた。
「おじさん、おはよう!」
と、私が声をかけると
「おはよう。今日も元気だねぇ」
と、おじさんは応えてくれた。
1年間何かとお世話になっている駐輪場だ。私は割と挨拶をする方なので、ここのおじさん達ともすっかり
顔なじみだったりする。いつもの場所から愛車を引っ張り出し、駐輪場を後にする。
その時にもおじさんに「いってきまーす!」の挨拶はかかさない。

  腕時計を見るとAM10:40、いつもなら最短距離を通って大学へ行って、Eメールの返事を書いたり
図書館で新刊を探したりするのだが、今日は何となく違う道を行きたい衝動に駆られた。
いつもとは反対の方向に向かって自転車のペダルを踏む。1年通っても未だ見ぬ景色が目に飛び込んでくる。
しばらく自転車を走らせると、小さな商店街に入った。
(ふーん、こんなところがあったのか……)
ちょっとだけスピードを落としてゆっくりと走る。ふと、小さなパン屋さんが目に入った。
『ベーカリー・ナカガワ』と看板には書いてある。
(個人の経営なのかな……)
その店に差しかかったとき、いい匂いが鼻を突いた。焼き立てパンの匂いだ。
(いい匂い……。よし、今日のお昼はここのパンにしよう!)
自転車に鍵をかけて店のドアを開けた。
チリンチリン〜
カウベルが鳴る。店に入ると、さっき外で感じた何倍ものパンの匂いが鼻を突く。おいしそうな匂いだ。
焼き立てパンの匂いがこれほど魅力的なものだったとは知らなかった。たくさん買いたい衝動を押さえ、
カスタードクリームが入ったパン、メロンパン、大きなチーズパン(30センチくらいある)を選んでレジへ。
レジに立っていたのは40過ぎくらいのおばさん。
「ここのパンいい匂いですね。焼き立てでしょ?」
と、私が言うと
「ええ。温かいうちに食べるとおいしいですよ」
と、おばさんはにっこり微笑んでくれた。何となくこっちまで嬉しくなる。
お釣りをもらって、おばさんにお礼を言って店を出た。
紙袋に入れてもらったパンはまだ温かい。おばさんの言う通り、温かいうちに食べたいところだ。
(どこか食べるところないかな……)
再び自転車のペダルを踏んで走り出した。

  しばらく自転車を走らせると、1軒の喫茶店が目に入った。小さな1軒屋といった感じだ。
『ラベンダー』という名前で看板がかかっている。OPENの札がかかっていたのと、ラベンダーという
名前に惹かれて、気がついたらお店のドアを開いていた。
「いらっしゃい」
マスターらしき男の人が声をかけてきた。お客さんは誰もいない。
私はカウンターの1席に腰をかけた。目の前でマスターがコーヒーの仕込みをしている。
店内をざっと見回してみる。シックな感じがいかにも喫茶店という感じを醸し出している。
「いい感じですね、ここ」
と、私は言った。
「ありがとうございます。趣味でやっているような店なんで、そう言っていただけると嬉しいですよ」
と、マスターが微笑んで言った。その言葉で、雰囲気は一気に柔らかくなった。
とりあえず、マスターのオススメで、お店の名前にちなんだラベンダーティーを注文した。
正直言って私は紅茶よりコーヒー派だ。でも紅茶が嫌いというわけでもない。
「どうぞ」
オシャレなティーカップに入ったラベンダーティーは、飲む前からほのかな香りを漂わせている。
アップルティーやダージリンでは味わえない香りだ。
ゆっくりとカップを口に運び、一口すすってみる。まいった…、これはおいしい。
やっぱりちゃんと入れた紅茶はおいしいんだなぁ、と思った。
「おいしいです」
思わず声が出てしまった。
「そうですか。それはよかった」
マスターが微笑んで言った。
あっさりと飲み干してしまい、2杯目を注文した。もちろんラベンダーティーだ。
「大学生の方ですか?」
作業の手を休め、マスターが尋ねてきた。
「ええ。でも、今日は授業がお昼からなんです。だからさっき、お昼をそこで買ったんですよ」
私は、ベーカリー・ナカガワでのいきさつを説明した。パンの入った紙袋をポンと叩くと、
チーズのむせびかえるような香りが店内に広がった。
「いい匂いですね、焼き立てですか?」
と、マスターが尋ねてきたので
「ええ。……あの、ここで食べていいですか?」
なんてことを言ったのだろうと自分で思った。恥ずかしさのためか、赤面してるのが自分でも分かる。
しかし、次に返ってきた答えは意外なものであった。
「ええ、もちろん」
マスターはさっきと同じ笑顔で言った。
ホッと一息ついて袋から特大のチーズパンを取り出した。半分にちぎって、片方をマスターに差し出した。
「え、頂いてよろしいんですか?」
マスターが意外そうな顔で尋ねた。けど、私がとった行動に比べればその『意外』もまだマシというものだ。
チーズパンはまだ温もりを残していて、一口サイズに切り取るたびにチーズの匂いがぱっと広がる。
私はしばらくその匂いに酔いしれた。

  ゴリゴリゴリ……
マスターが突然コーヒー豆を挽きだした。それをフィルターにかけ、コーヒーカップに注ぐ。
自分で飲む分なんだろうな、と私は思った。
しかし、マスターはそのコーヒーカップを私の目の前に置いた。
私はびっくりしてコーヒーカップとマスターの顔と目を往復させた。
「パンのお礼です。私のおごりですよ」
と、マスターは言うと、チーズパンをちぎって口に入れた。
目の前に置かれたコーヒーからは、煎れたてならではの香りが湯気と共に立ち上っている。
それがチーズの香りとピッタリ合って、なんとも言えないマッチングである。
チーズパンを口に入れ、コーヒーを飲む。いつも飲んでいるインスタントとは色も香りも段違い。
おいしいパンとおいしいコーヒー、これ以上の幸せがあるだろうか?
それからマスターとしばらくの間歓談した。

「そうなんですよ、その教授ですね……」
と、私が言ったところで
ピピッ
時計のアラームがなった。AM11:50、そろそろ大学に行かないと危い時間だ。
ちょっと残念だが、授業は休めない。
「マスター、ごめんなさい。私そろそろ行かないと……」
と、申し訳なさそうに言うと
「そうかい? 頑張っていっておいで」
と、マスターは言った。
「あっははは……、また来ます」
と、ラベンダーティー2杯分の料金320円を置いて店を出た。
「ありがとう、またおいで」
店を出るとき、マスターが声をかけてくれた。私は嬉しくなって、思わず手を振ってしまった。
外に出ると、強い陽射しが照りつけてきた。そろそろ本格的な暑さがやってくる。
(次にあの店に行くのは夏服を着る頃かな……)
と、思った。どちらにしても、あそこは行きつけになっちゃうんだろうな…、ふふふ。

頬にかかった髪をすくいながら、私は自転車のペダルを踏んでゆっくりと走り出した。
心なしか背筋が伸びて、前向きな気持ちになれそうな昼下がり。

さぁ、行こう!
                                                                          (完)

『あとがき』 これは作者が5月17日に実際に体験した出来事をSS化したものです。 主人公は一応女性ということになっています。話が話だけに文章を柔らかくしたかったもので。 それ以外は、ほとんど作者がとった言動そのまんまを書いています。 でも、作者は変身願望なんぞはこれっぽっちも持ってない健全(?)な漢(おとこ)です。 あしからず(笑)