江のほとりにて Y'S 作
そのとき彼女は江の女神に見えた−−
輝石をあしらった羅紗の着物をまとい、簪は陽光の分身たる黄金。
差し伸べられた手は暖かく華奢だった。
「何を…していたの?」
声と口調の幼さに改めてその面差しを見上げれば、まだほんの小娘だった。
何をしていた、と問われても応えようがないのは、俺のしていたことの愚かしさ故である。
身体を半分、失うような手傷を負って崖から落とされ激流の底をはるばる流れてきたなどと語って誰が素直に信じるだろう。
だから、俺はより現実的な問いを娘に返した。
「ここはどこだ?」
水底から引き起こされた男の質問としては至極まっとうだろう。
「ここは建業城の水場よ」
「それはまた…戻るのが大変そうだ」
いったい、何百里流されてきたものやら。
「ねえ、いい加減に水から上がったら? 唇まで真っ白よ」
娘の言い様に俺は苦笑する。
服を着たまま、水の中に座り込んでいる男など当たり前にいるものではない。
だが、いざ立ち上がろうとすると自分がひどく弱っていることを思い知らされた。
大河の流れに抗い続けた筋肉が裂けそうなほど軋んでいる。
目に見えて膝が震えていたのか、娘はもう一度、手を差し伸べてくれた。
やっぱり暖かい手だった。
その暖かさをもたらすもの、柔らかな肌の下にある生きた流れを思った瞬間、俺はふたたび溺れたくなった。
血は我らが眷属の糧。この娘の血を奪えば、すぐにも帰途につく力を取り戻せるだろう。
立ち上がらせてくれた娘の手をそのまま離さずに抱き寄せ、首筋に顔を伏せる。
また殺してしまうのか、と思った。
恨みも喜びもなく、人の血を啜って生きるこの不条理。
だが、身体は己を保持する手段を心得ていた。
首筋の熱い脈を探り当て、牙を差し込む。
命の髄を含んだ瞬間、馴染んだ味と同時にあるものに気づいた。
この娘は別の命を育んでいる。
まだほんのかすかなものだが、その存在を感じる。
慎重に牙を抜き、傷口を手でそっと塞いだ。
身重の女を襲ってはいけないという掟はない。だが、人間の狩人でさえ子連れの獲物は見逃す。
よほどの緊急時でなければ一度にふたつの命を食らうのは避けるべきだ。
今がその緊急時でないとは言えないけれど。
「十月十日の後におまえは子供を生むだろう」
耳元にそう囁くと、硬直していた娘はようやく息を吹き返した。
「そう…なんだ」
娘は不思議そうな声で、だが疑うことなく俺の言葉を受け入れた。
「その子供はもしかしたら…少し人とは違うかもしれない」
明確な根拠はなかったが、ふとそんな言葉が口をついていた。
命の萌芽の時期に魔素に触れてしまった子供がどうなるのか、自分の知識にはない。取り返しのつかないことになるかもしれないし、順応性の極めて高い時期だから何事も起きないかもしれない。どちらにせよ、子供には、どのように生まれつこうと、その責任がないのも明白だった。
「たとえ何があろうと愛しみ育ててやってくれ」
「わかったわ」
娘は拍子抜けするくらい、力強く即答した。
腕を解いて足元に座り込んだ俺の側に、娘はしゃがみこむ。
「ねえ、貴方−−」
「もういいんだ。しばらくこのまま休ませてくれ」
「あ、そう」
娘は逡巡することなく立ち上がった。
城の方から娘の名を呼んで捜し回る気配が近付いてくる。
「孫瑛というのか、おまえ」
「そうよ」
娘−−孫瑛は答え、傍らの樹木から石榴果をもいで俺に手渡した。俺が飢えているのを察したか、あるいは何かの証しのつもりかもしれない。
「子供のこと、わざわざ知らせに来てくれてありがとう」
何か誤解しているようだったが、訂正する気も起きなかった。
「貴方が帰るとこ、見られないようにしばらく誰も入らないように言っておくわ。ゆっくり休んでいってね」
「おい−−」
遠慮なく去ろうとする孫瑛が惜しくて、ついつい引き止めたくなったが、笑ってごまかした。
一度、手放した人間だ。これ以上、未練を残すのはよくないだろう。
俺は赤く透ける種のみっしりと詰まった石榴果を掌に収めた。
未練ではなく−−望みならいいだろうか。
ふとそんな思いが過る。
魔性に身を堕してから未来に希望など持ったことはない。
だが、今は十カ月先のことを考えている。
あの娘から生まれてくる子供に会いたかった。
もはや生まれることのない、俺の血を継いだ子供の代わりに、その子を俺の子だと思ってみたかった。
幻想でもいい。真実のない虚構でも。
−−そして、それは覚めない夢となった。
<紅蓮篇/了>
これの孫瑛篇をGMが書いてくださいました。あわせてご覧ください。
石榴果(ザクロの実)…この果肉は血の味がするって俗説があり、なおかつ(古代中国では)果実は女性から男性への求愛の贈り物であること、そして多産の象徴だったりもするんですが、孫瑛はきっとそんなこと知らないで渡してます。陸遜LOVEですから(^^;)