メタルヘッド小説
Precious Color
自然という言葉が「脅威」と等しい意味をもつようになったのは、どれほど前のことだったろう。
緑が消え、地盤が流れ、空が淀んだ。その時代に生きた者にとっても掴みどころのない、それは緩慢だが確実な変化だった。
人間たちは、もはや恵みをもたらすことのない荒廃した大地を捨て、自然に対抗して作り出された科学の砦・巨構都市に流れこんだ。
そして死にゆく地球をよそに、メガ=シティは成長を続けた。まさに癌細胞のように。
天へ向かって伸びてゆく摩天楼はいにしえのバベルの塔を思わせ、その長く伸びた影に覆われたスラムもまた、バベルの伝説に通じる混沌の様相を呈していた。
それでも、ここでだけは人間は人間らしい生活を営むことができたのだ。繁栄と貧困、知識と狂気、光と影のあらゆるレベルにおいて。
都市はひとつの世界だった。外界と変わらない脅威を、そこに住む人間の数でわけた、人間だけの世界。
ここは北米大陸三大メガシティのひとつ、ネオ=アップル。
虫が喰い、腐りかけた巨大な林檎だ。
◇ ◇ ◇
「さっきから呼んでるのに。聞こえないのか、ベイビー」
背後で、聞き慣れた声が、聞き慣れた口調で言った。
キングサイズのベッドの上に、ランジェリー姿のままうつ伏せになっていた少女は肩越しに振り返る。
なめらかな肩のラインの向こうにふたつ並んだ青い目は、よく見れば左右でわずかに色合いが違っていた。精巧にできたサイバーアイだ。
その目のせいだけでなく、どこか不思議な雰囲気を帯びた少女だった。
薄い布地が透かして見せる体つきは、充分に成熟した若い女性のものなのに、その表情からは、むしろ幼いという感じさえ受ける。
最後の呼びかけも聞こえなかったかのように、少女は起き上がる気配を見せなかった。
「ねえ、見て」
白い二の腕に逆に誘われて、扉の枠によりかかっていた男はベッドに歩み寄った。
少女はふたたび肘をついて、ベッドの傍らに開かれた窓の外へ向き直る。
窓とベッドの間にあるナイトテーブルの上には三脚が設置してあり、その回転台は美しくも危険な凶器を乗せていた。蜂の毒針にも似た銃身をもつ、スナイパー・ライフル。
その銃床を握ったまま、少女は狙撃スコープを覗きこむ。
「素敵…」
照準が何を捕らえているのかわからないが、陶酔したような声だった。
感心しない表情で男はカーテンを閉める。
少女が素早く振り仰いだ。
その動作で一瞬広がった金色の髪が、たてがみのように、柔らかな顔の輪郭を縁取る。ルージュも塗っていないのにやたら紅く映える唇が、不機嫌そうに突き出された。
「何するの。エル・シドにも見せてあげようと思ってたのに」
「この家の中でやたらとそんなもの取り出すな。ましてや覗きに使うなんて、そいつが泣くぞ」
反論を封じてしまおうとするように、言葉を続ける。
「さ。一日中そこで過ごすつもりでないなら、そろそろ着替えて起きてくれ。食事の支度をした。食べるだろ?」
「ありがとう。ダーリン」
すぐに気をそらされた少女は窓際から銃架ごとライフルを降ろすと、ベッドの上を半回転して仰向けになった。
「抱き上げて連れていって」
腕を差し伸べてねだる。
エル・シドと呼ばれた男は、子供に諭すように指を振った。
「着替えを済ませておいで」
「食事の後でシャワーを浴びる。だからこのままでいいの」
エル・シドはベッドの上に片膝を乗り上げて、腕を延ばした。
少女が首に両腕を絡めてくると、横抱きに抱えあげる。
慣れた様子で肩のくぼみに頭を預ける少女に呼びかけた。
「お早う。お寝坊さん」
「もう昼だよ」
「じゃあ二回分」
笑いながら少女の唇にキスをくれる。一度は素早く、もう一度はゆっくりと押しつけるように。
少女も喉の奥で笑いながら、エル・シドの癖のある髪を、優しく指で梳いた。
「このままベッドに戻りたくなったぞ」
「だめ。甘い唇なめたらもっとおなかがすいた。食事にする」
「はいはい」
少女を横抱きにしたまま、数歩で部屋を横切り、リビングに連れてゆく。
なんとか身を屈めずに扉をくぐれるほどの長身である。鍛えぬいたというほど立派な体格でもないが、小柄ともいえない少女を横抱きにして、軽々と運ぶくらいの力はあった。
少女は安心しきった様子で、エル・シドの腕に身を預けている。
「到着しましたよ。お客さん」
彼女を椅子の上に降ろすと、こまめなところを見せて、エル・シドは冷めた食事をもう一度温めなおして並べた。
もともとが合成食材なので、何度温めなおしても味は変わらない。レトルト食品やエネルギーパックが普及した現在、ダイニングキッチン自体が調理する場から、オーブンやレンジが並ぶだけのシンプルな工場に変わっている。
砂色のテーブルにそろいのランチョンマットをひいて、簡単なブランチが準備できた。
「どうぞ」
「ありがとう」
半月型をしたオレンジ色のペーストをスプーンで崩して、パンブロックに盛りつける。スティック状のハムを一緒に挟んだ。
左手に持って端から齧りつく。右手はカップを引き寄せ、ミックス調味料を振りかけたクリームスープをすする。だが、こちらはわずかに口をつけただけで、すぐにカップを置いた。
「エル・シド」
不意に改まった調子で、少女が口を開く。
「まだわたしのこと愛してる?」
エル・シドは効果的な瞬きをした。
「もちろん」
「じゃあ、仕事をちょうだい」
「唐突だね」
少女はスープカップを押し戻した。
「わたしが混ぜ物のスープ嫌いなの知っているくせに飲ませようとするなんて、お金がないかわたしが嫌いになったかでしょう」
「前者の方だよ」
「よかった。それなら仕事をさせて」
エル・シドはしばらく沈黙した後、短くため息をついた。
「月並みな男の言い分だが、おれの稼ぎがもっとよければ、おまえを働かせなくても済むのにと思うよ」
「でなければもっと慎ましい暮らしをするか、でしょう。テラス付きのマンションも、キングサイズのベッドもなしでダウンタウンに移ればいい。
これはわたしたちが選んだ生き方なんだからね」
少女はテーブル越しに、エル・シドの手をとった。
「あなたに保護されているのは心地いいけど、本当は対等でなくちゃならないでしょう? わかったら仕事を回して」
エル・シドは、少女の手を包み込むように覆ってうなずいた。
「O.K.ディー」
名前で呼んだのは、彼が恋人から共同経営者へと、気持ちを切り替えた証拠だ。
「シャワーを浴びたら、おれの部屋へおいで。おもちゃ箱をひっくりかえしてみよう」
◇ ◇ ◇
シャワーを浴びるには、ものの五分とかからなかった。
濡れた髪をタオルでぬぐいながら横に立つと、エル・シドはこめかみを掻きながら言った。
「ねえ、ハニー」
「なに?」
「もう少し、羞恥心と配慮ってものを持ちなさいね」
「女の裸なんて見慣れてるでしょ?」
「おまえのだけだよ…って、誘導尋問はもういいから、おれがちゃんと集中できるようにしてきてくれよ。こいつは、おまえが着替えてる間に逃げたりしないから」
そう言いつつも、彼の前にある極薄型のディスプレイの表示は、すばやく展開している。
『WELCOME.伝言ユニットです。
こちらのアクセスナンバーは《NN536−J−TOP2》です。
間違いなければ伝言を打ち込んでください』
エル・シドの指が、すばやくコードを入力する。
画面が点滅して、新たな文字が浮かびあがった。
『ユーザーパスワード確認。
伝言を呼び出しますか?』
「来てる?」
「一件だけね」
バスタオルの端を胸元に押し込んで止め、ディーは画面に呼び出された文字を追った。
『パパゲーノ・ファミリーの幹部イゴットの情婦パミラ』
文面はそれだけだ。末尾に連絡先とおぼしきアクセスコードが付記してある。
「身元は確か?」
「依頼の?」
「そう」
エル・シドがわずかに操作しただけで、ディスプレイは別の情報を並べ立てた。
「ダウンタウンの安食堂からだ。囮調査の捜査官が目をつけるような場所じゃない」
簡単に答えてみせたが、伝言板にアクセスしてきた相手の経路を逆探知させるプログラムは、どこにでも転がっているものではない。
エル・シドは自分でプログラムした様々なソフトを、愛機に組み込んでいた。この部屋にあるコンピュータの能力は普通の会社のメインコンピュータをゆうに陵駕している。
だが、その方面の知識のないディーはただうなずいただけで、次のステップに移った。
「条件を見せて」
エル・シドが振り返った。
「受ける気か? 女だぞ」
「だからなに?」
「おまえ、いつも女は殺しちゃいけないって…」
ディーは右足に重心を移した。
「そう。女は命を生み出す存在であって、殺すものじゃない。女の人は人殺しをしたりしちゃいけない。
でも、殺されることに関しては、男女に違いはないよ」
「おまえの哲学はよくわからないよ」
「時間があったら、今度ゆっくり説明してあげるから」
腰に手をあてて、エル・シドを促す。
「早くデータを出して」
「そうせかすなよ」
エル・シドは設定保持をかけたまま裏画面に切り替え、非合法ネットの回線を使って料金を払わずに、データバンクにアクセスした。
マフィア/パパゲーノ・ファミリー/イゴット/パミラと、検索値をかぶせてゆく。
結果が出るまでの暇を持て余したディーが、背中からボディソープの匂いのする腕を回してきたが、文句は言わずにおいた。
ディーは見知らぬ人間とは握手をするのも嫌うのに、エル・シドにはいつも触れていたがるのだ。
「さすがに情婦まではひっかからないな。イゴットは賞金5,000ドル級のマフィアだが。パパゲーノ・ファミリーの規模はこんなものだ」
肩越しにディスプレイを覗いているディーに、声をかける。
「いくらにする?」
「20,000。掛け値なし」
「了解。相手が応じるか、確かめてこよう」
エル・シドは、ディーの腕をほどかせて立ち上がった。
「帰ってくるまでには着替えているか、そのままベッドで待っているか、決めといてくれ」
「わかった」
ディーは背伸びして、エル・シドの頬にキスすると、午後の街へ送り出した。
それからベッドに戻り、床に降ろした三脚からライフルを外すと、ていねいに分解して整備しはじめた。
本来の目的でスナイパー・ライフルを使う場面に備えて。
身体にはバスタオルを一枚巻き付けたまま、しどけなく膝を崩してはいたが、その手際は見間違いようもなく訓練された狙撃手のものだった。
あるいは、プロの暗殺者の。
◇ ◇ ◇
ダウンタウンの一角にある《ラ・プロヴァンス》という、名前だけはやけに立派なレストランに、エル・シドは足を運んだ。
昼食時ということもあって、安いランチが目当ての労働者たちが多く入っていたが、くたびれたジャンパーを羽織り、南方系の浅黒い肌をしたエル・シドは、その背の高さ以外で人目をひくようなこともなかった。
目印に約束したタイタンズの帽子を探すまでもなく、待ち合わせた相手はすぐにわかった。
落ち着かなげに周囲を気にしながら壁際に立っている薄汚れた少年だ。小柄だから十四、五に見えるが、実際には栄養不足のせいで成長が足りないだけで、もっと年はいっているのかもしれない。
こういう仕事を続けていると、金になる客とならない人間の見分けくらい、一瞬でつくものだ。
この少年では、金巡りがいいようには、とても見えない。
このまま帰ってしまってもよかったのだが、少年の真剣な様子が、とりあえず話をしていこうという気にさせた。
混雑するテーブルの間を擦り抜けて、少年の方に近づく。目を合わせると、少年の方も、エル・シドが呼び出した相手とわかったようだ。
エル・シドは空いている席に素早く陣取って、少年を側らに呼んだ。
「何か注文は?」
「あの…オレは」
ポケットに手をやる。
「席についた以上、頼まないと追い出される。飲み物くらいならおごるよ」
「それじゃあソーダ水」
食事はすませたばかりだったので、エル・シドも同じものを頼んだ。どうせ何を頼んだって合成物に決まっている。
愛想のない給仕が、料金と引き換えに、洒落気のない再生プラスチックのカップを置いて去ると、エル・シドは話を切り出した。
唇を読まれないようにさりげなく顎に手をやり、声は押さえているが、周囲の目を気にする素振りは見せない。
このダウンタウンには落ち着いて話のできる公園など存在しなかったし、人目のない路地は逆に危険すぎた。人込みにまぎれているのが一番目立たないですむ。それで敢えて食堂を指定した。ぶっそうな話題も、ここでは日常茶飯事だ。
「伝言は受け取った。こっちはプロだ。引き受けたら仕損じることはない。後で後悔されても困るからな」
「するもんか」
それまでと様子を変え、少年は陰にこもった声で答えた。
「どんな方法でもいい。絶対に許さないで。
あいつはね、自分から家を出てったくせに、ヤク買う金が欲しくて舞い戻ってきて、父さんたちを殺したんだ。たった100ドルばかりのために、自分の親をだ。
あんなジャンキー、オレが殺してやりたいけど、マフィアの情婦なんかに収まってしまって、今のオレじゃ手が出せないんだ。オレのことはあっちも警戒してるし」
「そいつは君の姉さんか?」
認めるのは苦痛のようだったが、少年はうなずいた。
「まあ、決意が堅ければ別にいいんだ。君の境遇に同情しないでもないが、それ自体は仕事と関係がないからね。
金をもらえれば仕事をする。それだけだ。帰り道で最初にすれ違った奴を殺せと言われても承諾するよ」
少年が驚いた表情をするのを見て、エル・シドは微笑んでみせた。
「おれたちは腕を売っているんだよ。正義の味方じゃないんだ。
ついでにもうひとつ言っておこう。プロを雇うには金がいる。おれたちは金で保証されなければ仕事はしない。
今回の要求額は20,000だ。もちろんW$」
「20,000?!」
少年がダウンタウンの工場で丸一年働いても、その半分も稼げないだろう。声を押さえられたのはなかなか立派だった。周囲は何も気にしていない。
エル・シドも、ごく平然と会話を続けた。
「人一人を殺せと依頼しているんだぞ。相場を考えろ。
言っておくが、この額はほぼ最低ランクだ。相手に社会的地位もないし、警戒もガードも、さほどはきつくないからな。標的がその姉さんの情人の方だったら、こんなもんじゃきかない」
ソーダ水の中の氷を、ストローで回遊させる。
「とりあえず10,000用意しろ。それからでないと動けない。他のブローカーにあたっても答えは同じだろう。
あきらめるか?」
「いやだ」
「強情なのはいいが、思いつめるのはよくない」
唇をかみしめてうつむいた少年のキャップを、指で弾く。
「機械油の臭いがする。その手もエンジニアの手だ。車はいじれるか?」
唐突な話題の方向転換にとまどいながらも、少年は自信をもって答えた。
「できる。修理も分解も、道具さえあればね」
「GOOD」
エル・シドはうなずいた。
「電子ロックの外し方を伝授してやるから、路上駐車の高級車を狙え。基盤を外して、回路を直結して乗り逃げすればいい。やり方はわかるだろ?
それから、ニザンロードの北ブロックに、HiPが押収した事故車や違法改造車の置き場がある。潜り込んで、高く売れそうな部品だけ外してこい。
知り合いのガレージに話をつけといてやるから、そこに持ち込め。高級車やガスエンジンなら100ドル単位で引き取ってくれるはずだ」
少年の手のひらに、自動車整備工場のアドレスを書きつける。
「金が用意できたらまた連絡をくれ。逃げやしないから、無理はするな」
少年は拳を胸に抱いて、強くうなずいた。
「ありがとう」
「大切なお客さまだからな」
エル・シドは少年の肩を叩いた。
「グッドラック」
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、ディーは珍しくコンピュータの前に座って待っていた。デニムのショートパンツにミニカットソーだ。露出度はバスタオルのときと余り変わっていない。
エル・シドはディーの耳を軽く引っ張った。
「マイディア。おれの部屋でものを食うなって言ったろ。こいつらはおまえよりずっとデリケートな精密機械なんだからな」
「わたしだけというのは気に入らない。《おれたちよりデリケート》と言い直して」
クッキーの最後のかけらをエル・シドの口に押し込んで、ディーはコンピュータの前の席を本来の持ち主に譲った。
「で、どうだった?」
「ストリートの子供だ。話にならんよ」
「あの後でミネルバのオーナーから電話があったよ」
「いいタイミングだ」
エル・シドはさっそく通信端末の向こうにカフェのオーナーを呼び出した。
「今、戻った」
『ああ。おまえを必要としているご婦人がいるんだが。都合がよければ連絡をとってくれるか?』
「いつもの仕事だろうな?」
『そうそうおまえに惚れる女がいるものか。仕事だよ』
オーナーはアクセスナンバーを告げた。
「了解。ところで最近どこかに出掛けたか?」
『いや。ずっと店だ。暇があったらまた彼女をつれて遊びに来てくれ』
「そうする。ありがとう」
短く答えて通信を切った。覗き見趣味のハッカーたちのことを考えると、あまり長話もしていたくない。
「《ご婦人》の住所は?」
エル・シドはオーナーが告げたアクセスナンバーをひとつずつずらした番号で検索した。こうした取り決めがあるから、電話で《仕事》の話ができる。
「リトルブリッジ街。ええと…」
都市計画表を呼び出して確認する。
「住宅街だな。該当アドレスの登記世帯主はMEDの幹部社員。シンクレアの子会社だが、堅い企業だ。今度は金の方は心配なさそうだな」
「捜査局の罠はない?」
「オーナーがどこにも出掛けてないって言ってたろ。圧力はかかっていないという意味の符牒なんだ。問題ない」
エル・シドは調べ出したアドレスに電子メイルを送る。しゃべることは嫌いではないくせに、エル・シドはいつも電話ではなくメイルを使っていた。活字の方がクールに見えると言って。
相手からの応答があって、エル・シドは手早くアポイントメントをとった。
「三時半にミネルバだ」
「それならまだ時間がある。シャワーを浴びていってね」
「なんで?」
「相手は主婦なんでしょう。ダウンタウンのバーに行くのとは違うよ。この仕事をとるつもりなら、第一印象が大切だと思う。
着ていくものは見繕っておいてあげるから」
「ありがとさん」
言われたとおりにシャワーを浴び、髪をセットして、ディーが用意しておいてくれたジャケットに着替えた。
スーツほどに堅苦しくもなく、信用を損なうほどにはラフでもない。おまけに、ミネルバの店内の雰囲気にマッチするように配色まで考えてあった。いいセンスだ。育ち方が違えば、ディーはスタイリストになっていたかも知れない。
「エル・シド。途中まで一緒に行く」
前言撤回。レインコートにも似た薄い素材でできた、奇抜としかいえないデザインの上着を着て、ディーが待ち受けていた。
「マホロバ・ストリートで降ろして。そこで買い物してる。商談がまとまったら携帯を鳴らして。場所を決めて迎えに来てもらうから」
預金残高が少ないことを、もう一度教えておいた方がいいだろうかと考えながら、エル・シドは道行きに同意した。
ディー以外の人間を乗せることがまずないので、車はツードアのスマートなものだ。路上駐車しておいても、さきほどの少年が目をつけることもないような大衆車だが、それは外見だけのことで、搭載してあるコンピュータ機器はグローバルガードのパトロールカーにも劣らなかった。とはいえ、ドライブ系に接続してあるシステムはほとんどなく、走る性能だけでいえば、やはり大衆車だ。
「一時間ほどで戻る。電波の届くところにいろよ」
「わかった」
ディーは投げキスをくれて、マホロバ・ストリートのショッピング街に飛び込んでいった。この雑多なフリータウンでは、ディーのファッションもさほど目立ちはしない。
ディーの後ろ姿を見送った後、エル・シドは第二級保安区にある《ミネルバ・カフェ》に車を向けた。
《ミネルバ・カフェ》はエル・シドが利用する店の中では上等な部類だ。昔なじみといってもいいだろう。
天然物のコーヒーを飲むのが、ささやかな贅沢だった父親が教えてくれた店だ。父親が死んでからは疎遠になっていたが、この仕事を始めて、偶然、オーナーの仕事を受けてやってから、耳寄りな情報があれば回してくれるようになった。だが、そのオーナーもディーの正体は知らない。
店に入ると、オーナーは模造植物で見えにくい一番奥のテーブルを目で示した。そこは喫煙ブースで、禁煙席との間に透明な壁がある。実際のところ、壁は煙を遮るためだけでなく、防音効果も考えてある。
エル・シドはうなずいて、そちらへ向かった。
喫煙ブースのテーブルには、ひとりの女性が待っていた。歳のころは四十かそこらだろう。ベールの下りた帽子。喪章をつけている。
テーブルの灰皿は空だったが、ティーカップは空いていた。待たせたのは悪い気もするが、こちらも時間に遅れてはいない。
向かい側の席に座り、オーナーが注文を取りに来る前に声をかけていた。
「お待たせしました。ミズ----」
「ミセス・リバーです。サー」
「ブローカーで結構」
自分は暗殺実行者ではなく仲介者にすぎないという意味もこめて、そう名乗った。この婦人の場合、殺人犯としゃべっていると意識すると、脅えるかも知れないと思ったからだ。
確かに婦人は緊張しているようだったが、依頼人にはよくあることなので、エル・シドは特に何も言わないでおいた。
それを見透かしたように、丁度いいタイミングで、注文もしないのにオーナーがコーヒーを持って来てくれる。リバー婦人には紅茶だ。
だがオーナーは勘違いをしている。いつもブラックコーヒーを頼むのはディーの方で、エル・シドはアレンジ・コーヒー派なのに。
コーヒーシュガーをたっぷり溶かして、話を続けた。ストリートの少年相手ではないので幾分、言葉遣いには気をつける。
「依頼したいことがあるということでしたが。おれの専攻はご存じなのでしょうね?」
婦人はうつむいた顔をかすかに上げた。ベール越しのまっすぐな視線。そして、ルージュをひいた唇が言った。
「殺し屋を雇いたいのです」
殺し屋とは。《暗殺者》というのに比べると、なかなか無骨な言い方だ。だが、それだけに、感情がこもって聞こえた。
「相手を聞いておきましょう」
「シンクレア鉄工、第二管財課課長フレッド・ホソヤ。あいつを殺してください」
声に苦いものが混じっていた。堪え切れなくなったように、言葉を畳み掛ける。
「あいつは飲酒運転でわたしたちのひとり息子を轢き殺して、それでもシンクレアの名のおかげで、罰金だけで放免されたんです。わたしたちの幸せを壊しておいて、あいつは何ひとつ傷つくことなく生きながらえているんです。許せません。どうかあいつに死を与えてください…」
ベールで覆った顔がさらに伏せられた。
またいつものパターンだ。
エル・シドにとって必要なのは殺すべき相手のデータだけで、殺す理由などはどうでもよかったのだが、依頼人は誰もが相手が殺すに足る人物であることをとうとうと語ろうとする。最近では、依頼人の話を聞いてやるのも義務と割り切って黙っていることにした。
「ちょっと失礼」
ラップトップを取り出して、壁についている公衆ジャックに接続する。 自分の部屋の機器とは格段に性能が違うので、公共データバンクへのフリーアクセスをするのはやめておいた。インディーズ・ネットの情報屋からフレッド・ホソヤのデータを買い取る。
リバー婦人の話はそれでほぼ裏付けがとれた。後はホソヤの収入や社内での待遇を見て、彼の値段を考える。
「罰金はいくらでしたか?」
「え?」
「ホソヤが保釈のために払った金です。いくらだったか知っていますか」
「75,000ドルです。60%が慰謝料の名目で、わたしたちに支払われました」
エル・シドはテーブルに肘をついて指を組んだ。
「よろしい。75,000で引き受けましょう。ホソヤが自由を買い取ったのと同じ額でわれわれが命を買い取ります。ご同意願えますか?」
保釈金と同額、というのが彼女の復讐心に訴えたらしい。ハンカチでベールの下をぬぐいながら、きっぱりとうなずいた。
「仕事料はすべて前金でいただきます。万一、こちらの暗殺者が失敗して殺された場合、半額はお返しします。今まで一度もないことですが」
全額を最初に要求するのは無謀ともいえたが、裏の世界の事情にはまったくうとい婦人は、言われるままに承諾した。
「金はすぐに用意できますか?」
「シンクレアから支払われたお金には手をつけていません。それに息子が大学へいくときのために積み立てていた貯金があります。それをすべてお渡しします。足りるはずです」
「結構」
エル・シドはテーブルのナプキンをとってそこに数字をメモした。
「ここに料金を振り込んでください。口座名義人は《聖ガブリエル基金》になっています。福音をもたらす天使ですよ、確か。
振込人の名義は適当でいい。本名では入れないほうがいいでしょう。暗殺依頼は立派な犯罪ですから。
振り込みが確認された日から活動を開始します。即日決行とは思わないでください。相手の行動パターンを調べて、襲撃場所を決定するまでに最低でも一週間は必要です。でも半年以上にはなりません。その間も、仕事を済ませた後も連絡をとることはしませんから、何か言いたいことがあれば今の内です」
リバー婦人がかすかに身じろぎした。こんな取引には慣れていないので不安になったのだろう。それを見抜いて、エル・シドは微笑んで見せた。
「心配はいりません。こちらもプロだ。仕事をしないで金だけいただくような真似はしません。
おれの顔を見たでしょう。契約が反故にされたら警察へ通報すればいい。おれが警察に捕まれば、おれと組んでいる暗殺者の方も商売を続けていくことができない。あいつは人と会うのが苦手なもんでね。おれが仲介してやらないと仕事をとってくることなんてできないんだ。
これじゃ保証になりませんか?」
「いいえ」
婦人はハンドバッグを手元に引き寄せた。
「信頼しておりますわ」
「どうも」
エル・シドは微笑んだ。
自分が婦人の立場だったら、こんなことでブローカーを信用したりはしないだろう。
エル・シドがもちかけた提案には、いくつも逃げ道がある。指摘されれば譲歩するつもりだったが、彼女はこういった場面には慣れていないらしい。
まあ、相手がこれで納得してくれるというなら、こちらには何も問題はない。
婦人がもう一度、エル・シドを正面から見つめた。
「もう二度と会うことがないのでしたら、ここでお礼を言っておかなければなりませんね」
「金のためにやっているだけです。人を殺して感謝されたくはありません」
婦人はうなずいて立ち上がった。
「ごきげんよう」
「さよなら」
婦人が去った後、オーナーが来てコーヒー代と通信料金はもう支払われていることを伝えた。心得たもので、契約のことには触れてこなかった。
「もう一杯飲んでいくかい。おごりだよ」
「いや。ディーの買い物につきあわなくちゃいけないんだ。電話を貸してもらえるか?」
「いいとも」
ディーと連絡を取り、ドラッグストアのパーキングで待ち合わせると、エル・シドは《ミネルバ・カフェ》を後にした。
◇ ◇ ◇
大きな荷物を後部スペースに投げ込んで、ディーが助手席に乗り込んだ。あえて荷物の中身は聞かずに車を発進させる。
「他に寄るところは?」
「ない」
「おい。車の中でものを食うなって。ここもコンピュータ・ルームと同じなんだぞ」
「もう」
飲食を禁止されたディーはラジオのスイッチを入れて音楽を流すと、椅子を倒して身体を伸ばした。
「今度の話はうまくいったの?」
眠そうな声で尋ねてくる。
「シンクレアの社員だ。75,000」
「社員でもピンキリだけど」
「特記事項なし。管財課課長。個人的怨恨」
「悪くないね」
足を組み直して、頭の後ろに手をやる。
「そいつの、ここ一カ月の退社時間と帰宅経路を調べて。出社の方でもいい。探れるなら身体サイバー化の状態も」
「O.K.明日からでもいいか」
「構わない。あ…もう薬やめないと」
唇に指を当てる。
常用している薬のことを思い出したからか、あくびを堪えようとしたのかは判断できなかったが、どのみち放っておくと、そのまま眠ってしまいそうだった。ディーは相手や周囲に構わず、自分が寝たいときは寝てしまうのだ。
「なあ、おい」
片手をハンドルから離して、エル・シドはディーの挑発的に組まれた白い脚にすべらせる。
「しばらく仕事にかかりきりになるんだ。今日は後の予定をすべてキャンセルしてベッドに直行しないか?」
「だめ」
ディーはエル・シドの手を容赦なく払いのけた。
「体は女でも、仕事を受けた瞬間からわたしは暗殺者Dなんだ。君とは寝ない。むろん他の誰ともね」
椅子を倒したままエル・シドを仰ぎ見る目付きが、すでに昏かった。
エル・シドは肩をすくめて、アクセルを踏み込む。
「仕方ない。早く済ませて、いつものディーに戻ってもらおう」
「そうだね。わたしもそう望んでいる」
急にいくつも歳をとったような声で低く答えて、ディーは目をつぶった。ふたりの部屋のある高層住宅街までの短い距離をしっかり眠ったらしい。
エル・シドは地下のガレージに車を止めて、ディーを起こす。寝起きは悪い方ではない。
「荷物もって」
車を降りたディーは、それが当然のサービスであるかのように頼んだ。こんなときばかりは自分が女であることを忘れていない。
部屋に戻ると、ディーはテーブルの上にあった薬のビンを棚にしまった。食後にいつもの習慣で飲んでしまったりすれば、仕事にさしつかえると考えたのだろう。
ただし、これまで飲み続けた薬の効果が切れるのは一週間後だ。エル・シドが暗殺の決行までに最低一週間という期間を告げたのは、そのためでもあった。
ビンのラベルは《ブルースキャロップ》。ホルモン製剤だ。服用しつづけるだけでジェンダーの壁を難無く擦り抜ける。
すなわち、性転換剤。
どういう根拠かは知らないが、「女性は人を殺すべき存在ではない」という信念をもっているディーは、仕事のときには男に戻る。それは、ひとつの儀式みたいなものだった。
そう。男に「戻る」のだ。
ディーは女でありつづけるために、ブルースキャロップを常用していた。
ディーの生まれついての性は染色体XX、すなわち男性である。
だが、ディーは女性でいる方が慣れていると言って、ブルースキャロップを飲み続けているのだ。
長い付き合いでわかってはいても、エル・シドは、そこはかとない気疲れを感じて、額に手をやった。
初めて出会ったとき、ディーが男だったら、今のふたりの関係は成立しなかったことは間違いない。今でさえ、男と女の間を行き来する恋人と暮らすのは、苦労が多いのだ。
「あのさあ、おれ以前から疑問に思っていたんだが」
エル・シドが恐る恐る口を開く。
「完全に移行するまでの間って、おまえの身体、どうなってんだ?」
「自分で試してみれば?」
ディーは含み笑いをみせる。
「身長六フィート半の女? 冗談だろ」
エル・シドは肩をすくめてみせた。
この時代においては至極簡単な冒険とはいえ、性転換してみようなどとは思ったこともない。その点に関しては、ディーの神経がどうなっているのか理解に苦しむところだ。よく混乱しないでいられると思う。
だが女になってもらわないと、恋人としては困った事態になるので、敢えて問題にはしないようにしている。
ソファに腰をおろしてカードをシャフルしていたディーが、エル・シドの名を呼んで、カードを扇形に開いてみせる。
エル・シドは適当な一枚を抜いた。
《クラブのJ》
「悪くない」
「切って」
カードをエル・シドに手渡し、今度はディーが一枚引いた。
《ハートのA》
「わたしの勝ち」
「仕方ない。今夜はおまえがベッドを占領してくれ」
エル・シドはカードを返すと手を振って、コンピュータ・ルームへ向かった。
「夕飯は?」
「ブランチはおれが作ったぞ」
「ピザ頼んでいい?」
ディーの不精さは性別に関わりない。
「カレー味はパスだ」
それだけ注文して、エル・シドはコンピュータ・ルームに引きこもった。
◇ ◇ ◇
「規則的な人間だよ。いま通ったコースから外れたことはない。行きも帰りもだ。
なにかご要望は?」
「引き返して」
助手席の相棒の声は、もう少女のものとはいえない。オーバーオールの服だからはっきりとはしないけれど、胸と腰まわりの肉も落ちたような気がする。
薬をやめてから何日になるのかよく覚えていないが、まもなくディーは完全な男になるだろう。
エル・シドと暮らしはじめてから、ディーが男に戻るのは「仕事」をするときだけだった。そのせいか、エル・シドにはまだ女のディーと男のDが同一人物だと思えないところがある。
無邪気な恋人のディーと有能な暗殺者のDでは、変わらないはずのサイバーアイに宿る光さえ、違って見える。
仕方ないのだ。ディーは十二になるまでの子供時代を、自分が女だと思って育ってきた。跡目争いに巻き込まれるのを恐れた母親が、幼いディーにそれと伝えずに、ブルースキャロップを与え続けたのだ。
母親の死後、薬を失った身体が、唐突にそれまでの仮面を破り、ディーに本来の性の自覚を強要した。男になったディーは軍隊に迎えられ、そこで暗殺術を仕込まれた。
十二歳を境に、ディーはまったく別の環境を与えられたのだ。そのせいで、ディーは性を変化させるとき、自然に人格も変化させてしまう。
かつてはディー自身が、アイデンティティの揺らぎに悩んでいた。わたしは何者なのか。どちらがあるべき自分なのかと。
ディーは自分で自分がわからずに、だだ間違っているという感覚だけを抱いていた。間違っている自分を許せずに、傷ついていた。
エル・シドには、ディーが求めている答えは与えてやれなかった。ただ、無理にどちらかを否定してしまうことはない、分裂した人格を共に認めてやればいいと提案した。
十二歳のままの少女に人を殺せとは言わなくていいし、暗殺者に無垢でいろと要求する必要もない。おれもそんな要求はしない、と告げた。
実際のところ、ディーを救うのは、すべてをひっくるめて、それでいいと言ってくれる存在だったのだろう。ひとりでいると、自分がひとりでないのが怖かったのだ。自分の影に脅えていた。
今ではエル・シドの方が不思議に思うくらい、動じない神経をもっているのだが。
そんなことを考えて苦笑しつつ、エル・シドは標識の指示に従って車をUターンさせると、元来た道を辿りはじめた。
キャップのつばを幾分上げ、ディーはサングラスの奥から窓の外をうかがっている。
彼(女)の意図はわかっていたので、なるべくスピードを出さないようにして走った。
二往復して、さらに今度は徒歩で下見をする。
「あそこでお茶にしよう」
広場に椅子を出しているカフェの方に顎をしゃくって、ディーが言った。
それも下見の内なのか、単に休息したいだけなのかわからなかったが、エル・シドは黙って従った。
余計な口出しはしない方がいいことを感じ取っている。
仕事のせいではない。気が重いことに、もうひとつの性への移行期間中、ディーはことさら機嫌が悪くなるのだ。
ブルースキャロップは手軽で副作用のない性転換を売り物にしているが、ホルモンの分泌が激しく変化して、身体を作り替えてしまうというのに、情緒面で影響がないわけがない。いったん変化が完了した後は、感情的にも落ち着くのだが、それまでは注意深く対応しなくてはならないのを、エル・シドはこれまでの付き合いで体得していた。
丈の高いアイス・コーヒーのグラスにわずかに口をつけただけで、ディーは周囲を、殊に空と建物を見回している。
襲撃に適した箇所を探しているのだ。エル・シドはココアをすすりながら、黙ってディーの検分が終わるのを待った。
ディーが指で口を覆うようにしながら、身体を傾けてくる。唇を読まれないように。
「あの街灯からなら、交差点が狙える」
「街灯のポールの上から? 目立ち過ぎだ」
「修理工に化ける。柄の長い工具を持っていても、怪しまれない」
ディーは、エル・シドがテーブルの上に置いたラップトップを、指先で叩いた。
「朝と夕方、ターゲットがここを通る時間を計算して。それからその時刻の太陽の位置も。晴れてたとして」
そんなことは、一年のうちで何十日とあることではないが、そのときになって直射日光に邪魔されたでは済まない。同様に日が落ちて、暗すぎても仕事の差し支えになる。
エル・シドが結果を表示してみせると、ディーはうなずいた。
普段の不精さが信じられないほど、仕事にかかるときのディーは注意深かった。そこがプロである所以であり、またエル・シドがディーのことを理解できていない気にさせられるのもそんな場面だ。
「車に乗っているところを狙うのか?」
「特別仕様という記録はなかった。徹甲弾を使えば問題ない。
ああ、そう。エル・シドには車を止めてもらうよ」
「なに?」
エル・シドはラップトップの上にこぼしてしまわないよう、カップをテーブルの端に下げた。
「ターゲットの車を停止させて、そこを撃つ」
「あのね、わかってると思うげと、おれはテクノなんだからな。荒事はおまえの領分だぞ」
「交差点」
それだけ言って、ディーはエル・シドを見上げた。サングラスをかけたままだったが、意図は通じた。
「できるでしょ?」
「できないことはないが…
交通を管理するコンピュータは、B級以上のAIだ。キーボードを叩いてたんじゃ、とてもじゃないがハッキングは無理だ。
ジャックインする必要がある」
エル・シドはこめかみを掻いた。
「問題はだな、ジャックインしている間は、おれは外界における意識がないわけだ。となると、システムを乗っ取っても、いつ信号を赤にしていいのか、そのタイミングが掴めない」
「アシストヘルメットを使って、わたしが合図する。作業員がヘルメットをかぶっていても、まったく怪しまれる要素はない」
インターフェイスに接続したアシストヘルメットなら、ジャックインした人間と意志を伝えあうことができる。しかし…
「アシストヘルメットは有線だぞ。わかっているのか?」
「わかっている」
「それはつまり、おれに外でジャックインしろってことか?」
勝手のわかった自分の部屋を出て仕事をするのは、どうも気が進まない。それに衛星回線を使ったハッキングは、探知される可能性も高くなる。
「工事用サービスカーに偽装した車を、あの街灯の下に停める。エル・シドは車の中からハッキングを開始して。
わたしは上からタイミングを見計らって、合図をする。そうしたら交差点の信号を赤に変えて。45秒でいい。撃ったらすぐその車で現場を離れる」
エル・シドは肩越しに振り返って、交差点を見やった。
交差点からここまで、等間隔で並ぶ街灯が四本数えられる。およそ200メートルというところか。
ディーなら外す距離ではない。
襲撃が成功するかは、ハッキングの成否にかかっている。
エル・シドは素早く、自分の技量を計算して答えた。
「…できない相談じゃないけどな」
「やって。できるのはわかってる」
信頼してるのか我がままなのかわからない口調だ。だがこれ以上、逡巡していると怒り出すだろう。
「わかったよ。おれがやるしかないんだろ。
後で《トライアングル・ピット》の親父に、ワゴンタイプの車が用意できるか頼んでみよう。作業服はブラックマーケットで手に入れる方が、足がつかなくていいか」
「エル・シドの分もだよ。車を運転するんだから」
機嫌を直したディーがくすりと笑った。
ディーが自分を巻き込んだのは、珍しいペアルックがしたいからだったのではないかという憶測が一瞬、エル・シドの頭をかすめた。
女のような少年が長身の青年の肩に身をよせて囁き交わしている姿を、記憶に留められない内に、ふたりはカフェを去ってブラックマーケットへ足を向けた。
◇ ◇ ◇
シャワールームから出て来たディーの肌は見事な小麦色に染まっていた。
性別すらすでに変装の一部になっている時代だ。肌の色くらい半時間もあれば好きなように変えられる。
元来が細身のディーは肌を染めたことで、さらに精悍な少年に見えた。ダウンタウンの電気工事技術者で充分通るだろう。
「どう?」
エル・シドと腕を並べて色を比べてみせる。
その腕の細さを思うより、エル・シドの頭に去来していたのは、ディーがよく裸で部屋の中をうろついているのは別に自分を誘惑する意図ではないのだという認識だった。ただ単に羞恥心というものが欠如しているのだ。男であろうと女であろうと。
「早く服を着なさいね」
油の染みた袋の中に、丁寧に保護したハッキング・ツール一式をしまい込みながらエル・シドはやや投げやりな調子で答えた。
スパナやドライバーを吊るした作業服に着替え、ディーは最後に工具に偽装したライフルを手に取る。
汚れた作業服でソファに腰かけるとエル・シドが叱るのは目に見えていたので、早く出掛けようと促す。
ちょうどいいサイズが見つからなくて、いささかきつめの作業衣になんとか腕を通し、エル・シドはいつでも出発できることを伝えた。
そう近所付き合いがある方ではないが、こんな格好で顔見知りに会うのは避けたいので、エレベータを使わずに非常階段で地上へと降りる。 公共バスで移動し、昨夜から時間単位で借りているメーターパーキングで、あつらえておいたサービスカーに乗り込んだ。駐車料金は半日で5ドル、車の方はレンタル料80ドルだったが、《トライアングル・ピット》の威信にかけて、どこからみても文句のない工事用ワゴンに偽装されていた。
時計を確認してエル・シドはエンジンをかける。
「1605、出発」
「了解。安全運転でよろしく」
ディーはつぶやくように言って座席を倒したが、今回は眠っているわけではなさそうだ。
渋滞にも巻き込まれずHiPに追われるようなこともなく、襲撃予定の15分前には目的の場所に到着していた。交差点をのぞむ街灯の下に車を寄せて停める。
ガラスの遮光レベルを上げて外から覗かれないようにすると、エル・シドはインターフェイスを取り出した。
「それじゃあ行ってくるよ」
ディーはアシストヘルメットを取り上げてうなずいてみせた。だがまだ外へは出ない。
15分も前からポールの上にいるのは目立ちすぎるし、狙撃に必要な集中はそんなに長続きするものではない。完璧に照準と自分が一体化できるベストの状態は一呼吸の間だけと言っても過言ではないのだ。
エル・シドは慣れた手順でコンピュータに自分を接続して「向こうの世界」へ入ってしまう。
リクライニングシートを倒して体のわきにコードを垂らした姿は、外からは眠っているようにしか見えなかったが、彼の脳細胞は膨大な情報を処理してフル回転しているのだろう。暗殺者という職の性質上、自らの匿名性を重視してアクセスファイバーをもたないディーには永久に踏み込むことのできない世界だ。
しばらく待っていると、チャイムが鳴った。前日、シンクレアの社員用駐車場のゲートに仕掛けておいた発信機が、標的の車が退社したことを知らせてきたのだ。
ディーは分解したライフルを収めたポーチのベルトを腰に巻いて止めると車から出た。
梯子を下ろし、ポールに固定する。ヘルメットの紐をしめ、ポールを上り始めた。
通行人がいないわけではないが、視線は自分を素通りしていくのを感じる。誰も気にとめていない。
安全フックをかけ、定位置についた。
口元にマイクを伸ばし、囁く。
「01−02」
所定の位置についたという暗号だ。
『もう少し待ってくれ。プロテクションがなつかなくてね』
イヤホンからエル・シドの声が聞こえた。
『あと2分あれば平気だ』
「OK」
ディーはライフルの組み立てを始めた。事前に調整しておいた目盛にきっかり合わせる。試射はないのだ。
それから新しい箱を破り、煙草を一本取り出す。軽くくわえて火をつけた。
すぐに唇から離して指の間に支えて動きを止める。煙の流れる様子で風向きの確認をするとポールにこすってもみ消した。吸い殻はポケットに押し込んでおく。煙草は本来好きではない。
「様子、どう?」
『なかなか手ごわい…くっ』
耳元で発せられた声に意図せずディーは高揚した。事態が許すなら愛の言葉でも囁いてもらいたいくらいだ。
再びチャイムが鳴った。標的が近付いてきている。
場違いな興奮が沈むように消えていくのをどこかで感じながら、ディーは冷めた銃身を引き寄せた。
「エル・シド」
『777。いつでもいいぜ』
「たのもしい」
ディーは発信地点表示機能をつないだゴーグルを下ろして、標的の車の位置を確かめた。その白い車はまっすぐに交差点に近づいてくる。
ゴーグルを外し、スコープに切り替えた。
視界を確保するのは望遠機能のついたサイバーアイではない。狙いをつけるのはいつでも生身の方の目だった。
「来るよ。やって」
それだけ言って、ヘルメットのスイッチを切る。絶対集中が必要だ。何者にもわずらわされたくなかった。
交差点までの距離は約200メートル。
信号が赤に変わった。
車がスピードを落として止まる。
標的の車は三台目。
息を止める。
スコープレンズとカーウィンドウとそこらじゅうに満ちている空気。見えないいくつもの存在を隔てて標的が見える。
エル・シドが見せてくれた写真の人物に間違いはない。
破円に囲まれた白いギリシャ十字が標的の横顔を正確なピントで捕らえていた。ディーに狙われていることも知らない、ディーと会ったこともないひとりの人間。
あまりにくっきりと映し出されたそのワンカットはどこか現実味がないほど鮮明で、目の前に貼り付けた写真を見るようだった。
「綺麗…」
口の中で囁いてディーはトリガーを絞った。
◇ ◇ ◇
乾いた音が弾けた。
銃声かも知れないし、タイヤがパンクした音とも考えられる。建物に反響してどこが出処か正確に指摘することもできない。
偶然に上を振り仰いでポールの上に電気工を認めた者がいたかも知れないが、工事に伴う放電の音、という以外の結論を出した者はいなかった。
ディーはゆっくりと梯子を下りた。
交差点では信号が変わり、車が動き出していた。
ディーは梯子を回収しながら横目でそれを見る。
けたたましくクラクションが鳴った。青信号だというのに動き出そうとしない車にいらだった後続車から。
気短なドライバーが抗議をしようと車を下りてウィンドウを覗き込めば、すぐにクラクションでは効果のないことを悟るだろう。だがそこまで見届ける必要はない。
ディーは道具をいっさい積み込んでフロントシートに滑り込んだ。
「終了だよ。エル・シド、帰ろう」
シートを倒したままでエル・シドの返事はなかった。
ディーはアシストヘルメットのスイッチを入れる。
「エル・シド」
『待てよ。痕跡を残さずに抜け出すには、ハッキング以上のテクがいるんだからな』
声の調子から、エル・シドがサイバースペースの中で奮闘しているのが伝わってくる。そばで見ているとき以上にだ。
もし自分もジャックインできて、サイバースペースでエル・シドに会うことができたら、五感のすべてで彼を感じることができるのかも知れない。それを思うと残念な気もする。
ディーは手を伸ばしてエル・シドの頬に触れた。耳の後ろの脈打つあたりを指でたどる。ジャックイン端子が埋め込まれている付近は少し堅い。
エル・シドの黒い目が開いて、1フィートの距離にあるディーの顔を見つめた。
「こら。人の寝込みを襲うんじゃない」
ディーは微笑して身を引く。
エル・シドはコードを引き抜きざまに起き上がってハンドルを掴んだ。
「首尾は上々?」
「愚問だね」
「では、撤収するとしよう」
動き出した車の中でディーは思い出したように笑いながら声を殺して囁いた。
「さっきね、ヘッドフォンでエル・シドの声、聞いててなんか身体が熱くなっちゃった」
「あん? 今は?」
「ちょっと違う。ヘッドフォンだから感じが違った。すこしかすれてて、耳元に唇があるみたいで、とってもセクシーな感じ。
ねえ、今度、電話で『愛してる』って言ってほしい」
「同じ部屋に住んでるのにか? そういう焦らすようなのは好きじゃないんだけどな。
それより早く薬飲んで女に戻れよ。おまえと寝たい」
「もう仕事は終わったから今夜でもかまわないよ?」
ディーが流し目をくれる。
信号で止まったエル・シドはハンドルから手を離して、肩をすくめてみせた。
「男同士でいる間はどうかしたくはないぞ」
「でもエル・シドが好き」
ディーがギアの上を越境してエル・シドの首に腕をからめてきた。
「おいおい…」
柔らかい唇が下りてきて後の言葉を塞いだ。
信号が変わっても走りだそうとしない車にいらだった後続車がクラクションを鳴らす。
ふたりは弾けるように笑って身を離し、家に帰りつくまでずっと上機嫌でいた。
◇ ◇ ◇
「で、今回は何が欲しいんだ?」
胸の上の慣れ親しんだ重さと暖かさを手でなぞりながらエル・シドは尋ねた。なめらかな起伏と吸い付くような肌の感覚。どこから見ても完全な女性だ。かわいい恋人のディーだ。
「ピアス。エル・シドとひとつずつ分けるの」
「片方だけ?」
「そう」
ディーはエル・シドの薄い耳朶を指で引っ張って笑った。
「それじゃあ、おれにもデザインに口出しさせろよ」
「いいよ。でもね、石はもう決めてあるの。ブルーダイヤモンド」
ダイヤモンドの最高ランクか。これはまた高価な注文だ。まあ、ピアスくらいならなんとかなるだろう。
エル・シドはディーがくすぐったそうに身じろぎするのを、笑いながら抱き締めた。
仕事が終わる度に、ディーにダイヤモンドの装飾品を買ってやるのは、ふたりが決めた約束だった。
いつだったか、エル・シドがディーに、ダイヤモンドはこの世でもっとも堅い鉱物で、この単分子構造の宝石はその同属でしか傷つくことがないのだと教えてやってから、ディーはダイヤモンドが気に入って、ささやかなコレクションを始めたのだ。
まあ、生花や汚染されていない小動物を要求されるよりはずっと楽な贈り物だ。それにディーはそれ以外の報酬を欲しがったためしがない。あとの収入と家計のやり繰りはすべてエル・シドに一任されていた。人を殺すのが生業だからというわけでもないのだろうが、ディーの生活感覚は鈍い。まともに生きるということに執着がないようにさえ見える。
とにかく約束は約束だ。
「シャワーを浴びて、着替えたら出掛けよう」
エル・シドはディーを抱いていた腕をほどき、キングサイズのベッドからすべり下りてガウンに腕を通した。ディーも今日は素直に起き出してくる。
「エル・シド、食事は?」
「外で済まそう」
ディーはうなずくと、バスローブを抱えて裸のままシャワールームの方へ歩いて行った。
エル・シドはコンピュータ・ルームに行って、夜の間に収集プログラムに引っ掛かったデータに目を通す。
先週おきたシンクレアの社員の射殺事件は、犯人が確認できないままにたくさんの新しい事件の中に埋もれている。企業間における水面下での抗争が原因だろうとマスコミは報じていた。
今に始まったことではないが、企業社員の身に何かしら理不尽なことが起きると、その原因は企業間の抗争だと推測される傾向にある。警察に対し、強硬な捜査続行の申し出がなかったということは当の企業も心当たりがあって、自社社員の暗殺はどこかの企業との摩擦によるものと認識したのかも知れない。企業など、常にうしろめたいことがあるものだ。
ともあれ、事件の話題性はそう高いものではない。似たような話はいくらでもあるから、すぐに風化してしまうだろう。
武器マニアが作っているアングラ情報局は犯行に使われたライフルの種類を見事に言い当てていたが、ガラス越しであるため、狙撃の距離と場所までは確定しかねていた。警察がそれ以上の回答を得ているとも思えない。
交通管理AIのハッキングに関しても気づかれた気配はなかった。
ここに捜査の手が及ぶようなことはなさそうだ。
水を撥ね散らかす音が止み、ディーがシャワールームから出て来る。
エル・シドは画面を切り替えて席を立った。
シャワールームへ行こうとする彼を、短い電子音が呼び戻す。デスクに手をついてデータを覗き込んだ。
「どうかした?」
「ん…ちょっとした用事ができた」
スリットに手を当てながらエル・シドはあいまいに答えた。
「食事の前に寄りたい場所があるんだけど、いいかな」
「構わない」
「じゃ、シャワー浴びてくるけど」
エル・シドはディーの二の腕を軽くつねって言った。
「風邪をひく前に熱帯の原始人の真似はやめなさいね」
◇ ◇ ◇
「エッグマフィンと冷たいミルク。それからアイスウォーターひとつ」
先にウェイターを捕まえて注文を言い付けてから、エル・シドは席についた。
薄汚れた少年はタイタンズのキャップを握り締めたまま、微笑してエル・シドを見上げる。
「来てくれてありがとう」
「早かったな。随分無理したんだろう。この前よりもっと痩せたぞ」
ウェイターが運んで来た皿を少年の方へ押しやって、自分は水をとった。
「食べろよ」
少年はためらってから、素直に礼を言って受け取った。だが落ち着かない様子は隠せない。
「お金、用意したんだ。この前、言われた通り…
時間、かかっちゃったけど、ちゃんとあるから」
エル・シドは包んだ中身ごと帽子を受け取った。大金を預けることができて、少年に安堵の色が戻る。ミルクを一口、飲んだ。
「精一杯やったんだな」
エル・シドに言われて、少年は照れたように身じろぎした。
「おれの方も調査をしたよ。君の姉さんのこと」
声をおさえてゆっくりとしゃべった。
「君の言った通りだった。どうしようもない麻薬中毒者だ。ああなるともう薬のもたらす夢なしではいられないんだろうな。ほとんど薬浸けだ。正気でいる時間なんかないだろう。
あれはね、あと半年ももたないよ」
少年が弾かれたように振り仰ぐ。
エル・シドはうなずいた。
「本当だ。おれたちが手を下さなくても、彼女は近いうちに薬で身を滅ぼす。めちゃくちゃになって、苦しんで、おれたちが一発の弾丸でするのよりずっと恐ろしい死に方をするだろう」
「だ、だけど…」
エル・シドは帽子を少年の手に戻し、その上から両手を添えた。
「この一月ばかり、君がどれだけのことをしてきたか思い出せ。どれだけの努力と苦労をしてきたか。
あいつは君が全精力を傾けて倒すべき相手か? 君の努力に見合う価値のある相手か?」
少年は唇を噛み締めてうつむいた。
「オレに、どうしろって…」
「どうしても殺してほしいというなら約束だ、引き受ける。だが、君が用意した金は仕事料の半分でしかないし、相手は放っておいても死ぬ。
自分がどれだけ頑張ることができるかわかったなら、あんな奴の復讐に人生を賭けないで、自分のために使ってもらいと思った」
テーブルの上に滴が落ちた。痩せた肩が小刻みに震える。
「あなたの言うことは多分、正しい。
でもオレにはつらいよ。目標がなくなる。これまでずっとそのことばかり考えてきたんだ」
「君は復讐を望まなかったんじゃない。諦めて投げ出したわけでもない。遂行しないことを選択するんだ」
エル・シドは少年の頭をなぜた。
「君が目を閉ざしていただけで、生き方は外にもたくさんあるんだぜ。《トライアングル・ピット》のボスがな、君をえらく気に入っていたよ。いい腕をしたエンジニアだって。
君さえよければ、ガレージで働いてもらいたいと言っていた。ガレージの二階に住み込みで雇う意志があると伝えてほしいと。
その10,000ドルは新しい生活をはじめる役に立つはずだ」
エル・シドはゆっくりと少年の頬に手をすべらせた。顎に指をかけて顔を上げさせる。
「あんな奴に君の未来を邪魔させるな。君は立派に生きてゆける。それがあいつの選べなかった生き方、君だけにできた復讐だ」
「あなたは」
いくらか潤んだままの目で少年は正面からエル・シドを見つめた。
「最初からこうするつもりだったんだね」
「まあ…正直言えばね。だがこの結果を勝ち取ったのは君だ」
少年は顎にかかったエル・シドの指を引き離した。そのまま額に押しいただく。
「ありがとう」
エル・シドは微笑した。
「そのうちおれの車も直してもらいに行くよ」
椅子を引いて席を立つ。
「外に人を待たせてあるんだ。これで失礼する」
少年は黙って見送った。曇りのない瞳をして。
一度だけ振り返り、手を上げて挨拶をすると、エル・シドは道路を横切って自分の車に戻った。ウィンドウをノックして、ディーにロックを外してもらう。
ドライバーズシートに乗り込むと、このダウンタウンで周囲の余計な注意をひかないようにはおっていたくたびれたジャンパーを脱ぎ捨て、ディーが差し出したジャケットに腕を通した。第二級保安区内のレストランで食事をするためのささやかなおめかしだ。
「もういいの?」
「ああ」
「男の子泣かしたね」
「見えたのか?」
ディーはウィンクしてみせた。左右で色の異なる瞳。サイバーアイに付加されている望遠機能なら充分可能ということだろう。忘れているととんでもないところを覗かれるおそれがある。
エル・シドは肩をすくめた。
「ありがとうって言ってたぞ」
ディーは微笑した。
「エル・シドはね、人を喜ばすのがうまいんだよ。
わたしもありがとうって言いたいな」
甘い声を出してしがみついてくる。
「わかったわかった。精一杯サービスするよ」
エル・シドの答えにうなずきつつ、ディーは目を閉じてつぶやいた。
「わたしね、エル・シドが好きだよ」
「今日は特別に?」
「ううん。いつも好き。ずっと好き。
でもね、エル・シドに出会えたことは感謝しない」
「ほう?」
腕から肩に移ってきたディーの指に首をすくめて、エル・シドは疑問の声をあげた。
「エル・シドはね、わたしが見つけてわたしが捕まえたんだ。だから誰にも感謝はしない。わたしひとりの手柄なんだよ」
「おれが拾ったんじゃなかったっけ?」
「拾ってくれるように誘ったの」
「おやまあ。見事にひっかかったよ、おれは」
エル・シドは手を回してディーの頭を自分の胸に抱き込むように押さえ付けた。
こんな自己主張のできるディーが愛しいと思った。
時には謙遜なんかしないで、自分ひとりがやり遂げたことだと自慢してみるのもいいかも知れない。特に人を愛することなんかは。
非情で理不尽な街だからと諦めるよりは、神の恩恵を信じることのできない世界だからこそ自分の好きなように生きるのだ。楽しむのだ。
ダイヤモンドは傷つかない。
そう言い切れる強さがうれしい。
前菜代わりのキスをかわすと、エル・シドはゆっくりと車を発進させ、ディーと一緒に摩天楼の影の中から滑り出していった。
街はふたりの前に高く、時に明るくそびえ立っていた。
END