あの忌まわしい事件から数ヶ月が過ぎた。
その事件の際、耕一と千鶴はお互いの愛を確かめ合い、結婚を約束した。
現在、耕一は大学の中退手続きのために東京に戻っている。
そんなある日のこと……
「梓、お料理を教えてちょうだい」
夕食の支度をしている梓の後ろで千鶴は言った。
「何言ってんの、千鶴姉。無駄だから止めときなって」
と、梓はいつもの調子であしらう。
千鶴はわかっていた。自分の味オンチが極度のものだということ。
そして、料理をするにはとても向かないほど自分が不器用であるいうことも。
「ねぇ、梓ってば……」
今度は少し弱々しく言ってみる。
「あーあ、ふきこぼれちゃったよ。千鶴姉、悪いんだけど
初音を呼んできて」
千鶴の声を遮るように、あたふたしながら梓が言う。
「はいはい」
今は言っても無駄かな、と千鶴は思い、初音を呼びに部屋へ向かった。
夕食後、梓は早々と自室に戻った。もう受験も間近に迫っていて、
最近は専ら、後片付けは初音の仕事となっている。
千鶴は妹たちがいなくなった居間で明日の会議の資料に目を通していた。
会長に就任してから早数ヶ月、ようやく会社の動きにも体が順応してきた。
とは言っても、いかんせん下からの突き上げは絶えない。
足立が何とか支えてはいるものの、男尊女卑指向の強い重役にとって、
経営についてはまるで無知でしかも女性の千鶴が会長役に就く、ということ
に納得がいかないのも無理はなかった。
「ふぅ……」
千鶴はため息をついて書類を綴じているファイルを閉じた。
正直、千鶴は疲れていた。しかし、その疲れの度合いも叔父の死から
耕一が隆山へやってくる1ヶ月の間のそれとは雲泥の差であった。
(もう少しで耕一さんが来てくれる。もう一人ぼっちじゃない)
そんな思いが千鶴に活力を注いでいるといっても過言ではなかった。
さっきまで聞こえていた初音が洗い物をする音もいつのまにか止んでいる。
もう冬も間近で虫の声もほとんどしない。
ふと思い立ったように千鶴は受話器を取り、自分でも分からないうちに
番号を押していた。もう何回も押した番号、東京にいる耕一の家の番号である。
プルルルー、プルルルー、ガチャン
「はい、柏木です。ただいま外出中ですので、ご用の方は
発信音の後にメッセージをお願いします」
どうやら留守らしい。千鶴は受話器を置いた。
しばらくしたらまたかけようと思い、千鶴は軽く目を閉じた。
「……姉、千鶴姉」
耳元で声がする。千鶴は瞼を開けた。
「梓……」
「ったく、こんなところで寝ていたら風邪ひくよ」
いつのまにか居間で眠っていたらしい。
「今何時?」
「もう午前2時を回ってるよ」
「そう……」
こんな時間じゃ電話は無理ね、と千鶴は思い目の前にいる梓に視線を向けた。
「けど、梓こそこんな時間まで何をしていたの?」
「何って、受験生が勉強することがそんなにおかしい?」
「あ、そうか」
「千鶴姉こそ明日朝イチで会議なんだろ。早く寝ないと」
梓はマグカップを持って台所に姿を消した。
「そうね……ねぇ梓、夕方言ったこと覚えてる?」
「え、まさか料理を教えてって言ったこと?」
台所から梓がマグカップを2つ持って戻ってきた。
「はい、熱いよ」
梓はマグカップの一つを差し出して千鶴の横に腰を下ろした。
「で、急に料理を習いたいなんて、いったいどういう風の吹き回しなわけ?」
「……」
千鶴はうつむいてコーヒーを一口すすった。
「耕一に食べさせてあげたい、だろ?」
「別に……そういう訳じゃないわよ」
「隠しなさんなって、顔に書いてあるよ」
「私は別に……、もう来年は24だし、そろそろ女らしいこと
も覚えないと、って思っただけよ」
「じゃあ教えてあげない」
「何で?」
「千鶴姉が作った食べ物は人の食べ物じゃないから」
「な、何ですって〜」
「というのは冗談。そうだよね、このままじゃ耕一がかわいそうだ。
奥さんの料理が毒物同然じゃあねぇ……」
「……」
「しょうがない一肌脱ぐか」
「じゃあ……」
「うん、教えたげる。けどあたしは初音みたいにやさしくないからね、
覚悟しなよ」
「……うん。……ありがとう梓」
千鶴のマグに涙が一滴落ちた。
翌日から千鶴の猛特訓が始まった。梓は懇切丁寧に、包丁の握りから
調味料の味まで、持てる力を12分に発揮して徹底的に教え込んだ。
飲み込みは悪くなかった。基本の基本から学び直した千鶴の
料理の腕はゆっくりではあったが確実に上昇していった。
そしてさらに数ヶ月が過ぎた……。
4月、きりのいいところで大学を中退してきた耕一が柏木家にやってきた。
ただし今度は客としてではなく新しい家族の一員として。
梓は、千鶴が卒業した国立大学に(耕一いわく)奇跡的に合格し、
これまで通り自宅から通学することになった。
楓は高校3年生になり、本格的に受験勉強を始めた。
「あの子はしっかりしているからきっと大丈夫」
とは千鶴の弁。
初音は勉強に家事にと大忙し。最近は、友人に誘われて始めた
フルートが面白いらしく、しばしば練習の成果を姉たちに披露している。
そして……、
千鶴はかねてからの約束通り耕一と結婚。同時に鶴来屋グループの会長の座を
耕一に譲り、現在は専業主婦。
数ヶ月前とはうってかわって、今では家事全般をある程度は
こなすことができるようになっていた。
そして今夜も柏木家の食卓には梓の料理のほかに千鶴の料理が
一品並んでいる。食卓を包む笑い声とともに……。
(完)