江 東妖異譚 2部第11話プレセッション
同盟交渉 (小説版/GM著)
| これは、ウェブ上で行われた同盟交渉を、GMが小説形式にまとめたものです。 |
蜀暦・延熙八年、あるいは呉暦・赤烏八年(245年)二月、
蜀の地を潤す岷江(みんこう)が長江と合流する地*1にて、江の龍神と吸血鬼の
始祖たる始皇帝がともに使徒を遣わし、同盟を模索する為の会談を行わせた。
出席を認められたのは、双方の使徒二名づつと、同盟交渉の発端を作った通称「江陵の魔物達」と呼ばれる一群の半魔達である。
会談の場となる“領域”が無数にある空間の狭間の一つに形作られ、そこへ至る入口として半ばを江の上に張り出した小さな小屋が設定される。定められた期
日に会わせて出席者達がそれぞれの方法で訪れ、次々と小屋の中へ吸い込まれていった。
同盟会談の開始時間として定められたのは、太陽が江の面に沈む夕刻だった。
当事者の一方が陽光を嫌う吸血鬼とあっては、それはごく自然なこと。赤く染まる夕日を背に、羅洽の開いた水の門
から江の岸に上がった「江陵の魔物達」は、蒿理を中心にして小屋の中へと入っていく。
小屋は、この為に新しく造られたとは思えぬほど古びた装いをしていた。あるいは、元からここに建っていたものを利用したのかもしれない。長年の風雪に晒
されて軋みを上げる戸をくぐれば、室内は殺風景だが、意外と小綺麗に整えられていることに気が付く。
小屋の中に入って、しばし周囲を見回す一行の横をすり抜け、案内役となった羅洽が入口の向かい側にある扉を示す。
ここが会場の入口だという羅洽の言葉に、「ただの裏口なんじゃないのか」と思ったものがいたかどうか。小屋の大きさを考えれば、確かに裏口か、せいぜい
物置くらいにしか繋がっていないだろうその戸を羅洽が押し開けると、薄闇の向こうに見えるのは短くとも幅広い石組みの回廊と、その奥にある両開きの大きな
扉。促されるままに回廊へ足を踏み入れれば、とたんに体は世界の変化を感じ取って一瞬揺らいだ。
両開きの扉は、誰が手を触れずとも、人が近付いた気配を悟っ
て自ずから大きく開いた。
迎え入れられた先の光景を目の当たりにして、程度の差こそあれど、誰もが息を呑み目を瞠る。
それは、まさに当代の建築技術の粋を尽くし、その上に魔の力を用いて装飾を施された、驚異の建造物だった。
立ち並ぶ柱は高く伸びて天井を支え、壁は意識しないほど遠くに立てられている。足を踏み出した床の感触は石畳のそれだったが、少し視線を移せば黒々とし
た土が目に入る。
それだけではない。細く続く石畳の両脇には木々や花が巧妙に配置され小川さえも部屋を横切って流れている。さながら庭園の中をゆくような小径の先には丸
い卓が設えられ、丸い屋根がその上に掛けられていた。風雅な四阿のような円卓のすぐ脇には、澄んだ水を湛えた池が、花々に彩られて広がっている。
一個の庭園をそのまま屋内に封じ込めたようなその部屋にはむ
ろん陽が差し込むことはなく、だが効果的に配置された燭の灯をいくつかの鏡が照り返し、室内は申し分ない明るさに保たれていた。窓一つ視界に入らないにも
かかわらず、時折微風さえそよいで、ここが室内だということを一瞬忘れさせる。
羅洽の案内のままに一行は部屋の中へ進み、円卓に設えられた席へ思い思いに座った。
周囲には雑用をこなすための使用人が何人か控えているが、卓には自分達以外の出席者はまだ来ていない。
各人の前に茶が供され、各々が緊張しながら、あるいは周囲への興味を満たしながら時を待っていると、程なくして空気が大きく動き、入り口の戸が音もなく
開かれた。
驚嘆すべき光景に目を奪われることもなく、石畳を柔らかく踏
んで一行の前に現れたのは一組の男女。
彼らが風景の中に加わったその途端、空気が一変した。
息詰まるような濃い魔の気配。風の中に微かに混ざる血臭。燭の火が一斉に揺らぎ、刹那、部屋が闇に落ちる。広大な庭園全てを支配し跪かせるような、力に
裏打ちされた圧倒的な存在感がその場にいるものたちの意識を絡め取る。
いつだったか野営地に飛び込んできた吸血鬼の少年──名を確か莱旃(ライセン)*2と
いった──に先導させて歩いてくるのは、漆黒の長袍を優雅に着こなし、長い黒髪を結い上げもせず背に流した麗人。紅蓮の血の親であり、聖魔大戦の折に一
度、一行の前に姿を現したこともある魔人、怜芝。その半歩後に続くのは、大輪の牡丹をあしらった大袖の袍を身に付
け、緋色の裳を長く引いた、あでやかな赤を纏った妙齢の女性。嫋やかな肢体と繊細な所作を持ちながら、双眸には深窓に囲われた貴婦人とは一線を画す、強い
光を宿していた。
莱旃を背後に控えさせて怜芝が座に着き、その右を女性が占める。
この時点で空いている座は残り一つ。奇異に思った一行が顔を見合わせたその時、再び空気が動いた。
先触れは江を渡る湿った風の匂い。神域に足を踏み入れたよう
な、澄み渡った清浄なる気配。
目には見えぬ光に引かれて全員の意識が向いた小径の先に、大きな影が滲み出る。
先に立つのは、背に翼を負った壮年の男性。漢民族よりもやや彫りが深く精悍なその顔には表情が無く、どこか超然とした印象を与える。身に纏うは、知者の
証たる道士装束。腰には武を担うことを示す二振りの剣。
だが、一行の目を奪ったのは、その男に続いて現れた一頭の獣、否、霊獣だった。
形は鹿に似てなお優美。毛並みは深い青を基調としながら、その背中は見る角度によって刻々と色を変え、五色を秘めている。頭上に戴く二本の角の他に額の
上に短い角を具え、そこから淡く光を放っていた。
角の下にある瞳は英知を湛え、固い蹄を持ちながら足音の一つも立てずに石畳の上を歩む。これこそ神話に伝え聞く仁の獣、麒麟に相違ない。
半魔達の視線を集めながら麒麟は堂々と首をもたげて進み、円卓の脇に広げられた敷布の上に、足を折って体を落ち着けた。その横に、翼人も腰を下ろす。
龍神の使徒達が放つ生命の気配、陽の気が、吸血鬼達の持つ陰
気とぶつかり合い、円卓の上に見えない境界を作り上げる。どちらに寄っても、半魔達にとっては息詰まる、強すぎる気の塊。
居心地悪く身動ぎする半魔達の様子を見て取ってか、使徒達は申し合わせたように気を収め、風はようやく風景にふさわしい軽やかさを取り戻した。
「初めまして、お二方。この席をあなた方と共有できることを喜ばしく思います」
口火を切ったのは、吸血鬼の側だった。立ち上がり、軽く頭を下げながら自ら名乗る。
「私は呂眞、字を怜芝。我が主より此度の件を任されたものです。彼女は楊崔佳。今回副使を勤めておりますが、中華
の外に関しては、些かの知識があります」
紹介を受けた崔佳(サイカ)という女性は、腰を追って礼を示す。だが、視線は麒麟の目に据えられたまま、揺らぎもしない。
名乗られて応えたのは、その麒麟のほうだった。
「我が名は藍樟(ランショウ)。龍神が江を拓きし時よりの盟友。汝らが盟約を結ぶに値するか見極めるのが役目」
深みのある声は、喉を震わせて発せられた音ではあるまい。あらゆるものと意志を通わせるのは、麒麟がもつ特異な力。歯に衣着せない物言いに崔佳の眉が上
がるが、怜芝は一礼して表情を隠し、視線を翼人に向ける。
「私は緋應(ヒオウ)というもの。龍神の命によって、外向きの交渉を主に担当している」
いくらか表情に欠けた声は、しかし不思議と聞くものをひきつける魅力を兼ね備えていた。
おそらく、人間が感じるものとは違う次元の魅力がそこには隠されているのだろう。喩えそれがなにか理解できずとも、抗いようもなく惹かれていく。
互いに名乗り終えて、使徒たちの視線が蒿理ら、「江陵の魔物達」の方へと向いた。
色合いの異なる四つの視線を向けられて、蒿理は一つ大きな息
を吸い、毅然と顔を上げた。
「呉郡陸家の長子、陸蒿理という者です」
短い言葉の後に深く頭を下げる。そこに、ぼそりと低く藍樟の言葉が続いた。
「龍神の御子か──」
「『江陵の魔物達』を纏めている者だよ」
藍樟の声に被さるようにして、怜芝の滑らかな声が言葉を加えた。
崔佳に注釈している風を装いながら、小声で話されたその声は不思議と全員の耳にはっきりと届く。
卓上に戻された怜芝の視線と、藍樟の右目が一瞬交錯するが、それ以上は何もなく両者ともに意識を半魔たちに戻す。
僅かに流れた緊迫の気配に蒿理は小さく息を詰め、ゆっくりと
吐き出しながら仲間達をみやった。
自分が紹介すべきかと蒿理が逡巡している間に、無機的な声が後を引き取る。
「私は李白雲と申します。この中華世界の外側に属する者です。」
背筋を伸ばしたまま言ってから、白雲は隣の少女に視線を落とす。
「彼女は湖静、黄河の女神に連なる者です。」
名前を呼ばれた湖静は不思議そうに白雲を見上げると、それぞれの視線で注視する使徒たちを恐れ気も無く見返した。
微かに眉を顰めた緋應と目が合えばそのままじっと見つめ、翼人の方が根負けしたように目を逸らす。
白雲を皮切りに、他の者たちもそれぞれの流儀で名乗ってい
く。
張平は自分と黎洸(リーファン)を短く紹介して、黎洸ともども頭を下
げ、鳳肋は名は告げずに「居候の寄生体」とだけ自分を表現する。あるいは、それ以上に他者と識別するものを持って
いないのかもしれないが。
蕾陸は仕草と小さな鳴き声で名乗り、微笑んでそれを崔佳に通訳する怜芝の懐から、黒い丸い頭が顔を覗かせる。皮
翼を羽ばたかせて蕾陸の側に舞い降りた刹は、喉を鳴らすと蕾陸の尻尾にじゃれ付き始めた。その様に、殊に崔佳の目
が冷たくなりはするが、少なくとも飼い主達は一向に気にしていない。
最後に蒿理の視線を受けて、機を窺っていた紅
蓮が膝をついた。使徒たちに視線を向けたまま拱手の礼をする。
「宋紅蓮です。
境界(ドミニオン)を越えての提携を調停すべく、この場へお運びになられました御使者たちへ、<江陵の魔物たち>より感謝
の意を伝えます。
我々はこれまで、微力なりに、自分の生きる場所——世界の有り様を模索してきました。
その中で俺が辿り着いた真実は、意見や立場を異にするものを退けるのではなく認めることが、障害を乗り越えた向こうにより広い道を繋げるのだということ
でした。
方々のご尽力により、双方の勢力に利と理解がもたされることを願うと同時に、そのために我々に出来ることがあれば協力を惜しまぬことをお約束します」
淡々とした、だが確たるものを備えた口上を、使徒たちはそれぞれの表情で受け止めた。
満足げに笑む怜芝の隣で崔佳はさりげなく視線を逸らす。緋應の表情は相変わらず窺い知れなかったが、緩やかに尾をそよがせた藍樟は、微かに頷いたように
も見えた。
全員の挨拶が一通り終わったところで、藍樟が耳を立てて上向
かせ、その動きを見て怜芝が口元に笑みを載せる。
「どうやら、最後の参加者が来たようだ。定刻通り無事に始められそうで何より」
誰へとも無く呟かれた怜芝の言葉に被さるように金の光が天井付近に点り、一足飛びに強さを増して部屋に光の橋をかけた。
円卓の付近に忽然と出現した光の柱の面には色彩が様々に移ろいゆき、どこからともなく楽の音が響き芳しい匂いが風に混ざる。
その場にいるすべての者が注視する中、充分に広がった光の中を何物かがゆっくりと下降してきた。
白い虎の背にゆったりと胡坐をかき、鉄杖を手にした白髪の老人、李鉄拐。
「いやいや、遅れたかと思ったぞ。間に合ってよかった、よかっ
た」
宙に浮いたままの虎の上で、泰山の仙人は悪びれるそぶりすら見せずに呵々と笑う。
目を丸くする半魔達に向けて、怜芝は苦笑気味に説明を加えた。
「今回の会談では、中立者に進行を頼みたかったのでね。
地球の使徒にお願いできれば一番良かったのだけれども、彼女はとても忙しい人だからね」
不意にかつての思い人の名を出されて、蒿理の瞳に小さく痛みが過ぎるが、むろんそんなことなどかまいもせずに、みなの上に陣取った李鉄拐は、見えない床
の上で鉄杖を打ち鳴らした。
「では、始めようぞ。中華の歴史の新しい一歩を」
演劇じみた李鉄拐の言葉に反応する者は少なかったが、場の雰
囲気は一変した。
双方の使徒が居住まいを正し、たちまち空気が張りつめる。
「まずはそれぞれの思うところを語ってみるのがいいだろう。どうかね」
剣呑な空気を易々とかき分けて、李鉄拐の声がのんびりと円卓の上に降る。
特に反論がないのを確認して、鉄杖が緩やかに回されて一方を指し示した。
「では、こちらからがよいかな」
指名されて、吸血鬼は口元を綻ばせる。
「それでは、僭越ながら私から発言を致しましょう」
ゆったりと流れる声は淀みなく、全員の上を辿る視線には力みもなく。怜芝は穏やかに言葉を紡いだ。
「我々が根差しているこの中華は、現在未曾有の危機に見舞われています。
古来よりこの地に覇権を及ぼそうとしていた黄天に加えて、地球そのものを脅かすほどの力を持った天界・魔界の二大勢力が、こぞって手を伸ばしています。
しかも、当初それぞれに独自の動きであったものが、次第に有機的に連動する兆しを見せています。
かの三勢力が連合してしまえば、これまでのような個々の勢力による活動では早晩対抗できなくなることは明白です。
まだ相手が完全に連携を取る前に、この地を基盤とする者たちが協力し、相手を各個に撃退することができなければ、我等は寄って立つ地を失うことでしょ
う。
その契機として、また主たる柱として、我等吸血鬼は江の龍神との同盟を望んでおります」
怜芝が口を噤むと、後を引き取るように崔佳が凛とした声を龍
神の眷属に向けた。
「黄天の諸勢力に対しては、古来より抗争を繰り返しておられる龍神様方の方がお詳しいことでしょうから、重ねては申し上げません。
残る二大勢力、天界と魔界については、中華の外では既にこの地球に確固とした勢力圏を獲得していることを付言致します。
この正反対の属性を持った二つの勢力は普段は互いに相争っていますが、他の世界に攻め入る時は同盟を組むことが非常に多く見受けられます。
ここより遙か西の地で行われた侵略では、この二大勢力が同盟した結果、本来そこの地域を勢力下としていたいくつかの神群が放逐されており、いまやそこは
天界・魔界の勢力争いの場となっています。
この二つの勢力に、中華の内情を熟知している黄天が加われば、侵略は予想以上に早く、速やかに行われるでしょう」
「ですから、我々は早急に手を打たなくてはならないのです」
事務的な崔佳の後を受けて、怜芝が言葉を加える。
「是非とも、我々と協力して頂きたい」
静かな熱気を孕んだ言葉を向けられて、だが龍の眷属達は無表情のまま、頷くことはしなかった。
「さて。龍の方々はこれについてどう思っておられるのかな」
李鉄拐の鉄杖に促されて、麒麟の深い瞳が複雑な色調に煌めいた。
「大龍は同盟を組むことに同意して、我等をこの場に送り出した
わけではない」
声に出してそう言ったのは、緋應の方だった。
「同盟という脆き形で事を為すことに意味はない。
我等に貴殿らが従うということであれば、我等の力を貸すこともできるだろう」
感情の一切入らない物言いに、崔佳の眉が急角度に上がる。
「意思が一つに定まらないことに加えて、大龍と貴殿らの主では格の隔たりが広すぎる。
故に同盟という形では到底受けられない。それが私の私見だ」
睨む視線をまったく無視して言い放たれた言葉に、崔佳が憤然として立ち上がる。
しかし、彼女が口を開くより前に、深く重い声がその場を満たした。
「人間がこの大地を歩んだ道のりよりも遙かに長い時を、我等はこの地に刻んできた」
藍樟の言葉が全員の声を奪い、意識を絡め取る。
「人の築いた歴史を千も重ねた時の間、地球にも江の上にも異界の勢力がこれほどまでに現れることなどなかった。
人が異界の扉を開き、他の世界の者を呼んでいるのだ。故にこそ、地球の神も人の間より選んだ者に、異界の者の放逐を命じている。
天界の者も魔界の者も、人が呼び寄せた者。ならば、それを打ち払うのも人の役目。
そうではないのか、人の間に生まれ、人と交わり暮らす子らよ」
麒麟の言葉は吸血鬼たちよりも、むしろ半魔たちに向けられた
ものだった。
何か話そうとした崔佳を怜芝が視線で押しとどめ、崔佳が腰をおろす空白の時間に白雲の声が滑り込む。
「つまり、他人のせいだから、自分達は何もしないという訳ですね」
全員の注視を受けながら、無表情なままに藍樟を見やる。
「龍神様の眷属といっても、人間と変わりはないのですね」
「白雲。口が過ぎる」
あまりにもあからさまな挑発──無論、言った当人にそんな意識は無く、単純に思ったままを口にしただけなのだろうが──を、さすがに蒿理が低く窘める。
もっとも、その内容までを否定したわけではない。
蒿理に止められて一応口を閉ざした白雲に左の目線を向け、麒麟は耳を少し後ろに倒した。
「己の本分にのみ全力を尽くし、他者の領分に干渉はしない。それが本来の生き物のあり方だ。
本来の己の領分から外れて、他者に干渉を行うのは、人間の特質ではなかったか?
人が為したことに我等が干渉するは、また我等の本質に外れること。
人間の領分を侵すつもりもない。それが許されるわけでもない。
我等が手を出す理由も余地もないと見るが?」
藍樟の眼差しを受けて、白雲はむろん顔色一つ変えはしなかったが、蒿理は息を呑んで口ごもる。
その様子に目をやってから、紅蓮が発言を求めた。
「ご下問にお答えします。
ご指摘のとおり、我々は地球の使徒について直接に知る機会を与えられました。
何故、地球の使徒があのような形で人間に限って選ばれるのか、そこにはやはり動かしがたい意味があると、俺は考えています。
半魔として生きてきて、俺は人間の持つ「力」を知りました。
それは、「叶える」という力です。
多かれ少なかれ、人間は誰もがその力を持っています。
崔佳女史よりもたらされた西戎での情報——いくつかの神群が放逐されたという事件は、天界や魔界が手を下したことではありません。天界・魔界、それぞれ
の陣営に取り込まれた人間たちが、古き神々を「不要だ」「この地から出て行け」と願った結果なのです。ドミニオンを持つ者が異形に成り果ててしまっ
た例とてある。
もし、この地が侵略されたならば、いつの日にか人間は、すべての夜に明かりをもたらし、長江を埋め立てることすらやってのけるでしょう。それが人間の
力——《世界律》すら変えることのできる力です。
しかし、人間のほとんどが己の力に自覚がなく、また、自分が真に叶えたいことを知っていることが少ないのもまた事実です。
地球唯一の使徒が中華の出身だから今回の問題は中華に住む者たちで解決すべきだとか、彼女は女なのだから、地球を護るのは女の役目であるとか、そんな類
の責任の押しつけあいをしているうちに、声の大きい者に飲み込まれてしまうのが人間の弱さです。
そんな人間たちが中華に住みたいと願い、それを叶える力を使い続ける限り、避けては通れぬ問題に我々は直面している」
長い台詞を言い終えて、紅蓮は一つ大きな息をつく。
それでもなお、言い足りないことがあると見たか、藍樟は全員の発言を押さえて、静かに先を促す。
紅蓮は、緋應の無表情な顔に視線を移し、それと、と言葉を継いだ。
「未だ、議会での発言権も持たぬ吸血鬼の俺*3が真祖のことを語るのは不遜ではありましょうが、それでも俺なりに
知っていることがあります。それは、陛下が
物事を為す基準は、善悪でも利潤でも信義でもなく、「それは己が為すにふさわしいか」であるということです。度量衡の統一も、長城の造営も、焚書坑儒
も、そして江の龍神との同盟も、あの方が為すに足るとお考えになられた事業——言い換えるならば、歴史へ打ち込む楔です。
龍の使徒に申し上げます。江の龍神から、同盟をするなと命じられてきたのであれば、今、ここで仰っていただきたい。だが、俺はそうではないと思ってい
ます。
中華の危機に直面して、為すべき努めをわきまえて行動することのできる者は、取るに足らない者ではない。たとえそれが、一個の人間であれ」
「我等は、人間を過小に評価しているつもりはない。だが、過大
に評価するつもりもない」
紅蓮が口を閉ざし、沈黙が落ちた卓の空気を、藍樟の声が覆った。
「人とは恐るべき活力を持った種族だ。種の保存に必要なもの以上の力を持ち、故に他のものに過剰な影響を与えている。
だが、所詮は短命の種族。これまでに地上に君臨した他の種族と同じように、いずれは滅び去るだろう。
人間のもたらす悪しき影響がより大きくなるのであれば、我等は他の生き物を集め、この世界から我等を切り離して、その時を待てばよい。
おそらくは、さほど遠くない時に、人間は自らの手によって自らを滅ぼす。我等にとっては、待つと言うほどの時間が必要なわけでもない。
そう考えるのが、我等の本分にもっとも忠実な結論であろう」
言い切った麒麟の後を継いで、緋應が相変わらず無表情なまま、言葉を加える。
「だが、大龍は今回の件が人の手に負いきれないものであることも承知している。だからこそ、この場を設けることに同意したのだ。
人間が自分たちを救おうとするなら、それを否定することもないし、そのための力が足りないと言うならば、手を貸すことにもやぶさかではない。
ただし、指示の系統が並列していくつも存在するというのでは、効果的な力の糾合はできないだろう。それでは受けられないと言っている」
緋應の視線が蒿理を見、半魔達の上を流れ、そして、始皇帝の
使徒に向けられた。
「この地に住まう者を纏めるのであれば、大龍をおいて他にふさわしい者は無い。それでこそ、我々龍の眷属も存分に力を発揮できようというもの。
それができないと言うのであれば、貴殿らの願いに応じて力を貸すという形も取れるだろう。
いずれにせよ、同盟という形には不備を感じる」
緋應の言葉が始まった直後から、崔佳は不機嫌に口を閉ざしていた。態度にはそれほど表していないまでも、目が激情を孕んで赤く輝いている。
そんな彼女の隣に座る怜芝は、当初からの穏やかな笑みを一切崩していない。
「同盟、という形が非効率的なものであるかどうか、それは状況に左右されるものでしょう。
今の我々のように、互いの力量や能力を把握しきっていない者同士が寄り集まり、協力して一つのことに当たるという場面では、特定の者が全てを差配しよう
としても、決して最善の結果を導き出せはしないものです。まして、これからより多くの勢力に協力を求めるというならなおのこと。
互いの得意な分野を告げ、情報と意思の交換を密にし、個々の勢力の能力を最大限に生かすと言うことであれば、ある程度自立した動きが確保できる同盟とい
う形がふさわしいと思われますよ」
一度言葉を切ってから、それに…、と続けた怜芝の声は、秘密めかして低く囁くように変わる。
「互いの立場は了承しているつもりです。
あなた方が必要としているものは、連合の長という立場ではない。違いますか?」
問われた翼人は口を閉ざして黙り込み、麒麟は長い顔を逸らして、視線だけを吸血鬼の顔に残す。
「我等は我等のすべきことを為すのみ。今までも、これからも」
応えた藍樟の声には、僅かに何かを押し込めたような響きが含まれていた。
使徒とは所詮戒律に縛られる生き物。当の使徒たち同士こそ、
相手を繋ぎとめている軛を感じ取っていただろう。
藍樟に掛かる鎖に触れたことを察知し、怜芝は思案する素振りで口を噤む。
それ以上藍樟が言葉を継ぐことも無く、副使たちもまた牽制しあうような視線を見交わしたのみで動きを見せない。
そうしてもたらされた沈黙は重く、余人が容易に口を挟めるものでもないと思われた。
だが、その見えざる壁を、存在しないかの如くに突き崩してみせたものがいる。
「私には良くわかりませんが、同盟云々ではなく、皆様が最大限に力を発揮できる状況が必要という事でしょうか?」
淡々とした白雲の物言いに、声を向けられた麒麟は尾をはたりと振る。が、人間に理解できる範囲での返答は無い。
無反応に近いそれを気にすることもなく、白雲は言葉を続けた。
「もちろん、人間が中心になるべき問題なのは私もわかっています。」
視線は先ほどから黙している蒿理の上に移り、感情が映らない筈の瞳には不可思議な光が加わっている。
「となれば私は、人間と龍神との懸け橋となるべき者が中心となり、力を束ねなければならないと考えますが。」
決断を促すようなその声音に、蒿理は眉を寄せて白雲の顔を見返していたが、やがて、全員の視線が向けられていることに気付くと、深く息を吸い込んでから
目を上げた。
「どこが盟主になるとか、誰が中心になるとか、そんな議論の前に、私はあなた方にお聞きしたいことがあるのです」
意を決した硬い声は、龍神の使徒たちに向けられている。
翼人は替わらぬ無表情を持ってそれを受け止め、麒麟は長い睫を瞬かせて耳を立てた。
二つの視線の圧力に蒿理は息を飲み込むが、背中を支える仲間達の存在に後押しされて再び顔を上げる。
「もっと根本的なことから、どうかお聞かせください。
龍神様は、私たちとともに戦ってくださるのですか? それとも、最初から、これは人間の問題だから、いくらか手をお貸し下さるだけのおつもりなのです
か?
なにか条件が必要なのですか?
なら、どうか仰ってください。何が必要なのか、私たちに何を求めておられるのか」
震える声が真摯な訴えを紡ぐ。龍神に仕えるものとして生まれた蒿理が、龍神の意志に疑問を持つなど、これが初めてなのかもしれない。握り締めた拳には、
見てわかるほどに汗が滲んでいる。
「持って回った言い回しや、建前論で時間を浪費できるほど、私たちには余裕が無いんです。
互いの求めるものそのものを、本心を伝えあわなければならない時だと思うのです」
言い終えた蒿理の肩が浅く上下していた。これだけのことを口にするのに相当な気力を費やしたのか、上気した頬が淡く染まっている。
交渉の手管からは縁遠いところにある蒿理の発言に、使徒達は暫しの沈黙を持って応じる。だが、そうして再び落ちかけた重い気配を、頭上からの拍手が追い
払った。
「いやいや、あっぱれ。なかなか若いのに、良い見識を持っておるな。
そう。交渉事は誠意と真心、これさえあれば十分よ。
各々がどうしたいのか、正直に言うべきだろうて」
白虎の背に立ち上がって手を叩きながら、李鉄拐が悪童めいた笑みで全員を見下ろしている。
「しかし、この若者ほどには本音も口に出せぬ者が、この場には多すぎるな。
なにか対策を立てているのではなかったかな?」
続けて投げ下ろされた言葉を肯首して、怜芝が後を引き取った。
「この場は、ご承知の通り他の世界から隔絶された閉鎖空間。ここで話されたことは、何者であろうとも──たとえ我々やあなた方の主であっても、他の世界か
ら窺うことは出来ません。
詳しい話ならば、彼女がしてくれるでしょうが…」
怜芝の視線を受けて、崔佳が頷く。
「この空間の構築にはトート・メルクリウス*4理論による分子輻輳法を用いており、多元世界に於いて存在する無数
の次元を一つの位相に集約することで霊的断層と言うべきずれを生じさせ、それによってあらゆる次元時間及び内世界との関係を遮断する壁を造り出して——」
途切れなく言葉を打ち出していた崔佳は、卓を囲む物の誰一人として理解していないことに気付いたか、不意に言葉の調子を変える。
「——この世界にいる者と外の世界にいる者との繋がりを完全に断ち切っていますから、この世界の壁を壊さない限りは、どんな手段を用いても私達がここで何
をしているのか知ることはできないようになっています。簡単なところでは、私達の『血の絆』も今は辿れませんし、そちらがお持ちの『龍の鱗』も、繋がりは
切れているはずです」
崔佳の言葉を全員が理解し、確認するだけの間をおいて、怜芝は穏やかに言う。
「ここでは何に気兼ねをすることもありません。忌憚無く意見の交換を行いたいところですね」
含みを残して締められた言葉の真意を汲み取って、李鉄拐が肩をすくめた。
「とはいえ、上からの目が無くなっても、律儀な龍の使徒方には、なかなか思った通りのことを口にするのは憚りがあろうというところかな」
緋應の目が、やや非好意的な匂いを持って李鉄拐に向けられるが、虎上の老人は気に留める様子もなく続ける。
「麒麟の御仁などはこれまで建て前しか言っておられない。藍樟殿も龍神御自身も、自らを律することに厳しいことよ」
名指しされた藍樟は顔を背けて素知らぬ風を装う。
「ここは一つ、他者の口から龍のお身内の真意なり、あるいは口を重くしている戒律なりを指摘して差し上げれば、まだしも話しやすくなると思うのだが、どう
かな?」
「…しかし、それはあまりにも非礼に過ぎましょう」
仙人の言葉に反応したのは吸血鬼の側だった。
首を傾ける怜芝に答えて、李鉄拐はにまと笑う。
「むろんのこと、使徒同士が戒律を探り合うなど、宣戦布告にも等しい行為だが…ほれ、使徒でない者ならば許されるだろうよ。
あのものらが物をわかっているなら——」
李鉄拐の言葉半ばで、深い声が後を引き継ぐ。
「それだけの敬意を受けて然るべき者ということになろう。
それを指摘できるほどに我等の言葉を真摯に受け止め、その向こうを読むだけの洞察力を備えているならば、この身に課している制約を押してでも、語り合う価
値のある者だ、と認めよう」
そう言った藍樟の視線は、「江陵の魔物達」に向けられていた。
使徒達の視線を受けて、半魔達の間に緊張が走った。
問われているのは、使徒の本質とも言える戒律について。初対面の相手、それも、僅か半刻ばかり言葉を交わしただけの相手の本質を見抜くのは、並大抵のこ
とではあるまい。
それでも、答えられなければこの会談そのものが頓挫する恐れさえあった。
自然と慎重になり、各々が思考に沈む。使徒達も答えを急かすこともなく静かに見守り、猫たちすらもじゃれるのを止めて前足に顎を載せる。
だがこの場合、訪れた静寂は発想に至る道をふさぐものだった。
沈黙と共に生じた焦りは空気を重くし、思考を堂々巡りに追い込む。焦燥感が次第に募りゆき、目的へ至る道を曇らせてしまう。
その危険な停滞を打ち払ったのは、やはり白雲のひと言だった。
「放任主義という事でしょうか?」
場を支配する緊迫感に気付いているのかその表情からは読めないが、小首を傾げて龍の使徒たちに問い掛けるその様に気負いは無い。
「手を出さずに子供を見守る、親や兄のようですね」
言って浮かべた微かな笑みの裏にある感情は、俄かには判別し難いものであったが、
「まあ私自身は単なる道具ですから、皆様の好きなように使っていただいて構わないのですが」
続く言葉とともに蒿理に向けられた視線は、普段、湖静に注がれているものに近い雰囲気があった。
「頼りない末っ子を皆様で支えてはいただけませんか?」
僅かにうろたえた様子を見せる蒿理をよそに、藍樟は吸い込まれそうに深い眼差しを蒿理と白雲に向ける。
「放任主義、と言うのは的を射た表現かもしれぬ。だが、それは結果であって原因ではない」
麒麟の表情もまた、人間には捉え難いものであったが、どこか穏やかに笑んでいるようにも見える。
「無論のこと、龍の御子が望むならば、我等は許される範囲で力を貸すだろう。
龍の御子は我等龍の眷属にも等しい存在ゆえ」
穏やかな断言を受け取った蒿理は、微かに首を横に振って視線を下向ける。自分が望んでいるのは、そんな個人的なことではないのだと、どう伝えたらよいの
かわからなくて言いよどむ。
その時、黙って白雲と蒿理、藍樟のやり取りを聞いていた湖静
が不意に言葉を発した。
「麒麟は仁獣なり。虫を殺さず草を踏まず、聖君の治世にのみ現れる」
突然の声にみなの視線が集まるが、湖静はそれだけを言って口を閉ざした。
明らかに書物の字句をそのまま引用した言葉の意図が読めずに、誰もが困惑の表情を浮かべるが、当の湖静は顔色一つ変えずに皆を見返している。だが、同じ
口からどこか落ち着きの無い声が飛び出した。
「え、えっと、つまりそんな仁獣が、人間がこんな危機に陥っているのに、なぜ黙って見ているか不思議だということみたいです」
自分で言った言葉に自分で頷く。事情を知っている半魔たちはともかく、使徒たちに怪訝な顔をされると、声は慌てて付け加えた。
「あ、私はこの娘に憑いている、梅静といいます…」
「麒麟が人間を救おうとしないのは何故…。麒麟の仁は全てに向
けられ……龍の眷属…?」
使徒たちが納得して頷いている間に、蒿理は湖静と梅静の言葉を反芻しながら思考を練り上げ、はっとして目を上げる。
「龍の眷属か江に住まうものの危機でなければ、力を発揮しないようにと、そう定められているのではないでしょうか」
勢い込んだ言葉に龍の使徒たちは曖昧な視線で応え、蒿理の表情がやや後悔に彩られたものになる。
その肩に、励ますように手が置かれた。
「心配ない。そう外れてはいないはずだ」
蒿理に耳打ちした紅蓮は、使徒全員を視界に収めて、低くはっきりと告げた。
「ご下問にお答えします」
言葉を発する背中の線が普段より幾分硬い。緊張を押し込めながら自論を示す。
「江の龍神より、使徒に付与された戒律は <(己の側から)人間の領分を侵してはいけない>
であるとお見受けします」
考えを披露し終えた紅蓮は、口を閉ざして裁定を待つ。その目には希望に繋がる光があった。
確かに、紅蓮の推測が正しければ、話の進め方次第で龍の眷属は手を貸すこともできるだろう。
ほぼ回答が出揃ったかと思われたそのときに、半魔たちの一角
で微かなざわめきが起こった。
最初に自分を紹介して以来、いないもののように振舞っていた鳳肋が、張平の袖を引いて何か囁いたようだった。
困惑した素振りを見せる張平の後で黎洸が嘶き、卓の下から顔を上げた蕾陸が長い尻尾を振る。
張平がさらに困った顔になったのは、人のままでは彼等の言葉がわからないからだろうか。
魔に戻ろうかどうしようかと張平が自分に残された人間性を顧みながら悩んでいる間に、黎洸が首を振りたてて何かを訴え、藍樟が応えて小さく頷く。
それを見届けて、李鉄拐が鉄杖を虚空の床に打ち鳴らした。
「そろそろ良いかな。では、龍の方々に裁定を頂こう」
求めに応じて麒麟は卓に付く全員を眺め渡し、深く長く息を
吸った。
「我が身に課された制約の最たるは、情に溺れて無闇と力を振るわぬこと。人獣の領域、水陸の境を明らかにし、自ら求めてそれを踏み越えぬこと。
この緋應が掲げし使命は龍神が為にその威光を知らしめ、以て無用な争いを避けること。
我が身か、眷属に矛先を向けられぬ限りは牙を剥かぬのは、龍神が自らに課した縛め。すなわち、我等に共通する掟」
言い終えて息を吐き出し、藍樟は深く頭を下げる。
「汝等を見くびっていた。各々が異なった見識を有し、補完しあって個々の和以上の力を編む。なるほど、『江陵の半魔』は確かに侮れぬもの」
ここに到り、半魔達はようやく対等の席に着いたことを知った。
「では改めて、我々の立場を明らかにしよう」
藍樟と視線を見交わして軽く頷いた緋應は、声を改めて全員に申し述べた。
「我々は、貴殿らとともに外敵の脅威に対抗することを、拒絶はしない。ただし、いくつかの場合に限られる。
一つ。貴殿ら、この中華に住まうものが大龍を盟主とし、大龍の保護下に入る場合。
この場合であれば、龍の眷属すべてを挙げて、異界の者と戦うこともできるだろう。
一つ。一定の形式を踏み、供物を受け取った上で助力をする場合。
この場合は、ある程度限定された協力体制を取ることとなる」
緋應が挙げた条件は、同盟とは程遠いものだった。中華の“人”に対して──むろん、そこには吸血鬼も、おそらく仙人達までをも含んでいるのだが──龍の
優位を主張して譲らないものと見える。
明らかに相容れない条件を示されて、だが怜芝は歓迎するように片手を上げた。
「腹案を明かしていただいたことに感謝いたします。
その御心に対するに、こちらも偽るところの無い本心をもってお応えしましょう」
隣に座る崔佳が居心地悪く身じろいだのは、怜芝の言葉が吸血鬼の議会ではあまり聞かれない類の単語だったからか。
隣を気に留めることも無く、怜芝は言葉を継ぐ。
「龍神の御使徒方と同様、私達にも譲れない一線があります。
我等が皇帝は、他者の下につくのを良しとなさいません。
対等な同盟。それが最低限の条件です」
怜芝が口を閉ざすと、周囲から幾つか溜息が洩れた。
「双方が主張を譲らぬとなると、手を取り合うのはなかなか厳しいように思えるな」
全員の心情を代弁して李鉄拐が述懐すると、怜芝は緩やかに頭を振った。
「そうでもありません。互いの主張を吟味して接点を模索することはいかなる場合であれ可能なことです」
微笑んで言い、指を上げる。
「例えば、今提示して頂いた条件は、私達の側から協力を要請した場合の対応、ということに過ぎないのではありませんか?
龍神様方が独自に外的勢力と戦う場合に、隣で同じ相手と敵対している他の勢力があれば、また違う対応となるのではありませんか?」
「我々から望んで牙を向けることは無い」
「ですが、相手から攻撃を受けた場合は、無抵抗というわけではないのでしょう?」
淡々と受け答えをする緋應から藍樟へと視線を移し、怜芝は念を押すように問いを重ねる。
麒麟は、長い首を心持ち反らした。
「我等は攻撃を受けたからと言って即座に報復するほど狭量ではない。
二度まではそれを許そう。三度重なれば、我等はその相手を見限る。だがそれとて力を以って相手を打ち砕くのではなく、ただ繋がりを断つのみ」
「さすがは誇り高き龍の眷属。低俗の輩とは一線を画しているのですね」
皮肉の色も無く怜芝は言って両の指を組む。
だが、進展を見せないそのやり取りとは裏腹に、怜芝の唇は笑みを含んでいた。
「これほどの制約を定めておられながら、なおこうして私達と手を携える道を模索していただけることに感謝いたします」
「……無論のこと、我等もこの地に住まうものが異界のものに蹂躙されるのを見るのは忍びない。
だが、例外は作れぬ。ひとたび、自ら決めた制約を破らば、際限なくそれを犯し続けることになろう」
視線だけを下げて一礼する怜芝に応え、藍樟は耳を立てる。
「眷属を守るとき、あるいは請願を受け入れたとき以外は自らの牙を用いないというのは我等が無用な争いを避ける上で必要な定め。
龍神自らがそれを破るとなれば下の者に動揺をもたらし、他の魔からは不審を向けられるだろう。
汝らの主が一時であれ龍神に下ることができれば、我等を制するものは無くなるのだが」
「一つの考えに固執しすぎるのは、先へ進む道を狭めることになりましょう。
柔軟な思考を保っていればこそ、最適の解を見いだすこともできます」
藍樟の言葉に直接答えることはせず、怜芝はゆったりと座り直した。
「考えに詰まったら、他者の意見を求めるのも一つの手だと思われます。
ここに、同じ目的を持ったものがこれだけ集まっているのですから、何か良い案も浮かぶでしょう」
穏やかに告げて一同を眺める。
心持ち体を卓から離したのは、発言の機会を他のものに譲るという合図のようだった。
ここまでの流れから、自然と半魔たちの視線が白雲に集まる。
別段、それを負担と思う様子も無く、白雲は少し首を傾げた後に口を開いた。
「この中華世界には義兄弟としての盟約があります」
片手を懐に入れて、今はここにいない義弟の縁に触れつつ、片手は湖静の頭を撫でながら。
「龍神様が兄ということであれば、まさに盟主ということになるのではありませんか?」
そう口にしつつも、吸血鬼たちの方に向けられた目は、これで実質対等な同盟になるのではないかと問うている。
「義兄弟か…」
真っ先に反応したのは緋應の声。感心と、僅かな憧憬さえ感じられる声音であったが、藍樟の視線に薙がれて沈黙する。
代わって応えたのは眉間にやや険を寄せた崔佳だった。
ちらりと正使に視線を送ってから、硬い声を発する。
「いかな義兄弟とはいえ、長幼の序があり悌道を尽くすことが求められます。聖上がそれを是と致しますかどうか」
「吸血鬼というものは、どうにも序列に敏感なものだからね」
微笑んだまま怜芝が注釈を加え、視線を白雲から藍樟に動かす。
「だが、悪くない考えでしょう。何らかの形で義兄弟の契りを同盟の柱に、あるいはそれを補強するものとして組み込むのは、結束を強固なものにすることとな
ります」
怜芝の言葉に緋應は深く頷き、藍樟もまた耳を立てて同意を示す。
「あの…」
一連の受け答えの後で落ちた沈黙を、躊躇いがちに蒿理が破る。
皆の注目を浴びて、蒿理はどこか視線を泳がせ気味に、思考の結果を口にした。
「私は吸血鬼の社会では、紅蓮の子供として認知されているそうです。
紅蓮の親である黎琅君*5は、始皇帝の血を継いでいらっしゃるとか。
だとすれば、私は始皇帝の曾孫ということになります。そして、同時に龍神様の血をひいてもいます。
これをもって、始皇帝を龍の眷属と見なすことはできないでしょうか」
名を出された怜芝は微かに目を細めたが、声に出しては何も言わなかった。
尾を一つ振って藍樟が首を傾ける。
「龍の御子。我等から見れば、その繋がりはやや弱いものに思われる。
それを持って、眷属というのはさすがに強弁の謂であろう。
加えて、龍の眷属と見なして龍神の保護下にあるとするのは、彼等の条件に抵触するのではないか」
麒麟の口調は優しく諭すようだったが、蒿理は恥じ入って沈黙した。
小さく謝罪を呟く蒿理に、正使たちの目はあくまでも温かい。
「謝ることはないよ。どんな意見であれ、解へ続くきざはしの一つになるのだから」
怜芝の言葉に賛同の声が幾つか上がる。
それまで深く沈思していた紅蓮がその言葉に後押しされたよう
に、顔を上げた。
「龍神を盟主となさない代わりに、先程、明示された〈戒律〉——侵略のために力を用いるものではないという条項を、同盟の柱とするのではどうですか」
提示された案を吟味するような沈黙の後で、正使同士が視線を交わし、怜芝がふむと息を吐く。
「あくまで形の上は対等を標榜し、同盟の条項の上で龍神に敬意を表する、というわけか」
「陛下はご承知くださりましょうか」
崔佳が疑問を呈すると、怜芝は首を傾げた。
「どうだろう。龍神の律を奉じる形になるから、難しいかもしれない。
だが、正しく互いが譲歩した形でもあるからね。説得の余地はあるだろう。
龍神にとっても、充分に敬意を示されたとあれば、盟主の座にこだわる必要も無くなるのではないでしょうか」
問われて、藍樟は耳を寝かし、軽く鬣を揺すった。
「考慮に値する。だが、確約は出来ない」
「構いません。ここから話を詰めていけば、折り合う点も見つけられましょう」
動物の言葉を解する怜芝には、藍樟が示す仕草の意味も理解できているのだろう。
短く交わされる言葉の裏で、さらに多くの意志が交わされているとも思えたが、余人には読めない。
「いずれにせよ、侵略を目的としない、という条項を設けることは必要なことでしょう。
同盟はあくまで自衛の手段であり、それ以上にはならないことを明示しておかねば、規模が拡大するにつれて要らぬ嫌疑を招き、無益な野心を呼び寄せること
にもなりますから」
そう告げて複数の同意を引き出し、怜芝は再び紅蓮に目を向けた。
「先ほどから考え込んでいたことは、それだけではないだろう。
本当に言いたいことは別にあるように思えるのだが、違うかい?」
指摘を受けて紅蓮は暫し逡巡する様を見せたが、気を取り直したように体を起こし、「それでは、言わせていただきます」と居住まいを正した。
「確かに制約は遵守すべきものでしょう。しかし、それをして護るべきはこの地とそこに住まう者たちであるというのが本道です。
あえて言うならば、この地を狙う勢力に対する同盟は、何も陛下と龍神によって為されなければならないと決まったわけではない。二大勢力が手を結ぶのは
嚆矢としてわかりやすい図式ではありますが、そのために妥協を強いるならば、盟主の影響力はむしろ有害にすらなりましょう。
驕慢の誹りを甘んじて受ける所存で忌憚ない主張を述べさせてください。
中華の未来を憂いる心のある者ひとりひとりが眷属の束縛抜きに自らの意志で同盟に加わっていただきたい。それぞれが、一個の存在としての価値と誇りをか
けて。陛下も、龍神も例外ではなく」
語るうちに口調が熱を帯び、瞳に真摯な光が点る。
高らかに謳いあげた言葉に、真っ先に反応したのが緋應だった。
初めて見せるような興奮した様子で拳を握り、力強く頷く。
「中華を守る為に自らの誇りと命をかける。それこそまさに武人のあるべき姿」
「我等の誇りは、それとは別種のものであろう」
「それはそうやも…否、誇りとは個々により異なるもの。かく言われて応えぬのでは、我が誇りに傷が付く」
冷静な藍樟の指摘にも熱気を冷まさず、緋應は翼を膨らませて紅蓮を、次いで半魔達を見る。
そうして何か言おうと口を開いたその時、不意に空間が揺れた。
今まで経験したこともない、存在自体を揺さぶられるような揺
れと、玻璃の珠を押し潰すような、耳障りな軋み。
異変は皆が等しく感じ取ったけれども、いち早く動いたのは怜芝だった。
「刹!」
鋭く使い魔の名を呼びながら傍らの崔佳を引き寄せ、袖で包み込む。
呼ばれた刹が皮翼を広げて怜芝の頭上に駆け上がるのと同時、耳に痛い破砕音と共に天井が砕け、光の奔流が吸血鬼達の上に雪崩れかかった。
只の光ではない。質量を伴って眩く輝く、青白い炎の柱が突き立てられている。
驚き見上げた視線の先には、大きく穴を開けた天井と、その向こうに広がる異質な空間、そして、時折煌く白銀の鱗の列。
口から冷たい色の炎を吐き出しながら降下してきたのは、星の光を纏った巨龍。その隣で悠然とはばたいているのは、神々しい光の輪を戴き、巨大な鎌を手に
した人型のもの。
龍が口を閉じれば光の柱が消え失せ、光に呑まれていた二つの影がゆっくりと立ち上がる。
危険な一撃を受け止めて力無く墜ちてきた刹を抱きしめながら、怜芝は皮肉な笑みを唇に刻んだ。
「これはこれは。北斗の龍と“死の天使”サマエルが揃ってのご登場とは。
一体どこから聞きつけられてきたものか。
招待状は差し上げていないはずですが」
「あれだけ性急に空間を拓いておいて、気付かれないとでも思ったか。
目障りな使徒を葬る機会を見逃すつもりはない。
貴様を葬れば、始皇帝なるものが地球に余計な影響をもたらすことも無くなるのだからな」
怜芝に応えて鎌を持ち上げ、一方でサマエルは龍の眷属や半魔達に向けて片手を挙げる。
「我等が敵と見なしているのは、そこの始皇帝の使徒のみ。他のものと戦うつもりはない。
無益な戦いは避けたが良かろう。敵わぬ相手に剣を向けて、無駄に命を散らすこともない」
天井が破られた瞬間に剣の柄を握っていた緋應は、サマエルの言葉で戸惑ったように手を離す。
戦いそのものを厭う麒麟は、立ち上がって四阿から離れようとしていた。
虎上の仙人はといえば、こちらも傍観の態勢で上空に待避している。
「使徒二人を滅ぼすのに悪魔が二体とは、ずいぶんと買いかぶられたものだ」
さすがに緊張した面持ちで呟いた怜芝は、まだ後に控えていた少年を下がらせ、半魔達に向かってもゆっくりと首を横に振ってみせる。
「手を出すのは止めなさい。今の君たちでは到底太刀打ちできない相手だ。
不可能と知れきっていることに挑戦するのは、愚か者のすることだよ」
確かに、準備も何もなく半魔が悪魔に対するのは無謀の一言に尽きる。だが、力の源(パワーソース)から離れている使徒にとってもそれは同じこと。
崔佳を背中に庇いながら懐から剣を抜き、それでもなお怜芝は微笑する。
「残念ながら私は愚か者を強いられているようだけれどもね。
法の信奉者たる彼らが、自分の言葉を違えることはないだろう。
余計な手出しさえしなければ、君たちは安全だ。
さあ、行きなさい」
決然として告げつつ、半魔達だけに見えるように唇の端を持ち上げる。
それはどちらかといえば、策を一つずつ発動させている時の、策士の笑みに思われた———
怜芝の言葉に真っ先に反応したのは、やはり紅蓮だった。
自らの意思を示すように一歩を踏み出し、決して引かないと表情で語る。
その顔が壁際に引く龍の眷属に向けられた。
「これから戦おうという相手の勧めに従い、これから手を組もうとしている相手を見捨てて、みすみす各個撃破の機会を与えるおつもりか」
目に浮かぶのは非難ではなく悲嘆。龍の奉じる仁は、人が生来持つ善と相容れないものかと問うている。
「下がりなさい」
傍らに立った紅蓮へ、怜芝は剣を構えたまま命じる。
「江陵の半魔は、全員で一個のもの。おまえが敵対行動を取れば、おまえ達の全てに報復が行われるかもしれない。
だが、あるいは———」
怜芝の視線が一瞬蒿理の上を行き過ぎ、再び悪魔達の上に戻された。
戸惑う蒿理の前に、張平が無言で立つ。
人の姿でも目立つようになったたてがみを膨らませて、蒿理を守るように、悪魔達を牽制するように低くうなる。
その目が一度だけ龍の眷属達へ向けられ、言葉にならない苛立ちを残して悪魔達の方に引き戻された。
自分は蒿理を守るのだという意思だけがそこに残る。
張平に従って蒿理の前へ出ようとした黎洸は、張平と目を見交
わし、その意思を汲み取って建物の入り口へと駆けた。
風景に溶けこんだまま、じわりと戸口に向かっていた鳳肋の首筋を銜えて、奥へと連れ戻す。
「うわ、なんでだよ〜、いいじゃんー」
騒ぐ鳳肋の言葉は無視されることになったらしい。
半魔達がとっさに大切なものを守るよう動いている中で、白雲
だけは一人呆然と佇んでいた。
胸に渦巻く何かが、行動を押しとどめている。否、心をとらえて放さない。
隣に立つ湖静が不思議そうに白雲を見上げた時、北斗の龍の視線が白雲を捉えた。
「そこにいるのは、我が忠実な僕。*6
我が為に、かの吸血鬼を滅ぼせ」
はっきりと使徒達を示して命じられた言葉に、白雲の体が震えた。
紅蓮の言葉に、あるいは張平の視線に、龍の眷属は動揺を示
す。
再び剣の柄に手を掛けた緋應の動きを、しかし藍樟は首を振って押しとどめた。
「我等の側から牙を交えることは許されない」
戒める声は胆汁のように苦く、重い。
完全に納得はしていないながらも、緋應は剣から手を離した。
動揺が広がり、統制が取れない半魔や龍神の眷属を無視し、北
斗の龍は長大な体をうねらせて怜芝に躍りかかった。
同時に、鎌を携えたサリエルが横手へと回り込み、庇われている崔佳へと突撃を行う。
打ち振るわれた龍の爪を払って、したたか逆撃を与えた怜芝は、次の瞬間、崔佳とサリエルの間に割り込み、身を以て崔佳を庇った。
防御の為に掲げられた黒衣はあっけなく貫かれ、怜芝の体を突き抜けて鎌の先が血光を煌めかせる。
天使に蹴りを放って強引に串刺しから身を振りほどいた怜芝は、もう一度半魔達を、蒿理を見て言った。
「行きなさい。私達だけでは、そうは持たない。だから、今のうちに———」
言葉の終わらないうちに再び迫る北斗の龍のかぎ爪を、怜芝の剣が受け止めた。
「俺はあなたにお供します」
サリエルと怜芝の間に身を立てて、紅蓮は固く宣言する。
「あれを退けねばならぬことを理解せぬ者は我らの中におりません。 あなたの子としての努めだけでなく、江陵の半魔として、紅蓮はここに立っております」
言い切って、身構えながら、龍神の眷属に視線を走らせる。
「龍神・吸血鬼双方が拓いたこの空間に悪魔ふたりが乱入してきたのは、とりもなおさず双方への挑戦に他なりません。また、同盟の意思と同盟を結ばんと集
まった者たち全てへの攻撃に等しい。
師父は龍神の制約を尊重して、すでに三度、その身に攻撃を受けています。
これをもってしても、まだあなた方は傍観に徹するというのですか」
「それは違うよ、紅蓮」
否定の言葉は意外にも怜芝の口から出た。
北斗の龍の攻撃を剣一本で凌ぎながら、首を横に振る。
「私は徒に龍の制約に追従するつもりは無い。
龍が誇り高くあるように、吸血鬼にも誇りはある。その誇りは、攻撃を加えてきたものを見逃すことを許さない。
こうして、直接的に反撃することは愚策ではあるけれども」
そう言いながらも、紅玉の瞳に浮かぶのは戦いに望んでの高揚と見て取れる。
「もちろん、これは我々だけではなく、この場にいる者全てへの攻撃に違いはない。
彼等がなんと言おうと、神聖な対話の場に対する冒涜であることは隠しようも無い」
「藍樟殿…」
緋應からの再度の催告に、麒麟はやはり首を横に振った。
血臭漂い始めた四阿から身を遠ざけ、草木の間に佇んで、もはや言葉も無い。
苛立ちを滲ませて剣の柄を鳴らした緋應の背中で、切迫した蒿理の声が響いた。
「白雲!」
怜芝の振るう剣を北斗の龍が鉤爪で受け止め、打ち下ろされた牙の列を闇の衣が押し留める。
力の均衡したその一瞬に、白雲が戦いの場へ飛び込んだ。
白熱した拳が唸りを上げ、動きの止まった怜芝めがけて放たれる。
同時に、蒿理の声と白雲の動きに気をとられた紅蓮めがけて、サリエルが大鎌を振り上げた。
「させないっ」
気を吐いた蒿理が白雲を止めようと、あるいは怜芝を庇おうと前に走り出す。
それを飛び越えて蕾陸が蒿理の前に立ち、さらに横を追い抜いて張平が疾った。
白煙を上げる拳を体で受け止めながら、張平は気迫を込めて白雲の名を呼ぶ。
「これが白雲の意思なのか? 本当にこうしたいと思っているのか?」
その言葉に白雲からの答えはなく、両者は暫しにらみ合ったまま動かない。
天使の猛襲を受け、紅蓮は歯を噛締めて迎え撃とうとする。
その視界を黒の衣が遮った。
体ごと右へと引かれて息を呑んだ紅蓮に、柔らかな物越しの衝撃が一つ二つと響く。
眼前に血の華が散った。
「師父…」
「心配ない」
目を見開いた紅蓮に怜芝は微笑を向ける。
背中を抉られ、左腕を断たれてなおこの吸血鬼は立っていた。
驚異的な回復力が即座に傷口を塞ぎ始める。だが、すべて癒えるにはさすがに時間が必要と見える。
無論、その時間を悪魔たちが与えようはずもない。
「自動人形だから希望や思いがないなんて言うな。
これまでだって『誰かの為に何かをしたい』って、たくさん思ってきただろう?
その『誰か』…たとえば蒿理や湖静を選んだのは白雲だ」
黙して動かない白雲の拳を掴んだまま、張平は語りかける。
その語調は激しくはなく、ただ熱気を込めて重い。
「今日ここにいるのは白雲自身の意志だ。北斗の龍がそうさせたわけじゃない」
常になく強い言葉で告げて、白雲の拳を押し返す。
「今の白雲の意志を見せてみろよ」
呼びかけに、応える言葉はまだ無い。
「お兄さま」
無表情なままに近寄ってきた湖静に、睨み合う二人の視線が向かう。
おずおずとながら戦う姿勢を見せた湖静を、張平の言葉が止めた。
「やめるんだ、湖静。そうじゃないだろ。
白雲はお前にとって大切な人だろ! その人の意志を尊重するのは素晴らしいことだと思う。
だけど、その人に『私はこう思っている、こうして欲しい』ってことを伝えるのだって大事なことなんだよ。
もし、白雲の側に居たいのならば、その心意気を示せ!」
強く言われて、湖静は立ち竦んだ。
その瞳に、みるみると涙が溢れ出してくる。
「私は——お兄さまが他の人と戦うと哀しいです。
お兄さまと一緒にいたい。他の人とも一緒にいたい。だから、こんなことを命令するのを止めさせたい。
私は、北斗の龍を……ゆるせない」
そう言った湖静の右手が真っ直ぐに星の龍へと伸ばされた。
腕の先から飛び出した気弾が銀色の鱗を叩く。
いくらの痛手になったわけでもないだろう。だが、龍の青白い目が湖静に向いた。
「イマノワたシのいし?」
混乱したように、耳障りな軋みの混ざった声で白雲が言う。
その拳から少し力が抜け、張平がまた少し押し返す。
「そうだ、白雲。湖静だってこう言ってる。戻って来い」
蒼白く輝いていた白雲の眼に、黒い瞳が戻る。
「私は…」
その背後で、巨大な影がゆっくりと鎌首をもたげた。
破軍星*7が
向く方角には滅びが撒かれる。それは星見の者がよく口にする言葉。
「小さきものどもよ。愚かなり」
身体を揺るがすその言葉は、死の宣告。
牙の並んだ顎が開かれ、洞窟のような喉の奥に光が膨れ上がった時、白雲が動いた。
湖静へ向けて撃ち出された光の弾を両手で受け止め、体の下でその力を押さえ込む。
体のあちこちから煙を上げ、所々に内部の部品を露出させた姿で白雲はぎこちなく振り向いた。
「蒿理様と湖静を連れて逃げなさい」
淡々と語るその言葉が終わらぬうちに、白雲の左手から闇が溢れ出す。
「私もそれほど長イ間白雲デイラレマ…」
声は闇に呑まれ、呻きにも似た機械の軋みが取って代わった。
吸血鬼を仕留め損ねた天使は、鎌に光を集めてじわりと持ち上
げる。
隻腕に剣を構えて、怜芝も迎え撃つ姿勢を見せる。
その背後に庇われて、紅蓮は一瞬目を伏せ、決然と告げる。
「──時間を稼ぎます」
刹那、視線が交錯し、紅蓮は怜芝の影から身を翻した。
「蒿理」
蕾陸に押し留められ、唇を噛みながら白雲や張平たちを見守っていた蒿理は、名を呼ばれて振り返った。
焦りと苦悩を浮かべた瞳が、近づく紅蓮を捉える。
「おまえの為すべきことは無闇と身を投げ出すことじゃない。
指揮をとれ、蒿理」
「私は──」
目を見開いて、蒿理は拳を握る。
「私はこれ以上みんなが傷つくのは見たくない。
私一人が守られてばかりいたくないと、私が皆を守るのだと決めたのに、なのに…」
毅い双眸が白雲に向き、震えながらも声は戦場に響く。
半魔たちと、使徒たちの視線が蒿理に集まる。
「みんな、私に力を貸してくれ。
今ここで──北斗の龍を倒す」
宣言と同時に雷が鳴り、光が疾る。
雷鳴は龍の雄叫び。雷光は鱗の列。
江の龍神によく似た、だがやはりどこか違う青龍が蒿理の頭上に現れ、星の龍に向かって突進する。
慌てた蕾陸がそれに追随し、鳳肋を背に乗せたまま黎洸も後を追った。
「龍の側からの宣戦布告」
愉しげな笑みを含んだ言葉が、剣戟の合間に転がる。
それを拾った麒麟が耳を立て、首を伸ばしてもう一つの戦いの場を見やった。
一対一になっても天使の力は圧倒的で、吸血鬼はさらに傷を増やしている。それでも、業と技を駆使して攻勢をしのぎながら、怜芝は唇に笑みを刻んでいた。
「それとも、眷属への攻撃に対応する為。理由はどうとでもつけられましょう。
早く手を貸してやらねば、あの小龍も殺されてしまいますよ」
「貴殿、まさか、このためにわざと——」
「さて。なんのことでしょうか。
——まあ、龍も天使も、謀略や交渉事に向かないほどに実直だとは思いましたが」
「貴様——っ」
人を食った物言いに、緋應が眦を吊り上げる。
だが、彼がそれ以上を口にする前に、怜芝は血刀を払って雫を散らし、躯ごと龍の眷属を見据えた。
「私はこの会談の成否に己が存在を賭している。それはあの子らも同様だ。
見なさい。彼らは自分の守りたいものの為に体を張り、命を的にしている。
それに引き比べてあなた方はどうか。戦うべきものが眼前に現れているのに、掟だ戒律だと言って傍観しておられる。
弱き者たちに戦いを任せ、それらが傷つくのを看過し、自らの保身ばかりを図る卑怯惰弱が龍の誇りであられるか」
裂帛が風を打ち、気を呑まれて龍の眷属が沈黙する。
だが、そうしてできた隙を天使が見逃すはずもない。
全霊を持って龍を圧倒した吸血鬼の背中に、流星の如く死の鎌が落ち掛かった。
一直線に北斗の龍へと向かっていた半魔達の突撃は、龍の手前に大きな壁を見いだして停止を余儀なくされていた。
全身を闇に包まれ、青白い燐光を時折散らして立ちはだかる一体の自動人形。
その姿に、誠実な料理人の面影はなく、あるのは破壊の衝動と狂気にも似た盲従だけ。
「お兄さま」
「白雲っ!」
口々に呼びかける仲間達、否、かつての友に向けて、ぎこちない動きで腕を掲げ、倍する速度で振り下ろす。
瞬間に、闇が唸りをあげて弾け散り、半魔達に襲いかかった。
無数の鉄球を打ち込まれたような衝撃に、半魔達は吹き飛ばされ、あるいは打ち倒される。
呻く仲間達を見ても顔色一つ変えず、超然と歩み寄る白雲の後ろで北斗の龍が鎌首を持ち上げた。
「愚かで脆き者共よ。おまえ達はこれが越えられるのか? 情とやらに流されて、望んでそれの手に掛かるか?」
「おにい…さ、ま…」
苦しげな息を絞って湖静が顔を上げ、見下ろす白雲に向かって手を伸ばす。
「…コ、こ静、逃げ、な…サ…」
白雲の瞳に一瞬浮かんだ正気の光は即座に吹き消され、赤熱する手が湖静の頭に掴みかかった。
「やれやれ。ずいぶんなことをしてくれたものよ」
血臭漂う戦場にまるでそぐわない暢気な声をあげて、李鉄拐が虎上で鉄杖を回す。
湖静の頭を握りつぶそうとしていた白雲は、文字通り、糸の切れた人形となって床に転がった。
「———!!」
息を呑んで駈け寄る半魔達の頭上に虎を寄せ、気楽に杖を振る。
「あー、いやいや。そやつは無事じゃ。命に別状はない。
ただ、強制終了をかけたから、後でめもりい障害がでるかもしれんがな」
なんでもないことのように言ってから、しかし、と杖を北斗の龍に突きつける。
「儂の傑作を*8よくもまぁいじり倒してくれたものよ。
この代金はちいと高くなるぞ、北斗の龍よ」
李鉄拐の言葉に合わせて虎が吠え、牙を剥く。
ゆらりと首を伸ばして、龍もまた戦いの構えを取った。
星をも裂く勢いで振るわれた大鎌は、だが吸血鬼の背中には届
かなかった。
怜芝の足元から無数の草が伸び上がり絡まり合い、しなやかな弾力を以て刃を受け止める。
草の葉を数枚散らしたのみで死の鎌が離れていくのを感じ、怜芝は会心の笑みを浮かべた。
「御助力、感謝致します、藍樟殿」
「弱き者を守るのが我が務め。中華に住まうもの全ては、我等が新たに守るべきもの。
———今回ばかりは、貴殿等の策に乗せられよう」
「では…」
藍樟の言葉に緋應が即座に反応し、剣を握る手に力を入れる。
麒麟は一つ頷いた。
「同盟の可否は龍神にお任せする。だが、我等はこの場で貴殿等に力を貸そう。
緋應、委細任せる」
「応!」
気迫を込めて緋應が双剣を抜き放つと同時に、稲妻の形に炎が駆け上がった。
人の身を模した仮の姿が掻き失せ、宙に浮かぶのは、鷲に似た翼を持つ長大な赤龍。
火焔を纏った双剣を手に持ち、戦いを告げる咆吼と共に炎を噴き出して、悪魔達を睨み付けた。
使徒達全てが戦う意思を見せたといっても、なお悪魔達は動じ
なかった。
それほどまでに悪魔は強大で、自らの本拠地から離れた使徒達が勝つ目は小さい。
悪魔達にしてみれば、倒すべきものが増えて、少々時間が掛かるようになった、という程度だろう。
しかし、両陣営を見渡す怜芝の目には、勝利の確信が見て取れた。
「崔佳殿。用意は」
「もちろんです」
「では」
短い会話の後、それまでずっと怜芝に庇われ続けていた崔佳が、手に持つ小箱を操作する。
その直後、空気が重さを増し、同時に悪魔の顔に狼狽が浮かんだ。
「空間を完全に閉鎖しました。端末は完全に切り離され、エネルギー流入度は零を保っています」
「——つまり、悪魔はここに送り込んだ分身に外から力を注ぎこむことも、この欠片達を回収することもできなくなった、ということだよ」
崔佳の言葉を怜芝が翻訳して、一言付け加える。
「後はこの欠片を処分すればいい。それで、我々の勝利だ」
戦いの新たな局面は、龍の咆哮から始まった。
北斗の龍の巨大な顎から、魔力を秘めた咆哮が放たれる。地を揺るがし天井を震わせるその声は、魂までも灼けつかせ狂わせるもの。
「させぬよ」
耳を聾する轟音の中、ぼそりと言う李鉄拐の言葉が不思議とはっきり全員に届く。
悠然と懐に手を入れ、取り出したのは大ぶりの巻貝だった。
無造作に投げ出されたそれは宙に留まって淡い光を放つ。同時に、あれほど空気を圧していた咆哮がふつりと途絶える。
それだけではなく、すべての音が消え去った室内で、北斗の龍が戸惑ったように顎を閉ざした。
しばらく光を発していた巻貝は、やがて力を使い果たして床に転がる。
微かな波のさざめきだけを残して。
「対音響攻撃用宝貝、海呑貝じゃ」
音の戻った室内に、李鉄拐の得意げな声が響いた。
空気を打ち震わせて金属同士が甲高い叫びをあげ、一合ごとに
散る血と羽根とが視界を斑に染め上げる。
戦いの場を空中に移して、天使と吸血鬼は熾烈な剣戟を繰り広げていた。
力の流れを断たれて、悪魔の動きは確実に鈍くなっていた。だがそれでも力量で凌駕するサリエルの鎌は幾度も怜芝の剣を弾いて衣服を裂く。
鋭利な刃が怜芝の身体に到達せんとする度に、草木がうねって壁を作り、あるいは影の障壁が現れて攻撃を阻んでいた。
植物を操る藍樟の力と、空間そのものに働きかける崔佳の業が、サリエルの攻撃を交互に妨げ、その威力を減退させている。
一方、怜芝の剣も相手の堅実な防御の前にことごとく打ち払われ、天使にかすり傷すらつけることが出来ていなかった。
傍から見ればどちらも有効な手を打てないでいる膠着状態。だが、怜芝の顔に浮かぶのは勝利を確信した笑み。
「使徒には悪魔と比べて有利な点があること、ご存知でしたか」
余裕を見せた怜芝の問いかけに、天使は突進を持って応えた。
迎える怜芝は構えようともせず、不敵に笑んだまま刃の根元を自分の腕に当てる。
闇色の刃が引かれ、腕に赤い筋が刻まれるにつれて周囲に濃い魔の気配が漂った。
サリエルが振るった鎌を、植物達が絡まりあって防ぎ止める。だが、緑の障壁もまた何かに怯えたように、たちまちにして縮んで散っていく。
その間隙を縫って、怜芝の剣が繰り出された。
切っ先はこれまでとはまるで違った動きを見せ、天使の防御をかいくぐって体に突き立つ。
胸の中心を闇の剣に貫き通され、死の天使は翼の先まで硬く強張らせて、細かく痙攣した。
「悪魔はほとんど《絆》を持ちませんが、使徒はいくらでも持てるのですよ。
時に《絆》は大きな力になります。極限状態で幾人の顔を思い浮かべられるか、それが生死を分けることもあるほどに」
諭すように語りながら怜芝は剣を一息に抜こうとする。
その刀身を、天使の手が鷲掴みにした。
倒れ伏した白雲の横に膝をつき、動かない胸に手を置いて張平
は湖静を見る。
「じいさんは大丈夫って言っていたけど、湖静は白雲の側についていてあげて」
湖静が小さく頷くのを確認して、三つ巴に争う龍たちへと視線を向けた。
その顔は既に人の形を捨て、誇り高き人狼へと変貌を遂げている。
「無防備な白雲を守るのは任せたよ」
北斗の龍を見据えたまま、もはや振り向くことなく湖静に告げ、張平は地面を蹴って走り出した。
次の瞬間にはその姿も掻き失せ、一頭の狼が風を巻く。
北斗の龍の尾に弾かれ、小さな青龍は悲鳴をあげて地に転がっ
た。
幻の龍が受けた痛みを同様に受け止めて、蒿理は歯を食いしばって自分の腕を抱く。
それでもなお龍を飛び上がらせて、牙を剥かせようとした蒿理の身体を抱きしめる手があった。
「熱くなるな、蒿理。冷静でいなければ、為すべきことを見失う」
傍らに立つ紅蓮を顧みて、蒿理は一瞬当惑の表情を浮かべる。
紅蓮は応えて首を横に振った。
「おまえが倒れれば皆が統制を失う。落ち着いて周囲を良く見ろ。
どんな兵も指揮するものによって力量は大きく変わる。それが兵法の基本だ。わかるな?
一人で突出するんじゃなくて、他の者を指揮して力を纏め上げるんだ。
先頭に立って皆を率いると同時に、後方から戦局全体を把握できるのはおまえの有利な点だ。
皆の力を使え。おまえにしか出来ないことをしろ」
意図的に低くゆっくりとした口調で言って、紅蓮は蒿理の肩に手を置く。
「いつだっておまえは一人じゃない。大丈夫だ。
おまえのことは俺が守る。おまえは戦いに集中しろ。皆を勝利に導くんだ」
告げられた言葉に頷いて、蒿理は視線を龍に振り向けた。
二頭の巨龍が吼え、互いに組み合って縺れ落ちる。
北斗の龍と緋應の力量は拮抗し、かりそめの大地を揺るがせて激しい死闘を繰り広げた。
圧倒的な力の応酬の合間を縫って、半魔たちが緋應を利するべくわざをつくす。
白雲が倒れている以上、半魔たちの中に龍の厚い鱗を貫くほどの打撃力は期待できなかった。そもそも、力量に差がありすぎて、一撃を当てる事すら難しいだ
ろう。
だが、弱点を突き、隙を作ることなら充分に可能だった。
鳳肋が弱点を読んで仲間に伝え、黎洸は宙を駆けて惑乱する。蕾陸がたくみに気を引けば星の龍の目が時折つられて動く。
蒿理の青龍は空中に佇んだままじっと戦いを見つめているだけだったが、後方から指示を飛ばす蒿理の声は、半魔達のみならず緋應にも力を与えた。*9
幾度も攻撃が繰り返され、北斗の龍の蒼白く輝く鱗が飛び散り、赤い血が滴って大地を濡らす。やがてはさしもの巨龍も動きが鈍くなり、鋭い牙や爪の一撃も
空を切ることが増える。
一息に間合いへ飛び込んだ張平が喉元の鱗を切り裂き、痛みと怒りで瞳を燃え立たせた北斗の龍が大きく首を持ち上げたところを、緋應が切り込んだ。
双つの剣が龍を三つに断つ。灼熱の炎を纏った剣は肉を裂くと同時に断面を焼き、断たれた龍の体は血飛沫の一つもなく地に落ちて土煙を上げる。
間を置かず、精気を失った星の龍は、本来の姿に還るように、青い燐光を発して静かに燃え始めた。
怜芝の闇の刃に貫かれながら、サリエルは逆にその剣を封じて
怜芝の動きを殺した。
同時に、自らの半身を光に溶け込ませ、影の中に滑り込む。
光り輝く影となった天使は、くっきりと浮かびあがった怜芝の影めがけて鎌を振り上げた。
「影斬りか…」
「いけません。防御不能です」
怜芝の呟きに崔佳の鋭い声が重なる。苦笑めいて唇を上げた怜芝は、思い切り良く剣を手放して大きく後ろに下がった。
影でも実体でも空を切り裂いたサリエルは、一旦後に退いて挑発するように体を開いてみせた。自らの体に突き立ったままの剣を示し、取りに来るかと誘って
いる。
僅かに思案する様子を見せた怜芝の目が、つと崔佳へ、そして藍樟へ向けられる。言葉に依らない意志が交わされ、怜芝は笑みを含んで天使に向き直った。
サリエルが死の鎌を掲げて身構える。同時に伸びた光の鎌が三方へと繰り出された。正面から向かえば決して逃れ得ない必勝の体勢。
それを承知して、なお怜芝は迷うことなく真っ直ぐ天使を差して宙を駆ける。その背中を時ならぬ突風が押した。
崔佳の指の動きに合わせて風が舞い、空間すらも縮んだ。世界そのものからの助けを得て、怜芝はサリエルの予想よりもはるかに速い動きで、易々と背後に回
りこむ。
だが、いかに意表を突かれたからといってもサリエルもまた悪魔。即座に翼を羽ばたかせて体の向きを変え、応戦の体勢を取ろうとする。それを見越したよう
に、藍樟が一声鳴いた。
魔力ある声に応じて見えざる力が収束し、ありえない重力の凝りが天使の翼を引く。姿勢を乱した天使の背に、怜芝が優雅に舞い降りる。
愛しいものに対するが如くの微笑を湛えて天使を翼ごと抱きすくめ、首筋に顔を伏せる。瞬間、鮮血が空を染めた。
首の半ばを噛み裂かれて天使は仰け反り全身を震わせる。さらに怜芝の両手が胸板を突き破り、その上半身を半ばまで縦に引き裂く。
噴きあがる血潮を頭から被りながら、怜芝は喉の奥に笑みを零して瀕死の天使の耳に唇を寄せる。
「我々が、武器などなくとも戦えることはご承知でしたでしょうに」
囁いて剣の柄に手を伸ばし、一息に引き抜けば新たな血が風に混ざる。
「さようなら。死の天使殿」
言葉と同時の斬撃が、天使をその鎌ごと上下に断ち切った。
血濡れの羽根を散らしながら重力に引かれて落ちゆく天使の体は、地に着く前に溶け崩れて光の塊となり、それもまた空気に紛れて消え失せる。
地上に戻った怜芝の背中で、星の残骸が最後の炎を吐き出して静かに燃え落ちた。
力の流れを断たれた悪魔達は、使徒と半魔たちの猛攻の前に呆
気なく敗れ去った。
悪魔から分かたれて送り込まれた欠片たちは、本体の元に戻ることも出来ずに閉ざされた空間へ力を散らして消えていく。
「これで悪魔本体にもある程度の打撃を与えられたはずだよ」
半魔たちに向かって穏やかに告げながら、怜芝は剣を収める。だが、声音は繕えても凄惨な気配は隠しようもなかった。斬られた腕は何時の間にか再生してい
たが、全身を朱に染め、戦いの余韻と血の酔いを映した双眸は未だに紅く濡れた輝きを宿している。
怜芝の隣にふわりと着地した緋應にしても、もう剣からも口からも炎を上げていないが、人に近い姿に戻る気はなさそうだった。
「ここまでの邪魔が入ってしまったからには、もはや会談を続けるのも不可能だろう」
北斗の龍が倒れて崩れた痕を避けながら、麒麟が首を揺らして怜芝に歩み寄る。
「同盟の最終的な可否は龍神に判断を委ねる。だが恣意的なものがあったとはいえ、我等がここで貴殿らと共に異界の者との戦端を開いたのは事実。
敵を同じくするものとして、手を携える道を模索することにしよう」
それに、と低く付け足して、藍樟は視線を半魔たちに向ける。
「あのものたちほどに、自らに忠実でありたいと思わないでもない。
使徒となって以降、まず考慮するのは戒律と龍神の意向。それだけでは道に違えることもあると、彼等に教えられた心地がする」
述懐する藍樟の言葉を黙って受け止め、怜芝は頷く。
最後に改めて同盟の基軸を確認しあう彼等の背後で、龍の上げる小さな悲鳴が聞こえた。
戦いを終え、一息ついて半魔たちは蒿理の周囲に集まってい
た。
蒿理もまた、深く息を吐きながら地面に両足を投げ出している。
力を限られたとはいえ、半魔たちにとって、やはり悪魔との戦いは厳しいものだった。
殆どの攻撃は使徒たちが引き受けてくれはしたが、一歩間違えると即座に奈落に突き落とされそうな戦いが続き、半魔たちは心身ともに消耗している。
戦いの間指示を飛ばしつづけた蒿理もまた、体の傷こそ少ないが神経をすり減らしていた。そんな蒿理の状態を映してか、緩やかに戦場の上を漂う青龍も、鱗
はくすみ、動きがどこか鈍くなっている。ことさらゆっくりと宙を泳いでいるのは、詰まった息を巡らせる為なのだろう。
どこへ向かうでもなく体を伸ばしていた青龍が、ふと何かに気付いたように小首を傾げた。青龍に感応した蒿理もまた同時に顔を上げる。
「どうした?」
「うん…、なにかに引っ張られたような──」
言い差した蒿理が不意に自分の体を抱きしめて半身を折り、向こうでは青龍が甲高い鳴き声を上げ、もんどりうって地に落ちた。
「蒿理!」
隣にいた紅蓮がとっさに出した手が蒼白い電撃に弾かれる。それでも強いて抱きとめようとした紅蓮を、今度は蒿理が自ら押し留める。
「大丈夫。心配ない…と思う」
心配して集まってくる仲間達に蒿理は笑顔を見せる。だが、その周囲には電光の華が散り、半魔たちに過去の不吉な光景を連想させた。
「何事か?」
一跳びで蒿理の側に降り立った藍樟が、首を伸ばして蒿理の状態を検分する。
不安の面持ちでそれを見守る半魔たちに向けて、麒麟は首を横に振って見せた。
「問題ない。害となるものではない」
藍樟の言葉に安堵の息を吐いたものの、半魔たちの表情はまだ晴れない。
言葉を継ぐ必要を感じたのか、藍樟は半魔たちを促して青龍に視線を向けさせた。
緋應に見守られている青龍は、北斗の龍が倒れた地面の上にとぐろを巻き、首を立てたまま目を閉じている。
ほの青い燐光が龍の残滓から立ち上り、青龍を取り巻いてその体へ、正確には顎の下へと吸い込まれている様が、半魔たちにも朧に見て取れた。
青龍からは細い光の筋が延び、やはり蒿理の喉元へと繋がっている。
「北斗の龍が持っていた気を、龍の御子が吸い取っている。それだけのこと」
藍樟が言うと、半魔たちの表情が微妙に変化した。
北斗の龍の力を吸い込んで、その力や意志に影響されないのか、と訊ねる半魔たちに答えて、藍樟は再び首を横に振る。
「ここに残るのは、既に彼の龍の意志とは離れた純粋なる力。それを取り込んだところで、彼の龍に支配されることも、影響されることもない」
麒麟の深い眼差しは、我が子を見るような柔らかさで蒿理に注がれている。
「そも、龍の御子が持つ珠は、その使命の故に大きな力を蓄えるようになっている。
二十三年前のこと*10により、その力の大部分を放出した珠は、別の力を取り込むだけの
容積を保っていたのだ。
龍の御子と北斗の龍の性質に一部繋がるところがあった故に、珠は残された力を取り込んでいるだけのこと。
扱う力が不意に増大した故、御子の制御が一時的に及ばなくなり力の一部が外に発現してはいるが、すぐに収まろう」
語られた言葉が真実であることを示すかのように、青龍を取り巻く光が次第に弱くなり、それにつれて蒿理の周囲を飾っていた雷光も収束していく。
それでも一抹の不安を残してはいたが、半魔たちは納得して緊張を解いた。
「そろそろ閉会としようか」
上からかけられた声に、その場の全員が宙を振り仰ぐ。
白虎を最初の位置に戻して、李鉄拐が元通りの胡座の姿勢に戻っていた。
「議論は十分に尽くされ、およその合意を得、銘銘が結論を持ち帰って吟味するべき段階と見るが、如何かな」
龍神側と吸血鬼の側から同意の声があがり、蒿理も小さく頷く。
深く頷き返した李鉄拐は、鉄杖を空中で打ち鳴らし、張りのある声を響かせた。
「本日の会談が、異界の勢力に対抗する者の力を結集する端緒となることを、切に希望するものである。
その目的の為、我等仙人も些かの協力を為すことができよう。
同盟の成立を願うと同時に、この日、我々が手を取り合えたことを純粋に祝福することとしよう。
これをもって、此度の会談を終了とする」
同盟調印
蜀暦・延熙八年、あるいは呉暦・赤烏八年(245年)四月三
日、幾度かの折衝及び実務に関わる調整を経て、龍神‐吸血鬼による対異界勢力同盟の条文が定められ、双方の同意を得て、あとは調印を行うのみとなった。
会場とされるのは、第一回の会談が行われた、岷江(みんこう)が長江と合流する地に建つ小屋と、それに続く領域。それぞれに世界を支配する悪魔が相見えるとあって、会場の構築には細心の注意が払われ、地球の守護者の同意と列席の下に調印が執り行われることとなる。
江陵の半魔たちもまた、同盟に貢献したものとして出席を求められていた。
四月十五日、会場の調整が終了し、各参加者に日程の通知が行われる。
十日後の二十五日、日没と共に調印式が開式となった。
そして二十五日。
半魔たちは再び羅洽の案内で、閉ざされた異世界へと続く小屋の前に来た。
ということで、同盟の調印会談の様子をお伝えしようかと思ったのですが、PCがまったく活躍しないのと、今ひとつ盛り上がる場面に欠けるのとで、書くのを止めました。
代わりに調印された同盟憲章をHPにUPしておきましたので、興味があれば覗いてみてください。
ちなみに、会談自体は悪魔当人達が実際に顔をつきあわせて(むろんフルサイズではありませんでしたが)調印し、一言二言、言葉を交わしさえしたあとに帰っ
ていき、そのあと互いの正使であった、藍樟と怜芝が義兄弟の契りを結んで(藍樟が兄)、地球及び中華圏の諸問題に対して、二つの世界が手を携えて事に当た
るという誓いを交わしました。
以上で同盟会談にまつわるプレ(?)は終了です。
お疲れ様でした。
汎地球域同盟・同盟憲章
我々地球域に根ざすすべての存在は、常に外世界から攻撃を受け
侵略の危険に晒されている地球域の現状を憂い、悪意ある外世界の干渉を防ぐ必要と義務があることを認識し、日々激しさを増す外世界の勢力に対して手を携え
て対抗することを決意するものである。
地球域が外世界に侵略されることはすなわち、我々地球域に根ざすものの生活圏が奪われることであり、ひいては地球域より派生したすべての独立域へ深刻な影
響をもたらすものである。
我々は、我々自身の生存と生活域を守るために地球域への外世界の侵入を拒否し、力を以ってそれが行われる時には断固戦うことを宣言する。
第一条
本同盟は外世界による地球域への侵略行為に対して、構成員が相互に連携して対抗することを目的とする。
第二条
本同盟は、地球域より派生した独立域への外世界の侵略行為に対して、本同盟への攻撃と見なされる場合においてはそれに対抗するものとする。
第三条
外世界による侵略行為とはすなわち、住民の奪取、領域の奪取を目的とする行為である。
右記の目的を有しない、少数の平和的訪問及び漂着は、これを拒まない。
ただし、受け入れ後に右記侵略行為に該当する行為が見られた場合は、しかるべく対処する。
第四条
本同盟は、外世界への侵略行為はこれを目的としない。
同盟の名においては、外世界の領域及び住民の略取は、寸土寡民といえどこれを認めない。
第五条
本同盟への参加は、地球域および地球域より派生する独立域に生まれ、同領域を主たる生活圏とするすべての個人、組織にその権利を認め、当個人・組織による
参加意思の表明と構成員の承認により参加を確定する。
第六条
地球域および地球域より派生する独立域に生まれたものではないが、同領域を生活圏とする個人は、本同盟へ参加する権利を持つものとする。ただし、当個人に
よる参加意志の表明と三名以上の構成員による推薦及び、構成員である悪魔あるいは使徒による承認により参加を確定する。
第七条
本同盟の構成員は、同盟の全容、すなわち同盟を構成する個人名及び組織名を知る権利を有する。
第八条
本同盟の円滑な運営を目的として、執行部を置く。
執行部の構成については別途規定する。
ただし、執行部の三分の一以上を、同一組織・同一独立域に属する構成員が占めてはならない。
他細則は別途協議の上決定する。
ただし、本条項の条文及び精神に逸脱するものがあってはならない。
本条項は同盟の意義を明らかにし、その目的を示し、内外に同盟の成立を広く知らしめると同時に、各構成員の平等を保証し、全構成員の協調を促進し、以って
外的脅威に対抗することを可能ならしめることを目的とするものである。
各構成員は本条項を尊重し、遵守する義務を有する。同時に本条項に認められた権利はこれを尊重される。
>>>「同
盟交渉」終わり。
ウィンドウを閉じてください。