クロスロード (Y's 作)
闇を見透かす目も、昼の間は常人とさして変わりない視力しか得られない。
むしろ、この晴天の下ではまともに外を眺めるのも困難ではないかと思われた。白粉よりも細かい砂漠の砂に照り返る西域の陽光はあまりにも容赦がない。
紅蓮は麻織りの天蓋を突き抜けてくる和らいだ日差しにさえ顔をしかめて、日干しレンガの壁際に身を寄せた。
さっさと用を済ませて涼しい半地下の部屋に戻りたい。
バザールの商人たちはなんだってこんな時刻に市を開くのか。もっとも、夜は夜で怪しげなものを売りさばく男たちが通りを賑わす交易の街であった。
「何か買っておくれよ、旅のお兄さん」
人待ち風情の紅蓮の前に、背負子を担いだ子供がやってきて荷物を下ろす。近在の村の子らは、十歳にもなればこうして日銭を稼ぐのだ。
「食い物なら間に合っている」
「違うよ、食べ物じゃない」
子供は木箱の蓋を開いてみせた。
中には様々な材質の織物が仕舞われている。まともに衣服を仕立てるには小さすぎ、詰め物にするには値の張る、要するに中途半端に余った端切ればかり。
子供は器用にその端を引っ張り出して陳列した。
織物工場の余り物か、仕立て直しの古着から切り取ったものか、はたまた何処かの墳墓や寺院から盗んだものか、いずれ、出所の知れない品々だった。
それは、こんな中華の版図の外れにまで足を延ばした旅人も同様。
「俺にどうしろというんだ、そんなもの」
「女の人に贈ったらいい。きれいだって喜ぶよ」
「そんな口上は、夜になってから花街でするもんだ」
「ほら、これなんかどう?」
子供が差し上げてみせた布には目もくれず、紅蓮は子供の顔を覗き込んだ。子供の目は鋭いほどの青色だった。
「漢人じゃないな」
この西域には稀に宝石のような目をした子供が生まれる。雪山と砂漠を越えてやってくる西戎の商人の血を受けた混血児が多くいる土地柄だ。
「髪巾を取ってみてくれないか」
紅蓮の申し出に、子供は一瞬ためらったものの、日焼けした腕を後頭部に回して、頭を複雑に覆っている布を取り除いた。
薄く弧をかく眉と同じ、淡い色の髪がこぼれる。
この地方でも、髪までが漢人と異なる色をした人間はそう多くはない。
あるいは、この子は混血ではなく生粋の西方人なのかもしれなかった。
黄金の髪、天藍の目。
わずかにではあってもそこに、遠く江陵にいる美しい人の面影を求めることができた。
魂に天の火を宿した乙女。
人の命を救うことを生業とする彼女が身を焦がすほどの怒りに我を忘れて紅蓮を殺そうとしたとき、その髪は真夜中の太陽のように金色に変じたのだった。
あの永空にもこんな子供の時代があったのだろうか。そう思うと、ふと笑みが零れる。
「ねえ、もういいだろう−−」
子供は焦れたように視線を下げた。
自分が商っているのは織物であって、この姿ではない。
「もう少し待て」
紅蓮は荷駄の箱の前に屈み込み、いくつかの端切れを選んで抜き取った。
子供の髪に翳して色合いを確かめる。
「これにしよう」
わずかに銀の光沢を帯びた青い紗の布を手に取り、紅蓮は子供に確かめた。
「鋏と針は持ってきているな」
子供がうなずくと、紅蓮は端を縢って結髪を飾る細い帯を作るよう指示する。子供は路肩に腰掛け、慣れた手つきで裁縫を始めた。
「よう、旦那」
バザールを抜けてきた如才なさそうな小男が紅蓮に声をかけたときだけ、子供は針を動かす手を止めたが、紅蓮と男が待っていたように交渉を始めると素知らぬふりで作業を続けた。耳だけはよく澄まして頭上の会話を聞いている。
「この手紙を江陵に送り届ければいいんですな?」
「それともうひとつ、今、作らせているものも一緒に」
紅蓮の足元に座って針仕事をしている子供を−−正確には、その手の中にあるものを見て、小男は髭の中で笑った。
「奥方ですか? 恋人にですか? そんな方を郷里に残して遥々、こんな辺鄙な場所までいらしているとは大変ですな」
「たまに帰るくらいが刺激的でいいんだ。毎日、顔を突き合わせているとこっちの身がもたない」
言葉はぞんざいでも、声音に笑みが含まれている。子供はかすかに首をかしげたが、紅蓮が髭の小男に充分な駄賃を与えるのを上目使いに見て、少なくとも払いの悪い客ではないと安心したようだ。
「できたよ」
指の透ける羅紗のリボンを渡すと、紅蓮は髭の男にそれを託した。
髭の男が去った後、紅蓮は子供が言い出す前に平打ちした銀の粒を渡す。
「釣りはないよ」
「それより細かいのは持ち合わせてない」
「じゃあ、もらっておくからね」
紅蓮は頓着せずにうなずき、残った幾筋かの青い絹糸を子供の膝から摘まみ上げた。器用に編んで紐を作ると子供の手首に結んでやる。
冷たい指に触れられた跡を撫ぜて、子供はつぶやいた。
「自分で結びに帰ってあげられないから、その身代わりかい?」
「これはお護りだ。この青はおまえの髪によく似合う色だろ」
「うん、綺麗だ」
「おまえがいてよかった。あいつはおまえと同じ髪の色をしているんだ」
眩しげに目を細めて見つめられ、子供は驚いたように紅蓮の顔を見上げた。
「嘘じゃない」
紅蓮が保証すると、子供は目を輝かせた。
好奇、あるいは嫌悪に基づく扱いを受けたことはあっても、この髪ゆえにいい思いをした経験がこれまでなかったのだろう。
「会いたいな、その人に」
子供がふと口にした言葉に紅蓮は律義に応える。
「なら江陵の町医者を訪ねてみろよ。永空はそこにいる。俺の紹介で来たと言えば面倒を見てくれるだろう。俺の名は宋紅蓮だ」
「紅蓮…」
子供は手首に結ばれた紐を弄りながら呟いた。
「江陵って遠いの?」
「ああ、遠い。楼蘭よりも洛陽よりももっと遠い。長江のほとりの大きな町だ」
「そう…」
子供はちょっとがっかりしたようだったが、その胸に希望の灯は確かに移っていた。
長じて、大陸を渡る隊商を率いる立派な商人になったとき、あるいは何もかも失った最悪のとき、江陵と永空の名は記憶に蘇って、先へと進む力を与えるだろう。
「また会えたらいいね」
子供は手を振って紅蓮と別れた。
熱い砂の街で結ばれた約束がいつか千里を越えて語られる日を抱いて。
(了)