STAND ALONE SIDE-A
◇ OPENING ACT ◇
時計は六時を三十分ほど回ったところだ。
しかし、窓から日がさし込むことはない。ぶ厚く垂れ込めた暗い色あいの雲が、昇ったはずの朝日と灰色の街とをさえぎっているからだ。
本格的な冬が、また今年もこの灰色の街に訪れた。
寒気が厳しくなるにつれ、街が頭上に戴いた暗雲は、その裡に湿気と有害物質をためこんでゆく。およそ三ヶ月かかってためられた汚れは、その後三ヶ月かかって灰色の街へと降りしきる。極彩色のベタ雪となって。色とりどりの雪は、降り積もった先で踏みにじられ、そして各々がまじりあい、街をより無機質の灰色に染めあげてゆく。この長く冷たい季節が街を覆う間、日の光が地上に届くことは少ない。
灰色に凍結した時間によって、またこの街が包まれる。特に早朝は、空気の流れまでが固体のような緊張感に支配される。もし、それに捕らわれないものがいるとすれば、それは気の早い雪だけだ。
時期の早い雪だけが、その本来の色を見せてくれる。
この冬初めて、真綿のような雪が地上の汚れた営みの残骸と、貧しい路上の凍死者達の上に薄く降り積もった朝だった。
求めたすべての機密がプラスチックペーパーにプリントアウトされ、ディスクにも落とされたことを確認して、老人はジャックイン端子からコードを引き抜いた。
正直、精も根も尽き果てていた。正味八時間以上にもわたって行われたハッキングは、さすがに齢六十にならんという老人には、つらいものであったと言わざるを得ない。
それでも老人は、腰を落ちつかせることなく立ち上がり、ディスクを手に背後のエレベーターに向かった。
解析、整理作業専用のコンピュータシステムはまた別のフロアにある。少しでもウィルスの侵入を防ぐため、外部とのアクセスルートを一切断っているのだ。
今まで人気のなかったフロアは、骨までしみるほど冷えきっていた。コンピュータにはいい環境かも知れないが、老人には苛酷な寒さだ。
かみあわぬ歯を鳴らしつつ、老人はシステムを立ち上げて、ディスクをスリットに落とし込んだ。
システムが動き出したことを、目の前のディスプレイが示す。
そこでようやくヴィジホーンの子機を手にとった。映像はつながらないが別に気にすることでもない。短縮ボタンでアクセスナンバーをインプットする。
おそらく、あいつはまだ起きちゃいまい。
昨夜、自分に仕事を依頼してからもいくつか回るところがあると言っていた。ことによったらまだ帰宅していないかもしれない。
その時、不意に回線がつながった。
「ワシじゃ」
まず、それだけを告げた。これで自分が誰であるか相手には伝わる。
「…おやすみのキスをくれと言った憶えはないんだがな」
明らかに睡魔に支配されている低い声。
老人の口の端が小さく吊り上がる。眠いのはお互い様だが、青年の憮然としている表情を想像するとなぜか微笑ましくなった。
「結果が出次第連絡をよこせとは言われたが、時間の指定はされなんだからの」
回線をはさんで一拍の沈黙。
「…ありがとよ、じいさん。落ち着いたらそっちに行く」
やり込められ、睡魔に負けて青年は回線を切ったようだ。
老人は、今度は大きく頬をゆるめた。そして、大きな欠伸が口をつくにまかせた。
◇ EARLY MORNING ◇
勝手知ったる他人の家、とばかりに地下駐車場に愛車を乗り入れてから、デューク・レッドフォードはこの家の主人に来訪を告げた。
「…何の用じゃ」
しばらくの間をおき、頭上から不機嫌な声が降ってきた。明らかに睡眠中に起こされた声だ。
「心外だな。落ち着いたら行くと言った筈だぜ」
まっ白な息がもれる青年の口許には、皮肉めいた微笑が見えている。
「あれから三十分しか経っとらんぞ!」
「十分もあれば、眠気ざましのコーヒーの一杯くらい落ち着いて飲めるさ」
エレベーターに歩みより、箱の中に乗り込む。暗証番号をうちこまずともエレベーターは勝手に昇り始めた。
青年が吐き出された屋上は、一面が白いものに埋められていた。
店も例外ではない。屋根からは重そうな雪が今にも滑り落ちて来そうだった。
店の扉を開け、老人は青年を待っていた。お互い様ながら昨夜と同じ服装だ。
両手にはひとつずつ、コーヒーの入ったプラスチックカップを持っている。
「しかえしのつもりか? シリウス」
青年は否定も肯定もしなかったが、片方だけつりあげられた唇は肯定を意味していたのかもしれない。
「眠気ざましに淹れたんじゃ、つきあえ。
あいにく、落ち着いて飲んどるような時間は無いがの」
青年にコーヒーを手渡し、老人は奥へ向かった。カウンターを回り、キッチンの入口とは別のドアを開ける。そのまま廊下が続いていた。
踏み入れると冷気が身体にしみてくる。カップの湯気がより密度を増したようだ。暗い廊下はすぐに壁にぶつかっている。
老人が壁の前に立つと、巧妙に隠されていたエレベーターが口を開けた。特に老人が何かしたようには見えない。
二人は、無言のままに箱に乗り込んだ。広くない箱の中にコーヒーの香りが満ちた。
吐き出されたフロアには11というナンバーが記されていた。青年は初めて足を踏み入れる。
部屋に通されて青年は納得した。窓の向こうにスーパーコンピュータがこのフロアを占める様が見える。
湯気をくゆらせるカップを手に、二人は大きなディスプレイの前に立った。老人はコンソールパネルの前に椅子を移動させ、それに腰かける。カップに口をつけてから、左手をスリットに入れた。
ディスプレイが暗転した次の瞬間、画面の左上方にデータNo.1という文字と一人の男の写真が現れた。ファイル名は『被賞金犯罪者No.641に関するデータ』とある。続いて正面写真、横面写真が現れる。
「これが最初のターゲットじゃ。
セルゲイ・ニジンスキー。31歳。男。
あの事件の時に使われた街のチンピラ共の一人じゃった。あの後、使われた駒の中で捨てられなかったのはこいつだけじゃ。
他の連中は身の程知らずにも高給取りになることを望んだが、この男は自分が生きるべき世界を心得ておった。そのまま、ストリートの裏側でのし上がってゆくことを選んだというわけじゃ。
黒幕組織のひとつであった『ステイツ・コネクション』の下部構成員に名を連ねることに成功し、今の地位まで上ってきたということじゃな。奴にとって、ドラッグがらみの仕事はまさに天職というべきじゃ」
コードネーム『オールドギース』。北米最高の情報屋と呼ばれる老人の調べ上げたデータがここにある。ディスプレイと同じ内容だと、仕草で示してから、老人は朝方にプリントアウトしたものを手渡す。
コーヒーの入ったプラスチックカップをデスクの片隅に置き、デュークは渡されたデータに目を通し始めた。
ドラッグの取引現場において重要な事柄は、受け取る物をきちんと確保する、ということだ。それはなにもドラッグに限ったことではないが、品質の管理、見極め、物の取り扱いという点でドラッグほどデリケートなものはなく、それだけに大口の取引となる。
ドラッグやそのレシピを仕入れる時、劣悪な物をつかまされるわけにはいかない。
逆にドラッグを卸す時、正当な報酬は確保せねばならない。
ターゲットが居あわせた取引現場で、これらのトラブルが起きたことはない。より正確に言えば、この男は自分の現場でトラブルの発生を許さなかった。
ここ数年、組織同士の抗争の主な原因は、ドラック取引のこじれにかかわっている。どんなに大局的な見方をしても、否、大局的に見れば見るほど、抗争という形は組織に何らかの損失を残すものだ。セルゲイという男は、その原因の発生を許さなかった。また、トラブルが発生した少数の事例においても、己の属する組織には損害を残さずに、もしくは最小限かつ深刻にあらざる損害状況での事例の収拾を実現している。
ほぼ縄張りが確立されたドラッグマーケットに対し、新参の後進組織であった『ステイツ・コネクション』が、ここまで独自のマーケットを拡大できたのも、全てターゲットをドラッグ部門で取り立ててきたことによるだろう。
「ただのネズミじゃなかった、ということだな」
青年の瞳にはさして感銘を受けた様子は現れていない。彼にしてみればむしろ、当然のことだったかもしれない。
身の裡の底の底で燃え盛り、決して火勢を弱めることのない炎は、まちがってもドブネズミ一匹を焼き尽くすためのものではない。たとえ序ノ口の相手とはいえ、俺達に地獄を見せた奴がドブネズミ一匹のままでいられて許されることなどない。
デュークの裡で、それは気負いでも何でもない。ただ誇りとか矜持と呼ばれるものだ。何より、己よりもあの人たちに対しての。
「安心せい。放っておいてもこれから先、標的の格が落ちるこたあないわ。今から肩肘張りおってから、後で保たんようになるぞ」
老人にしてみれば、目の前の若者の胸中は手にとるようにわかる。それは告げておかねばならない一言だった。
「わかってるさ。十分すぎるほどな」
プラスチックペーパーをまとめ、デスクの隅に放ってから、空いた手にコーヒーのカップをとった。口をつけるわけでもなく掌でカップを包み、データの先を促す。
「ほら、手がお留守になってるぜ」
この若者にしては多弁なほうだ。これだけ軽口が叩ければ、まず問題はあるまい。年寄りが気にするほど、この若者は甘くはないということか。
ディスプレイがさらにスクロールし、ターゲットの現状が報告され始めた。
「ここ数ヶ月、奴さんの仕事は『新規開拓』だったらしいの」
「ほう」
犯罪組織も細かな営業活動が必要ということか。
「それに関してじゃがの、色々と面白い話を聞いとるぞ」
この老人の『面白い』は総じて『キナ臭い』ととっていい。青年は無意識のうちに身を乗り出していた。
「興味深いのは次の三点じゃ」
ディスプレイが暗転し、ターゲットがぶら下げている『面白そうな話』が映し出された。
「現在、ステイツ・コネクションはドラッグディーラーとしてマーケットに関与しておるんじゃが、近々『新製品』を売り出すつもりがあるらしいの。密売組織のバイヤー共の間じゃあ、その話でもちきりじゃ」
この業界の噂はなかなかデリケートだ。軽く見ていると後々泣きを見ることもある。突拍子もないと思われていた噂が真実であったり、逆に堅実な情報と思っていたものが、とんでもないガセネタだったりということがざらにある。
この噂に関しては信用していいと言える。でなければ、オールドギースともあろう者がわざわざ扱うわけがない。
「暗号名は『B』。破格の値段と言える額らしいの」
「予定末端価格50ドル?」
確かに意外な額と言えよう。物を知らずには詳しいことは言えまいが、それでもこの値段はにわかには信じ難い。精製カスを集めて作る合成クラックの平均価格が約20ドルといったところだ。きちんと手間をかけて精製することを考えたら、ドラッグディーラーに利益は残るまい。
それに、客がつくか?
ドラッグフリークやジャンキー共にとって、薬をきめるのはある種のファッションだ。銘柄の流行りすたりというものもあれば、そのドラッグが持つスタイルというやつにこだわる者もいる。フリーク共がドラッグを選ぶ時のポイントのひとつは値段だ。安価すぎるものはクズ粉、安物というイメージがつきまとう。事実、合成クラックなどはシティ外縁の難民達しかありがたがらない。
あり得べからざる値だった。
「当然、裏があるんだろう?」
若者の問いに対する答えは、老人の自信たっぷりの笑みだった。
「こいつを手にいれるのは並の苦労じゃなかったわい」
ディスプレイ上に現れたのは電子メールのコピー。
「…『Bドラッグの初回取引に限り、500グラムの代金は不要』? おいおい、こんな話は聞いたことが無いぜ」
「…続きにも目を通してもらいたいのう」
青年の視線が素早くディスプレイ上をすべった。
「『ただし、末端価格は50ドルとすること。これが守られなかった場合、次回以降の取引の可能性は無いものとする』
…ずいぶんと強気の内容だな」
老人の眼が青年の反応をうかがうような光を帯びた。それに気づいた青年は乗り出していた身を引き、初めて手にしたコーヒーに口をつけた。ただ、その液体がとうにぬるくなっていたことは気づきもしていない。
「…じいさんの考えを教えてくれ」
老人も残っていたコーヒーで口を湿らせた。
「考えられることはひとつじゃ。
『損して得取れ』という言葉がある。奴等、この布石の結果、利益をあげる自信があるんじゃろう。それも桁違いにの。
それには大前提がある。このBドラッグとやらにそれだけの魅力がある、というな」
確かに、十分『面白い』話だ。
「さて、まだまだ話のネタはあるぞ。
次は今回の情報の仕入れ先に関して見てもらおうか。こいつらの動きもなかなか興味深いと言えるじゃろう」
No.2と打たれたデータが現れる。タイトルは『非合法集団No.25に関するファイル』とあった。
ターゲットがコンタクトをとっていた密売組織。
「…ロドリスの組織か」
ロドリス・タルカルコス。この都市の財界と暗黒界ににらみを利かせる男だ。
元はいわゆる利権屋だ。企業や都市が争うと、そこに必ず利権が生ずる。そこに群がってくる人間をどこかで保護する。そして、自分も利権の中に食い込んでゆく。そうして大きくした金と組織で、表と裏の力を伸ばしてきた男だ。その時のコネクションを生かし、現在南アのメガ・ケープタウンと、鉱物取引の太いパイプを有している。このパイプを武器に表の力をも伸ばしてきた。今では守られる側の人間だ。かつて追われていたものから。
「権力に守られている連中には、できるだけ近付きたくはないんじゃがな。それでも、追っていたネタはたいていそこへ行きついてしまうものじゃ」
「それだけ、権力に守られた奴らが汚いということさ」
「腐ってるな」
「今にはじまったことじゃないさ。それ自体はな」
鼻で笑うような吐息を、老人はひとつはさんだ。
「奴の組織はまさに汚ねえ仕事ででかくなってきたところだ」
見ろ、という老人の言葉に続いて、金の流れから探ったと思われる組織の仕事の概略があらわれる。
やはり、利権屋として稼いだ金が裏での収入の大半を占めている。その構造は見事といえるものがあった。GMTともシンクレアともうまくやっているが、その立場を煙たがられるような仕事はしない。それをできる武器と力は持っていても、だ。その辺りのバランス感覚は一流のものと言えるだろう。
裏の力の象徴である組織も、生半可な調べ方ではロドリス・タルカルコスの名はつかませない。組織の末端など、自分達のボスがロドリス・タルカルコスという男だ、ということすら知らないと見える。
しかし、その汚い仕事の中からドラッグの腐臭は届いてこない。
「こいつは?」
どういう事か、と青年は老人に問う。今まで活動は隠されていたということか。
「確実に、こいつらは新規参入のドラッグ組織であると言える。このワシの名にかけてな」
それがどういうことか、この老人がわきまえていない筈がない。
「今、この都市で新しい組織が新しい市場を開けるというのか?」
灰色の街の地図に裏の勢力分布を色分けさせれば、極彩色の地図ができあがる。そして、全ての境界は、髪の毛一筋ほどの緩衝地帯も入らせずに密接することになる。そこに新しい組織が無理に参入しようとするなら、起きるものはひとつだ。
組織間抗争。
今時、ヒットチームの応酬といったような非能率的な抗争はない。
まず、相手の根城のひとつが爆破されるだろう。ダイナマイトを投げ込まれるか、爆薬やグレネードをブチ込まれるかはわからない。どちらにしても結果は変わらないことだ。
場所はダウンタウンであることが多い。目障りなポリがやって来ないし、根城とする建物の代えにも困らない。
しかし。組織の人間達に倍する被害者が、通行人や住人達より出る。
牙を持つ者同士が闘うことは、いい。それ自体はかまわない。しかし、牙のない者が闘いに巻き込まれることは別だ。
きれい事だということもわかっている。自分がそう考える事が、だ。しかし、捨てられる思いではない。甘いとは認めても恥だとは認めない。
青年の心情がそう動くことを、老人は十分にわきまえている様子だった。わきまえていてけしかけているようにも、あきらめているようにも、それは見える表情だった。
「…さて、こいつを見てもらおうか。奴らの狙っとるエリアじゃ」
ディスプレイに表示された地図は、青年のよく知っているシシリアンマフィアの縄張りだった。
「ヴェツィーニのお膝元か…」
シシリアンマフィア、ヴェツィーニ・ファミリー。
マフィアと呼ばれる所以は、彼らの武装が未届けの違法品である、ということと、前世紀からの古いしきたりを今も忠実に守り、これからも伝えようとしている、ということによるだろう。組織だった武装集団はみな、マフィアという呼称で呼ばれるが、その内実は様々ということだ。
ヴェツィーニ・ファミリーは、その勢力圏のほとんどをダウンタウンやアンバーゾーンにおいている。その中で彼らのしていることは、いわゆる自警団的な役割であり、決してやってくることのない警察組織に代わっての治安維持行動とも言えた。むろん、無償の行為ではないが。
そして、ブラックマーケットの保護である。
メガ=シティの企業は、一応すべての必需品を製造、供給しているが、当然、すべての分野に均等に、というわけにはゆかない。その支配企業の得意分野は製品に余剰ができるが、苦手分野は逆に枯渇することになる。そのため、他のシティとの貿易が行われることは行われるのだが、関税があまりに高くつく。
こういった現状のために、ハンターが行うシティ間の密輸は黙認に近いかたちがとられるのだ。企業上層部はともかく、良心的なゲート・インスペクター達はそうだ。そうしてブラックマーケットに品が並べられでもしない限り、一般市民ですら日常の生活は送れない。
ヴェツィーニ・ファミリーが行っているのは、その闇市の保護なのだ。
密輸されてくる品を確保し、マーケットに回してやる。
勢力圏の全てでそれを行っている。それによる上納金という形が、彼らの収入源であり、他からの収入は無い。
つまり、彼らの勢力圏にはドラッグの売人が入りづらいようになっている。
治安維持活動を行うからには、ジャンキーや売人は少ないほどいいに決まっている。例え、組織の実入りが少なくとも、だ。
そういう方針をとる男だ。
組織の構成員は決して多くはない。
ただ、士気と質は高いと言えた。
そこに、ロドリス・タルカルコスはドラッグの楔を打ちこもうというのだ。
ドラッグという観点からの地図なら、空白のエリアが丸々手に入るということを、それは意味している。
「ここに喰い込もうっていうのか」
「そういうことだ。
どうじゃ、面白かろうが」
「ドン・ヴェツィーニは骨のある男だ。いくらロドリスの組織がステイツ・コネクションのバックアップを受けても、簡単に牙城は崩させんだろう」
自分の口調が希望的なものであることを、青年はどこかで自覚している。
確かに希望でしかあるまい。少なくとも、己が参戦しないのであれば。
「ところがの、さすがのヴェツィーニ・ファミリーでも今度ばかりは苦しいことになる」
幾度目かのディスプレイの暗転。先刻とは別の電子メールが表示される。
「これが今回のとっておきよ。どうじゃ? ワシの言わんとしているところがわかるな、シリウスよ」
「ああ」
メールから目を離せなくなっていた青年は、それだけを短く答えた。
密約。
ロドリス・タルカルコスが下した判断は、非常に速やかで大きなものであり、なおかつ危険なものであったと言えた。
Bドラッグのマーケット拡大に全力を傾ける旨が、そこに記されている。ステイツ・コネクションの側の申し出は無条件で受け入れる姿勢を作る。Bドラッグを優先的に回してもらっても対応できるように。
「外道が…」
『狼』と呼ばれる男の眼に、青年はなっていた。
老人は無言で画面をスクロールさせる。
コネクション側の返答だった。
英断に謝意と支持の意を表意する、という内容の書き出しがあった。続いて、Bドラッグの卸先がタルカルコス・グループに絞られたという、コネクションのトップ会議の意志を伝える文が続く。
「さて、本題じゃ」
ステイツ・コネクションは、タルカルコス・グループにいくつかの提案をしていた。
応援の派遣。とりまとめて言えば、そう言える。
これから、グループが新規のマーケットを開拓するにあたり、様々な仕事が増えることになる。
教育され、選別された売人の確保、末端までの流通ルートの確立、そして、マーケット開拓の際に妨害者になるであろう者達の排除。
これらを手際よくこなせる者達の派遣ということだ。
「…『ナイトメア』の奴等、かなりマーケットの実現にやっきになってるようだな」
「その通り」
投入される部隊の名が表示された。
ステイツ・コネクション特殊 部隊『夜魔部隊』。
「ナイト・ゴーンツ。こいつらはまさに特殊部隊じゃ。そこらの殺し屋ハンターや軍隊とはレベルが違う。
憎しみや怒りからは人は殺せん。奴等は食卓のパンをむしるように、さりげなく人を殺す」
どれほどに本気なのか。それが知られる。
「上等」
相手に不足はない。
「やる気が出てきたようじゃの。そのやる気、むだにゃならんぞ」
夜魔部隊が指揮下に入る人間の名。そして、タルカルコス・グループのオブザーバーでもあるその名は、セルゲイ・ニジンスキーとあった。
「ターゲットが組織入りして以来の大舞台じゃ」
「俺の初舞台でもある」
「主役はどちらが張ることになるかの」
「さあな。奴を主役にして、悲劇でも喜劇でも踊らせてやれるよ」
残って冷たくなっていたコーヒーを干し、シリウスはカップを握りつぶした。
「もっとも、復讐劇なら主役は決まってるがな」
◇ MIDNIGHT ◇
死肉にたかるカラスのように、厚い雲がここ数日、ネオ・アップルの上空を去らない。
例年のとおり南下してくる冷たい海流の影響もあって、街は底冷えのするような寒さだった。生半可な暖房器具しかないスラムのアパートでは今夜も凍死者が出るだろう。
吐く息がたちまち細かな結晶になって、ハイウェイの路傍灯の光を朧に乱反射させている。
防音壁が期せずして風を遮る役目を果たしてくれたが、それでもアスファルトの道路は足元から忍び込むような冷気をまとっていた。
夜も半ばを過ぎている。巨大なコンクリートジャングルの狭間、この高架線から車の流れが絶えて久しい。
こんな寒い日は、空気が冴えて音がよく響く。だが、それにもかかわらず静かだった。
もともとが、幹線への迂回路となっているハイウェイである。この時間帯の交通量が少ないのは珍しいことではない。
それでも、その少ない通行車のために極寒の中、待つ者たちもいる。
等間隔に並ぶ照明が鎖のように連なりながら路上に落とす光の輪。その外縁部に、一台の車と何人かの人間がたたずんでいた。路上には反射板が設置され、車線を塞いでいる。
見通しはいいが、脇道のないハイウェイの先からヘッドライトが近付くと、電光警棒を差し上げて停車を促す。
反射塗料でマーキングされた夜間安全服が、正面からのライトにまぶしく映える。
警察の制服がその下から覗いていた。
彼らはここで、もう何時間も検問を行っている。普段ならこんな場所には検問は敷かれない。それもすべての車を止め、乗員を降ろしてチェックするという念の入れようだった。
車を誘導するために道路中央へ出た係官は、近づいてきた相手を確認すると、すぐに脇へ避けた。協力要請の意味がなかったからだ。今、彼らの前にさしかかったのは身内の車だった。誰かに遠慮しているかのように回転灯を消したままのパトカーは、模範的な運転で路肩に滑り込む。
ライトが落ちて扉が開くと、運転席から、しばらく持ち場を離れていたラディン部長刑事が終夜営業ファーストフードのロゴ入り袋を持って出て来た。
袋の中身は保温カップに入ったコーヒー。さすがに勤務中はアルコールで身体を暖めるというわけにもいかない。
「そちらの皆さんにも配っておくれ」
「ありがとうございます」
HiP巡査長のファーマーは、感謝の意を表してコーヒーを受け取った。
壁際の刑事たちに一礼してその場を離れ、緊急避難帯に停めてある、もう一台のパトカーのガラスをノックする。
パワーウィンドウがすばやく下がり、無線連絡担当になっているオネスト巡査が顔を見せた。
「向こうの部長から差し入れだよ。ミルクと砂糖は?」
「いりません」
青年はいつもの、無愛想ともいえる表情で簡潔に答えた。
ウィンドウ越しにカップを受け取ったオネストの膝の上に、抜き身のマグナムがある。暇を持て余して、いじっていたのだろう。
ファーマーがマグナムに目をやっているのを見て、オネストが口を開く。
「こいつを飲み終わったら交替にしませんか、ファーマー巡査長。自分だけ暖かい車内でずっと楽をしているのは気がひける」
「そんなことはないよ」
ファーマーは首を振った。
「本当は、休暇をとって療養してもらいたいくらいなんだ。その怪我で超過勤務についてもらっていること自体、すまないと思っている」
寡黙なオネストは肩をすくめただけで、それ以上は何も主張しなかった。
「それじゃあ、これから後も頼むよ」
ファーマーはパトカーを離れて、今度は、一行からいくらか外れた場所にいるアクター巡査のところへ、コーヒーを運んでいく。
アクターは今夜も相変わらず愛機にまたがっていた。『POLICE』の六文字を白抜きに大書したホバイクだ。
エンジンの低い回転音がしているが、ファンは作動していない。シャトルを思わせる車体は完全に着地していた。
エンジンをかけたままにしてあるのは、ホバイクとアクター自身の暖気のためらしい。
アクターはバイザーで目を隠した上に、ホバイクのシートに伏すような姿勢でいるので、一見すると眠っているのかとも思う。眠っていないにしろ、まじめに勤務しているようには、とうてい見えない。
向こうに待機している今夜の同僚たちは、一番若いアクターのそんな態度に苛立ちを感じもしたようだが、先程、検問を強引に走破したヴィークルに対して、アクターだけが即座にホバイクを発進させて追いつき、叩き伏せたのを見てからは、彼がホバイクの上に居座っているのを黙認することにしたらしい。
アクターはファーマーが近づくのを見るとバイザーを押し上げ、上体を起こした。
「アクター、向こうの部長から、コーヒーの差し入れをいただいたよ」
「どうも。うれしいな」
「ミルクと砂糖は?」
「両方ください。あ…オネスト先輩、ブラックでって言ったでしょう? 余ってたら先輩の分のミルクもくれます?」
コーヒーの飲み方ひとつにも個人の流儀があるものだ。たとえ安物のインスタントコーヒーでも、いつもの習性はそうは変わらない。
「わたしの分のミルクもいるかい?」
ファーマーが言うと、アクターは苦笑した。
「いや、いくらなんでもそんなに入れませんよ。先輩の分だけで充分です。ありがとう」
ファーマーが砂糖と二個のミルク、それにマドラーをつけてコーヒーカップを手渡すと、アクターは両手で包み込むように受け取った。しばらく手の中で柔らかな暖かさを味わっている。
珍しく今夜は言葉少なだった。人見知りするようなタチではないのだが、初対面の同僚たちから離れてここに陣取ったきり、暇つぶしの噂話にも加わらないでいる。
先程の捕り物の高揚も、もうすっかり冷めてしまったようだ。
行動も性格もどこか猫を伺わせるアクターだけに、こんな寒さには弱いのかもしれない。そうはいっても半端な寒さではないのだが。
「本当に来るのかな」
アクターがつぶやいて顔をしかめる。
「俺たちにこんな時間まで残業させやがって。今日はじーちゃんと飲む予定だったのに」
確かに降ってわいたような残業だった。
ほんの数時間前。夕方のラッシュ時にもかかわらず、主要幹線をゆうに二時間交通麻痺に落とし入れ、さらにオネストを含む警官数名が負傷するという犠牲を払って、ようやく逮捕した特別手配中の犯罪者には、思わぬおまけが付いていた。
彼は科刑の軽減を条件に、新種のドラッグが今夜、第二級保安区域内に運び込まれるという情報を口にしたのである。
『B』とだけ呼ばれるそのドラッグについては、何も判明しなかった。ただ、ネオ・アップルの情勢を大きく変えることになるかも知れないドラッグだと、男は匂わせた。
事件はHiPの管轄を越えた。ただちに市捜査局に連絡が回され、HiPとCBI麻薬課は合同で、麻薬運搬が予定されるハイウェイに検問を敷いた。それがこの残業である。
今のところ網にかかったのは、暴走族にも相手にされない駆け出しの運び屋がひとりだけ。無謀にも検問を突破しようとしたために、アクターにはいいように遊ばれたが、ドラッグ運搬に無関係なことはすぐに判明した。
それきり、事件らしい事件も起こっていない。
そろそろ情報の信憑性を疑いたくなってくるのも道理だ。ましてその名のとおり、待機の苦手な行動派である。
外気の苛酷な冷たさに、早くもぬるくなり始めたコーヒーを浮かない顔で飲み干す。
その横顔を、ビームライトが照らし出した。
検問に近づいて来た車がいるらしい。
「仕事だ」
ファーマーは言って、持ち場へと戻る。
ホバイクの上に伸び上がって様子を伺っていたアクターが、凍るような口笛を吹くと、シートから滑り降りて小走りに追ってきた。
「アクター?」
「あの車は俺が検査します」
直前までの退屈そうな態度が嘘のようだった。駆け抜けざまに、他愛のないいたずらでも企んでいるような嬉しげな声がもれる。
「…本物だ」
その言葉の意味も、何がアクターにやる気を起こさせたのかもすぐにわかった。
検問で停められている車は『幻の名車』と呼ばれたMAX−7。車種としては戦闘バギーに分類されるが、走り屋好みの外観と性能を兼ね備えた逸品だった。
純正なMAX−7は数百台しかこの世に存在しないと言われている。まさに『幻』と呼ばれるにふさわしいプレミア車だ。
その程度はファーマーも知っている。だから、アクターが検問にかこつけてお近づきになりたがる気持ちも理解できた。
アクターがMAX−7を路肩に誘導するのを見て、マニュアルどおりに検査を済ませようとしていた同僚が文句を言った。彼らはCBIの刑事だ。HiPのやり方に慣れていない。
「何をする気だ?」
「外見に騙されないで下さいよ。こいつは搭載火器をいくつもポケットの中に隠しておける特殊車両なんだ。
麻薬以前に、第二級保安区域への大型武器の持ち込みは許可されていない。弾丸を抜いてあるか、全部チェックしなきゃ。
どれだけ時間がかかるかわからないし、道路の真ん中でこいつをバラしていたら迷惑だから、脇に寄ってもらうんです」
ファーマーは現場主任の部長刑事にうなずいて、アクターの主張が一応、理に適ったものであることを伝えておいた。
ラディンはMAX−7の検査をアクターに任せることにしたらしい。それ以上は何も言ってこなかった。
アクターはMAX−7の後ろに追突防止の反射板を置いてから正面に回り、ビームライトの光に身をさらした。
「悪いが徹底的に調べさせてもらうよ。降りて来てくれないか?
まず身分証明と、こいつが本当にあんたのものだっていう登録証を確認させてくれ」
こんな抜き打ちの検査を快く思う者はまずいない。おまけに相手は戦闘バギーだ。抵抗された場合を考えて、ファーマーもアクターの側に控えていたのだが、その用心は無用に終わった。素直にドアが開かれて、ドライバーが車外に出て来る。
降り立ったのは二十代半ばの若者だった。
この車を所有するには若すぎるといえるだろう。経済的な意味もあるが、このプレミア車を入手するには金だけではだめだ。よほどの人脈があると考えていい。だが、それを伺わせない容姿をしていた。
くたびれたロング・コートに身を包んだ精悍な顔付きの青年。無関心に近い表情をしていたが、そこに落ちた蔭りは、名士界よりはむしろ、彼が後にしてきた場所にふさわしい。
「この車を維持していられるほど、羽振りがいいようには見えないけどねえ」
アクターは、ファーマーが思っても言わなかったことを率直に口にした。
だが、その口調に疑いの色はなかったから、彼が確認した証明書の記載は納得のいくものだったのだろう。
「車載されている武装のチェックをしたい。カバーを全部開けて…あン、俺が手伝ってもいいか?」
持ち主の青年がうなずくと、アクターは喜々としてドライバーズシートに乗り込んだ。
「アクセルはどうなってる? さすがにいいもの使ってるな。サイバーリンクがないけど平気なのか?」
およそ検査と関係のないことをしゃべっているが、青年の方は特に気分を害している様子でもない。こんな車に乗っていると、詮索されるのに慣れてしまうのだろう。
ここはアクターに任せておいておくのが正しいようだ。MAX−7に触っていられるという理由だけで、隅々まで丁寧にチェックをしてくれることだろう。
もう一台、別の車が来るようなので、ファーマーは持ち場に戻った。
この時間帯でも、たった5分の間に二台通りかかることもあるようだ。
しかも、今度の車も、MAX−7とは別の意味で珍しい車だった。
カンタベリー社の装甲リムジン。VIP専用の送迎車だ。
運転手はお仕着せの帽子をかぶった大柄な黒人だった。彼の勤務先もリムジンの所有者も共に、ピアズという評議委員の事務所になっている。
「何かあったのかい? どうでもいいがこんな時間だ。手間をとらせないでくれよ」
「なるべく手際よくします」
ファーマーは一応そう答えた。
「キーをそのままにして車から降りてください。後ろの乗員もです」
「おい」
前後で戸惑ったような声が重なった。
運転手が白い歯をみせる。
「会議の後でボスは疲れているんだ。それにこの寒空に評議委員を立たせるつもりか?」
「申し訳ありませんが」
穏やかにファーマーは要請した。
「ファーマー巡査長。評議委員の車なら問題はないだろう。行かせてしまえ。悪印象を与えると後が面倒だぞ」
ラディンが小声でそう言って肩をすくめてみせた。
「いえ。まだ何もチェックしていません」
ファーマーは曲げずに主張する。
たとえ評議委員に風邪をひかせることになっても、麻薬の取り締まり任務を放棄することよりは正しいと思っている。こういう点では融通のきかない性格だった。
「疑っているのか?」
運転手が声を低くして凄みをきかせた。
「はたいても何も出なかったらどうするつもりだ、警官?」
「何も出なくて当然なんです」
ファーマーも言い返す。
「ピアズ氏に車から降りるように伝えてください。評議委員という職務にある人ならば、むしろ我々の仕事を理解して、快くご協力いただけるはずです」
運転手はガラスで仕切られた後部座席に、マイクを通して話しかけた。
警官の無理解を訴える彼の口調があまりに不服そうだったので、評議委員は逆に寛大な気持ちになったようだ。
『まあいい。街の保安を担う諸君のご希望のとおりにしよう』
スピーカー越しの声が答える。
ロックの外れる音を聞いて、ラディンが走りより、敬意を示すようにドアを開いた。
その向こうからゆっくりと地面に降り立ったものを見て、皆の動きが止まった。
エナメルのピンヒールに包まれた小さな足。そしてそれに続いて毛皮をまとった若い女が出て来たのだ。
蠱惑的な赤い唇をした美人だった。偽物でないとしたら恐ろしく高価な黒い毛皮が似合い、そしてその下には何も着ていないのが一番似合うような女性だ。事実、今も着ていないかもしれない。
その後からピアズ評議委員が姿を現した。隣の女性ほどにはインパクトを与えない人物だった。中肉中背、髪には白いものがだいぶ交じっている。
評議委員がどんな「会議」からの帰りなのか、聞くだけ愚かなことらしい。
「ご苦労」
それだけの挨拶も終わらない内に、女性は、寒くて死にそうと言ってピアズに腕を絡ませた。
「確かにこれは耐えられんな」
ピアズは美人にしがみつかれても、嬉しそうな顔ひとつせずに鼻を鳴らした。
「待たされる間、休める場所は用意してないのかね」
「申し訳ありません、こんなつもりでは…」
ラディンがしどろもどろに言い訳をしている。彼ほどの階級ともなると、かえって上には気を使わなければならない。
ファーマーは一礼だけして、車内を調べるために身を屈めた。ヒーターで過剰なほどに暖ためられた空気が頬に触れる。
その瞬間、頭上で銃声が弾けた。
女の悲鳴がその余韻に重なる。
ファーマーが身体を起こすのと同時に、今までそこにあった評議委員の身体が重心を失って崩れ落ちた。右目から後頭部に弾丸が貫通している。その一発のみで、むろん即死だった。
銃弾の飛来した方向を振り返ったファーマーは、拳銃を手にした人間をふたり確認した。
上丈の短いHiPの制服のホルスターから官給の拳銃を抜き、アクターがヒップドロウの態勢で身構えている。抜きざまに構えたのだろう。まだ完全にホールドされているとはいえない状態だ。右手の人差し指はトリガーにかかっていない。
彼は弾丸を発射していないはずだ。そもそもが狙う方向が違っている。
発砲したのは、あきらかにもう一方の人物だった。
アクターが銃を向けている青年は、いまだ硝煙のたちのぼる銃口を気にもかけず、役目を終えたコンバットマグナムを、コートの下のショルダーホルスターに戻したところだった。
相手が拳銃を収めたことで、一瞬だが確実に、アクターが安堵の表情をみせた。
すぐに任務を思いだし、肩の力を入れ直そうとした瞬間だった。青年の手がのびて、アクターの拳銃のシリンダーを押さえる。
緊急配備ということで弾丸はフル装填されているが、まだ撃鉄は起こされていない段階である。シリンダーを押さえられては弾丸を発射することはできない。
銃の構造を完全に知り尽くした者の動作だった。
そのまま、至近距離にあるアクターのピストルをゆっくりと押し下げる。
アクターも反発せず銃を下ろした。力など入れていなかったかのように、ごく自然に青年の手が銃から離れる。
アクターはセイフティをかけ、ロック音を確認してから銃をホルスターに戻した。
どういうわけか、ふたりの間には状況の理解が成立したらしい。
時間にしてみれば、ほんの数秒。その静寂に、模範的とさえいえる女の悲鳴が幕を下ろした。
目の前で起きたことの意味を改めて把握した女が、派手な悲鳴とともに、頭から車に乗り込む。パトロンに死をもたらした惨事がまた起きないとも限らないと恐れての行動だろう。だが、運転手がいきなり車を発車させたのまで同じ理由とは考えがたい。
「止まれっ!」
ラディンが戸惑ったように叫んだ。
「なんてことだ…!」
アクターが反応しかけたが、ホバイクとの距離がありすぎた。間に合わない。
次の瞬間、まったく別の方向から銃声が響き、タイヤを撃ち抜かれたリムジンは半回転しつつ、軋むようなブレーキ音を立てて停車した。
CBIの刑事たちがそちらに駆け寄っていくのを見つつ、待機中のオネストは何事もなかったように銃を膝の上に戻す。
今夜の第一任務はあくまでも無線担当である。装甲リムジンのタイヤを破裂させるためにはどんな弾丸を使う必要があるのか、それを気にする人間さえいなければ、このまま任務を邪魔されることもないだろう。いや、事によってはまだ銃が必要かも知れない。
冷気の吹き込むウィンドウを全開にしたまま、オネストはMAX−7の方を眺めた。
オネストとは別の意味で、リムジンはもはやファーマーの眼中になかった。早足で距離を詰め、MAX−7のドライバーに対峙する。
「アクター、ピアズ評議委員を射殺したのは彼だと証言できるか」
「ええ」
ごく簡潔に肯定した後、アクターは付け加えた。
「彼は明らかに評議委員とやらを殺すために発砲しました。一瞬、ファーマー巡査長を狙ったように見えて、その時は撃ち殺してやろうかと思ったけど」
確かに微妙な位置関係だった。だがそれは今のところ問題ではない。
ファーマーは青年を見据え、静かだが故意に押さえたような声で言った。
「君を殺人罪に問わずにすむ理由があれば、この場で申し立ててもらいたい」
青年は一言で答えた。
「ハスラーだ」
「ユニオンの認定証を確認しました」
アクターが横から口を入れる。
「彼にはバウンティハントが許可されています」
賞金のかかった犯罪者を狩るマンハンター、ハスラー。
ファーマー自身はその制度に賛成ではなかったが、バウンティハントが公的に認められていることは事実だった。この青年は合法的に殺人の許可を得ているのだ。だが。
「誰でも殺していいというわけではない。ピアズ評議委員が規定に定められた賞金首に該当するのか」
「データファイルを渡してもいいが、警官なら自分で確認してもらおう」
青年はメモを取るのに充分な速度で話した。
「ランクF−47057。二十八年前、保険目的の偽装盗難の共犯として、800ドルの賞金が確定している。その後、名前も顔も変えた。だが、間違いなくその男だ。整形を担当した医師の記したカルテがここにある。ここに至るまでの経歴も」
青年はマイクロディスクを差し出した。ファーマーは手を伸ばし、ひどく重いもののようにそれを受け取とる。
ひとりの人間が深夜の路上で合法的に殺されるに値する理由がこれだけのものか。
「まだ問題がある。賞金首なら誰でも即座に殺していいというわけではない。
刑法における詐欺共犯の科刑は懲役一年以上九年未満。ピアズ評議委員はまだ五十代だ。刑期を果たしても存命している可能性がある。その場合、服役の意志を確認せずに殺せば、それは殺人だ」
「二十八年前だと言ったはずだ」
青年は冷静に告げた。
「あんたの信奉する刑法とやらによれば、逃亡一年につき、刑期は二年加算される。そして人間は薬も使わずに、平均して百二十年以上生きる術を発見していない」
ファーマーは視線をそらして吐息をついた。
「君の言い分は認めざるをえないようだ。手続きをすれば賞金も支払われるだろう」
「受け取る気はない」
そう聞いても驚きはなかった。
MAX−7に乗るほどのハスラーが800ドルの賞金目当てに、わざわざ自分が生まれる前の記録まで調べて仕事をするはずもない。これは周到に用意された罠だったのだろう。
彼はターゲットより先にここへ来て、アクターのおしゃべりに故意に引き留められた風を装い、検問のためにターゲットが装甲リムジンの砦の中から出てくる瞬間を待っていたのだ。
当然あるだろう警官の尋問に対応する準備まで整えてあるのが、明らかに計画的行動であることの証明だった。
アクターは自分が利用されたことにもう気づいているようだったが、別段、気分を害してはいないらしい。まだMAX−7に寄りかかるようにして立っている。
「800ドルをいらないって? もったいないな」
「なんなら、あんたが評議委員をハントしたと申請してくれてもいい」
「残念だね。警官には賞金は出ないんだ」
含み笑いをして青年を見上げる。
「どっちにしろ、800ドルで自分の命を売る気はないね。ささいなキズでも放置しておくと致命傷になると、今あんたに教わったばかりだよ。
ましてや評議委員は“ささいな”存在じゃない。どうやら、俺が知っているよりもずっとね。
今夜の収穫はこいつを拝めたことだけで充分さ」
愛しげにMAX−7を撫でる。その仕草にはどこか、当人の目の前で恋人の唇を奪うような、子供じみた悪事の雰囲気があった。
「検査の結果なら合格。まだ用があるなら、第二級保安区域への進入を許可するよ」
青年は黙ってMAX−7に乗り込んだ。
扉を閉める前に、一度だけファーマーを見上げる。
その瞬間になら、尋ねることができたかも知れない。彼が何故こんなことをしたのか。
一概にハスラーといっても、犯罪者を追う目的はひとつではない。金のため、正義のため、殺戮の快感のため、名を上げるため。
だが、ここでどんな答えを聞こうとも、それに対して責任を負うことができないのがわかった。
引き留めるに足る理由は、ファーマーにはない。
低く震えるような音でエンジンがかかり、MAX−7はなめらかに加速してすぐに視界から消えた。
にわかに落ちた沈黙の中で、リムジンを追っていった刑事が戻って来て告げる。
「女性のコートの内側から麻薬らしきものが発見されました。例の『B』かどうかはわかりませんが」
「そうか」
それがなぜか必然的なことのように思われて、誰も驚かなかった。
先程のハスラーはおそらく、知っていたのだろう。ピアズがいまだに犯罪に手を染めているということを。
麻薬と殺人と、どちらが重大な事件なのか、自分たちは何のためにここに来たのか、今となってはもうよくわからない感じだ。
ファーマーは不意の死に襲われた男の側に立って見下ろした。
評議委員でもある麻薬の運び人。確かに犯罪者ではあったが、自分が強硬に車から降ろさなければこんな場所で殺されることもなかったはずだ。
死体から路面にこぼれた大量の血液はその紅さを保ったまま、もう凍りつこうとしていた。
寒い夜だった。
◇ DAYTIME ◇
MAX−7を真昼のハイウェイにのせた。この時間になったのは、支度に多少手間取ったからだ。訪れる相手を考えたら、多少でも身支度は整えねばならなかった。
めずらしく、弱い陽光が雲間からさしてくる。それだけで体感温度はかなり変わるものだ。エンジンの機嫌もいい。
狩りの準備は整った。最後に打つ布石をのぞいては。
狼は、すでに獲物をその視界に捕らえている。薮から追い出すのはさほど苦労しなかった。ただ、相手の迅速さだけは、さすがに侮りがたいものはあった。
オールドギースと二人だけのブリーフィングがあった当日、早速、ヴェツィーニの縄張りで騒ぎがあった。
爆弾テロに類するような、そんな攻撃ではなかった。
選別されたコマンド数名による突入作戦。夜魔部隊によるものであることは、言うまでもない。
ヴェツィーニ・ファミリーのそのエリアにおける拠点のひとつが潰されたことになる。そればかりか、ファミリーの若手がその折りに何人か拉致されていた。
それは、狙っていた行動だったのかもしれない。拉致された数名の中にはドン・ヴェツィーニの息子がいた。まだ若い。少年と言ってもいいかもしれない。
父親と、父親がしていることを誇りに思っているような少年だ。
自分の心優しさを臆病だと思い、父親のようでない自分を恥じていた。それでも、優しいままに強くなりたいと思い、努めていた。
憧憬の念を込めて見上げてきた瞳を、シリウスは憶えている。
その手を汚させたくないと、父親は言っていた。自分の仕事が汚いものでもあることを知っているからだ。できれば、別の道を歩ませたいとも言っていた。
今、その父親が、一人きりの部屋でどうしているか。容易に想像できることだ。
イル・カポとしての顔は、そこにはないだろう。
そしてイル・カポとしては、組織の若者一人のためにファミリーを危地に立たせられまい。
そういう男だ。
ヴェツィーニ・ファミリーはタルカルコス・グループとステイツ・コネクションに対し、徹底抗戦の構えをとることを決定した。それを今朝知らせてきたのは、オールドギースだった。
「ヴェツィーニはオープンコントラクトを出した」
シリウスに、老人はそれだけを告げた。それだけで全てがわかる。
組織がヒットを決行する時、二通りの指令のいずれかが出される。
まず、単なるコントラクト。これはドンに指名された特定のヒットマンが仕事を決行するものだ。そのヒットマンだけが獲物を殺ることを許される。功名心に走って統制を乱す者が出るのを防ぐためだ。
しかし、オープンコントラクトは異なる。ファミリーメンバー全員がコントラクトを出されたことになる。一度この指令が出されたならば、標的はまず生き残れはしない。
しかもこの場合、二重の意味でのオープンコントラクトだった。
タルカルコスとコネクションの息がかかっている者であれば、標的は問わない。
そういう指令だった。事実上、全面戦争の宣戦布告といえる。
「窮屈な生き物じゃ、男というのはな」
老人はシリウスにそうも告げた。そして、連絡を終えた。
ファミリーの報復が始まれば、一挙に戦争にまで発展するだろう。
これはまちがいなく、セルゲイ・ニジンスキーという男の計算だ。そうして奴は、自分に与えられた舞台の幕を切って落とそうとしている。
ドン・ヴェツィーニという男も、それを理解しているだろう。理解していて闘おうとしている。
シリウスにはそれがわかった。コネクションのオブザーバーが出した計算も、ファミリーのイル・カポの決意と覚悟も。
早ければ今日中にも、どこかで火の手が上がると見ねばならない。
ファミリーの報復よりも、タルカルコス側の第二撃のほうが早いかもしれない。自分がセルゲイ・ニジンスキーであれば、ここでまようことなく夜魔部隊を動かす。ヴェツィーニの出鼻を挫くためだ。
一方で、その公算は五分であるかもしれない、という思いもある。
先刻得た調査結果が、シリウスにそう思わせている。そして、シリウスの足にアクセルを踏みしめさせている。
どちらにしても。
全てを決めるのは今日これからの動き方次第になるだろう。決して時間に余裕はない。
あの男を動かせるかどうか。
偶然出会った警官。眠りを与えられていない身体が、あの晩の寒さを一層感じていたためか、記憶もあの時の冷気のように鮮明なまま、という気がシリウスはしている。
ある種懐かしい人柄だということを、最初から感じていた。六年前に警官同士として会えていたなら。無意味な仮定の自問ということがわかっていながら、シリウスは自分にその問いを投げかけずにいられない。
もし、六年前に会えていたら。
俺達は十六人だったかも知れない。そう思える。たとえそうはならなくとも、他の警官達のように自分達を正気ではない、などとは言わなかったに違いない。
あの夜、シリウスは男を一人殺している。
互いに牙を剥きあって闘い、その末に倒したというわけではない。
復讐の標的として仕留めたわけでもない。
狼にそう扱われるべき価値や、誇りというものなど、身の裡に抱いていない男ではあった。
それでも、シリウスは張り巡らせた罠にかかったその男に対して、手を汚した。タルカルコス・グループとステイツ・コネクションが築いた牙城を崩すために、それが最も効果的な手段だからだ。
一度汚した手は、二度とぬぐわれることはない。
己の流す血が、汚れを落とすような気がした時期もあった。しかし、すぐに気がつくことになる。別の汚し方をしたにすぎないのだと。
気がついてしまえば、手を汚すことに無感動になる。無感動というのは正しくはないかもしれない。人間は、ただ強くなるというわけにはゆかない。残忍さや兇暴さも、身体の底のどこかに持ってしまう。そうなってしまった自分が、人を殺すという作業を無理なくこなすようになってしまう。
目的のために、躊躇なく手を汚したシリウスに、あの警官は慎重ではあるが厳しい態度で接してきた。それが純粋に、法を遵守しそれに従わせんという態度なのか、法を通して正義を見ることで表された峻厳さなのか、それはシリウスにはわからなかった。
しかし、ひとつ感じたことはある。
それは誇りだ。彼が殉ずる誇りだ。
別の、こういう言い方が許されるならば、彼もまたけものなのだ。
荒野をただ一頭駆ける狼ではないかもしれない。だが、群れを持つことを選び、何かにつくしたり、何かを守ってゆくことで誇りを得るような狼もいる。
どちらの生き方をとるかが問題なのではない。
殉ずる誇りを抱けるか。
どこかに同じにおいがあった。
人生の歩み方と運の巡り方が違っていたら、互いが逆の立場に立っていたかもしれない二人だ。
手を汚してきたけものと、未だ汚していないけもの。
もしかしたら、それだけが二人の違いなのかもしれない。
ステアリングを右に切り、車線を変更する。ボルチモア・エリアへの出口が目前に迫っていた。ギアを三速に落とし、出口への坂を下る。
出口での手続きは、正直言って面倒だ。搭載火器の確認後、それらから弾薬を抜き取られる。かかる時間は相当なものだ。
彼の家はさほど遠くはない。歩いて行けない距離ではない。ものの十五分、そんなところだろう。
MAX−7はそのままゲートパーキングに預けた。その後に身体検査を受ける。これも思わぬ時間を取ることがあった。
今時完全生身のハンターなど、汚染されていない動物並に珍獣扱いされる。よほど厳重かつ巧妙なカムフラージュをしているのではないか。そして、そのカムフラージュに見あうほどの、違法かつ危険なものを埋め込んでいるのではないか。そんな、無用の職業意識というものを喚起するらしい。
幸い、今日はそのようなことはなかった。
長居は無用と、シリウスは歩き始めた。
工業セクションであるボルチモア・エリアだが、シリウスの歩いている所は、工場区からはかなり離れている。一般企業ビルを工場区との間に置いている住宅地だ。生活能力で言えば上の下から中の上、言わば最もまともな人々の中で、最も活動的な人々が住む場所だと言えた。
支配企業社員、一般企業幹部社員、社会的に認められつつある芸術家、芸能人、デザイナー、そしてここに住めるほどに社会的信用と実力、金を持つハンター達。そんな人間がここに住んでいる。
堅実なことでも知られる優秀な警官の住まいとしては、まあ妥当なところと言えた。
エネルギッシュな人々の住む街は、昼は静かな顔を見せている。もっとも、一日の活動を終えて帰るための街だ。ここは閑静な街でなければならないのかもしれない。
俺が住むべき街じゃないな。
何の前触れもなく、そんな思いがシリウスの胸に去来した。自然と口許がほころんだ。唇の端だけが笑う、いつもの笑いだ。異端者であるということを、自分のどこかが楽しんでいた。
我ながらへそまがりな人生の楽しみ方だとも思う。全てを突き離して見るように生き始めてから、いつかそんな男になっていた。
そんな男には、なおさら似合わない街だ。
街が、図々しい異端者に拒否反応を示しているのがわかる。
一人も通行人に会わないのが、その証拠のように思えた。
道はゆるやかに上り勾配になりつつあった。長くゆるやかな坂がシリウスの眼の前を伸びている。
もとめる家はその坂の上か、途中にあるようだった。街灯のプレートがそのことを教えてくれている。
陽光はいつの間にか雲を抜けていた。珍しいことだ。街の色が変に白く煙って見える。この季節にしては温い空気がそう思わせるのかもしれない。
歩を進める方向30メートル程先の所で、子供が一人遊んでいる。他に動くものが見あたらないせいか、その子供に自然と目がいく。
子供は自動車の玩具で遊んでいるらしい。鍛えられたハンターの眼でも地を向いた子供の顔を見ることはできない。訪問先の子供かどうか、シリウスは判断しかねた。ちぢれた黒髪は資料中の顔写真でも確認している。
とにかくは、話しかけてみる。歩幅を広げた時だった。
子供の手から車が離れた。
勢いをつけて押し出したのかもしれない。車は道路の中央へとすべるように進んでゆく。車道と歩道の段差など無い、住宅地の道だ。玩具は坂道に入り加速を始めた。
子供は立ち上がった。真剣な眼。それがシリウスに見えた。胸で何かが痛んだ。
子供は駆け出した。その背中に、本物の車が迫っている。子供はそれに気づいているようだった。気づいていて、自分の手を離れてしまった玩具を取り戻そうと車道に駆け出していた。
そして、シリウスも駆け出していた。腕を指し伸ばし、駆け出さずにはいられなかった。間に合う距離ではなかったが。
小さな手で、大事な物を小さな胸におし抱いたまま、子供は走ってくる自動車の前にうずくまる。
間一髪。自動車は急停止できた。ガラス全面のスモークレベルが上げられている。赤いスポーツクーペ。MAX−7とはまた別の意味で高価な車だ。
ドアが開き、若い男が降りた。怒りか焦りか、紅潮し歪んだ顔は、明らかに精神のバランスを失っていることを示している。
男は子供を押しのけ、まず車を調べた。撫でさすり、愛おしそうに目をやる。そして、おもむろに立ち上がった。怒気に濁った目だ。
「くそガキが……」
濁った目のまま、男は子供をにらみ下した。じっと、子供はその目を見返す。
男の中で理不尽な怒りに火がついた。子供を殴ろうと腕を振り上げる。
容赦無く振り下ろされかけたその腕を、シリウスは掴んでいた。そのまま握った手に力を込める。
男が目を白黒させる。なにげなく掴んだシリウスの親指が、経穴のひとつをおさえている。痛みは相当なものの筈だ。呼吸も不規則となり、下顎の落ちた口からは唾液が垂れかけている。
「あ…ガ、かぁ…」
若い男の口から声にならぬ声がもれた時、シリウスは掴んでいた腕を振り払った。そのまま、若い男はよろけ、尻もちをつく。
その様に一瞥すらくれず、シリウスはそっと子供を抱き上げた。
「ケガは、ケガは無いか…?」
何故か、声が震えた。子供は不思議そうにシリウスを見返してくる。そして、ゆっくりとうなずいた。
「そうか」
笑顔。いつもの笑顔ではないことに、シリウスは気づいていない。瞳で子供に笑いかけていた。控えめな笑みが子供の顔に浮かび、それは時間をかけて満面に広がった。
「おいてめえ! 何しやがる!」
無様な姿を正し、男が立ち上がった。うわずった耳障りな声を張り上げる。
「てめえ、そのガキの連れか? ふざけるなよ、事故でも起きたらどうするつもりよ 」
抱いた子供を奥に庇うような方向に、ゆっくりとシリウスは振り返った。
口を開かず、若い男を見下す。男は決して背は低くなかったが、シリウスの眼はそれでも上にある。
「…た、たかが小汚ねえおもちゃなんか拾いに飛び出しやがって、命が惜しくねえんじゃねえか? どこの乞食…」
最後まで口にすることは許されなかった。空いていた腕で襟首をつかみ、シリウスは思いきりその男を引き寄せた。
「…おまえに、命より大事なものがあるのか?」
低く圧えられた口調だった。底にこわい響きがある。
男は口を開けない。目だけをせわしなく動かしている。車の中。若い女がスモーク越しに確認できた。それを気にしているらしい。
「おまえに命より大事なものがあるのか?」
底光りする瞳が男の目前にある。歯の根があわない。
「あ、あるわけねえだろ、そんな……」
再び男の身体は振り払われていた。激しく尻をうちつける。
「命をかけるものも見つけられないような小僧が、命より大事なものを持っている男に手を上げるな。
ケツの青さが取れてから出直すんだな」
シリウスはすでに男に眼もくれていない。子供を抱いたまま、ゆっくりと歩道に戻る。
おさまらないのは若い男だった。
あわてふためいて立ち上がり、高価な服についた埃を払う。たった今あしらわれたことさえ忘れ、シリウスの肩を突き飛ばした。正確には、突き飛ばそうとした。
うるさげに、シリウスは肩越しの視線を投げる。
「てめえッ! 人に恥かかしといて、そのまますます気じゃねえだろうな 」
シリウスの歩みが停まった。
「恥…だと?」
「そうだよ! 憶えてろよてめえ、俺の親父はな、シンクレア…」
男の頬が高く鳴り、三度、男は最後まで言葉を発することをゆるされないまま、今度は路上に吹き飛ばされていた。
払いのけるように平手の甲を振ったシリウスは、瞳に明らかな怒りを込めて男を見下ろした。
「な、なんれ…」
鼻血を垂らし、男は舌もうまく回せない。
「恥の意味もわからずに、恥をかかされたなどとぬかすな」
払い、伸ばしていた腕の掌をゆっくりと拳づくる。
「失せろ。俺にその汚い面を憶えられんうちにな」
身体を、大きくひとつ痙攣させて、男は飛び上がるようにして起き上がった。そのまま車の運転席に頭から転がり込む。二度ほどエンストさせてから、赤いスポーツクーペは住宅街を逃げていった。
子供が、シリウスの腕の中で小さく身じろぎした。ゆっくりと地面に降ろしてやり、シリウスは片膝をついた。
「ありがとう」
小さな声。しかし、細くはない。
黙って髪を撫でた。胸の玩具の車に目がいった。それに気づいたのか、男の子は誇らし気にその車を差し出してみせた。
プラスチックの車。アンテナがある。ラジコンなのだろうか。だとしたら、壊れて動かないのかもしれない。
それでも、この子には大事な物なのだ。
もう一度、ちぢれた髪にそっと指を通した。
「坊やは偉いな」
男の子は、また静かに微笑んでみせた。今度の笑みは少し照れているように見える。控えめで、可愛らしい笑顔だ。小さなえくぼができた。
「でも、道路で遊ぶ時はもう少し気をつけよう」
照れたまま、男の子は大きく顎を引いた。
その仕草に、シリウスは素直に微笑むことができた。
「よし、いい子だ」
間違いない。この男の子は彼の子供だ。血はつながっていないということを、シリウスは既に知っている。彼の子供となった経緯も知っていた。
この子も、それをわきまえているのではないか。
ふと、シリウスはそう思った。
自分が養子であるということ。それを、彼は彼なりに、この年齢なりに受けとめているのではないか。
それは、並ならぬことだと思う。それをこの子はしている筈だ。
雲が切れた。弱い陽光が、微かに強さを増した。
黒いちぢれた髪につやが映える。
いつか、どこかで見た宗教画を思い出した。
この子のような天使が描かれていた。
神を信じたことはない。しかし、この子ならば己を救ってくれるような気がする。天使などではなく、天使のようなこの子の笑顔なら。
救いを求めて生きているつもりは、決してない。それでも、この子の笑みは、乾いていた筈の男の心に、潤いのようなものを与えてくれた。
心にあまがなしいほど、それは真っ直ぐな瞳。
「坊やは偉いな」
男の子に聞こえたかどうかはわからない。それほどに微かな声だった。
男の子は、不思議そうに首をかしげた。
シリウスは、再びやさしい笑みを浮かべることができた。
「坊やのお父さんに御用があるんだ」
男の子は自分の家を振り返った。そして、片手をシリウスの手に添えて引くようにした。
小さな手を壊さぬように手に包み、シリウスは立ち上がった。
「ありがとう、坊や」
「トビア」
仰ぎ見て、男の子は自分の名を告げた。
その瞳と同じように、澄み切った声で。
◇ AFTERNOON TEA−TIME ◇
バックで車をガレージに入れ、セイフティをかける。激しい音をたてないようにドアを閉めて、玄関をくぐるとそのままキッチンへ向かった。
「ただいま、キリエ」
食器棚の前にいる妻の頬に軽くキスをする。
「今日は変則スケジュールになってね。家でアフタヌーンティーが飲めると思って急いで帰ってきたよ」
キリエはほほ笑んでデカンターを取り上げてみせた。
「今、ポッドを温めていたところよ」
「ちょうどいいタイミングで戻ってきたみたいだね」
「そろそろ到着するだろうと思っていたわ」
ファーマーはネクタイにかけた手を止めた。
勤務予定が変更になって、午後も早々に帰宅することに決まったのは今朝の打ち合わせの席でのことだった。
突然に帰って驚かせてやろうと思っていたのに、キリエはファーマーがこの時間に戻ってくるのを知っていたと言う。ファーマーが本庁を出た時には談話室でセブンブリッジをしていたアクターやオネストが、先回りして連絡をしたとも思えない。
「どうしてわかった?」
ファーマーが心外な様子をありありと見せて尋ねると、手作りのスコーンとマフィンを盛り付ける作業を続けながら、キリエはくすりと笑って答えた。
「びっくりさせようとしてたのね? ごめんなさい。
警察学校時代のお友達だという方がいらして教えてくれたのよ。もうすぐあなたが戻ってくるから待たせてほしいと。
今、トビアがお相手してるわ」
「僕の友人?」
ネクタイを正して居間へ向かおうとすると、キリエに呼び止められた。
「先にティーセットを持っていってくださらない? デザートは後からお持ちするから」
「ああ」
来 客用の陶器のティーセットを乗せたトレーを片手で支え、ファーマーはキッチンを出て居間へ通じる曇りガラスの戸を押し開けた。
庭に向かって大きくとられたガラス窓からは雲の透き間をこぼれた午後の弱い陽光が差し込んでいる。
5歳になるトビアは床においたクッションにまたがるようにして座っていた。
ファーマーの知人と名乗った来客は、トビアと向かい合う位置にいる。
知らないこともない若い男。
心臓が大きく脈打った。
トビアは青年の手元を瞬きもせずに覗き込んでいる。青年の方はトビアに見つめられていることを意識していないような表情だった。入ってきたファーマーに一瞬だけ視線を走らせた時もその態度は変わらない。
低いソファに浅く腰をかけ、トビアと目の高さを合わせるように身体を前に傾けた青年の手の中で陽光を受けたナイフが光る。
「トビアっ!」
思わず声がうわずった。
トビアがゆっくりと顔を上げてほほ笑む。
「お帰りなさい」
それからまた床に散らばった工具に目を落とし、ドライバーを取り上げて青年に手渡した。青年はナイフを収めて、ドライバーを受け取る。
言葉も視線も交わされなかったが、それはごく馴れ合った者同士のやり取りに見えた。
ひきつるほどに口の中が乾く。
トビアが寄り添うようにして相手をしている青年は、以前、ファーマーの目の前でひとりの人間を冷静に撃ち殺したのだった。そんな人物がナイフを持って子供の前にいる。
トビアの危機感のなさがかえってファーマーを焦らせた。
ティーセットをろくに見もしないでテーブルの端に置き、囁くような声で命じる。
「トビア、おいで」
トビアは目をしばたたいた。だが、いつものように素直に、異議を唱えることもしないで立ち上がり、テーブルを回ってこちらへ来る。
「トビィ」
不意に青年が呼んだ。
トビアが振り返って立ち止まる。
青年はドライバーを置き、膝の上のものを取り上げて差し出した。
それはトビアが一番気に入っているラジコンカーだった。
トビアはにこりと笑った。
「ありがとう」
はにかみ屋の少年はガラスの鈴を思わせる声で言い、トビアはプラスチックの車を胸にかかえる。それからファーマーの足元へやってきて、問いかけるように顔を見上げた。
ファーマーは腰を屈めて、子供の髪をなぜた。
「お母さんの手伝いをしてくれないか」
トビアはうなずいてキッチンへ姿を消した。
老婆心かもしれないが、これで少しは安心できる。
ファーマーは立ち上がって青年に向き直った。愛すべき者たちのいる場所へ通じるドアの前に立ち塞がるように。
「正直、意外な来客に驚いている」
ファーマーは先日もそうだったように、押さえた声で言った。
「それに君は、わたしがこの時間に帰ってくることを知っていたそうだね」
「招かれざる客の身でこんなことを言うのはどうかと思うが…」
青年は相変わらず無表情に告げた。
「座って話をしないか?」
その時ファーマーの背後でドアが開いて、キリエがマフィンやクリームを乗せたトレーを運んできた。
「今、紅茶をいれますわね」
「ああ」
友人ということになっている手前、彼女に不審さを感じられないように、ファーマーはソファに腰を下ろす。
手伝いのつもりなのだろう。トビアがテーブルに灰皿を乗せて青年を見た。
煙草は吸わないようだったが、青年は礼を言って受け取る。トビアはうなずいた。
キリエはデザートの皿を並べ、二客のカップに紅茶を注ぐ。
ふたりの様子から、家族ぐるみでお茶を飲む雰囲気ではないことは悟っているらしい。
「わたしたちは向こうにいますわね。用があったら呼んでください」
「ありがとう。キリエ」
ファーマーは強いて微笑を浮かべた。
「トビア、いらっしゃい」
トビアは名残惜しげに振り返ってから、キリエの後ろについて行った。
普段からあまり感情を表にしない子供である。こんな風に側に近づくのは、トビアにしてみればかなり青年に心を惹かれている証拠だった。
ファーマーの胸にはかすかな圧迫感がある。
ふたりの足音が遠のいたのを確認してから、はじめに口を開いたのは青年の方だった。
「突然、自宅訪問という形をとったことはすまないと思っている。だが他に手段がなかった」
「どうやってこの住所を知った?」
プライバシーを切り売りする違法の情報屋すべてを検挙することなど無理だろうが、一応、聞いておく。
「この前、あのホバイク乗りがあんたを“ファーマー巡査長”と呼んでいた。それをもとに調べたんだが、意外と有名人なんだな。ここを突き止めるまでは10ドルと5分で済んだ」
「残念ながらわたしの方は5分で行き詰まった」
ファーマーは応えるように口を開いた。
「アクターは確かに君の名前を確認しているはずなのに、忘れたと言って教えてくれない」
「買収した記憶はないが」
「わかっている。わたしが普段から口うるさいものだから、アクターは君が同じ目に会うのは忍びないと考えたんだろう。
まさか、そちらから訪ねてくるとは思わなかった」
青年はうなずいて短く告げた。
「シリウス」
「え?」
「俺の名前だ。コールネームだが」
「ハンター仲間の通称だね」
一旦、口をつぐんだ後、青年は言った。
「デューク」
「ありがとう。わたしはジョシュアだ」
「知っている」
ファーマーは苦笑した。
「そうだろうな。妻に聞いたら、君はわたしの学生時代の友人らしい」
ファーストネームを名乗りあったことで、ファーマーはいくらか態度を柔らげて言葉を続ける。
「わざわざ訪ねてきたのにはそれなりの理由があると言ったね。
だが、わたしは家族を危険に巻き込みたくない。そのことを了承しておいてもらえるか」
ふたりは期せずしてキッチンへ続くドアに目を向けた。
「余人を差し挟まずに話をしたかっただけだ。あんたの家族にかかわることじゃない。それは保証する」
「では聞こう」
青年はうなずいた。
前置きもなしに述べる。
「今夜の手入れは中止した方がいい」
ファーマーは取り上げかけたカップをソーサーに戻した。かすかな硬質の音。
「今朝方、決定されたばかりの作戦のことを言っているのか?
わたしがこの時間に帰宅してくることも知っていたようだし…一体君はどんな情報網をもっているんだ? まさか本庁のコンピュータをハッキングしているわけじゃないだろうね」
半ば本気で考えさせられてしまう。
デューク=シリウスは淡々と答えた。
「作戦のことを知ったのは偶然だ。作戦の決行時間を考えれば、あんたが勤務時間調整と作戦準備のために午後の事務仕事を返上することは予想できる。
とりあえず、俺のもっている情報に関してはそんなに心配することはない。
問題は、『彼ら』にもこの作戦が筒抜けだということだ」
「彼ら?」
シリウスは小型の音声再生レコーダーを取り出してスイッチを押した。
ノイズのかかった声が流れる。あきらかに盗聴器を使って録音したものだ。だが、音質は悪くない。
『心を癒す竪琴は抉られた木から作られる』
唐突に飛び込んできた言葉に、ファーマーはいぶかしげにシリウスを見た。
「合言葉だ」
その説明にうなずいて、ファーマーは再びレコーダーから流れる声に集中する。
『何の用だ?』
『ボスを出してくれ。緊急の連絡だ』
しばらく取り次ぎの間がある。
『何だ?』
先程とは違う、訛りのある声が答えた。どこの訛りと即座に指摘することはできないが、人物識別のヒントにはなる。
『ムサバか。ロドリスと話がしたいんだ』
『オレが伝える。話せ』
『重大な連絡だぞ』
『こちらにとってもそうかは、オレが判断する』
わずかな逡巡の後、通報者は早口に告げた。
『…奴が倉庫のことをしゃべったんだ。今夜、手入れがあるぞ。急いで引き上げろ』
ファーマーが身体を乗り出した。シリウスは黙って続きを聞くよう、目でうながす。
『この間はしくじった。オレの部下だけならなんとでもできたんだが…今夜も奴らとの連携なんだ。危ない橋は渡れない』
低い笑い声の後に、通話相手が応えた。
『マール、おまえの嫌いな奴を今夜の突撃隊に任命しておけ。全部カタをつけてやる』
息を飲んだような気配の後、上ずった声が喚いた。
『何を言っている。警官だけは殺すなと言っただろう。
警察は馬鹿だ。だが、仲間意識は強い。一旦敵に回すとどれだけまずいかわからないのか。
情報は流したぞ。そこから手を引いてくれ』
『引く? それどころかこれから始まるんだ』
ライターの擦過音としばらくの間があって、同じ声が言った。
『それより“B”は取り戻せたのか?』
『ああ。工業用の薬品とすり替えた。だから奴と女の方はどうにかなる。
あとは倉庫だけだ。早いとこ、証拠を消すんだ。下手をすると致命傷だぞ』
『致命傷か』
煙を吐くような長い息のうちに、男が笑った。
『どっちにとってのことになるかな。
地下室にヴェツィーニのとこの若いのを何人か捕らえてある。警官どもを片付けた後で、その銃を取り上げて射殺しておけば、誰が見ても倉庫に麻薬を隠し、警官と銃撃戦をしたのはヴェツィーニということになる。警察が躍起になってヴェツィーニ・ファミリーを潰してくれれば一石二鳥というものだ』
『ムサバ、頼む。わかってくれ。仲間の警官を死なせるとわかっている計画に加担することはできない』
精一杯の良心で叫ぶ声に、ふたたび低い笑いが答えた。
『組織から賄賂をもらって情報を流していることをばらしてやったら、奴らの方ではおまえを仲間とは思わないだろうよ』
しばしの沈黙が流れた。
『…地下道はどうする気だ?
書類上では廃棄手続きのされている倉庫からは、あんたたちまで辿ることはできないだろう。だが、あんな地下道が倉庫からあんたたちの砦までまっすぐに続いているんだぞ?
間違いなく疑われる』
『地下道は倉庫もろとも爆破して埋めてしまうよ。どうせなら派手に行こう。お客人の余興にもいい』
『客人?』
『ありがたき協力者さ。ハイエナのように狡猾な。だがロドリスは奴らを必要としている』
一転して低く押し付けるような声が囁く。
『マール、わかっているだろうな。おまえはもうとっくにオレたちの仲間だ。指示どおりにしていればおまえ自身には何も害はない。むしろ、今夜の手入れで上司が殉職でもすれば昇進できるかも知れないぞ、部長刑事殿?』
どちらかわからないが、一方的に受話器を置く音がした。
シリウスの手が伸びて、再生スイッチを切る。
レコーダーを壊しかねないほどに凝視していたファーマーが、溜めていた息を吐き出して顔を覆った。
シリウスは淡々と言葉を繋いだ。
「ムサバと呼ばれているのは、南アフリカの民族主義結社・キティオシのリーダーだ。『心を癒す竪琴は抉られた木で作られる』――これはやつらの経典からの引用だ。喜びは誰かの犠牲の上にある、というメタファーらしい。
黒人だけの屈強な兵隊を抱えているが、あくまでも政治的な結社を主張している。だが、これは偽装工作だ。二重の意味でな。
奴らの正体はギャングと変わらない。政治的主張など、どこにも持っていないただの武装集団だ。
そして、ムサバの裏には財界の大物、ロドリス・タルカルコスがいる。
この会話の中で『ボス』と名指されている男がそうだ。
鉱山関係で南アと取引があり、GMTともシンクレアともよろしくやっている急成長株だ。それくらいは知っているだろうが、光の当たらない時間には、あんた方の手の届かない所にいる、本物の暗黒界の人間でもある。
評議委員に運びの仕事をさせたのもこの男だ。どの程度の影響力かはそれで憶測してもらうしかないな。
もうひとりの男に関しては、あんたの方がよく知っているだろう」
ファーマーは白くなるほどに拳を握り締めた。
「ひとりの人間の信用がかかっている。手段に関しては一個人として目をつぶるから、この会話がどこで録音されたものか、状況を明らかにしてもらえないか。捏造されたものではないという証明に」
「タルカルコスのセイフハウスのひとつにしかけた盗聴器に入った通話だ。個人的に奴には前から目をつけていた。
この刑事がいつからタルカルコスに情報を流すようになったのか、そんなことは知らない。
だが、かわいい後輩を無駄死にさせたくないなら、なによりあんたの家族を悲しませたくないのなら、今夜の強硬捜査は中止することだ」
シリウスはそれだけ言って、口をつぐんだ。
かなりの情報料を請求されてもおかしくない事項だということはわかっていた。それをわざわざ先方から伝えに来るからには、何かしらの裏はあるのだろうが、それでもファーマーは丁重に謝意を示した。
「先にことわっておくが、俺は証人喚問には応じない」
シリウスはレコーダーからディスクだけを取り出してテーブルの上に置いた。内通の証拠物件。
「これはあんたに預けておくことにする。俺には必要ないものだ。使い道も任せよう。
録音の手段が違法だから、証拠としては認められないかもしれない。だが、真相は誰もが認めるはずだ」
「お預かりする」
ファーマーはディスクを手元に引き寄せる。ためらうように視線を落とし、一拍置いてから口を開いた。
「使い道は任せてくれると言ったね。卑怯だと思われるかもしれないが、わたしはこの件を表沙汰にしないつもりだ。この不祥事を世間に公表しても得られるものはないように思う。
ただマール・ラディン部長には――できれば自主的に――辞任か異動をしてもらい、彼の作った情報漏洩のルートを遮断する。それで終わりにしたい」
シリウスは表情も動かさずにいた。
「ゴシップ好きなマスコミを喜ばせようと考えているわけじゃない。署内で内密に処理したいならそれでいいだろう。俺にことわる必要もない」
紅茶を飲むデュークを見守りつつ、ファーマーはしばしの沈黙を破って口を開いた。
「ひとつ聞いてもいいだろうか?」
シリウスは黙って面を上げた。
別に答えを無理強いするつもりもなかったのでファーマーはそのまま問いを続けた。
「何故、君はわたしのところにこれを持ち込んだんだ? こんなことをしても報酬はもらえないのに」
「警察に協力するのは市民の義務じゃなかったか?」
冗談めかした口調がすぐにあらたまる。
「俺があの夜のことを気にして、その償いに、あんたに便宜をはかっているのだと考えたのなら、それは間違いだ。あれは俺にとって必要なことだった。今回の件とは無関係だ」
それ以上詳しい事情を聞く権利はないと思った。
彼がこの件を自分に伝えることでどんな益を得るのか、そんな詮索はプライバシー侵害だ。こちらは充分恩恵を被っている。
ファーマーはうなずいて納得したことを伝えた。
「失礼とは思うが、もう一度、趣向を変えて同じ質問をさせてもらいたい。
何故、君はわたしのところにこれを持ち込んだんだ?
わたしはラディン刑事の上司ではないし、査察部の人間でもない。個人的に君と親交があったわけでもない。それなのに、わたしが選ばれた理由を知りたい」
シリウスの笑みがその性格をいくらか変質させた。ティーカップの縁からまっすぐな視線を投げかける。
「その慎重さを買ったんだ。
それに、あんたならあの夜の事件を知っていて、俺とラディンの両方に面識がある。盗聴した会話を聞かせればすぐに事態を理解して、対策を講じてくれると思った。
ラディンより階級が下で、しかも部署が違うからといって、放置しておくような人物でもあるまい?」
「そんな風に評価されては尚更ね」
ファーマーは肩をすくめた。
シリウスは言葉を続ける。
「もしCBIの長官あたりに直接、話を通したらどうなるか考えてもみた。
それだけの上役を動かせば、影響力の点ではあんたよりはるかに強い。即座に手入れの計画は変更できるはずだ。
だが、相手が準備を整えて待ち受けていると知ったら、CBI長官は突撃する警官の数を倍増する処置をとって、結果として奴らのアジトは潰せても、その過程で多くの警官を死なせるだろう。
あんたなら決してその方法はとらない」
実行するどころか考えもつかなかった。
甘いのかもしれない。だが、彼が誰も死なないようにと知らせてくれたのなら、そのために自分を選んでくれたというのなら、必ず強制捜査の延期を実現してみせよう。
「ありがとう。こんな重要なことを任せてくれて」
シリウスは軽くうなずいて立ち上がった。それ以上の感謝はしないでくれと言っているような態度だった。
「今夜が決行だ。そちらにも時間がないだろう。これで失礼する。
奥さんに紅茶のお礼を言っておいてほしい」
「わかった」
握手の手を差し出そうと思ったが、シリウスのようなプロのハンターは安易に右手を預けるのを嫌うだろうと考えてためらった。シリウスにはその微妙な気遣いが伝わったようだ。自分から右手を差し出す。ファーマーは微笑してその手を取った。
半歩先にたって玄関先まで送り出す。
扉のすぐ脇では、トビアがひとりで遊んでいた。
近所に同じ年頃の子供がいないわけではなかったけれど、人見知りをするトビアは大抵ひとりで家の周辺にいた。
父親とシリウスが出て来たのを見上げるが、いつものおとなしさで声はかけて来なかった。
「息子を紹介していなかったかな」
「自分で名前を教えてくれたよ」
シリウスは通りすがりにトビアの黒い巻き毛に軽く手をすべらせた。
息子と伝えたトビアの容姿が、明らかにファーマー夫妻と血縁のないものである事情を気にする様子も見せない。
シリウスを見送って、よそ見運転になったトビアのラジコンカーが壁のタイルにぶつかって羽音のようなモーター音をたてる。
ファーマーは身を屈めてラジコンカーの向きを変えてやった。
トビアがこの家に来てちょうど一年たった日に送ったプレゼント。トビアの一番好きなおもちゃだ。故障してからも大切に遊んでいた。
…そうだ。故障していたはずなのに。
ふと思い出して顔をあげる。
「これ、君が直して…」
だが、シリウスの姿はもうどこにもなかった。
トビアだけが何も言わないまま、かすかに揺れている門扉を見つめていた。
振り返って、ファーマーにほほ笑みかける。
「そうだね。わたしも認識を改めた方がいいようだ」
ファーマーはトビアの頭をなぜながら囁いた。
◇ ATTACK 1 ◇
「準備はできたか?」
老人の声がかかったのは、オートプロテクターの上から装着したH型サスペンダーのストラップを、きつく締め上げた時だった。
「ああ」
しっかりと締まったストラップの感触を確かめてから、シリウスはもう一度全ての確認を行う。
ナイフは一本。単分子製、ナックルガードの無いものを選んだ。しっかりと、右下腿部外側にくくりつけられたシースに入れてある。主武装はH&K−J99JAGER。
7・62mmTyrs用のライフルで、バトルライフルの名で呼ばれる。シリウスは、これにTyrs強装弾と呼ばれる徹甲弾を選択した。生身の人間には貫通力がありすぎるが、今から向かう戦場に生身の人間など一人もいない。それに、このミッションは屋内戦が主となることがわかっていた。少々の遮蔽物など、ものともせずに標的をぶち抜くものを選ぶべきだ。
オールドギースもシリウスのこの判断に異を唱えるつもりはなかった。
ミッションの拠点としている、この移動基地とも呼ぶべきトレーラーのカーゴ内には、他にもフレシェットライフルの類やサブマシンガン、アサルトライフルと呼ばれるものも用意してあったが、シリウスはまようことなくJ99を手にとった。
J99の弾倉は、ワイルドギース・カスタムのロングタイプだ。通常の二倍強の装弾を可能にしている。そして、全ての弾倉はダブルマガジンクリップで二つ一組とされ、予備は三組が用意されていた。シリウスは、それを腰のベルトの左前から左後ろにかけて装着した。この程度なら動きに支障をきたすほどではない。オールドギースのカスタムのおかげだ。
副武装はS&W−M19。それからSIG・SAUER−P226。M19コンバットマグナムは腰ベルトの背部に、P226は右腰部のホルスターにそれぞれマウントしている。副武装の予備弾は、P226に予備弾倉をひとつのみ。
その他の装備には、手榴弾をH型サスペンダーの前面縦ベルトにつるす。三個ずつ計六個だ。選んだのはM67。手榴弾の中では軽量で小型のものだ。ブービートラップにもむいている。
立ち上がることで装備状況を確認した。問題は無い。
老人もシリウスの支度した姿に満足した。そのことを、小さく頷くことで表現してみせた。そして、口を開く。
「プロテクターの調子はどうじゃ?」
「良好だ。ケミカルリンゲル液も交換したばかりだしな」
動力を入れていないので、倍力服としての機能は発揮していないが、甲冑としての役割は果たしている。その動きもシリウスの動きを妨げるような無理はない。細目な調整の賜物だろう。
「両手首の内側に入れといた新しい装備はどうじゃ?」
「試してみたよ。素手とは感覚が違うんで初めは戸惑ったが、もう問題なく扱える」
力を抜いて脇に垂らしていた左腕を、シリウスは微妙な捻りを加えつつ前方へ鋭く突くように振り出した。
風を切る音。激しい音だった。
シリウスの手前約3メートルほどの宙空で、一瞬鋭い円錐形の錘が停止した。その直後、シリウスの手首の翻りをうけ、錘は視認不可能な速度でプロテクターの手首に消えた。
先端に鋭角の錘を備えたワイヤーだ。簡単に習得できる武器ではないが、その分様々な状況で活きるし威力もある。叩き込まれたのはアンカレッジにいた時だった。
「錘もワイヤーも単分子製じゃ。長さは左右共に七メートル。これだけ細けりゃしなやかさも死んでおらんと思う。
どうじゃ?」
「完璧だ」
老人はもう一度頷いた。表情はやや固いが満足気ではある。その後、背後を振り返り問うた。
「そっちは?」
「完璧ですよ」
玲瓏な声だった。くせのない黒髪が流れている背をこちらに向け、声同様に秀麗な顔はディスプレイに向けている。このトレーラーカーゴには、ジャックイン・インターフェースまで含んだパーソナルデッキ一式も備えつけられており、その青年は左手をスリットにあてたまま、こころもち老人とシリウスの方へ顔を向けた。
「セキュリティシステムはどうじゃった?」
「予想どおりですね。
『砦』と『倉庫』はそれぞれ別系統で、通信手段も無線です。建物の重要度を鑑みれば、彼等の潤沢さがうかがえるシステムではありますね。型としては最新型のシステムに入ります」
「問題は?」
「ありません」
自信に満ち、声は玲瓏さを保ったままに張りを有した。
「『倉庫』に至っては、セキュリティシステムと呼べるものすら存在しません。今夜限りでそこを放棄するということがこの一事でもうかがい知ることができますね」
「爆薬のありかはつかめたか?」
「データとしては『砦』にも残されていません。ですが、いくつか推測することはできます」
その言葉の後に、ディスプレイに『倉庫』の見取り図が現れた。上方、縦、横の三面図としてだ。
「爆発の炎と衝撃は上方と横に広がりますから、『倉庫』側のリニアのプラットホームが最適でしょう。リニアラインの天井に、後三ヶ所ほどもC−4をしかけておけばリニアの設備はきれいに埋まります。
『砦』側の地下シャッターがハイチョバムプレートの一枚扉に代えられています。これは万一のことを考えて爆風の衝撃に備えたものでしょう。もしかすると、『砦』側のプラットホームまで徹底的に埋没させるつもりなのかも知れません」
「…とすると、ひとつに火がつけば、誘爆や連動着火するとも考えられるな」
口を開いたのは、今まで黙していたシリウスだった。
「火器は使えんぞ。そうじゃとすると」
わかっているさとでも言わんばかりに、シリウスは肩をすくめてみせた。
「…まあ、爆薬はともかくとして、『倉庫』のセキュリティとしては今夜のために配置された人員に注意すればいいでしょう。
『砦』の方にはもう、手は回してありますし」
「ジョーカーよ、確かじゃな?」
念を押す老人に、ジョーカーと呼ばれる青年は右の掌を挙げてみせた。
「切り札の名にかけて」
静かな微笑が自信を表していた。これだけのことを調べ上げ、トリプルチェックを入れるのに、一時間とこの青年は要さなかった。
「手順の変更はなしだ。時計をあわせよう」
シリウスの声に力は感じられない。少なくとも、不必要な力はその声には入っていない。
ヘルメットに内蔵してある時計を使うため、一度プロテクターのヘルメットを被った。この時計は必要に応じてヘルメット内の情報画面に呼び出せる。
「同調時刻2005…同調」
老人の声にあわせてヘルメット内のデジタル表示を修正する。修正後、うまく同調していることを確認してから、シリウスはヘルメットを外した。
装着していても息苦しさは感じないのだが、やはり外していた方がはるかに解放感がある。思いきり息が吸えるからだろう。
吸えるだけの酸素を、今のうちに吸っておく。
戦う前に、酸素はためられるだけためておけ。戦闘の最中に荒い息をするくらいなら、死ね。
その言葉に従ってきた結果だった。
シリウスは、脱いだヘルメットを柵に置こうとはしなかった。先刻手にしたライフルも、ストラップは肩にかけたままでいる。
張りつめてきている。それが老人にもわかった。文字通りの緊張というだけでは、それはない。闘いを前にして身の裡に満ちてくるものは、それだけではない。
この男の身の裡に満ちてくるものには、いつもどこか破滅的なものがあった。
多分に自滅的なにおいも、ある。しかし、自滅という言葉は正しくない。
好んで自らを死地に向かわせながら、闘う様は死中に活を求めてゆくものだ。男に満ちた破滅的な何かは、いつも闘う敵に撃ち込まれてゆくことになる。
ある時は銃弾に。ある時は刃に。ある時は細いワイヤーに込められて。
しかし。老人は思う。
しかし、その破滅がいつまでも呼び出した者を見逃しているだろうか。
その運び手というだけで、見逃していることなどはない。いつかは全てを滅ぼす。それが故に破滅と呼ばれるだから。
それは、彼の周囲にいる自分達も例外ではない。
老人の見つめる先で、シリウスは壁にあずけていた身体を起こした。
「どうやって逃げるつもりじゃ」
「さあな。目論んでると、うまく逃げられない場合が多い。その場で、逃げ道を嗅ぎ分けてゆくしかないんだよ」
渋面のままの老人の問いへの答えは、肩をすくめながらの素気無いものだった。
最終目的地である『倉庫』の周辺は、厳重な警備が敷かれている。
二重の円だ。
内側の円はタルカルコスの私兵達と夜魔部隊。外側の円はCBIとHiP。そしておそらくRP。
『倉庫』があるアンバーゾーン自体が、半島状の地形になっている。最悪の時は付け根のラインを制圧すればいい。他の二辺は汚染された河川が逃げ場を塞いでいる。
この寒気の中、凍結しない河川。しかし、水温が高いわけではない。汚染物質の作用により凍結しないが、実際水温は気温より低い。そして、その暗く重たい水面の下には得体の知れないミュータントが潜んでいる。
袋小路だ。
「…逃げ道はないぞ」
もう一度、老人は言った。あいかわらず渋面のままだ。
「なおさらさ」
「何がじゃ?」
「逃げ道がないなら、なおさら今からそいつを考えても仕方ない」
言いながら、シリウスは酸素を吸わせていた。己の肉体にだ。筋肉の一本一本が、そして細胞のひとつひとつが、たっぷりと酸素を取り込んでいる。
これから闘いが始まるということを、身体の方が知っている。そして、その為の準備に貪欲になっている。
そして。その時を身体が告げた。
ヘルメットを装着する。スイッチを入れる。視野が明るくなり、肉眼時よりも広くなる。J99を持ち直す動作にだけ、三連シリンダーが微かに反応音をたてた。
トレーラーの外、五〇メートル先にはタルカルコスの別邸がある。一般保安区に建てられている理由は、保安レベルが丁度いいからだ。組織の人間が出入りする分には、所持している銃器などは簡単なカムフラージュで済む。襲撃を計画する敵組織の人間は、あまり過剰な武器だと見咎められることになる。
犯罪組織運営の拠点として、保安と運営上の利便のかねあいがうまくゆくことになる。ロドリス・タルカルコスという男の、表の顔が体裁を気にするということもあるだろう。この建物の名義がタルカルコスのものでなかったとしても、だ。そんなものは今時すぐに嗅ぎつけられる。
別邸の中には当然セキュリティシステムが組み込まれている。『砦』という暗号名を与えられた所以だ。
喧嘩の相手としては丁度いいところだろう。
ヘルメットの中で、唇の端を吊りあげた。
「行く」
トレーラーを飛び出た。最初の一歩だけが、微かに砂を踏む気配をさせた。それだけだった。
後は風だった。
眼前にフェンスが迫る。大きな、しなやかな身体の躍動により、タルカルコス『砦』のフェンスが迫る。フェンスの向こうは人工樹の林。
高さ10メートルのフェンスまで、あと10メートルを切った。
大きく踏み切り、全身のバネを上昇する力に注ぎ込む。地を蹴った。身体と跳躍のバネが伸びきった瞬間、脚部のブースターのスイッチを入れた。高さはあと3メートル。越えた。ブースターにより、シリウスの身体がフェンスを越えた。着地。装備が微かに音をたてる。
一瞬だけを、シリウスは待った。
いかなるセキュリティも反応しない。人工樹の幹に埋め込まれ、眼の前にある22口径レーザーも、まるで空から降ってきた侵入者が見えていなかった。
決して性能の悪いシステムではない。突入前のジョーカーの報告でも知らされていたし、飛び越えてから下りたつまでの一瞬で確認してもいる。
「…吹くだけのことはあるようだ」
ヘルメットの中に小さく吐き捨てた。
今、この『砦』の全てのセキュリティシステムは、ジョーカーによって眠らされ彼の思うままの夢を見せられている。全てのセンサーは、シリウスをキャッチしていても、それを迎撃システムや管理用のC級AIに通報することはできない。そして、セキュリティシステムのコントロールルームにも、侵入者の存在は一切知らされることはない。ジョーカーのプログラムとアシスト機材の数々によって、シリウスの姿は消し去られている。
そればかりではない。『砦』と『倉庫』をつなぐ唯一の連絡手段である無線通信も、今やジョーカーの掌中にある。
『砦』の無線送受信システムは既に殺されている。そして、トレーラーから伸びたアンテナは『倉庫』からの送信をすべてキャッチする。通信に用いられる暗号もジョーカーは全てつきとめている。これにより、返信は全てジョーカーが行う。正しくは、ジョーカーが返信の文句を念じ、それをAIが合成した音声で無線電波にのせる。
機材はオールドギースの折紙つきだった。
ジョーカーが自信と余裕を見せる、これが裏付けだった。
低い姿勢のまま、シリウスは動いた。人工樹を自分と建物の間に常にはさむ。セキュリティシステムは眠らされていても、見張りのIRビジョンまでが眠っているわけではない。
少しずつ、速度が増す。
足音と気配を殺し切り、シリウスは闇を駆け抜けた。人工樹の林をぬけ、人工芝を踏みしめる。IR投光機の光がゆっくりと迫る。すり抜けた。『砦』正面に出る。噴水と車寄せ。その向こうに玄関が見える。見張りは立っていない。
この先、遮蔽物は無い。
「やれッ!」
無線にむかい、叫んだ。そして、駆けた。駆け抜けた。そのまま噴水のブロックを玄関と自分の間にはさむように地に伏せた。
伏したシリウスの上を、噴水の彫像の上を、風を破って何かが飛んだ。
轟音。
ソリッドシューターのAT弾だ。玄関の扉には大穴が口を開けている。
「やるな、じいさん。腕は落ちちゃいない」
トレーラーからは目標ぎりぎりのところで射程外になっている。それはシリウスもわかった。しかし、その上で背後からの強風にうまくのせて着弾させた。対装甲弾頭を選んだ老人の読みも、たいしたものであると言える。ただの扉ならグレネード弾で爆破四散させられただろうが、『砦』の玄関は装甲板をカムフラージュしたものだった。
蝶番がいかれて外れかかった扉の奥から騒ぐ声が洩れ、シリウスの耳に届いてくる。『SIRIUS』の戦術アシストAIはバイザーの内側情報画面にその音声の発声地点を方向と距離で示すことができる。
しかし、シリウスはそれを呼び出さなかった。
不必要に機械に頼ることはない。それだけの理由だった。
立ち上がり、玄関へと走りながら、J99JAGERのセレクターをフルオートにあわせる。
引き金を絞る。三発で切る、三連オートという射撃方法だ。ライフルにしては重く低い銃声が轟いた。
開いた穴から、丁度姿を現したフルボーグに全弾着弾した。首から上を機械の破片に変じさせ、最初の一人が玄関の穴で立ち尽くす。しばらく、どちらに倒れるのか迷うように揺れてから、そのフルボーグは朽木倒しに前へと倒れた。
玄関奥のホールが一種の恐慌状態になっていることを、シリウスは皮膚で感じとっていた。その時にはもう玄関の扉の残骸を遮蔽として取り付いている。首無しの機械人形がフラフラと揺れていた数瞬の間に、中の連中の眼を完全に欺いていた。玄関ホールからの応射の射線は、全てまっすぐに噴水に向けられている。見えないグラインダーを無数に押しつけられたように、彫像が見る間に削られてゆく。
時間にしておよそ5秒後。遮蔽を保持したまま、シリウスは微妙に身体をずらした。伏せ撃ち姿勢になって、床から上に向けるような射線で応射した。
三連オートを3回。一度遮蔽をとってからさらに三連オートを6回。それで計7人が絶叫と血煙、機械片とケミカルリンゲル液を吹き上げて倒れた。
それで応射が一段落した。ホール内の状況を確認してからシリウスはもう一度遮蔽をとる。
ホール内には早くもバリケードらしきものが作られていた。正面からの突入を想定し、倒せばバリケードにできるような位置に家具の類を置いていたようだ。
遮蔽の陰でJ99の弾倉を交換する。その間に応射が再開した。火線はおよそ10本。バリケードの陰の人間も考えにいれれば、数はその倍か。
Tyrs強装弾であれば、バリケードも抜き得る。それだけの貫通力は秘められているだろう。
しかし、シリウスはJ99JAGERの引き金から指を離した。そしてサスペンダーの前面ベルトからM67を一つ外す。
ホール内の状況と敵の配置は、先刻の確認でつかんでいた。
敵は半円状に玄関を包囲して配置されている。二階バルコニーからの射線もあった。そして。天井には大きなシャンデリア。
ピンを抜いた。カウントする。沈黙しているシリウスに対して、正しくはシリウスが遮蔽としている扉に対して、弾丸の雨が降る。
1。
雨がピークに達した。被甲弾の硬い雨音。
2。
豪雨が弱まった。弾倉交換をする人間が出てきた。
3。
一瞬。雨音が切れた。あと、1カウント。
4。
再び、銃弾の雨が注がれ始めた。しかし、シリウスは迷わず左腕を振った。M67を高く放り上げる。下から上へ、M67の描いた放物線の頂点。ホール中央、その天井。巨大なシャンデリアがそこにある。
素早く身を縮ませたシリウスの耳に轟音が届いた。シリウスのいる遮蔽の隙間を、鉄片とガラスの破片が弾け飛ぶ。
ガラス片と鉄片の驟雨が過ぎ、銃弾の雨は止んだ。
遮蔽を捨ててホールの中央まで足を運んだ。J99は左手に保持し、右手にSIGを抜く。まだ動こうとする者に確実に銃弾を撃ち込んだ。装甲の硬いフルボーグでも、センサーの集中する頭部に強装弾が三発も入れば、ケミカルリンゲル液がブレンドされた血と脳漿を撒き散らさずにはすまない。
一方的な殺戮。9人が死に、8体が壊れた人形と化していた。
時間にすれば三十秒ほどのことだった。J99の弾倉を一組、SIGの弾倉も一つ空になった。シリウスは共に弾倉を交換し、薬室には初弾を送り込んだ。
安全装置をかけてSIGをホルスターに戻し、J99JAGERを両手で保持した。
そして、前方より吹きつけてくる気配。群れなした殺気だった。
突進した。
◇ ATTACK 2 ◇
最後の一人が、死んだ。
とうに弾倉の空になっているイングラムM11をシリウスに向け、悲鳴とも呼気ともつかぬ声をあげながらトリガーを引いていた。
喉をSIGの9mm弾が貫いた時には、もう精神のバランスなど崩れていたのかも知れない。
まだ、若い。少年と言っていいかもしれない。
黒い顔の中、白い眼を大きく剥いていた。血管が浮き出ている。汚れた目尻には涙の跡が残っていた。彼の感じた恐怖が、にじみ出てくるような死顔だった。
男は片膝をついた。
数瞬、その死顔を見やってから、プロテクターに鎧われた手を伸ばした。
瞼を下ろしてやる。しかし、恐怖にひきつり、硬直した皮膚は容易には動かなかった。ゆっくり、手を動かす。
目を閉じた少年の顔には血の汚れがついていた。プロテクターの返り血をそこに残したらしい。
立ち上がり、連絡を入れた。
「殲滅した。『トロッコ』のゲートを開けてくれ」
地下室の奥の扉が開いた。その向こうに照明が灯る。リニアラインのプラットホームが、照明の中に浮かび上がった。
『いつでも“トロッコ”を出せるぞ』
老人から返ってきた無線を聞き、シリウスはリニアポッドに飛び乗った。待っていたかのようにリニアポッドが滑り出た。
後ろを、振り返った。仰向けの、少年の死体。
それを、まるで確認するように瞥見してから、シリウスは武装の確認を行った。
罪悪感は無い。
弾丸の半端に残った弾倉を外し、J99に新しい弾倉を叩き込みながらそう考えた。
後悔も、無い。
ナイフの血脂をぬぐった。ブレードの輝きが帰ってくる。鮮やかというより、むしろ鈍い光だ。ブレードに漆黒の野獣が映った。
返り血を浴びていた。コーティングに弾かれて、浴びた血はゆっくりと落ちてゆく。
ナイフをしまった。
罪悪感は無い。後悔も無い。ただ、実感だけが残る。掌中に、掴めそうなほどの感触を残して、その実感だけが。
絞ったトリガーの感触。ナイフのグリップで味わった、ブレードが獲物を裂いた感触。そういったものが、手を汚した実感になる。
忘れなければ、いい。
そう結論づけたことだった。
自分が手を汚していることを忘れなければいい。数多の命をこの手で奪って果たさねばならない目的がある。罪悪感や後悔は覚えてはならない。汚れてゆく自分に後悔を覚える復讐など、無意味なものだ。手を汚してでも果たさねばならないと信じたからこそ、闘いを始めた。
所詮、殺した相手にしてやれることなど、無い。
笑った。
唇を歪めて、笑みを浮かべた。
あんなふうに、瞑れはしない。
いっそ、殺された方が楽になれたのかもしれない。いない人間のことを、自分が消した人間のことを考えていられるほど、楽な時間は待っていない。
SIGの薬室に弾丸が送られていることを確認し、M19の弾倉を点検した。
「俺はまだ瞑るわけにはゆかない」
我知らずに声に出した。
『何か言ったか?』
無線のスイッチが入っていた。老人が聞きとめて尋ねてくる。
「いや」
不審気な沈黙をはさんでから、老人は通信を再開した。
『そろそろ、無線がきかなくなるぞ。今のところ、“倉庫”側に状況の変化はない。“砦”壊滅も知られてはおらん』
「ジュゼッペは?」
『まだ動かされとらん』
「次に“トロッコ”が動く時は、ジュゼッペ達が乗った時だ。丁重にお送りするよう、ジョーカーに言っといてくれ」
『了解。気をつけろよ』
すでに無線は雑音混じりになっていた。切っておくことにする。不明瞭な音に判断を惑わされるわけにはゆかない。
リニアポッドがカーブに差しかかった。スピードが落ちる。カーブを抜け、再び直線に入ったがスピードが上がらない。終点が近いことをジョーカーが知らせている。
ハッチバックドアを開け、ポッドの壁にとりつく。プロテクターがシリウスの触覚の足手まといとなったが、幸い手掛かりに困るほどではなかった。
リニアポッドは一台が丁度ワゴン車ほどの大きさだった。ポッドの屋上に登り、ハッチバックドアを叩きつけるようにして閉じた。速度は変わらない。緩いままだ。シリウスは屋上で身体をずらした。頭を進行方向に向け、J99を身体の下に入れる。抜き身のナイフは右手に持っている。
明るくなってきた。
前方に“倉庫”のプラットホームが迫っている。視認できる見張りの数は一人。突入前のブリーフィングでは、見張りは二人というジョーカーの報告だった。
膝を曲げ、シリウスは全身のバネにためを与えた。
ポッドがプラットホームに滑り込んだ。
膝を曲げている右脚に、ポッド屋上の凸部が具合よく足掛かりとなっている。右脚を蹴ればすぐにでも飛び出せる。
見張りが一人、無言のまま近寄ってきた。ポッドから誰も降りてこないことをいぶかしんでいる気配がある。シリウスの眼の下で、男はポッドをのぞき込んだ。
持っているのはM16A2アサルトライフル。5.56mmのものだ。セーフティはかかっていない。
「おい、ハッチ!」
見張りが仲間に呼びかけた。応え。壁越しのような声だった。緊張感は無い。
「上から何か言ってきてたか?」
はっきりしない応え。複数の笑い声が後に続いた。ネットの娯楽番組だ。
シリウスの真下にいる見張りは、明らかに苛立たしい様子を見せた。
「おい、いいかげんにしろよ 」
目星をつけておいた扉が開いたことを、シリウスは視野の片隅に認めた。そこから、思っていたより大きな音が漏れてくる。頭がのぞいた。
動いた。
右脚を蹴り、飛び上がる。同時に右手のナイフを撃った。
直打法。ナイフ投げとは違う方法だ。短刀型手裏剣を放つ時にこの方法が用いられる。打った剣を回転させない。剣は直線状に標的へ飛び、当たる直前に切っ先を向ける。「線」から「点」に変化するために、避ける以前に視認が難しい。
扉からのぞいた頭の口の中にナイフは飛び込んだ。単分子の刃は口蓋を貫き、脊髄を断って後頭部に顔を出した。
声も無く男が崩れた時には、シリウスはもうひとつの殺人を終えていた。
宙空でナイフを打つと同時に、左腕を眼下の男の首にかけ、空いた右腕で固めて脛骨を極める。その後、相手の首を支点に己の身体を一回転させ、足から地に降り立つ。その時には男の脛骨は粉砕されていた。
片膝をついたシリウスの前に、命を奪われてからさらに身体を一回転させられ、地に叩きつけられた男の身体が伸びている。立ち上がると同時に、シリウスは左腕を緩めた。死の抱擁から放され、死体は地に臥した。
右手をSIGのグリップにそえ、シリウスは動きをとめた。視聴覚センサーは共に敵の接近を告げていない。もっとも彼が信頼する皮膚感覚も、敵を感知していない。時間にして数瞬。長いとも短いとも言えない時間だった。
まず、J99を下ろした。次にもう一人の見張りのもとへ向かい、ナイフを抜く。血をぬぐい、シースに収めた。
顔を上げ、周囲を見回す。
部屋の中は乱雑だった。ついたままのネット番組。乱雑に積まれる安合成酒の空缶。さすがに今飲んでいたわけではないらしい。
コンソールパネルにはリニアのコントロール機能があるようだった。リニアポッドがこちら側に来ていることを発光信号で示している。音声信号は切っているようだ。
信号を、切った。
ネット番組も切り、回線を屋内のシステムにつなげた。カーソルを見取り図にあわせ、ランさせた。
ディスプレイに『倉庫』の見取り図が現れた。
『SIRIUS』の戦術アシストAIにリンクし、その画像を取り込むこともできたが、シリウスはそうしなかった。単純な構造だったし、すでに頭に入っていた。プラットホームの唯一の扉を出、一本道の階段をあがると、縦につながった小部屋が三つ。そのどれにも余分な扉は無い。
その向こうが、目指す『倉庫』だった。
ジョーカーの報告どおりに、内部のセキュリティシステムは全て外されているようだった。コンソールから監視モニターなどを呼び出そうとしても、回線が接続不能となる。このコンソールが生かされているのは、リニアのコントロールのためだった。
人質の位置を確認するのに、モニターが生きていないのはやはり動きづらい。しかし、迷ってもいられない。動いたからには動き続けねばならないからだ。
乱雑な部屋にはそれ以上手をつけず、階段への扉を目指した。ここでも、足音を殺しきって移動する。扉の前。足を停めた。センサーの類はカットして、皮膚感覚のアンテナを尖らせた。
気配というものは、確かにある。
聴こえるように思える時もあれば、皮膚の粟立ちや、空気の揺れが気配をもたらすように思える時も、ある。様々だった。
センサーの類を信用しないわけではなかった。要は使い時だということだ。センサー類を用いて効率がいい時、鍛え上げてきた自己の戦闘本能がもたらすものを信ずべき時、それを見極めることだ。
どちらかを盲信してはいけない。
シリウスの皮膚は、まだ身近に危険を感じていない。
扉を開けた。歩を進める。上る歩調を速めた。長い階段だった。上りつめた。狭い踊り場があり、正面の壁に扉がある。
気配がある。複数だ。聴覚センサーを指向性にし、感度を上げる。当然ながら障害物を間においてはいては限度がある。役立つ情報はもたらされなかった。
一瞬の躊躇。
音も無く、跳躍した。天井の露出した梁に両足をかけ、ぶら下がった。
脚をずらし、具合を整える。上半身をぶら下げた時、丁度身体の前面が扉を向くようにする。
右手には、伸ばして輪をつくってから持っているワイヤー。左手にはナイフ。
背筋を使い、上半身を戻してみる。具合はいい。
ゆっくりと身体を下げた。扉をノックする。五回ほど、勢いよく一息にたたいた。慌ててしたようなノック。それを意識した。そして、大腿筋と背筋の瞬発力を生かして元の姿勢に戻る。
ノブが回った。扉と壁の間にゆっくりと隙間ができる。中からの音が洩れて、身を潜めた襲撃者の耳に届いた。
「ハッチか?」
「マッコイだろうよ。“うすのろハッチ”が動くかよ」
「違ぇねぇ」
最低、3人。多くとも4人。見極めて動いた。
上半身を倒しながら、その勢いにのせて両腕を振った。鋭い振り。空を斬るような動きで、左手のナイフが撃たれた。右手のワイヤーは真下の男の首に喰い込んでいた。
ナイフは部屋の奥の、正面を向けて立っていた方の男の喉に突き立った。もう一方の男は姿勢が微妙で、一撃で仕留められるポイントというものを見せていなかった。一瞬でそれを見極め、シリウスは標的を選んでいた。
右手の握りを開くと、ワイヤーの輪が開放され、宙に吊り上げられていた男の身体が床に落ちた。窒息死では、ない。鋭い右腕の振り上げにより、脛骨を砕いている。この動きと同時に、左腕はもう一度振り直されていた。ワイヤーが伸び、標的の首に巻きつく。スナップを効かせて左腕を引いた。脛骨を砕く。
すべてが、悲鳴をたてさせずに行われた。
床に降り立った。部屋に入り、まずナイフを抜いて血をぬぐう。
人質が集められていた。見たところ外傷は無い。ただ、極度の緊張からかなり衰弱していることが見てとれる。プロテクター姿のシリウスに、一様に緊張した眼を向けてくる。
一度、プロテクターの動力を切り、ヘルメットを外した。
少年達から、驚きと安堵の吐息が洩れた。
見張りからキーを奪い、シリウスは膝をついて少年達の拘束具を外してゆく。そして、一言だけ静かに声をかけた。
「よく頑張ったな」
一番幼い少年の肩が震えた。間をおかずに涙が溢れてくる。ジュゼッペだった。気の優しさが映る瞳が潤んでいることに気づき、慌てて涙を払っている。
ひとつだけ、シリウスは頷いてみせた。恥じることはない。そういう意味を含ませたつもりだった。瞳の光がすこし、やわらいだ。
そして。シリウスはその眼をヘルメットの下に隠した。
「立て。時間は限られているぞ」
4人の少年達を立ち上がらせ、シリウスはその手に自分の銃を握らせた。短い言葉で指示を与える。
「地下にリニアがある。プラットホームに停まっているポッドに乗ってドアを閉めろ。後は自動で目的地まで行ってくれる。行先はタルカルコスの別邸だが、そこはもう殲滅してある。ただし、誰かが戻って来ていないとはいえない。こいつはその用心だ」
それぞれに銃を握らせ、最後の一人には見張りの持っていた拳銃を取り、素早く点検してから手渡した。
「シリウス…あなたの銃は?」
心配気に、ジュゼッペはシリウスを見上げた。しかし、プロテクターの向こうの表情は窺い知ることができなかった。
「心配は要らん。ナイフが何本かと、弾丸が一発入った拳銃があれば俺は充分だ」
見張りの死体からベレッタと2本のナイフを奪い、ベレッタの弾倉を点検してから初弾を薬室におくった。
この先の戦闘に、敵に対して直接銃を用いるような状況は待っていない。
「その銃はやるわけじゃない。生きて帰って、責任持って俺に返せ。お前達が自分でだ」
左手に抜き身のナイフを握り、右手にベレッタを握る。そして、少年達を送り出した。
階段を下りる歩調はそれぞれしっかりしたものだ。それを確認してから、鋭く身を翻した。
無人の部屋を抜け、シリウスは最後の扉の前に立った。気配が届いてくる。人数はわからない。ジョーカーもそこまではつかめなかった。ノブを回し、ゆっくりと扉を開ける。
倉庫は暗かった。表向きは廃棄されている倉庫だ。そのカムフラージュの為か、照明機器の類は無い。ただ、万一の時の遮蔽物にするために、コンテナの類などがかなり放置されている。それがシリウスに幸いした。
扉をすべるように出た。周囲に注意を向ける。見張りがいない。
気配は固まっている。小さな照明があり、声の聞こえる場所にだ。聴覚センサーのモードを指向性に切り換えれば、その会話の内容はほぼ聞き取れるだろう。しかし、周囲の気配に対する感覚が鈍ることになる。敵陣に潜入してからとる行動ではない。
姿勢を低くすることに気を配り、シリウスは動き始めた。配置されたコンテナの位置を把握し、襲撃にベストな場所を割り出す。
コンテナの陰から陰へ。気配を殺した姿は、まさに光線の変化で生じた影のゆらめきとしか見えない。
その影が、一瞬だけ気配を生じさせてしまった。
埋め込み式のミラーシェイドでサイバーアイを隠した黒いスーツの男が、怪訝そうにシリウスの潜むコンテナを見やった。
長い、一瞬だった。
気のせいだとでも思ったのか、男はすぐに注意をそらした。
苦笑が、シリウスの口許に刷かれる。多分に自嘲的な笑み。
未熟さを痛感していた。
一瞬、セルゲイ・ニジンスキーの顔を視野の片隅に捕らえた瞬間だった。眼は奴を追おうとし、耳はその声を追おうとしていた。意識が、その瞬間わずかに開いたのだ。奴に向かって。それが極わずかな気配を生じさせた。
我を忘れたと言っていい。戦場でひとつのことを徹底できないということは、十分に自分を見失った行動ということになる。緊張を持続し、冷静に徹するという、単純なだけに困難な状態に己を保持することから、戦場で生き残ることが始まる。やり直しは、無い。二度目が無いということが、戦場で最もこわいことだ。
理屈や頭で理解できることではない。身体がそういう行動をとるようになるしかない。もっとも、心構えはまた別の問題だ。初めは、理論や練習で身体を通ったものに頼ることになる。その時、常に緊張感だけを維持し続ける心構えが、戦場での生き死にを別つ。後はその心構えを習性として身体に叩き込むしかない。
それでも、人の心は弱さを露呈する。
心の昂ぶりが、動きに隙を生じさせたように。例え戦意の昂ぶりであろうとも、それが原因で危機を招くなら、そんな戦意もまた、心の弱さ以外の何物でもありはしない。
だが、シリウスはその昂奮を圧えようとは思わなかった。圧える必要はないと判断した、というほうが正しいかもしれない。
今、幕を切って落とす復讐劇に、己の全てを平静にさせて臨むことなど、到底無理なことだ。ならば、昂ぶりは全て闘志に注ぎ込み、その上で戦況と己を冷静に見ればいい。できないことではない。
ひとつ、深い呼吸をした。瞼を閉じる。
己の裡で昂ぶるものと、静まるものが知覚できる。
眼を、見開いた。
ゆける。
狼は、闇に沈むように溶け込んだ。
◇ DARKNESS ◇
運び込まれた『B』ドラッグ500グラムは、ロイガーのA4タイプアタッシュケースに入っていた。毒々しいほどに真紅の粉末。それらは既に一回分の使用量、0.5グラムずつに包装されている。
「50ドルでの売却という件、お忘れなく」
折りたたみのパイプ椅子に腰かけたまま、セルゲイ・ニジンスキーはそう口を開いた。彼の背後には、黒いスーツに身を包んだ屈強の男達が控えている。先日、ヴェツィーニ・ファミリーを襲撃した『夜魔部隊』、その一小隊五名だ。
ロドリス・タルカルコスはセルゲイ・ニジンスキーと丁度向かいあうかたちで、こちらもパイプ椅子に腰かけていた。仕立てのいいスーツに包まれた身体はよく肥えている。銜えている葉巻はコロニー製のもので、天然物独特のきつい臭いがあった。
そのタルカルコスの左後ろに屈強な黒人の男が立っている。ムサバと呼ばれる男だ。
タルカルコス・グループという呼称は、実は存在しない。ロドリス・タルカルコスという男は、表向き犯罪組織などとは一切の関係は無しということになっている。
この構造の要がムサバだった。
タルカルコスとムサバは南アフリカ時代からのつきあいであり、組織の起こりはその当時に溯る。現地での荒事の処理に始まり、タルカルコスのボディガードのような仕事までこなす、ムサバを含めた小人数がチームだった。メンバーには殺し屋やハンターくずれのような男達が選ばれていた。
この頃、チームはタルカルコス直属という雰囲気があったが、タルカルコス共々ネオ・アップル入りし、政財界デビューを果たしたタルカルコスの裏の仕事をするべく組織を大きくするにあたり、ムサバとタルカルコスの間にクッションを置くような二重構造となった。
黒人系のチンピラを集め、あたかも民族主義的武装集団を装い、タルカルコスの臭いを消す。組織の中でもタルカルコスの存在を知る者など、頭にあたる人間達だけであり、手足には何も知らされていない。普段はストリートで構成員達を好きに暴れさせる。そういったレベルでの運営はムサバに一任され、利権を裏から守る時のみ、指令がタルカルコスより下される。
私兵集団のボスであり、指揮官であり、そして優秀な兵でもあり、兇悪な犯罪者でもある男。それがムサバだった。
得体の知れないこわさを持つという点で、タルカルコスよりも警戒せねばならない。
それがセルゲイ・ニジンスキーの下した評だった。背後に夜魔部隊を控えさせていても悪寒のような不気味さを禁じえない。
技量や能力は夜魔部隊の誰にも及びはしまいが、この得体の知れない圧力はこわい。敵にした時、最もはかれないタイプだ。
対して、ロドリス・タルカルコスという男にはそれが無い。こういう人間であるから、こわさや圧力というものは、確かにある。しかし、底を見せずはからせないような不気味さは、ない。
政財界という表の世界に出ることで、そういったものを失ってしまった男だ。度量の大きさを示すことと、油断を怠ることを履き違えた結果だ。ステイツ・コネクションの代表者たるセルゲイ・ニジンスキーにとって、労せずに出し抜ける相手と言えた。
満面に余裕を装った笑みを浮かべ、タルカルコスは鷹揚にうなずいた。
「当方としても、そちらとの協力体制は非常に喜ばしい。ゆくゆくは御迷惑をかけずにすむような人材を育ててゆくとしても、今はそちらに頼らざるをえないのが実情だ。よろしく、御指導をいただきたい」
このような言い回しや態度こそが、ハイソサエティの人間にふさわしいと思っているようだ。相手が満足するならば、そういう言い回しにつきあってやってもよかろうという思いが、冷笑と共にニジンスキーの胸中にある。
「まことに、最高の御返事ですな。私にとっても組織にとっても」
そして、勿体つけたような仕草を返した。
楽しむような気持ちがある。柄でもない役を買って出た役者のような自分を、自分で笑っている。自分を笑うことを通して、この茶番劇を笑っているのかもしれない。
セルゲイ・ニジンスキーは、知っていた。自分という男をだ。
持っている器はチンピラのものだ。経営的な責任など負いたくはなかったし、己にそんな手腕が無いこともわかっている。地位に対する野心は、抱いていなかった。
抱いているものがあったとしたら、それは欲求に他ならないだろう。そういう思いが漠然と己の中にある。
より、大きな仕事がしたい。
組織での地位のような、見返りを期待しているわけではない。己を示したいだけだった。
自分という男が生き、自分という男を示すことができるのは、ドブ泥の中での闘いしかない。組織が与えてくれる仕事は、まさにそういった闘いだった。そういう闘いの中に己を見つけた時に、自分の生きられる場所がそこにしかないと知った。
後は、自分から求めた。今の己の地位や境遇は付録にすぎない。欲していた代償は闘いの中で得てきた。闘いの中でしか得られなかった。
だからこそ、より大きな闘いがしたい。
正直、仕事の成否は二の次だった。今にして思えば、それが逆に成功へと結びついたように思える。結果というものへの姿勢が冷静でいられたからだ。
「さて。それでは、我々の今後について話し合おうじゃないか」
セルゲイ・ニジンスキーの物思いを断ち切ったのは、重々しさを装うために勿体のつけられた声だった。
口の端を吊り上げた。銭勘定がしたくてたまらないようなさもしさが、タルカルコスの目に光っていた。
うなずき、そして切り出した。茶番は終わったのだ。
「商売の話は、まだ出来る段階ではありませんな。その前に片付けるべき問題が残っている」
「と、いうと?」
セルゲイの笑みが、やや大きくなった。
「市場の確保ですよ。無論、おわかりのこととは思いますがね。
あれで、あちらさんが尻尾を巻いてくれるというわけではない。それどころか、報復行動の準備も整いつつあるようだ」
敢えて、そこで言葉を切った。タルカルコスの反応を見るためだった。考え込むような素振りだけを見せ、タルカルコスからの返答は何もなかった。意味もなく考え込むような姿からは、逆に知性という言葉とは対極の印象しか受けないものだ。
それが、タルカルコスにはわかっていない。
薄笑みを貼りつかせたまま、セルゲイ・ニジンスキーは口を開いた。
「まずは大掃除の支度から始めて頂きましょうか。必要とあればそれなりの銃火器は用立ててさしあげますが、その程度のことはそちらの力だけで片付けて頂かねばならないところです。本来ならば」
語気の強さをもって、そう言い放った。タルカルコスに、というよりはムサバに対してだった。穏やかな仮面の下にあった己の本性を、故意に見せてやった形になる。
「異存は、無い」
何か言おうとしたタルカルコスの声にかぶせるようにして、ムサバの言葉は発せられた。重い、声だった。圧えられた無表情さに重さを感じたのかもしれない。
「上等。そう言わせてもらおう」
2人の視線がぶつかった。ムサバは無表情なまま、セルゲイ・ニジンスキーは薄笑みを貼りつけたままだった。
「尋いてよければ、どのような計画で?」
その問いを受けたムサバの眼に、初めて表情らしきものがゆらめいた。
「そんなものは、必要ない」
それは熱を有した表情だった。それは怒りに似て非なるものだった。
意外なことに、闘志という言葉が最も相応しいものだった。
それを知った時、セルゲイ・ニジンスキーは妙な共感を抱いた。同じ類いの人間をそこに見つけた。そんな思いも生じた。
ドブ泥の中に生きながら、戦士としてのちっぽけな矜持だけが捨てられない。どんなに汚れても、何を捨てたとしても、それだけは捨てられずにドブ泥を飲んで生きている。汚いとわかっている仕事でも、否、わかっている仕事だからこそ、闘志のようなものを抱いてぶつかる。そうすることでしか、痩せゆこうとする矜持を守ることができない。
「言うほどには、簡単にゆかないだろう」
「わかっている」
セルゲイ・ニジンスキーの言葉の裡に、嘲るような響きはなかった。太く、それだけに裏のない単純な言葉だった。立場や地位というものを越えて、セルゲイという男がムサバという男に吐いた太い言葉だった。
それがわかったからだろう。ムサバの返事にも不必要な熱はなかった。
気のせいか、無表情な強張りが緩んだように見える。
ムサバにしてみれば、セルゲイ・ニジンスキーは他所者だった。近頃、骨の抜けたボスが頼った、半ば敵のような男だった。少なくとも共同の仕事にあたるパートナーとは、決して見ていなかった男だった。正直に言えば、その分だけこの男にも敵愾心のようなものを持っていた。
今の一瞬に二人の間にのみ流れた空気が、束の間それを失くさせたらしい。
ムサバに眼を向け、セルゲイ・ニジンスキーは続けた。
「ヴェツィーニ・ファミリーの規模は決して大きくはないが、質と士気は共に非常に高い。何より、マリオ・ヴェツィーニは果断な男だ。反撃を甘く見ることはできないだろう」
「わかっている。それでも、叩き潰す」
貼りつけた笑みをやや変質させて、セルゲイ・ニジンスキーはうなずいた。そしてようやくロドリス・タルカルコスに眼をくれた。
「抗争は、彼に一任されて間違いはないでしょう。
さて、抗争と並行して商売をすることは可能ですかな?」
再び、セルゲイ・ニジンスキーは仮面を被った。本性のままでは、どうやらこの老人に対して毒が強すぎる。
ありったけの威厳をかき集めるようにし、タルカルコスはうなずいた。
「無論だ」
そこを、さらに切り込んでゆく。
「失礼だが、そちらには経済的手腕という意味での能力に信頼できる人材はいない。あなた自らが先陣に立ってその手腕を振るって頂きたいが、いかが」
「わたしが?」
冗談ではない、という口調だった。そういうところに、この老人の老いと甘さが顔を出している。
「他にどなたかいらっしゃる?」
口調は変わっていない。しかし、本性は隠してはいなかった。
「ムサバにもその程度の事は容易いだろう」
「無理でしょう」
「君、ムサバを見くびってもらっては困るな」
「そうではありません」
切り込む。ロドリス・タルカルコスという男を切り崩す時だった。
「そうではない。彼を見くびるのではなく、彼の敵をあなたが見くびっていらっしゃる。もう一度言うが、マリオ・ヴェツィーニを甘く見てはいけませんよ。賭ける、という事を知っている男です。その刻、というものも含めてね」
言葉を切った。タルカルコスに言えるものが無いことを知っていてだった。充分な、しかし長すぎない時間をみてから、再び口を開く。
「ヴェツィーニに対してただ抗争をしかけるよりも、並行して商売を行う方がいい。戦略的に見れば見るほどです」
同時に、より困難になることは告げなかった。
「あなた方にとっても、無論、我々にとっても」
そろそろ、追い詰められていることがわかってきたようだった。額に光っているのは脂汗だろう。芝居で出せる男ではないことはわかっていた。
「しかし、そううまくいくだろうか…?」
それが彼の立場の人間が、口にしてはならない言葉だと、判っていないようだった。
「やつらには、得体の知れない男がついているという話も聞いている」
「うまくゆかせるのがあなたの手腕というものでしょう。
これでも、政財界で名を売るあなたには期待しているのですよ」
これ以上、タルカルコスをなぶるつもりはない。彼の部下である幹部達がいるし、ムサバがいる。必要以上にタルカルコスを貶めることで、幹部達に要らざる錯覚を与えることもあり得る。
「しかし、ピアズを消した『狼』のこともある」
脅えていた。それを自覚し、否定しないことは評価できる。恐怖を無視したり、抑圧してしまうのがいいわけではない。脅えているのを認めることができるのは、それはそれで勇気のいることだ。
そして、『狼』は、『狼』の名は彼等を脅えさせるのに十分なものを持っていた。
セルゲイ・ニジンスキーはそのことをよく知っていた。
「ピアズの件、あれこそヴェツィーニの報復として『狼』が動いたのではないのかね?」
ヴェツィーニ・ファミリーを知らないということが知られる言葉だ。彼等の『掟』や『誇り』というものを心得ていれば、そんな考えは浮かばない。
「それはありませんな。そんな男ではありません」
「知っているのかね? 『狼』を」
知っている。少なくとも、自分は気がついている。奴の名乗った名前を聞いた時に、その目的だけは。そして、誰か、ということも。正しく言えば、何を背負った男か、ということを。
タルカルコスが発した問いの答えを待っている。
短く、告げる。
「彼が、『シリウス』と名乗って闘っていることは」
その時だった。
「その名前、地獄に堕ちても忘れるな」
声。静かな声だった。静かだが、圧倒的なまでに強く大きな気配を伴い、声は響いた。
完全に消し去られていた気配に気づかなかった夜魔部隊の兵士達が、一瞬の反応に遅れた。その瞬間に、ただ一声の銃声が轟いた。中心にあったスタンドの照明が、それで粉々に砕け散った。闇がかぶさってくる。
「散れ! 相手は銃を持っているぞ 」
誰かが叫んだ。仕掛けた爆薬のせいで、誰も火器は携帯していない。対して、敵には銃火器がある。相手の射撃の有効性を失わせるためにも、散開すべきだった。しかし、急に落ちた闇のせいで、充分に散開できたのは夜魔部隊のプロ達だけだった。
長いわけではなかったが、決して短くない時間があった。
宙に、光が踊った。銀色の、尾を引く光。それは真っ直にセルゲイ・ニジンスキーのもとへと落ちた。
堅く高い金属音。危険な物ではないとわかるまでに数瞬を要した。
それが鎖のついた金属片であるとわかり、セルゲイ・ニジンスキーが手に取った時には、誰もが倉庫内を支配する暗闇が薄闇とわかるまで目が慣れてていた。
目を、凝らす。セルゲイ・ニジンスキーの心臓に霜が降りた。
忘れてはいなかった。彼の名を聞いてから、覚悟もしていた筈だった。それでも、それは、粟立つ恐怖をもたらした。
天に向かい吠え猛る、三つ首の猛犬の浮き彫り。
「ケルベロス… 」
我知らず洩らした声に、最初の呻き声が重なった。
声でわかった。それは命が奪われた時のものだ。
中腰になり、いつでも動ける姿勢をとってから、セルゲイ・ニジンスキーは単分子ナイフの鞘を払った。『ケルベロス』のレリーフの鎖を、左手はまだ握っていた。
ゆっくり、動き始める。近くのコンテナのそばへと歩み寄り、その陰で己の気配を断とうと試みるつもりだった。
コンテナの壁に伸ばしていた左手が何かに濡れたと同時に、足許が水たまりを踏むような音をたてた。
血の臭気と温かさが鼻腔を襲ったのは、その一瞬の後だった。
黒いスーツを着ている死体。夜魔部隊の一人に間違いなかった。
喉を一文字に切り裂かれていた。ほぼ即死だったのだろう、天を向いた傷からはもう、血はにじみ出てすらいなかった。
その先には黒人の痩躯が血だまりに伏していた。ムサバではない。彼の身体はもっと逞しい。
ゆっくりと動いた。周囲に注意を向けるが気配は捕らえることができない。目前に、コンテナ同士によって作られた通路の角がある。そこを、左へと折れた。そこで3体目の死体を目にした。夜魔部隊の一人だった。
その時点で気がついた。最初の銃撃がフェイントだったということに。『狼』は、最初から散開させ、個別撃破するのを狙っていた。夜魔部隊にとっては、その素早く徹底した反応が逆に災いとなった形だった。
彼等は、徹底してきた訓練そのままにきれいに散開した。それが、己を『狼』の獲物とすることにつながるとは知らないままに、だ。そして、『狼』にとって最大の敵となり得た筈の『夜魔部隊』という存在を、半ば自滅という形で失った。セルゲイ・ニジンスキーが最初に呻き声を耳にした時には、既に夜魔部隊の幾人かは死体となっていたに違いない。
彼等の失策とは責められない。彼等がプロフェッショナルであることを逆手にとり、読みきってみせた『狼』の狩りの巧みさが彼等の予測を全て超えていた。
死というものが、眼前で口を開けている。
追ってくるわけではないが、圧倒的な存在感を伴ってセルゲイ・ニジンスキーを待っている。そのことに不思議な昂揚を覚えた。
「地獄の猛犬……シリウス…!」
小さく、声に出した。そうすることで、腹の底にある熱い昂揚感が膨張した。
己の動きが、素早く軽やかになっていることに気がついた。
ジャケットを脱ぎ捨て、シャツの袖を破り捨てた。そして、靴も脱ぎ捨てた。
前傾姿勢になり、闇の中を駆け始めた。
昂揚。自分が笑みを浮かべていることに気がついた。闇の中にいることが心地いい。素足とスラックスの裾が血に濡れていることに気づいたが、気にはならなかった。自分が、気配を殺した動きを始めている。
そうだ。忘れていたのだ。
歓喜と恐怖がもたらす戦慄が、ひどく懐かしいものであることに気がついていた。
俺は、これを求めていたのだ。
己に、こういう生き方をさせることになった六年前のあの戦い以来、こんなに精神が躍ったことはなかった。
死と、戦うことができる。待ちうける死と戦うことができる。
夜魔部隊の死体の一人が手にしていたナイフを取り上げ、銜えた。陰に身を置き、気配へと鋭く研ぎ澄ました神経を開く。
前方に、気配があった。小人数が固まっているようだった。明らかに素人が混じっている。タルカルコスだろうと目星をつけた。
そちらに眼をやった。その時、見えた。黒い影の疾った姿が。タルカルココスの前に立っていた背の高い黒人の男と、その姿は交錯し、消えた。後には、首からマシェットを生やした男だけが残されていた。
高く長い悲鳴が上がった。タルカルコス。頬に血のしぶきを受けたらしい。平衡感覚を失ったかのように身体が泳いだ一瞬の後、タルカルコスは走り出していた。倉庫内より、ほんの少し光量がある屋外が、口を開けた扉の向こうに見えている。
逃げられはしない。いや、逃がしはしないだろう、狼が。
死者を見る眼で見送った男が、身体を硬直させた。希薄な光の中で、恰幅のいい影が奇妙な動きを見せ、硬直した。光に向かってゆこうとした身体のなかで、首だけが闇に引き込まれた。濁った声がそこから洩れた時には、タルカルコスの全ては終わっていた。
狼はワイヤーかテグスのようなものまで使うらしい。避けるのは至難の技だろう。
足の指を屈伸させ、それだけで進むように動いた。
右手にナイフ。銜えているのが一本。左手に何かを持とうと思った時、いまだにレリーフを握っていたことに気がついた。
眼をやってから、鎖を手首にとおした。足許に転がっていた短い鉄パイプを握る。ワイヤーをそれで受けるつもりだった。
ふっつりと気配が断たれている。一瞬、落ちるような感覚に襲われて時間感覚を失った。とてつもなく長い間、こうしているような錯覚に支配された。
汗がゆっくりと頬を伝わった。生きているのは自分だけか。ムサバはどうしているのか。
本当に狼はここにいるのか。それさえも疑わしいほどに、静寂が気配を伝えてこない。いや。狼は確かにいる。そして、自分を見ている。気配を感じられずとも、どこからか視線が刺さってくるのはわかる。
死が、先刻よりも間近に迫ってきたのがわかった。
とまっていたら、やられる。狼はこちらを見つけている。好きな時に襲えるに違いない。かといって、不用意に動けば隙をつくるだけだった。
賭けるしかないだろう。賭けられるものは、命だ。一度、全てを投げ出してしまう。拾えるものがあるとしたら、その状態になった時にわかるだろう。逆に、そういう状態にしてしまわなくてはわかるまい。
歩き出した。
自分が狼にはどう見えるのだろうか。恐怖に気がふれた獲物か。それとも、誘っているととるだろうか。
いや。そのどれでもないと、狼は知っているだろう。
口許に薄笑みの上ってくることがわかった。
その時、前方の希薄な光の中へ影が歩み入った。砂を踏む音をさせている。黒い肌。ムサバだった。
口が何かを言おうとして動いた。そんな気がした。自分の名、それを呼ぼうとしたようにも見えた。それから、俯せに倒れた。
狼は、その後ろに立っていた。右手に血のついていないナイフを下げている。
「…何故、殺さなかった」
今の一瞬にできた筈だ。ムサバを壁にして、ナイフを撃ち込めた筈だ。
狼は答えない。ただ、そこに立っている。黒いけものは、全身に返り血を浴びているようだったが、何かコーティングでもしてあるのだろう。血はゆっくりと下に流れていた。
わかった。狼のかつての群れの念いが、それには込められている。その漆黒の甲冑に。
両手の獲物を捨て、銜えていたナイフを手に取った。考えたが、左手首にとおした鎖はそのままにしておいた。
狼が、ゆっくりと姿勢を低くした。疾った。同時だった。滑り込ませた左足の小指が、粗い床に擦れて血を吹くのがわかった。だが、気にはならなかった。自分の身体をきちんと動かすために、どんな小さな痛みも洩らすまいとした。初めて、埋め込んだ強化神経が役に立っていた。
信じられないほど低い位置から、狼の攻撃は伸びてきた。首筋に突き出された切っ先が抵抗なく潜り込んで来た。浅い。頸動脈には届いていない。それがわかった。
狼はこちらの刃をくぐっていた。距離をつめられていた。しかし、それ以上無理に詰めてはこない。
突いた。斬り裂こうとしても甲冑には無意味だ。関節部を、狙って突いてゆく。動きでは負けていない自信があった。しかし、狼は前に出て来た。刃に身を投げかけるようにしながら、それを潜ってくる。そして、刃が突き込まれる。避けた。踏み込んだ足の捻り込みと腰の捻りだけでだ。左胸から左肩にかけてナイフが裂いてゆく。血が溢れるのもわかった。しかし、肉を切らせて機はつくった。
前の足を引き戻し、ナイフを逆手に持つ。腰を逆にきる形になる。
しかし、その足が止められた。低い位置に狼がいた。肘が、内腿の急所に突き込まれていた。ヘルメットで光った 甲 冑の瞳は、まさに野獣そのままに激しく、鋭く、獰猛だった。
よろけ、距離ができた。息が乱れていた。しかし、休みたくはなかった。
自分から詰めてゆく。狼も前に出てきた。一瞬に満たない時間。その時間の中、狼の方が疾いことが知覚できた。交錯。灼けるようなものが、腹のあたりで弾けた。意識はとばない。とばすまいとした。頬に粗い床がこすれている。
声はもらさなかった。そのまま、這った。そして、仰むく。右手にはまだナイフを握っていた。しかし、左手にはレリーフは無かった。
コンテナにもたれるようにして上体だけを起こした。
血だまりの中に、狼は立っていた。血にまみれたレリーフの鎖を取る。
地獄の猛犬が、俺の血を喰らっている。そう思った。
狼が、ヘルメットを外した。まだ、眼は見える。よく見ておきたかった。
「…でかくなったな」
言ったつもりだったが、口に出せたかどうかはわからない。ただ、眼だけはまだ、生きている。
俺を見ていた。憎悪は見つからない、そう見えた。凍たい悲しみのむこうすぎて、見えないのかもしれない。
「戦えたよ」
血の塊が舌の上にある。邪魔だ。
「戦って、死ねる。おまえがどう思おうと、戦士として、死ねる」
狼は、黙したまま立っている。うなずいたように見えたのは、気のせいか。
俺達が殺した狼達に、おまえのことは伝えておこう。
眼を閉じた。狼が踵を返すのが見えたように思う。そういうことが不思議だとは思わなかった。
もう、痛みも遠い。
眼の前がまぶしかった。
まだだ。眼を開けたまま、ゆきたい。最後まであいつを見ておきたい。
下から、振動が伝わってきた。起爆させたのか。
眼が画像を取り戻した。ヘルメットをかぶる姿が見えた。
「また、おまえは自分を縛るのか」
それは、その黒い姿は、身を守る甲冑ではないだろう。黒く重たい鎖に、己を縛りつけているんだろうが。
巻き起こる、炎。
その炎の中に、狼は歩み去ってゆく。後ろ姿がはっきり見える。逆に、狼の周囲がぼやけて見えた。
光。
あたたかそうな、光。
◇ MIDNIGHT 2 ◇
半島に火の手が上がった。
川べりの倉庫と、飛び火したようにいくらか距離を隔てた内陸部にもう一カ所。
そう大きな炎ではない。だが、出火した建物を全焼させるには充分なほどの勢いだった。煙の色から、なんらかの爆発物が使用されたことがわかる。
風向きのせいで何の音も聞こえてこないが、もう警察も消防も現場に駆けつけていることだろう。
夜という時間に加え、川を挟んだこの位置からでは火災発生の正確な場所所の把握は不可能だ。だが、そこに何があったのかは分かっていた。
ファーマーは水際へ足を運んだ。
この辺りは土地が緩やかに落ち込んでいるので、歩いて川に踏み込むのは容易だったが、そんなことを敢えて試みる者はいないだろう。
生活排水や工業排水のせいだけでなく、あらゆる「自然」に汚染されたネオ・アップルの川は昼の間、形容しがたい濁った色で自らの有害さを主張しているのだが、それもこの時間帯には単に漆黒にしか映らない。街の灯を乱反射させて光るさざ波だけが川の流れをそれと伝えている。
何世紀か前ならかっこうの遊歩道になったであろう背後の遊水池は、今では不法投棄されたあらゆる文明機器の墓場であった。
しばしば増水する川の水に浸かったことのあるものは一切の光沢を失って、後は腐食するのを待つばかりの様子だ。
ミュータント化した鼠でも住み着いているのか、時折、奇怪な鳴き声と廃棄物の間を動き回る音がしている。
その物音に一旦は振り返ったファーマーだったが、再び夜の底を這う川に視線を戻していた。
一般保安区内で銃撃戦があり、初めの火の手が上がったという連絡を受けてからもう30分ほどが過ぎようとしている。
水面に注意を向けてみるが、さざ波のパターンを解読することはできそうにない。
やはり希望的推測にすぎなかったか。
かすかなため息をつく。
蝋燭の火を消すこともないような吐息だったのだが、絶妙のタイミングで背後の錆びたジャングルが崩れた。
鼠の仕業とも思えない大きな物音に振り返ったファーマーは、そこに自分以外の人間の姿を確認して思わず声を漏らした。
「デューク?」
一瞬後には後悔した。
足場を確保するように数歩、近づいてきた人間は期待していた相手ではなかったのだ。
コートの下に、すでにその資格を失った制服を着たかつての同僚。
たった半日でその様は変わり果てていた。どこかの戦場から抜け出してきたような姿と、怒りを湛えた凶暴な目付き。
ラディンだ。
ファーマーは表情を曇らせた。
彼は自分の内通がばれたことを知っている。もう二度と警察関係者には近づきたがらないはずだった。ただひとつの目的のためを除けば。
「やはりな」
どこか熱を帯びた声でラディンが囁いた。
「貴様は『狼』と繋がっていたんだ。あの狂ったハンターとな。ふたりしてオレを破滅させた」
ファーマーはゆっくりと息を吐き出した。いきなり発砲してこないだけの理性が残っているならまだ救いがある。
「わたしの弁解を聞いていただけませんか、ラディン部長。
わたしとデュ…シリウスの間にはいかなる共同関係もありません。あなたを告発するつもりもなかった。あなたが応じて下されば、話し合って穏便に解決したかったんです」
「嘘をつけ! 貴様らは故意にオレを逃がしたんだ。その上、お前は、奴が好き勝手できるように手入れの中止までお膳立てしてやったんだろうが」
「誤解です。わたしもむしろ彼に利用された口だ」
ファーマーは穏やかに諭した。
「わたしが強制捜査の延期を要請したのは、その計画がすでに相手にばれていて、迎撃されるという情報を受けたからです。
まさか、そう知らせてくれた本人が、戦闘準備が整っているのが明白な敵陣に乗り込むつもりでいるなんて、予想もしていませんでした。
今になってやっとわかったくらいです。彼はタルカルコスに個人的な思惑があって、自分ひとりの手でカタをつけたかったのでしょう。彼は警察のためを思って忠告したのではなく、むしろ邪魔な我々を遠ざけておくために情報を流してくれたのです。利害の一致点があったからこそ彼は…」
ラディンが抜き放った銃が、ファーマーの言葉を途絶えさせた。
「御託は充分だ。
貴様はジプシーの孤児を引き取って育てているような男だ。『狼』の遠吠えを聞いていたたまれなくなったのも解るさ。
貴様はこのあとも奴に協力してやるつもりだろう。それがわかっていたからここまでずっと尾けてきたんだ」
うかつだった。ラディンは警官に支給されているマイクロコンピュータからの発信でファーマーの位置を割り出したのだろう。追跡されないために自分の発信機は破棄してしまっただろうが、それでも正式には退職手続きの済んでいないラディンのアクセス権はまだ生きている。
内部事情に精通している同僚を敵に回すのはやはり不利なものだ。
ファーマーはラディンの暴挙を止めるために、マイクロコンピュータに備わった他の機能も思い出させてやった。
「銃を収めてください。早くここを退去した方がいいでしょう。非常事態警報を流せばすぐにも警察がやってきます」
ラディンが腹の奥で笑うような声を出した。
「来るかな? いいや、そんなことはないだろう。貴様は助けを呼ばない。呼べないんだ。
奴とここで落ち合う予定なんだろう? そこに警官がいたら奴も逮捕される。奴はあれだけの騒ぎを起こした張本人なんだからな」
それは事実だった。おとなしく引き上げてもらおうと思ったのだが、はったりは効かなかったようだ。ラディンは意外に冷静な判断を下している。
「奴はここに来る。だが、奴がやって来たとき、残念ながら待っているのは貴様でなくてオレということになる。ひと仕事終えた後だ。お仲間が待っていると思って油断しているだろうな。奴を殺せばオレにもチャンスはあるんだ。
さあ、邪魔者は消えていてもらおうか」
ファーマーは低く、それでもまだ諭すような声音で宣告した。
「チャンスは、ありません。あなたの後ろ盾は壊滅しました」
「奴の死に報酬を払ってくれる組織は他にもある」
銃口がファーマーの顔面に狙いを定めた。制服が防弾仕様になっているのは当然承知している。
暗い銃口の奥を見つめさせられるのはどうとっても感じのいいものではなかったが、ファーマーは努めて冷静な態度を保つようにして、ラディンに考え直すよう促した。
「警官には手を出すべきではないと言っていたのはあなた自身のはずです」
「時と場合によるさ。その川に沈めてしまえば二度と発見されることもない。
どうだ? 銃弾を食らって痛い思いをするのがいやだったら、回れ右して、自分で飛び込んでくれてもいいんだぞ? その方がこちらも手間がはぶける」
唇を歪めたラディンの表情はすでにどこか正気を失っているようにも見える。
ファーマーは横目で川までの距離を確認した。
視界の端に乱れた水面を捕らえ、覚悟を決める。
いくら暗いとはいえ、この距離で狙いを外すことはないだろう。相手もプロだ。こちらが銃を構えるより先に結果は出ている。
どちらにしろ、自分にできることはないようだ。
あらゆる事態を受け入れるように軽く目を閉じる。
金属のきらめきが一瞬、空を裂いた。
シャツのトップボタンのわずか上を正確に貫く。
喉の奥深くまで、刃の厚いナイフが刺し貫いている。
即死だった。
身体が仰向けに泳いで倒れた。
ラディンの死体から目をそらすように、ファーマーは背後に向き直った。
水から上がって来る機械的なフォルムに一礼する。
「かえって迷惑をかけてしまったね」
大昔の騎士を思わせるフルカバーのオートプロテクターを身にまとった人影は、全身から黒い水をしたたらせながら岸へ上がって来た。左手にはまだ何本かのコンバットナイフを掴んでいる。川の水に浸された刃は、特殊な加工でもしていない限り、何時間かの内には変質して役に立たなくなってしまうだろうが。
無言のままファーマーの傍らを通り過ぎてラディンの足を掴み、短い距離を引きずって川へ落とした。
ラディン自身が宣告したように、二度と浮かび上がることもないだろう。
完璧なオーバーコートが施されているとみえて、汚れた水が弾き落とされてゆくと、光を銜えこむ漆黒の地金が本来の色を取り戻し、新品同様のオートプロテクターの姿をあらわにした。
指をゆるめてナイフを地面に落とし、両手でヘルメットを持ち上げる。
汗に黒髪を湿らせた青年の無表情な顔がそこにあった。
ヘルメット内のエア・フィルターも限界だったのだろう。さわやかとはいえないまでも冷めたい夜の風を深く吸い込む。
そして初めてファーマーに視線を向けた。
「妙な場所でHiPのオフィサーに会うものだな」
「君を待っていたんだ」
「令状は?」
シリウスが短く息を吐き出した。
ファーマーは空の両手を広げてみせる。
「強制捜査は延期になったけれども、麻薬があるとわかっている場所の監視まで解くわけにはいかないだろう。
それに、今や君のおかげで無駄になったとはいえ、強制捜査の実行計画は完成していたんだよ。有事に封鎖すべき道路や橋の資料はそろっていた。計画の緊急延期で手の空いた職員も大勢待機していたところだ。
君がいかに見事な奇襲をしたとしても、警察の対応は予想外に速かったはずだ。あれだけ厳重に囲まれては、誰にも気づかれずにあのエリアから出るのは不可能だろう。そうなれば自ずと選択肢は限られてくる。
君は現場に留まるだろうか。否。ならば不可能を可能にするにはこの有害な川を渡るしかないし、自力で岸へ上がるのにはここが一番適当だ。
だから君はここへ来ると思った。確信するほど自信はなかったけどね」
「で? 俺にうまく利用されて、麻薬密売組織を検挙しそこねたことの恨みでも言いにきたのか」
オートプロテクターを外しながらこちらを見もしないでシリウスは尋ねた。
ファーマーはかすかな笑みで答える。
「君との会話を思い出してみたが、君は嘘はついていなかった。わたしが君の本当の意図を読みきれなかっただけの話だ。恨み言をいう筋合いはない。
ここに来たのは、ひとつ言いそびれた礼があって、それを伝えようと思ってなんだが…今はふたつになったな」
シリウスが顔を上げたので、ファーマーはうなずいた。
「はじめのひとつはトビアのラジコンカーを直してくれたこと。わたしにはお手上げだったんだ。ありがとう。
それから、今夜、キリエとトビアを『遺族』にならないようにしてくれたことがふたつめ」
かすかに目を伏せて、暗い地面に染み込んだラディンの残骸を見る。
殺人に関してシリウスを非難しないのは、この件に関して自分の責任を感じているからなのだろう。そして、二度までも目の前で殺人を犯しても、シリウスが衝動的にそうしたのではないことを、彼の信念をわかってのことだ。
シリウスは視線を外すと、何も言わずに黙々と作業を続けた。
ファーマーはその背中に声をかける。
「わたしとラディン部長の会話を聞いていたかい?」
「いや」
「ラディン部長は君のことを『狼』と呼んでいたよ。何故だろう」
「大犬座α星『シリウス』を『天狼の目』と呼びならわす地域がある。戦を呼ぶ凶兆だ」
シリウスというコードネームの青年は、胸部と手先のプロテクトを外して身体を軽くすると、それだけ教えて歩き出した。
「デューク!」
「誰の目があるとも限らない。俺と一緒のところを見られるとあんたが困るんじゃないか?」
「カゼルIIという車がわかるか?」
突然の質問に、シリウスは振り返った。
「知っている」
「MAX−7のような性能はないし、トビアの玩具のカスティン・プロモデルのような見栄えのいい車でもない。ごく普通の大衆車だ。
わたしの愛車はそのガゼルIIなんだが、セイフティをかけ忘れたままその辺りに停めて来てしまったみたいだ。たぶん誰かに乗って行かれてしまうだろうな。
ありふれた車種のありふれた白い塗装だから、検問のオフィサーの気を引くことはないだろう。少なくとも、オートプロテクターを運んで徒歩で行くよりかはね」
シリウスはファーマーに向き直って正面から見つめた。
「明日は非番だから、出勤に車は必要ない。アクターたちに怪しまれることもないだろう。
昼過ぎにグレイス・ショッピングセンターに買い物に行くつもりだ。乗り逃げ犯が良心的なら、ガゼルIIはそこの駐車場に乗り捨てられていると思う」
ファーマーはそう言ってうなずいてみせた。
ラジコンカーを直してやった礼にしては過分だが、命を助けてやったことも加味すれば貸し借りなしといったところだ。
互いにそれを認識していたから、余計な挨拶もなしでシリウスは踵を返した。
ふたたび歩きだしたシリウスに、ファーマーは今一度、声をかける。
「ひとつ聞いてみたいことがあった。
君は昼間、家に来たとき、わたしの友人と名乗った。そして妻を信用させるために、警察学校の音響室の逸話を披露してみせたそうだね。あれは本当に警察学校にいた者でなければ知りえないような内容だ。
君はもしかして、かつて警官だったことが…」
「家族が大切なら、俺との係わりあいは今後一切否定することだ」
にわかに冷たくなった声で告げて、シリウスはそのまま闇の中に消えた。
素顔をさらして、かえって心を鎧ったようにも見えるその後ろ姿を、ファーマーは黙って見送る。
残念だ。彼になら方便でなく、自分の友人と名乗ってもらうことをわたしは誇ることができたのに。だが、それを告げることは彼に枷を課すことでもあるのだろうか。
デュークというファーストネームを持つ警官の記録を調べることもできた。だが、自分はそうはしないだろう。
彼が今、目指しているものが何であれ、それは過去への償いであるように感じられた。彼自身が結論を出したことに口を挟む権利はない。
やがて、ファーマーの好意だけは無視しないことにしたのを告げるエンジン音が、どこかへと離れていった。
ファーマーは、対岸の火をもう一度だけ見やり、それから自分もこの場を離れることにした。
あの火は消えても、自分と、そしておそらくトビアの心の中にも残った星の火は消えることがないだろう。
星とはそういったものだ。
孤独な空にあって誰にも守られずに、それでも優しい。
寒波が舞い戻って来そうな空を見上げ、ファーマーはしばらく立ち尽くしていた。
同じ空の下にいるひとりの男に思いを馳せながら。
◇ ENDING ACT ◇
満天の星がある。それを、薄いガラス板一枚隔てただけで眺めることができる。たまたまオセアニアに生まれたという人間を除けば、それは力のある人間にのみ可能なことだ。特に、北米大陸出身の人間ならばそう考える。あの土地には、晴れわたった夜空というものは存在しないに等しい。
男は、足を停めて夜空を見上げた。そういう力が自分にある。しかし、そういう力を持つに至った、とは思わない。まだ、それだけの力しか持っていない。
後ろで、秘書は黙って立っている。先刻の会合の報告書は持たせている。
「構わなくていい。先に行っていろ」
一礼する気配が伝わってきた。ヒールの音をさせ、秘書は歩いて行った。
右手を胸元のペンダントヘッドにやって、夜空を見上げる。チェスのポーンが、そのままヘッドになっている。極めて簡素な作りだが、宝石などより遥かに高価なものだ。木製だった。丹念に磨きこんである。いいつやが出ていた。
だが。男は、そのペンダントに宝石ほどの価値も認めていない。そんな物を与えられたことにうかれ、そんな物を後生大事にするほど愚かではない。価値があり、大事なものは、そのペンダントに象徴されるものだ。そして、それをもたらした己の能力だ。むしろ、そのペンダントに象徴されることで、己の能力まで抑えられることを忌む。
指でひとつ、ペンダントを弾いた。
あらためて歩き出す。その背に、声がかかった。振り返る。
「シュナイダー。星空の鑑賞とは高尚な趣味だ」
男は黙したまま、心持ちうなずく。相手を確認した。会合で自分の向かいにいた男。名をたしかアイゼンバーグといった。ダビデの星よりも金に命を捧げる。自らそう言った。知っているのはそれだけだった。損得勘定は確かに巧みな老人らしい。
「シャトー・マルゴーの良いものが入ったのだ。一緒にどうかと思ってね」
「お伴しましょう」
アイゼンバーグのやや後方について歩く。彼の秘書は黙って一歩さがり、ついてくる。
アイゼンバーグのプライヴェートルームに入り、テーブルにつくまで無言だった。グラスが満たされ、チーズが運ばれてきた。そのチーズにも銘柄が存在するらしい。
老人が口をつけ、男も口をつけた。舌でころがすような飲み方はしない。それを、老人は少々不満そうに見やった。
「君はネオ・アップルの出身だったな」
「はい」
「なかなか、エキセントリックな人間の多い都市のようだ」
男の、組織へのコンタクトを指しているのだろう。肩をすくめ、また一口ワインを飲んだ。
「オペレーション『B』の失敗は、財務部門には少々きつい事件だった。とんだデ・ラ・マンチャもいたものだ」
男は薄い笑みを口許に押し上げた。あの男はエキセントリックなのではない。常識を、結果として超越するだけだ。常識という名を借りた保身的なフィルターを通して見ている限り、それはわかるまい。
老人がその笑みに気づいたかどうかはわからない。
「彼は、己が何をしているのか理解しているのかね?」
「少なくとも、風車に挑む戦いほど無意味な行為ではないようで…」
「何か言いたげだな、シュナイダー」
もう一度肩をすくめた。
「そういうわけではありません。興味はそそられておりますが」
「ほう。『ジャックド・エッジ』にそんな台詞を言わせるか…。
このオペレーション『B』は簡単に中断できる事業ではない。新しい指揮官である君が慎重になるのはよいことだ。次の会合では明るい報告が期待できそうだな。
所詮、誇大妄想の騎士殿など我々の前では小人にすぎん。そのことをわからせてやってくれ」
男は形だけ一礼してみせた。
愚かだ。組織のほとんどは愚かだ。手足に脳はないから、当然と思ってあきらめるしかあるまい。
古来、巨人を倒した小人の話にはこと欠かないではないか。
それに、かれは誇大妄想の狂人などではない。狂人などは、まぐれや奇跡に助けられても組織というものに勝てはしない。そんなことは、それこそ狂人でもない限りわかっている。
その上で、敢えて牙を剥いてくる者は、けものと呼ばれるべきだ。狡猾で、獰猛で、そして誇り高い。そんなけものには、狂気めいたものは見えたとしても、決して狂気がとりつくことはない。
ただ、組織の中に身をおき、飼われていることを忘れた者には、わからないらしい。飼い主の力と己の力の境界がにじんで見えはじめると、目に映るもの全てがにじみ始める。それも、己にとって心地よい色に。
この老人も長くはあるまい。
ハインリッヒ・シュナイダーは、胸の奥でそう一人ごちた。そして、己の底にある昏い熱に眼をむける。
今はそれでいい。シリウスというカードは、まだ俺一人のものだ。これを手にした者が、コネクションの命運を握ることになる。
それができるのは、この俺だけだ。
END