STAND ALONE SIDE-B
◇ACT−1 オールドギース
昔は季節の変わり目を肌で感じたものだ。今は骨で感じる。ワシも齢をとったのじゃろう。
ネオ・アップルの冬は、この辺りがまだニューヨークと呼ばれていた時代から、長く冷たい。今年もまた例外ではないらしい。
日没頃----といっても、地上も空も灰色に塗り込められたネオ・アップルで、太陽が沈むのが見えたわけではないのだが----もう白いものが空を舞い始めとった。
そんなことにいちいち浮かれ騒ぐ齢でもなし、ましてや、それが雪なのか、それとも別の有害な浮遊物なのか、もう長いこと生きてきたワシにも確かなことは言えん。汚染されて狂った自然には、定まったルールなんぞないのだ。この都市と同様に。
皆が己の、あるいは他人様の価値基準にすがって、日々を過ごしている。
誰もが少なからず混沌の中で生きている。
だが、こんな世の中にも、完全なる秩序に支配された世界があるのだ。
それは、現実世界とは言えんのかも知れん。極めて「現実的」ではあるが。
コンピュータの中だけに存在する架空の現実的社会。
厳正にプログラムだけで構成されたその場所は、俗に「サイバースペース」と呼ばれとる。
単なる情報交換や取引のみならず、体感プログラムに沿って学習することも、飽きるほど豪勢な食事をすることもできる。理想の相手と最高のロケーションで寝ることすらも。
そして、恐怖や死もそこには存在する。サイバースペースでの「死」はそのまま個体としての死につながる。
たいそうな仮想世界じゃ。
人間の純粋な欲求と情報だけが構成した世界。電子のダンジョン。
バー《ワイルドギース》のマスターであるワシにとっては、雑多な人間とデータの集まるサイバースペースは、カウンターで売る「情報」の仕入れ市場とも言える。
今夜もワシはコンピュータルームに入り、やや中央よりにあるシートに腰を落ち着ける。
中央、という言葉にたいした意味なんぞない。見た目にはどこが部屋の中央かなど、もうわからないほど機械共に占領された空間だ。どこがどう接続しているか、正確な配線図はワシの頭の中だけに収めてある。
幾度にもわたって買い足した最新の機械と、たったひとつ最高の椅子。
値段や素材のことじゃあない。ワシの身体に一番フィットする道具、ということだ。必要だと思ったものには、ワシは許されるかぎりの代価を払うのを厭わない。
金はためこむためにあるもんじゃない。何かを手にいれるためにあるもんだ。金で揃うなら、やすいものよ。
座り慣れた椅子に腰をおろし、保温装置のスイッチを入れた。膝の上にはブランケット。
年寄りくさいと言うな。この寒さは、熱のこもりやすい機械共には都合いい環境かも知れんが、ワシにはちとつらすぎる。手足が震えて効率が落ちるのも御免だが、サイバースペースから戻ったら指先が壊死していた、では冗句にもならん。
スイッチを入れられて目覚めた機械共が、羽音のように微かな空気の振動と明滅する光で挨拶をしてくる。もう見慣れた光景だ。
普通の市民でも、生活にコンピュータが欠かせない時代じゃが、ワシとコンピュータの付き合いも相当に長い。
彼らを構成する金属の耐久年数は長い。ワシの死んだ百年後でも金属は金属のままじゃろう。しかしながら、コンピュータのシステム自体の代替わりはめまぐるしい。
現在のシステムと付き合っている期間は、同じ頃に生まれた赤ん坊なら歩き始めるにも至らないじゃろう。
だがワシはこの青二才から常に学び続け、この道具をフルに活用できるよう心掛けとる。
情報屋としてのワシがそれを必要とするからだ。
バーのカウンターにワシが出すもうひとつの料理。
さまざまな情報がワシの副収入になる。本業であるはずのアルコールより儲かる副業ではあるが。
ネオ・アップルのダウンタウン、マホロバ・ストリートのビルの上に建てたカウンターバー同様、このコンピュータルームもワシの投資のひとつというわけじゃ。
えらく世話のやける投資だが、下ごしらえの手間暇を惜しんではいいものは生み出せん。
情報屋ってもんは、腕と経験だけでカバーできる仕事じゃあない。
テクニックだけでも不充分、最新の機器をすべて集めてみても不足。
情報屋はコンピュータの前で検索結果を待つものと思っている人間は、まあ、情報屋になどなろうとせん方がいいだろう。もっとも、そういう人間は、情報を買う立場になったときも、まま無茶を言う。まともな情報屋なら相手にするもんじゃない。
どうせ情報を得ても、それを活用するということを理解しない人種なのだ。手に入れた情報の価値は、いつまでも不変だと思っておるらしい。
そんなに溜め込みたいのなら、金塊にでも投資しておった方がよっぽどマシじゃ。
情報網というものは、根気と注意力がなくては維持できないものだ。データを奪取するだけのハッカーとは根本的に違う人種なのだ。
おそろしく複雑で、そしてやり甲斐のある仕事よ。
コンディションライトがオールグリーンに変わった。
さて、今かかっている仕事を詰めようかの。
いつもにも増して慎重にならざるを得ない。これは並の仕事ではないのだ。
基本となるデータバンクはもう長いこと培ってきた。正確には六年という時間と、ワシのあらゆる努力を費やして。
そして奴が戻って来たことで、計画はより具体的な形に組み立てられつつある。
奴の胸の内に秘められた目標に向けて。
年寄りには短い六年だった。
だが、若者にとってはどうだったのじゃろう。
年月だけではなし得ない変化を、ワシはまざまざと見せつけられたが。
そして、機は熟した。六年前に奴が決めたことを始め、そしてそれを完遂する決意が揺るがないなら。
昨夜、奴はふらりと店にやってきて、ふたつのものを頼み、ふたつのことを告げた。
頼まれたものは情報と一杯のバーボン。
告げられたのは奴の新しい名前と、作戦のゴーサインだった。
奴が動き出す。
動き出したら、二度とは止められん。二度と元には戻らん。
この街に、善かれ悪しかれ、風が吹くだろう。それはやがて嵐になるじゃろう。
何かが救われ、何かが倒される。自分の思い描いていた未来を変える者も、変えられる者もいるだろう。
ワシ自身、その嵐にあってどうなるかわからない。命を落とすかも知れん。もっと大切なものに気づくかも、気づいて、それを失うかも知れん。
だが、その堰を切る斧を手にしていることを、ワシは悩んだことはない。
その身を嵐と化す奴自身----戦を告げる星の名を選んだ男と同様に。
そう。すでにゴーサインは出されたのだ。
冷えきった金属端子をジャックに押し込んで、回線をつなげた。
情報が要る。嵐の勢いを守るための情報が。
そのためにワシはそこへ赴く。
危険なトラップとプロテクション、さらには、それ自体がもっとも危険だといえる「情報」のひしめくサイバースペースへ。
シリウスの目的は一朝一夕で片付けられるものじゃあない。準備期間だけでも六年を要したのだ。
今回の仕事はほんの序の口にすぎない。そしてそこから奴は、休むことなく次のステップを目指す。
シリウスの挑む闘い。それはあらゆる意味で果てしがない。奴が、彼らを永久に失ったからには。
奴がその初戦の相手に選んだ獲物は、今、ドラッグディーラーとしての顔を有している。そこにつながる糸はすでにいくつか見つけてある。
無許可開設局のカフェバー《フォルテッシモ》にアクセス。
もちろん、そこは看板どおりの「おしゃべりコーナー」なんかではない。ドラッグの仲介ではそこそこの規模の店だ。
ネットで注文だけ受けて、実際の取引は下請けの売人に街で行わせる。
売人が捕まったとしても、自分までは警察の手が届かない。
ご丁寧な小細工をするものよ。もっとも、そうでなくてはストリートの末端売人と大差ないドラッグステーションだ。
この店は大規模な犯罪組織の、それもおそらくは《ステイツ・コネクション》の方針に従って運営されているのだろうと見当をつけていた。
眠れる獅子とみなされていたステイツ・コネクションが蠢動を始めたのは、今から十年と溯らない、わりに最近のことだ。長い休眠期のうちにも、彼らはただ眠っていたのではなかったと見える。もともとが北米全土にネットをもっていた組織だ。血が通えば目覚めは早かった。瞬くにその世界の勢力図を塗り替えていったほどに。
変わったのは勢力図だけではない。
ステイツ・コネクションの地盤はドラッグにある。彼らの進出により、ドラッグの流行も流通も様変わりした。
今では、ドラッグの動きには、どこかしらステイツ・コネクションが絡んでいると断言してもいい。末端で動いている人間がそれと知らなくとも、だ。
そして、今回の標的はステイツ・コネクションの人間だった。
これからも、ステイツ・コネクションが我々の前に幾度となく現れることは確信しておる。ステイツ・コネクションは初めから、あの「事件」に関わっていた。
こんなところで手をこまねいているわけにはいかん。
どこにでもあるような末端組織から、標的へつながる糸を探り出してみせる。
それが取り敢えず、ワシの仕事だ。
ドラッグカフェのコンピュータをつついてみるが、予想どおり、ガードは堅い。
違法営業だからというだけではない。ステイツ・コネクションはどこの信用会社にも劣らず情報に貪欲で、かつ慎重だ。上の人間に神経質なのがおるんじゃろう。
セキュリティは規格の違うものを二重に設定し、個人の名前や市民番号といった、簡単に予測されるようなパスコードはつけさせない。それも週に二度は変更された。この程度の「店」にしては相当な警戒だ。苦労して手にいれたパスコードも、すぐに売り物にならなくなる。
コンピュータ内部のトラップやカモフラージュ、侵入者排除プログラムも出来がいい。市販のものなど、どこにも配置してはおらんだろう。
要するに、彼らの手の内にあるデータは、理論的にはこれ以上ないほど厳重に守られている。
だが、危機意識の薄い、物覚えの悪い人間というのはどこの組織にも、不可避的に存在する。
頻繁に変わりすぎて覚えておけないパスコードを、個人用端末のバーチャルデスクにメモして残したり、メイルの中に洩らす人間を見つけだし、こちらも慎重に慎重に隠蔽工作を重ねながらそれを掠め取る。コードワークと呼ばれる作業だ。
まあ、こんな仕事は本来、ハッカーの領分だろう。だが、ひとりでやらねばならないときは、ワシもそこから始める。基本、といってもいい。
現実世界でいうところの半刻ばかりをかけて、コードワークを達成した。
手にしたパスコードで、すぐさまシステムへ侵入する。《フォルテッシモ》のデータバンクへ。
短縮登録の固有名詞一覧をコピーし、回線の優先順位を記録しておく。
あとは何もいじらなかった。
侵入者の中には、本来の目的を悟らせないために、故意に無関係な個人のデータをかき回したり、ロジックボムを隠す癖のある奴もおる。殊にハッカーはそういうことが好きだ。わざわざ自分のサインを残す馬鹿も知っている。そんなことをして相手の警戒心を強めても意味はないというのに。
空き巣は空き巣らしく振る舞うのがいい。
こうして手に入れたデータを、情報という形に整えるのが、本来のワシの仕事である。
侵入された側が、もしそれに気づいても、何を盗まれたのかわからないようなデータから情報を割り出すのが理想だ。
それができれば予想屋としては一人前じゃろう。情報屋になるにはそれにいくらかの商才が必要だ。
サイバースペースから抜け出し、しばらく画面を前に吟味した。
気になる単語がひとつある。最近の登録だ。
与えられた名前はただの『B』。分類位置からみて、おそらく商品名じゃろう。
新しいドラッグらしいが、まだ流通が確立していないとみえる。ことによると外のメガシティからの密輸物かも知れん。
しばらく鳴りを潜めていたあの男----ワシらの追っている獲物は、間違いなくこの『B』がらみのプロジェクトに参加しているはずだ。
これまでに判明している、そいつの組織内での役割と、表舞台から消えた時期がそう告げている。
その男が現在、この街にいることは別の筋で判明しておる。『B』プロジェクトはすでにこの街に舞台を移しているはずだ。
それにしても、ストリートの売人の間に何の風聞もないのが奇妙といえば奇妙だ。
新種のドラッグが出回る前には、市場調査および人体実験的な意味で、いくらかが市場に流出するものだ。そこで値段や需要が決まってくる。
ストリートの売人を通さないで流通を独占しようとしているとすれば、市場経済と保安の観点から言って、かなりの賭けになる。
ステイツ・コネクションがフリーの売人を使わないでドラッグの取引に手を出すことなど、今の段階では、まだあり得ない。ヤクの商売には長けている男がそんな真似をするだろうか?
組織がそれを許すじゃろうか?
これでひとつ、謎が出て来た。謎は真相への糸口にもなる。いい傾向じゃ。
視点を変えてみよう。
『B』は末端売人じゃ扱えないほど値が張るのかもしれん。一部の上流階級だけを商売対象にしたドラッグも確かに存在するからの。
最近だけみても、ステイツ・コネクションが、企業社会という枠組みに確実に浸透しつつあるのは確かだ。
だが、あの男がこの新種ドラッグにかかわっているとしたら----果たして上流階級を相手にできるだろうか。そういう生まれ育ちの男ではない。
違うな。『B』の秘匿にはもっと別の意味があるはずじゃ。
この『B』はモノになるネタだ。
ワシの頭脳が「アタリ」を感じている。
いくつかの手掛かりをもとに、地道に検索の輪を広げていった。
コンピュータを駆使してキーを探し、メールの暗号を読み解いて関連データを拾い集める。ニュース報道を再検討して真相を推理する。ワシが屋根を貸してやっているストリートキッズがフリータウンのささやかな噂を持ち帰ってきたし、ワシ自身のいくつかのコネクションと取引もする。
休みを挟まず続けた。正味八時間。
ワシのデスクとその周囲には掘り尽くされた鉱脈のように、エッセンスを抜き取られたデータ屑が散乱している。
そして、ワシの頭の中には、ひとつの答ができあがっていた。
必要なデータはおよそ80%まで入手できた。そして、パーフェクトというにはどの部分が欠けているかを、ワシは把握している。だから、これだけでも何とかいけるじゃろう。
情報戦の世界では、入手できた情報の量より、自分が何を知らないかを、得ていない情報についてを正確に掴んでいることがより大切だ。ピースが足りないのに無理やりジグソーを完成させようとすれば、必ず歪む。
今夜でワシはすべてのピースの形を見極めた。そこに描かれている完成図は推測できる。
この収穫を奴に伝えてやろう。昨夜ここで、シリウスと名乗った若者に。
シリウス----かつてはワシは奴を、デュークという名で知っていた。
六年前、デュークはひとりでこの街を出て行き、そしてひと月ほど前、やはりひとりで戻ってきた。
勁い一面で純真な十代の少年だった原石は、いまや揺るぎない鋼に転身していた。
アンカレッジの訓練センターでの時間は、奴にとっては無駄ではなかった。否、無駄にはできなかったのだろう。
彼がその牙を剥いたとき、彼の敵は、そして味方すらも、なぜ彼にそれほどの力が与えられたのだと妬み恨むだろう。圧倒的な力で突き進む彼を非難することも有り得る。あまりに自分たちと違いすぎると。
確かに奴には素質があった。それは言い切れる。素質がない者はいくら努力をしてもある一線を越えられない。
運もあったのだろう。少なくとも、この六年間を生き抜いてきただけの運は。
だが、奴は天才ではなかった。その才能を開花させるために、奴がどれだけのものを費やしてきたか、それを理解しようとする者は少ない。理解して、同じ試練を耐えられる者はもっと少ない。
多くの人間が、今、自分と奴の間にある隔たりだけを問題にして、公平ではないと感じている。
奴がそれを気に留めないことが、さらに事態を助長しとるのだが、奴の中では決着のついてしまったことを、いまさら同じレベルにおりて協議しようと望まれても、応じられるものではないだろう。大人が子供に戻れないのと同様に。
子供が大人になるまで待つ余裕は、今の奴にはない。だが、奴は自分が子供だったことを忘れない大人だ。子供を理解してやれる、だが大人なのだ。
そして奴は付き合いにくい男と思われ、それでいて奴のやることはスケールがでかいから、多くの人間と関わらずにはいられないことになる。
その中には、奴に影響されるだけでなく、奴に何かを与える人間がいるやも知れん。
失くしたものの代わりを見つけろなどとは思わない。だが、新しいものを奴が得るのを見るのは、ワシのひとつの楽しみでもある。
奴にそんな思惑がばれたら、何と言われるかわかったものではないが、それはそれで結構。
ひそかにほくそ笑んだら、身体中の筋肉がほぐれたような気がした。同時にいくらか怠くもある。
はやく奴に今日の収穫を知らせてやらにゃあなるまい。
そしてワシも少し休ませてもらうとしよう。
◇ACT−2 アクター
どういう物理法則が働いたんだか知らないが、衝突したパトカーが見事に横転したのに、犯人の車は走り続けた。
半ば道をふさぐ形になったパトカーのせいで、後続の連中が追跡に苦労している。だが、俺にはその程度の障害物はどうってことない。
ホバーエンジンの出力をあげて乗り越える。
いやっほう。
ホバイクのノーズが向こう側へ越えたとき、ちょうど車から這い出てきた同僚の頭を吹っ飛ばしそうになったが、なんとか避けてくれた。
すごい剣幕で怒鳴っているが、任務が優先だ。先を急ぐことにする。ごめんな。
前方では、ゲートインスペクターが急遽ハイウェイ上に引き出した鉄柵を跳ね飛ばし、犯人の車がまだ元気に飛ばしている。
頑丈なこと、この上ない。警察の車も見習うべきだと思うぞ。
そういや、あのセラムって車の製造会社、戦車の開発もしてたっけか。
こりゃあ、いい宣伝になるな。ま、こんなことになって、警察としては困るんだけど。
さてと、そろそろ止まってもらわないと本格的にまずい。このまま行ったら繁華街へ突っ込まれる。
本部もどうやら同じ意見に達したらしい。めずらしく息があった。
『制限解除。市民の安全確保のため、搭載実弾の使用を許可する』
その通達が終わるか終わらないかのうちに、砲弾が俺の傍らをかすめて飛んでいった。
90mmロケット砲弾。大型火器にしては着弾周囲への影響が少ないことから制式装備にされてはいるが、めったに使う機会もないものだ。その機会をすかさず利用するとはさすが!
ああ、撃ったのは多分、オネスト先輩でしょ。
俺のホバイクについて来られるドライブテクニックと、あの攻撃決行の早さは先輩に間違いないと思う。
容赦ないんじゃなくて、判断が明確なだけなんだよ。先輩のは。
バイザーをつけていても一瞬目が眩むような閃光が走り、爆音と熱風が空気の流れにのって俺の身体を包んだ。
実際に立ち会ってみると、90mmロケット砲弾が周囲に影響を与えないというのは誇大広告のような気がしないでもない。
熱せられた空間から抜け出るように加速する。
犯人の車と並んだ。
だいぶガタついてきてはいるが、まだ走り続けるつもりらしい。えらい車をチョイスしたもんだ。
割れたウィンドウの向こうに確認した乗員はひとり。ハンドルは自分で握っている。もっとも、精密な自動操縦装置があんな乱暴な運転をするはずがない。
90mm砲弾に耐えた奴をどうやって足止めしてやろうかと思案したとき、センサーが何か告げてきた。隣の車の破損状況。
電気系統に支障だ。もう長くはない。
口元に引き寄せたマイクに向かって言った。
「先輩。こいつ、すぐにハンドル失ってスピンするはずです。近づきすぎて巻き込まれないように」
返事はなかったが、先輩のことだ、わかってるだろう。
…にしては、スピードを落とす気配がないんだけど。
先輩のリッターバイクは車線をずれ、スピードを落とすどころか加速して犯人の斜め前に出た。車のフロント部に機関銃が備え付けられているのを忘れたのかと思って注意しようとした矢先、車のホイールキャップが外れてこちらにふっ飛んできた。
うわちっ。
運よく当たらなかったものの、冷や汗が出た。
俺も即座に先輩に倣って犯人の車より前方へ出る。
いつ空中分解するかわからない車の後ろにいるのは危険、ってことだ。
ひとつ勉強になった。
ついでながら、そんな車を運転しなくてはならない人間に、機関銃でこちらを狙っている余裕などないことも悟った。
ホイールキャップを皮切りにいくつかの部品がもぎ取られ、そして1マイルも走らない内に後輪がスリップして、犯人の車は防音壁へクラッシュした。電気エンジンの車だから、二次爆発を起こすことはないだろう。
俺がその場でバイクをホバリングさせて見張っていると、いくらか先でバイクを停めたオネスト先輩がこちらへ歩いて来た。
「ナイスショット」
言って敬礼してみせたが、こういう挨拶に乗ってくれる人ではない。
先輩は警戒しながら犯人の車に近付き、見事なまでに膨らんだエアバッグの間で身動きすることができずにいる犯人を引きずり出す。
犯人から銃を奪い、ボンネットに上体を押し付けるようにさせて、後ろ手にプラスチック手錠をかけた。
先輩が何かつぶやいているな、と思ったら、律義に前世紀の遺物、ミランダ権利を宣告していたらしい。「あなたには黙秘権があり…」という例のやつだ。俺は未だに全文暗記していない。
言う必要に迫られたときは「あんた、人権保護法を知ってるか。知らないなら留置所にいる間に調べておけ」と告げることにしている。
こんな場合に犯人にだけ、人権を保証してやることもないだろう。
ともあれ犯人の身柄を拘束したことを無線で連絡しておいた。
一件落着。お疲れさま。
俺は背後のハイウェイを見やった。
約1マイルにわたって散乱したパーツを避けながら、後続部隊がたどりつくにはまだ多少の時間がかかりそうだ。
あれを片付けるのも俺たちの任務になりそうな、いやな予感がした。
「ねえ、先輩…」
振り返った俺の目が、そのとき異様な光景をとらえた。
オネスト先輩は犯人を引き起こそうとしたところだった。
犯人が顔をしかめて先輩を睨み、それから笑った。
手錠をかけられたままの犯人の左手が、肘からふいにありえない角度で折れ曲がり----そこから銃身が突き出した。
サイバーアーム。
「先輩っ…!」
とっさに俺はホバイクを突っ込ませていた。
異状に気づいたオネスト先輩が犯人の足を払う。
倒れつつも犯人は、手錠でつながった左義手をぶらさげたままトリガーを引いた。
ショットガンの銃声と共に先輩の足が地面を離れて、後ろざまに吹き飛ばされる。
「やっ…」
視界を一瞬、白い紙が覆ったような錯覚を受けた。ハレーションってやつだろう。
意識して、スティックを握る指に力をこめた。
服務規定に従っていれば、先輩は防弾チョッキを着込んでいるはずだ。
銃の接射の威力は相当なものだが、散弾だけに防弾チョッキで防げるはずだと、そう俺は思い込もうとした。
根拠なんかなくてもいい。先輩がやられるはずないんだ。
だが、仰向けに倒れてそのまま動かない姿に、悪い想像もしなかったと言ったら嘘になる。
「やめろっっ! 畜生っ」
ひき殺すつもりでホバイクを突っ込ませた。
俺に向かって、犯人がふたたび発砲する。
ちょうどホバイクが盾になって、俺には当たらない。
直後に、犯人が顔を覆うような仕草を見せた。真上に向かって撃てば弾が降ってくるのは当然だ。
だが、ホバーファンのどこかに食い込んだ弾もあるとみえて、こちらも高度を失った。
墜落する前に飛び降りる。
頭を庇って肩から転がったが、ほとんど受け身に成功したとは言い難い痛みが残る。いや、アスファルトに落下したにしてはこれでもましな方なのか。
立ち上がったときには相手を見失っていた。
視界には犯人の車と、不時着したホバイクが一台。先輩のバイクまでは距離がありすぎて、他に身を隠せそうな場所もない。
自分もまったく遮蔽をとっていないことに気づいた。相手はショットガンをもっているのに、だ。
視界の端に人間の一部が見えた。正確には、倒れた人間の一部が。
オネスト先輩だ。
どう考えたって危険な場所に倒れている。あれじゃあ、留めをさしてくれと言っているようなものだ。
俺は先輩のところへ行こうとした。
その瞬間、車の陰にいた犯人と鉢合わせする。
射線が完全に通った。
ホルスターから引き抜きざまに撃つ。
先輩のもとへたどり着こうとする足と、犯人を狙おうとする上体が食い違って微妙な姿勢になる。
せいぜい20フィートばかりの距離だったろう。
残念ながら、俺の弾はどこへ飛んだのかわからなかった。あまり射撃は得意じゃないんだ。
腕をついて先輩の側に倒れ込んだ俺の耳に、聞き間違いようのないポンプアクションの音が届いた。
顔を上げる。
サイバーアームのショットガンを構えたまま、犯人が立ち尽くしている。
犯人が発砲をためらったのは、低い位置にいる俺たちを撃つことで、アスファルトによる跳弾を受けるのを恐れたからだろう。
相手の迷いは確かにチャンスだったとはいえ、立ち上がるだけの時間はなかった。
発砲しても相打ちがせいぜいだ。むろん、うまく当たったとしての話。
俺の腕では分が悪い。
だから、許された最後のアクションに、俺は先輩の身体の上に身を投げかけて伏せた。ほかに庇う手段がなかったからだ。そうした後で、手榴弾や散弾に対しては、人体は有効な盾になるとオネスト先輩が言っていたのを思い出した。どうやら自分の身で確かめることになるらしいや。
炸薬の弾ける音が、激しく尾を引く音に重なった。
そして、いきなり、俺の目の前に車が突っ込んできた。轢かれなかったのが奇蹟みたいな勢いで。
実際、先輩の腕のほんの数インチ先で停車していた。故意にやったんだとしたら見事なもんだ----そんなこと感心してる余裕がどうしてあるんだ。まったく。
焼けたゴムの臭い。熱いタイヤの臭いがする。
はっきり言って、何がなんだかよくわからなかった。一体、何が起きたんだか。だけど、妙に落ち着きもしていた。とにかく動く気にはなれなかった。
そのときになって、いくつものサイレンの音が近付いてきていることに、やっと気がついた。
真っ先に滑り込んできた例の車が、わざと狙って開けた扉にぶつけられたらしく、犯人は転倒している。駆けつけた警官たちが犯人を取り押さえるまでに、ものの十秒とかからなかっただろう。
大逆転だ。ラッキー…
ゆっくりと身体を起こす。
俺たちと犯人の間に割り込んだパトカーから、ファーマー巡査長が降りてきた。
「無事かっ」
「俺は…あ…どうも…どうにか」
俺はなんというか、気が抜けたような表情をしたのだと思う。
ファーマー巡査長が手を差し伸べてくれた。自分で立ち上がることもできたのだが、その手をとって、なぜか、生きていることを実感した。
この人が助けに来てくれことがうれしい。
助かったことじゃなく、助けてもらったことを嬉しく感じることってあまりないだろう。
でも、俺はうれしかった。
なんだか知らないけど、階級の上下とかじゃなくて、精神的なもんでこの人には素直に助けてもらえるんだ。
しかし、いつも安全運転を主張しているわりに、現場到着第三位だ。やればできるんじゃん----いや、違った。やるときはやるんだな。
それにしても、パトカーを散弾の遮蔽代わりに滑り込ませるなんて、巡査長も無茶をする。まあ、いきなり犯人を撥ねようと考えなかったところは巡査長らしくもあるんだけど。
一息だけの安堵を味わって、俺はすぐに告げた。
「オネスト先輩が撃たれました」
ファーマー巡査長の顔から血の気が引いたのがわかる。
巡査長を心配させているという思いと責任感が、俺にきまじめな態度を取らせた。
「救護班を呼んでください。お願いします」
普通、上司に頼む筋のことではないはずだが、俺はここにいたかった。
巡査長も異を唱えずに、すぐに救急隊員を呼びにいってくれた。
俺は先輩の傍らに座り込む。
身体を合わせたときに、息があるのは確認していた。身体の周囲に出血も見当たらない。多分、気を失っているだけだろうと思う。
「こっちの心臓に悪いよ…」
囁いてみる。
この人はどこかツメが甘いんだ。少なくとも、俺の方が要領いいと思う。
いつも俺の方が心配する側にいる気がする。そんなのって好きじゃないんだ。怪我なんかしてほしくないよ。
項垂れていると、救急隊員が声をかけてきた。
「大丈夫か?」
俺は立ち上がり、ケガ人が俺ではないことを教えてやる。
すぐに担架が運ばれてきて、救急隊員がオネスト先輩を救急車に乗せた。
先輩は身じろぐ気配もない。
乗り込んだ救急隊員が医療機材を素早くセットして先輩の容体を調べるのを見て、どこか不安になった。いや、俺を不安にさせたのは意識の戻らない先輩の姿であって、救急隊員の腕の方じゃない。
この事態を見送りかけている自分に苛ついた。
「俺も行く」
救急車に乗り込もうとすると、担架をしまっていた隊員に阻止された。
「勝手な真似はよせ」
「付き添いだ」
「医者か家族でないと認めない決まりになっている」
「うるさいな」
俺は着地したときに擦りむいた手首を突き付けてやった。
「怪我人ならいいだろ」
後は無理やり押し込んだ。
「すぐ出発してくれ」
「アクター」
救急車のドアに手をかけ、ファーマー巡査長が呼んでいる。一緒に乗り込もう、という顔ではない。
仕方ない。
この人に「迷惑をかけるな」と言われたら俺は降りざるを得ない。
観念したが、巡査長が口にしたのは別の言葉だった。
「オネストのことは任せたよ」
だから俺はこの人には逆らえないんだ。
正対して敬礼をした。
俺が心から敬礼することなんてめったにない。
上司も認めているとわかって、救急隊員は渋々といった様子で、俺を乗せたまま車を発進させた。
ドライバーズシート以外の場所に自分がいることに違和感を覚えもしたが、おとなしく隅の方に座っていることにする。
オネスト先輩を手当している救急隊員が、仲間内で交わす専門用語の合間に質問してきた。
「負傷した状況は?」
「至近距離から散弾を撃ち込まれた」
「彼は内臓のサイバー化をしているか?」
「聞いたことない」
俺の答えを受けて、また指示が出される。
俺が乗っていなかったら、この隊員は誰に問診するつもりだったんだろう。まったく。
窮屈な車内----定員外の俺が乗っているせいもあるのだが----で、俺は救急隊員の邪魔をしないようにしながら、先輩の様子を窺った。
脱がすのが面倒なのか、制服は惜しげもなく鋏で切り裂かれていた。はだけられた胸は、素人目にもわかるほど肌の一部が変色している。内出血を起こしているのだろう。
至近距離で撃たれた場合、防弾できても、ハンマーで叩かれたような衝撃を受ける。この様子だと、骨が折れているかも知れない。
擦り傷くらいなら慣れているんだけど、それ以上の怪我は本当に「負傷」って感じでいやだ。
俺は視線を外し、小さな窓から外へ目をやった。
街の景色が飛び去っていくが、どうもいつもと違う感じを受ける。町並みや天気が違うんじゃない。でも、目に見えて何かが違っている。
違和感の原因はすぐに思い当たった。
遅いのだ。景色の流れる速さがまったく違う。
「いったい時速何マイルで走ってるんだ」
「法定救急速度だよ」
「救急車に法定速度も何もあるか。もっと飛ばせ」
「無茶言うな。おまえは交通警察だろう」
「HiPが来たら追い返してやるよ」
「だめだ」
そっけない対応に苛ついた。
「怪我人を早く病院へ運ぶのが役目だろうが。人の命がかかってるんだぞ」
「これ以上の振動を与えて、患者の容体を悪化させてもいいのか」
そう言われると返す言葉がない。
イライラしながらも、おとなしく座っていることにした。
信号を無視してよいという特権は活用しているらしく、一度も停止することなく警察病院までたどり着いた。
事前に連絡がついていたと見え、ストレッチャーを用意した看護士たちが待機している。
ふたたび車内は人の移動で慌ただしくなった。
俺はさっさと脇にどいていたほうがよさそうだ。
車を降りる際に、軽く先輩の腕に触れてみた。
多分、俺と同じくらいの体温だったのだろう。特別な感じは受けなかった。
「後で」
小さく声をかけて送り出す。
俺の方は外来のカウンターに回された。
救急隊員に指示されたらしく、事務をとっていた男が俺の傷を手当してくれる。
洗浄液で傷を洗ってジェル状の薬を塗り、ガーゼでおさえてから包帯を巻く。
その包帯の扱い方がどうにも不器用で、医療関係の資格をもっているのか怪しいところだ。
まあ、これくらいの傷なら消毒薬を吹き付けておくだけでも充分なのだが。
「これ、いつになったら外していい?」と聞くと、明日、と言われた。
三時間が我慢の限度だな。
制服のままなので隊員証を見せろとは言われなかったけど、薬もくれなかった。
手当が済んでしまうと、もうすることがなかった。
仕方なくロビーの椅子で報告を待つ。
三十分ほどで、さっきの救急隊員が見つかった。そう。通りすぎようとしていたところを俺が呼び止めたんだ。
「先輩は?」
「ああ…ええと、外科の予備診察室にいる。
大丈夫だ。脳波にも内臓にも異常はなかった。打撲と脳震盪だけだよ。
少し安静にさせておいて、意識がもどったら連れ帰っていい」
「担当医は誰だ?」
「マックミラー先生だが…」
「誤診だったらそいつ、殺すからな」
言い置いて外科の病棟へ歩き出した。
ひとりきりになったエレベータの中で目を閉じて息をつく。
「じーちゃん。助かった…」
俺のじーちゃんはもちろん存命中だが、俺にとっちゃ守り神だ。いざってときには俺はじーちゃんに祈る。
それから、もうひとり現実に報告しなければならない人を思い出して、俺はエレベータをおりると、電波の通りのよさそうな窓際に立って、リストホンに隊員番号を打ち込んだ。
『HiP第五域担当、ファーマーです』
「巡査長。俺です。今、病院にいます」
早口に告げると、回線の向こうで巡査長が息をつくのが聞こえた。
『ああ。ふたりともたいしたことなくてよかった。
こちらは我々だけで片付きそうだ。ゆっくり本庁に戻ってきてくれ』
付き添いの俺を無視しておいて、上司にはきっちり報告がいっているらしい。いただけない話だ。
まあ、本庁に直帰していいという指示は有り難かった。多分、帰りは救急車に乗せてはくれないだろうから。ここから本庁までなら歩いても戻れる。
「それじゃあ、先輩の意識が戻るまで俺も残りますから、怠業扱いにはしないでくださいね。あと、俺のホバイク、ちゃんと持ち帰るよう指示しといてください」
『わかった。よろしく頼む』
話の早い上司だ。普通はこうはいかない。
ファーマー巡査長は「とにかく善人」という人でもないんだが、「反抗する気をおこさせない、いい人」ではある。少なくとも俺にとっては。
リストホンを閉じて、予備診察室とやらへ向かうことにする。
実のところ、この警察病院には俺もお世話になったことがあるので、だいたいの地理はわかっている。
先輩もたいしたことなさそうだし、俺はのんびりと行くことに決めた。
が、その計画はすぐに変更を余儀なくされた。
向こうの渡り廊下を、先輩が出口へ向かって早足に通りすぎるのを見つけたからだ。
まったく。ゆっくり気絶もしてられない人らしい。
俺は軽く弾みをつけて滑らかな通路を走り出した。
「先ぱアィッ!」
◇ACT−3 ラディン
人間が良心を自覚するのは、少なくとも善行をしている最中ではないだろう。
人間には誰しも弱みがあり、それが不安にさらされたとき、良心は追い打ちをかけて人を苦しめる。
良心という奴は意地が悪い。
交互に足を出しながら、そんなことを考えた。
ちょうどよくエレベータの扉が開いたので乗り込む。
静かに上昇を開始したボックスの中には、若い女性がひとりだけ乗っていた。面識のない職員だが、オレを見て露骨に不快そうな表情をした。
原因はすぐにわかった。オレがタバコをくわえていたからだ。
これもオレの弱みのひとつだ。他人に迷惑とわかっているのに、ついついタバコに手を伸ばしてしまう。
他人に不快感を与えてしまうことは気にかかる。禁煙の計画もたてられないほど重度の愛煙家というわけでもないのだが、手を切ることができない。
昔の、誰か気の利いた奴が言ってたじゃないか。
「善いことの五つはすぐに真似られる。悪い習慣のひとつはやめることができない」と。まさに その通りだ。
こんな性格だから、オレはいつまでも奴等との関係を断てないのか。
タバコを持て余し気味にしながら自分のオフィスへと急いだ。
部長刑事という肩書をもらってから、オレは署内に自分だけのオフィスを与えられている。とは言っても、ほとんど板一枚で部下たちと隔ててあるだけのプライベートオフィスだが。
補佐官という名目の秘書は、入ってきたオレをちらと見ただけで、何も言ってはこなかった。
「タバコを買いに行く」と言って出ていったきり、三十分戻らなくても、だ。
オレが外で何をしていたのか、こいつはどう推測しているのだろう? まあ、どんな突飛な発想をしても、事実には考え及ぶまい。
記録が残る署内回線が使えずに、わざわざ公衆端末まで出向いて、警察の内部情報をギャングたちに漏らしていた、などという事実には。
無駄な嘘をつかずに済むなら、無愛想な秘書でも構うものか。
投げやりな気持ちの奥底で、また良心が疼いている。内通など卑劣な行為だと自己主張している。
オレだってすすんでそんな行為を始めたわけじゃない。
弱みにつけこまれたんだ。
妻と別れて気がたっていた。飲んで暴れた店が奴らの息のかかった店だった。
よくある話だ。それがこういう結末になることは、そう多くはないかもしれないが。
麻薬課の刑事だとばれてしまったことがよくなかった。上司に知られたら解雇、よくて減俸降格だと奴らは知った顔で諭した。このことを黙っている代わりに取引をしようと。
義を立てれば己がやっていけない。どちらに転んでも泥をかぶるのだ。
投げやりな気持ちになって、奴らの言うままに手入れの計画を教えてしまい、その礼金を無理やり受け取らされてしまってからは、なし崩しだった。
それ以来、未だに奴らとの関係が断てないでいる。
犯罪者から賄賂をもらって見逃したり、押収品を横流ししている警官など、それこそ掃いて捨てるほどいる。オレだけが特別に悪どいことをしているわけじゃあない。
それに、裏の事情に通じるのは、まともに仕事をする上で役に立つこともあった。その業界のことにはいろいろと目端がきくようになる。おかしいことに、組織の威を借りて犯人を自白させたことだってあるのだ。
遅い出世だったが、コネもないオレがなんとか部長刑事に昇進することができたのも、そういった副産物のお陰と言っていい。
内通なんてやめられればいいと毎日のように考えている。だが、そのために具体的な何かをしようとしたことがないのもまた事実だ。
オレが情報を漏らしたために、警察の検挙率はいくらかは下がっているだろう。だが、それがオレや部下たちの給料に響くわけでもない。
それどころか、ある程度以上の規模の犯罪組織なら、間違いなく政治家や財閥とつながっているものだ。そういったコネクションが何かのときの保険になるかも知れない。
ささいな救いを感じたっていいだろう。見逃した犯罪者に後でひどく感謝されたこともある。逮捕されていれば死刑は間違いなかったから、人助けと言えないこともない。
それに、組織はオレの情報をちゃんと活用している。オレが役に立っているという不思議な実感がある。警察にいても、オレは世間の役に立っている気がしない。
それから金だ。組織がオレを脅して情報を引き出したのは最初だけだ。あとは律義に報酬をよこしてきた。贅沢はできないまでも、生活に余裕をもたせるくらいの額。こうるさい正義心をしばらく沈黙させておくくらいの代価は。
アメとムチなのはわかっている。だが、彼らはオレにとって、いまや第二のタバコなのだ。
机上のベルが鳴り、秘書が会議の時刻が近付いたことを知らせてきた。
欠席するわけにはいかない会議だ。
CBI麻薬課の刑事として、そして内通者としても。
HiPが挙げた犯人が、自分の罰を軽くしてもらうために、情報をもらした。むろん、一時的な取引だから、たいしたことはしゃべらなかったらしい。
だが、その情報というのが、オレを飼っているタルカルコス・グループの麻薬運搬計画の情報だったのだ。
CBIの麻薬課では、その計画を阻止するために、HiPと合同ですべての幹線道路に検問を敷くという。この会議はその具体的な内容指示のために開かれるものだった。
残念ながら、オレはまだ作戦に直接口出しできるほどの立場じゃないが、今回はそれでも問題はない。
オレは自分が配置されるハイウェイと時間を連絡して、麻薬がみつからないように運び人を通してやることになる。
運び人が誰だかは知らされていなかったが、タルカルコス・グループの人脈から考えれば、ダミー会社の役員かケチな議員あたりだろう。
タルカルコス・グループは、表向きに利用している「南アフリカ出身者による民族結社」というカモフラージュから、末端こそ黒人の暴れ者でそろえているものの、上は経済界や政界にまで息のかかった者がいる。ボスのロドリスが利権屋としての強い影響力を保持しているからだ。
そんな組織が、検問が敷かれているとわかっているのに、いかにもなチンピラやガキ共に運びをやらせるはずがない。
会議室に集まって計画書代わりのディスクを配布され、簡単な作戦説明を受けた。
その後で、今夜組むことになるHiPのオフィサーと引き合わされ、短い打ち合わせをする。
パートナーとして紹介されたのは、まだ若い男だった。
HiPの機動隊には比較的若い隊員が配属されるが、彼もせいぜい三十くらいだろう。
コールサインは「ファーマー」。警察畑でこの農夫(ファーマー)が何を育成しているのか知らないが、若いわりに物腰の柔らかい男だ。だが、へつらうようなところがない。意外と融通がきかない人間ということもありえる。
ファーマーの階級は巡査長だった。そのごく順当な地位からみても、お偉いさんにコネがあるわけではなさそうだ。ならばチームの指揮権はオレにあるということになる。これは何かと好都合だ。いざというときには強権発動ができる。できれば目立つことはしたくないが。
人員配置や装備について話し合いながら廊下を歩いていくと、向こうから若い隊員が手を振り回しながら呼びかけてきた。
オレには見覚えのない相手だったが、ファーマーの方はそうでもないらしい。
見ればHiPのバッヂをつけている。ファーマーの同僚か。
すぐ側までやってきた青年隊員はオレに敬礼ひとつせずに、それどころかほとんどオレの存在を無視して、ファーマーに話しかけた。
「巡査長。先輩がついてくって聞かないんですよ。
当人、医師から禁止はされてないって言ってますけどね、禁止もなにも、医者が何か言う前に病院出てきちゃったんだ、当たり前でしょ」
さきの捕り物で、警察側に何人か負傷者が出ているという話はきいていた。どうやらファーマーの部下もそのひとりで、なおかつ典型的なHiP隊員らしい。火の玉ボーイというやつだ。
ファーマーが口に指をあてて考え込むような仕草をしたことからも、こんなやりとりが今に始まったことではないのがわかる。
「俺、ちょっと心配になったもんだから、巡査長に頼みにきたんですよ。
先輩も巡査長の言うことならきくと思うから、一言、無茶するなって言ってやってください。
そしたら一緒に出動しても大丈夫でしょ」
はっきり言って、戸惑った。
こいつはどういう基準でものを言っているんだ。怪我した同僚が心配で、出動させたくないから来たんじゃなかったのか。
困惑しているオレの隣で、ファーマーの方は素直に事情を受け入れた様子だ。
「オネストにはあまり負担をかけないよう、わたしも注意しておく。
それより、君こそ出動できるのか? 足はどうする」
「あ、大丈夫。故障っていっても、たいしたことなかったみたいですから。整備班に最優先指定で直してもらいました」
しゃあしゃあと言ってのけて、青年は破顔した。
「ああ、よかった。先輩にひとりだけ残れって言うのは絶対無理だし、俺も先輩を残していくのって何かやだし。
これで万事OKですね。じゃあ」
踵を返して行きかける青年を、ファーマーが慌てて呼び止めた。
「アクター。紹介しておくよ。
こちらが今夜のチームリーダーのラディン部長刑事だ」
「あ、そうですか」
それだけ言って、名乗り返しもしないで早足に行ってしまう。
先輩とやらのところに戻りたくて、うずうずしているのだろう。
「すみません。自分のことは、わたしからもう伝えてあると思ったのでしょう」
ファーマーが部下を庇いつつ謝罪する。
部下が野放しになるのもわかる気がした。
あんな部下ばかりでは牧童も楽ではないだろう。
このファーマーという警官にも弱みはたくさんありそうだ。それを盾にとられたら、彼はオレと同じ道をたどるだろうか。
後ろめたさや心苦しさを分かち合いたいわけではない。
ただ、それを確かめることで、自分がいくらか正当化できそうな気がするのだ。
我ながらつまらない思いつきだとは思うのだが、この考えはどうしても頭を離れなかった。
いつまでも。
◇ACT−4 オネスト
マチルダに連絡をしている最中に奴が戻ってきた。
「先輩〜」
こっちが電話中だということは見ればわかるだろうに、うるさい奴だ。
「先に休んでいてくれ、マチルダ。明日はゆっくりできると思う。
ああ…おやすみ」
急いで電話を切ったが、いくらかは聞かれたらしい。
「先輩、そんな喋り方もするんですね。
ところで、マチルダって誰ですか?」
前に家へ連れていったときに会わせたはずだが、覚えてないらしい。確かに酒ははいっていたが、そんなに酔っていたのか。
無視して時間を確認した。
もうそろそろ車に乗り込んでもいい頃だろう。
今回はファーマーのパトカーに同乗するようにという指示だった。待たせてはならない。
歩きだすと、アクターもついて来た。
質問の返事は諦めたらしい。
普段から、必要のない質問には応えないことにしているので、奴もわかっているのだろう。
おれを呼びにきたのも、別に用があってのことではないらしい。
こいつはいつもそんな調子だから、おれも気にしないことにする。
アクターは、ホバイクを走らせていないときには、誰かしらにつきまとっていることが多い奴だ。たった1マイルの間でさえ、奴がずっとひとりきりで歩いているのを見たことがない。声をかけたりかけられたり、おれの十倍は知り合いがいそうだ。
おれは自分でも人に慕われるような性格をしているとは思えないから、アクターが暇をみれば寄ってくるのは、単に奴が人恋しいからだと思っていた。側にいさえすれば、誰でも同じなのだと。
無下にもしない代わりに、相手にもしてやらなかった。少なくとも、知り合った当初は。
だが、よく見ていると、おれといるときの奴の態度は、皆といるときとはいくらか違っていた。ファーマーといる場合とも違っている。
丁寧な言い回しをしているわりにはぞんざいに聞こえてしまうあの喋り方も、おれとその他相手のときとでは、どこか別物なのだ。
どの辺に違いを感じるのかと言われると、はっきりとは答えられない。
当人にきいたって的確な答えが返ってくるとは限らない。
やはり何を考えているのかよくわからない奴だ。
ファーマーの話だと、こいつはおれが撃たれてから無事だったとわかるまで、かなり深刻に動揺していたらしい。
そんな話をきくと、どこか感嘆しないでもない。
おれが自覚する限りでは、おれたちの間にある空気は友人というのとも、上下関係というのともどこか違う。
どちらかが一方的に面倒を見てやるわけでもなければ、対等に向かい合ってもいない。微妙なところだ。
越えられないほどの格差ではないから、ふとしたはずみに奴は、いつもの役割を忘れて、おれを守ろうとしたりする。
そんなとき、奴も根は警官なのだなと思ってしまう。精神的な意味でだ。ごく自然に、助けの手を差し伸べることのできる男だ。
ちなみに、奴はおれのことを「先輩」と呼ぶが、アクターとおれが同時期にポリスアカデミーにいたことはない。奴に会ったのは、おれがここへ転属になった後だ。
署長室に怒鳴りこんできたあいつの、おそろしく表現力のある黒い目が殉職した親友を思い出させた。それで声をかけてしまったんだと思う。
ああ、そうだった。はじめに声をかけたのはおれの方だったんだな。
「じゃあ、先輩。現地で」
肩を叩かれて我に返った。
「ああ」
短く応えると、アクターは朗らかな笑顔を見せた。
いつまでも子供みたいな表情をする奴だ。
ピットの方へ走って行くアクターと別れて、おれは指定されたパトカーの傍らでファーマーを待った。
そう長くは待たされなかった。
反射帯をつけた夜間安全服の他に、ファーマーは防寒具もトランクに積み込んだ。
「今夜は冷え込みそうだよ。つらい検問になるかもね」
室内にいたので失念していたが、外はそういう状況らしい。
仕事なら別に構わなかった。同行を申し出たのはおれの方なのだ。
パトカーに乗り込んで手順をおさらいした。
ファーマーは箇条ごとに「問題はないね?」と確認するだけで、おれの体調のことをうるさく尋ねてはこなかった。一度許可を出したことは蒸し返さない人だ。
アクターより付き合いは短いが、おれは彼を信頼している。上司や同僚としてだけでなく、ひとりの人間として。
以前、彼の家での夕食に招待されたことがある。
そのとき交わした会話、そして彼の、養子への接し方を見て、彼への信頼は揺らぎようがなくなった。
むろん、アクターのようにそれを素直に言葉にしてみたりはできないが。
おれは人を好きになることはできるが、その人を褒めるのはうまくない。
「確認終了。出発するよ」
ファーマーがおれの気を引き戻そうとするように声をかけた。
ハンドルは彼に任せて、おれは作戦の全体図を見直しておく。
検問は、ニューヨーク地域の第二級保安区へ通じる地上通路のすべてでおこなわれる。ダウンタウンと違って、そうそう未登録の抜け道があるわけでもない。
もとからゲートがあるインターチェンジはゲートインスペクターが、その他のハイウェイをHiPとCBIで担当することになっている。
おれたちの割り当ては22時から25時、言いかえれば日付の変わった午前1時までの三時間だった。その前後三十分が引き継ぎに充てられているから、実質は四時間の臨時勤務ということになる。
つらいというほどの時間でもない。
夕方の一件で幹線の一本が一時通行止めになり、その余波で混雑していたハイウェイも、さすがにこの時間になると空いてきている。
パトロールがてらのような、ごく安全なファーマーの運転でも充分間に合って到着した。
前任者たちと挨拶を交わす。
アクターが大袈裟にしたせいか、おれが病院へかつぎ込まれたことがすでに同僚の間に知れ渡っていて、幾人かに心配顔で声をかけられた。
気まずい。
病院に運ばれたのは撃たれたからではなく、倒れたときの打ち所が悪かったからなのだ。自分の未熟と油断が招いた災厄だった。
自覚しているだけに触れてほしくはない。
ファーマーがおれに無線連絡を担当するようにと言って、その場から解放してくれたのはありがたい配慮だった。
おれはパトカーを路肩の、監視に都合いい場所に移動させて、そのままドライバーズシートで待機した。
どこを通ってきたのか、アクターが今頃になって、しかも本庁とは逆方向からやってくる。
おれにアップライトで挨拶をし、固まって引き継ぎをしている連中の方へ進んでいった。
ホバイクで近付くなんて、迷惑な奴だ。おまけに、わかっていてやっているのだから、なおタチが悪い。
叱られるのも、奴にとっては一種のコミュニケーションなのかも知れない。
アクターに追い立てられたかのように前任者たちが本庁へ戻っていき、この場にはおれとファーマーとアクター、それにCBIの刑事が三人だけ残った。
おれは無線担当をいいつかってパトカーの中、アクターは相変わらずぬいぐるみ好きな子供のようにホバイクにしがみついているし、路上で検問らしい作業をしているのはファーマーとCBIのふたりの刑事だけだ。
もうひとりの刑事は現場主任だとかで、車の中で暖をとっている。
その態度が気に入らなかった。
おれは拳銃を取り出して膝の上においた。
ファーマーがさっき言っていたとおり、今夜はかなり冷え込んでいる。弾道が狂わないか心配だった。
銃身が冷えているほど、発射時の熱の影響を受けて2発目以降の弾がそれやすい。鋼鉄の武器とはいっても繊細なものだ。
万一の事態に備えてエンジンは切っていない。だが、外の音を聞くためと、おれの息でガラスが曇るのを防ぐために、ウィンドウはいくらか開けておいた。そのせいで車内温度も外と大差ない。
無線担当という閑職を与えられて暇ではあったが、退屈はしなかった。
アクターがマイクを通してひっきりなしに喋っていたからだ。仕事に差し支えのない程度まで音量を絞って、それを聞いていた。
本部や仲間からの連絡があれば、ライトがついてわかるようになっている。アクターのおしゃべりは任務の邪魔にはならない。
アクターは独り言をいっているのではなく、明らかにおれが聞いていることをわかっていて喋っていた。ほとんど返事はしなかったが、アクターは気にしていないようだった。
奴が喋るのをやめたのは、検問を無視しようとしたトライクを追って全速で飛んでいってしまった間だけだ。
初めの二時間あまり、他に事件もなかった。
どこのゲートからも麻薬運搬人を捕まえたという連絡はない。
時間が時間だけに、車通りも少なく、ファーマーたちもただ待機しているといった感が強い。
日付の変わるころ、何を思ったか、現場主任がファーマーたちに一言二言、言い置いて持ち場を離れた。
しばらくして戻ってきたが、どうやら差し入れの食料を調達してきたらしい。
勤務態度で示さずに、そんなことで周囲の人気とりか。
おれたちの分も買ってきたらしく、ファーマーが届けてくれた。インスタントのカップコーヒーだ。
受け取りを拒否してその処置をファーマーに任せるのも悪いので、預かるだけ預かっておいて、カップホルダーに放置した。
ファーマーがおれの側を離れて、コーヒーをアクターに届けにいったときだった。ことが動きだしたのは。
ふたりの会話はアクターのマイクでほぼ掴めていた。
暗くした車内からは外の光景もよく見えている。
一台の車が検問に差しかかり、停車した。
MAX−7。プロの車だ。
高価な車だが、高級車ということではない。機能美はあるが、その機能はあくまでも実用本位で、ブルジョア志向の設計ではない。
MAX−7のメカニックデザイナーは優秀な工学博士だった。
だった、と言ったのは既に故人だからだ。MAX−7が彼の遺作だった。そのせいでオリジナルのMAX−7には相当なプレミアがついている。
そうでなくとも、性能のいい車だ。引く手あまたなのもうなずける。
過去に一度だけ、助手席に乗ったことがあるが、そのときはまだそんな車だとは知らなかった。ハイスクール卒業後の進路について悩んでいた時期だ…
話がそれた。
ともあれ、MAX−7に乗るのは、走ることによって生計を立てている者、走りの性能で左右される仕事にいる者、その中でもある程度の収入と自覚のあるプロだと言って差し支えない。
そして、車から降りて来た男は、まさにそういう男だった。
街灯の真下に立ったので、陰影の多い表情まではわからなかったが、容姿はよく見えた。
防御効果を重視したロングコート。シャツの下にもファイバースーツを着込んでいるだろう。
わずかに体側から浮いた左手が、ショルダーホルスターの存在を示していた。
銃撃戦を想定しての装備だ。おそらくハンター、それもハスラーだろう。ランドブラスターなら車から降りての戦闘を主眼にしたりはしない。
他のメガシティからの密輸を請け負ったり、派手に犯罪者を狩って賞金を得るハンターたちは確かに行政上、問題の種でもあったが、おれは別にハンター制度を廃止すべきだとは思っていない。
企業社会の秩序による束縛が嫌いで、その生き方を選んだ者もいる。スラムに生まれ、企業社会に受け入れられなくてハンターをしている者もいる。
自分が生きる手段としてハンターになった者もいるし、別の目的の手段として----例えば誰かを守るために、ときには世の中をよくしたいという理由で身をおいている者もいる。
警官となんら変わるところのない使命感でハンターをしている者もいるのだ。
少なくとも、そういう人間をおれはひとり知っていた。
今、検問にかかっているハンターがそういう類いの人間なのか、それとも単なる戦争屋なのかはわからない。
それでも用心だけはしていた。
ハンターである以上、彼が戦うことを恐れない人間で、しかも、現在、戦える状態にあることは明白だったからだ。
かなり背の高い男だと思ったが、隣にいるのがアクターだったからそう見えただけかも知れない。それでもファーマーよりは上背がある。
いくらかくせのある、適当に切っただけのような黒髪は、どこかアクターに似ていなくもない。
ひとなつこいアクターはさっそく話しかけて、職務質問がてらにMAX−7のことを聞き出している。
職務質問がてら、というよりはMAX−7の話をしながらついでに身元確認もしているだけだ。奴の興味の優先順位なら間違いなくそうなる。
搭載火器検査の許可を得て、アクターの姿がMAX−7の中に消えた。
ハンターは自分のMAX−7に警官が乗り込んだことを気にかける様子もなく、むしろ素直に場所を明け渡して、車のわきに立つ。
その動きが気になった。
彼の立った位置と視線。どこかに意図的なものが潜んでいる。
ちょうどファーマーが、別の車の検問のためにその場を離れたので、ついそちらを目で追ってしまい、監視の目が疎かになった。
新たに検問で留められたリムジンの運転手とファーマーの間で短いやり取りがあり、リムジンの乗客が降ろされた。
毛皮をまとった女と初老の男。どちらも見覚えはないが、いわゆる「社会的に認められた」地位の男と、その連れであることはわかった。
そういった連中とはできることならかかわりあいたくはない。おれのことに気づく奴がいるかも知れないからだ。おれは今の生活が気に入っている。それを乱されたくはない。
リムジンから降りたふたりの息が、たちまち白い柱になる。女が、胸元に何か隠しているのではないかと疑いたくなるようなポーズで男の腕によりすがっている。
見ていたのはそこまでだった。
視界の端でかすかな動きを捕らえ、おれは即座に向き直った。
ハンターが右手をコートの内側に隠す。
次の動作は正確に予測できた。
抜き撃ち。
マイクにかすかな声が入って、アクターもハンターの動きに気づいたことが知れた。
わかっているのに、ふたりともが銃のセイフティを外している暇もなかった。
早い。
凍えた空気の中に、阻止できなかった一発の銃声が響いた。
リムジンの傍らに立っていた男が、ふいに何かに叩かれたようによろけて倒れる。
頭部に被弾。ここからだと、血の吹き出すさままで見えた。
MAX−7から飛び出したアクターが叫んで、ハンターに銃を向ける。緊張した息遣いがマイクを通して伝わってくる。
ハンターは黙って自分の銃をホルスターに戻した。そのシルエットは銃身の短いリボルバーのもの。コンバットドロウに向く銃となれば種類は限られてくる。
ハンターが銃を収めたことで、アクターがかすかに安堵の息をついた。
その気配を耳に感じながら、おれは全開にしたウィンドウの向こうにハンターを照準していた。
出遅れたとはいえ、セイフティを外し、いつでも撃てる状態にするに充分な時間は経過していた。
アクターの一瞬の気の緩みを見てとったように、ハンターがアクターの銃を上から押さえ付ける。
あれだけの射撃をしてみせる男だ。多分、同時に撃鉄の間に指を挟むかシリンダーを固定したかで、確実に弾丸が発射できないようにもしただろう。
アクターがやられるとは思わなかったが、というより正確には、このハンターがアクターに攻撃を加えるようには思えなかったが、おれは銃をホールドしたままにした。
自分の銃を押さえられたのにも関わらず、アクターが身体の力を抜いた。
諦めたのではなく、むしろ安心したかのように。
不可解に思ったのも束の間、女の悲鳴とタイヤの鳴る音が重なった。
思わず振り返ったが、女の姿は確認できなかった。
走り出したリムジンが猛スピードで目の前を駆け抜けようとしている。
迷わずタイヤを撃ち抜いた。
造作なかった。
リムジンは殺しきれなかったスピードだけで滑っていく。
予想通り銃身は熱くなっていた。
目をあげたとき、一瞬だけハンターと視線が交錯した気がした。
当然ながら今の発砲で奴に認識されてしまったわけだ。
マグナムを膝の上に戻して、視線だけを向け続ける。
ハンターはそれを確認すると、アクターから離れ、元の姿勢に戻った。
そのときおれは、おれが奴に向けて発砲しようとしたら、奴はアクターを盾にできたのだと気づいた。最初から計算の上でその位置に立っていたのだ。
舌の上に鉄の味がした。
ハンターはもうおれの方は見なかった。目の前にファーマーが詰め寄ってきていたからだ。
忘れかけていたが、奴はたった今、ひとりの人間を射殺したのだ。その場にいる警官が見過ごしておくわけにもいかない。
おれは口をはさまずに、このままでいることにした。
相変わらずスイッチを入れっぱなしのアクターのマイクで事情は掴める。
アクターは、ハンターが「ファーマー巡査長を撃とうとしているように見えた」と言った。
おれの位置からではそうは見えなかったのだが、ともあれ、これでアクターの心の動きが理解できた。
ファーマーが狙われたと思ったからこそ、アクターは得意でもない銃を構えて敵意をあらわにしたのだし、ハンターにファーマーを害する意志がないとわかったとたんに気が抜けたのだ。
どちらかと言えば目の前のことに必死になってしまう、奴の性格が如実に現れている。
唐突に、おれが撃たれたときの奴の反応も想像できてしまった。
ファーマーとハンターの間では法解釈の問答が行われている。
ハンターは法に守られる側の人間ではないが、警官と同じく犯罪者に対する公的傷害権を有している。そのハスラー相手に、殺人法の適用は困難だろう。殊にファーマーは法の番人ではあるかも知れないが、法を都合のいいようにねじ曲げる弁護士ではない。
案の定、ファーマーはハンターを拘禁することはできなかった。
ハンター制度に賛同していないファーマーのことだ。内心は穏やかでもないだろう。だが、あくまでも公平に振る舞っていた。
ハンターはMAX−7に乗って立ち去る。
アクターはもう気を取り直したのか、軽口を叩いて見送っている。ファーマーが無事なら、目の前の殺人の方はどうでもいいらしい。
おれは車を降りて、銃をホルスターに収めた。
部長刑事とやらが、死体の前で呆けたように立ち尽くしている。CBIの刑事が死体に動揺するとは、現場を離れて随分たつのか。
無視して、ふたりの方へ歩み寄った。
向こうから駆けてきた刑事が、リムジンの乗員が麻薬らしきものを所持していたと報告してきた。
もうひとりの刑事はクラッシュしたリムジンから助け出した運転手と女を保護している。正確には、逮捕のために見張っている。
「本部に報告しますか?」
おれはファーマーに聞いた。
「ああ…」
ファーマーの顔はうつむけられたままだ。
アクターと視線があい、奴の黒い目が心配そうにしばたたかれるのを見て、おれは、ファーマーが余計な考えをもつ前に言っておいた。
「自分が間違っていると思うんですか?」
「…間違いではない。でも、手落ちはあったと思う。理由はどうであれ、ひとりの人間を死なせてしまった」
「それは手落ちではなく、手違いでしょう。我々は任務は果たしました。
あのハンターも彼なりの仕事を果たしたにすぎない。
結果として、麻薬が第二級保安区に運び込まれる前にそれを阻止できて幸いです」
ファーマーが顔を上げた。その頭がかすかに傾ぎ、うなずく。
本心から納得はできないのかも知れない。だが、自分の立場を理解しない人ではなかった。
「本部に報告をお願いする」
おれは承知した。
◇ACT−5 トビア
そとへ出た。
あまりとおくへはいきません。
お母さんとやくそくしたから。
お母さんはうちの中にいればいいのにとおもってるみたい。でもぼくはそとのほうが好きです。
ママといたころはいつもそとだった。だから、そとは好きだけど、ママは車にひかれて死んでしまいました。ぼくはぶつからなかったから死んでいません。だけど、ぼくは大きな車はこわいです。
でもお父さんがくれた小さな車は好き。
小さいからのれないけど、うんてんできます。でも、いまはちょっとこわれたから、おやすみ中です。お父さんにもなおせませんでした。
うごかなくてもぼくは好きです。
お父さんがくれましたぼくの車です。
お父さんはじぶんの車をもっています。大きな車です。いつもガレージにしまってあります。 お父さんがやすみのときは、のってみんなでおでかけにいくこともあります。だから少ししかこわくない。
ママが死んだとき、お父さんがすぐにぼくのところにきてくれました。ずっとぼくのそばにいました。
それからびょういんにつれていかれて、だれもしらない人ばかりでした。そうしたらまたお父さんがきて、うちにつれていってくれた。
うちでお母さんにあいました。お父さんとお母さんになってくれたからぼくはいっしょにすんでいます。
お父さんとお母さんはぼくのほんとうのママじゃないです。でもかぞくです。かぞくということばは、好きです。
ぼくのなまえはトビアといいます。
お父さんはけいさつ官です。車にのっていきます。
だけど、まえにうちにきたおきゃくさまもけいさつ官だったけど、車にのっていませんでした。
「俺は車よりこれがいいの」と言って、ぼくに小さいバイクをくれました。
うごかないバイクです。だけど、ときどきぼくがきょうそうさせます。
いまはへやにあります。ぼくの車だけもってます。
そとにはだあれもいない。
どうろが大きいから、ぼくの車はいろんなところをはしります。
じめんにおくと、車とかげがくっつきました。スピードをだしても、すこしおくれるだけでついてきます。ぼくの手のかげもくっついています。
手をはなすと、ぼくのかげと車がはなれました。
車はひとりでうごいています。
なおったのじゃなくて、どうろがさかになってたから。
どこかへいってしまう。
止める。
止めなくちゃ。
ぼくが止めなくちゃ。
はしりだしたら、きゅうに大きなおとがした。
パアアン、って耳がいたくなるようなおと。
車。大きな車がはしってました。
こわい。
こっちに、はしってくるからこわいです。
ぼくの車がぶつかっちゃう。
だめ。
お父さんがくれたんだから。
おまえはうちの子だよって。さいしょのいちねんのきねんに、そして、これからもずっといようって、お父さんがくれたんだからっ。
ぼくの車なんだからっ
おっかけて、手がとどいた。
だきしめた。
でもひかれるとおもった。
ひかれる。ぶつかっちゃう。
お父さんっ----
…でも、ひかれなかった。
大きな車もとまってました。ぼくのすぐうしろで。あかい車。
男の人がおりてきた。
おこるとおもった。男の人はおこってました。
つきとばされたので、ぼくはしりもちをついてしまいました。
ぼくは立ちあがって、車をおとさないようにちゃんともちました。
男の人がこっちをむいたらあやまろうとおもってまってました。
しゃべるときは、ちゃんとあいてのかおを見なくてはなりません。
だけど、男の人はおこっていたけど、へんでした。
お父さんがぼくをおこるときは、ちゃんとわかる。でも、この男の人だとわからなくなりました。
ぼくのわるいとこでおこらないで、ぼくのわるくないとこでおこっている。そうおもいました。
だから、ちゃんとなるまでまっていました。
そうしたら、男の人がぼくをぶとうとしました。
ぶとうとしたけど、できなかった。
さかのしたのほうからきた人が、男の人をとめてくれたからです。
かおをうえむきにしてみる。
お父さんではなかったけど、大きいお兄さん。
おとがして、男の人がさっきのぼくみたいにしりもちをついてしまいました。
お兄さんがぼくのかたに手をおきました。
なにも言われなかったけど、よばれたのがわかって、ぼくはふりかえりました。
すぐにふわりともちあげられました。
「ケガは、ケガはないか…?」
小さなこえできかれました。
ぼくがケガをしていたら、お兄さんはものすごくこまっていたくなりそうなききかたでした。
ぼくはおどろいた。
おどろいたけど、ちゃんとこたえました。
うなずいたとたん、お兄さんのからだから力がぬけるのがわかりました。ぼくをおっことしてしまうほどではなかったけど。
きっとあんしんしたのです。ぼくもあったかくなりました。
うしろでころんだ男の人が立ちあがっておこりました。ぼくじゃなくてお兄さんのことをおこっているみたいでした。
どうしてそんなふうにするんだろう。
ぼくがせなかをのばして男の人をじっとみると、お兄さんはぼくをすこしうしろにしました。
じぶんがあいてをするから気にしなくていい、と心ではなしてくれているのがわかります。ぼくはお兄さんのみかたです。
お兄さんは男の人のふくをつかんで、男のひとを目のまえに立たせました。ぼくとお兄さんの目のまえに。
男の人はぼくより小さいでした。
兄さんが男の人の目をちゃんとみてはなしをすると、男の人はいいわけをしてにげようとして、またころんでしまいました。
お兄さんがすぐにまわれみぎしてあるきだしたので、ぼくはちゃんとみてなかったけど、男の人がおっかけてきて、お兄さんをぶちました。
ぼくはおっこちそうになったけど、お兄さんがちゃんととめてくれました。
お兄さんはふりかえって、男の人があやまるのをまったけど、男の人があやまらないで手をふりまわしたので、お兄さんは男の人のかおをたたきました。血がでました。
ちょっとだけだったけど、血がでてしまったので、男の人は手あてをするために、じぶんの車にかえりました。
ぼくもそのほうがいいとおもいます。
血がでるというのは、ケガをしています。ケガをしてしまうといたかったり、お父さんやお母さんがしんぱいしてしまいます。
男の人がだいじょうぶだといいとおもいます。
お兄さんもぶたれてケガをしていないといいけど。
お兄さんのせなかをみようとしたら、お兄さんがぼくをおろしてくれました。しゃがんでおろしてくれました。
車と男の人がいってしまったので、ぼくがあぶなくないときめてくれたのだとおもいます。
ありがとうと言うと、お兄さんはあたまをなぜてくれました。
それから、ぼくの車をみて、うなずいてくれました。
お兄さんはぼくと小さい車を、りょうほうあぶなくないようにしてくれたんだ。お兄さんはわかっていたんだ。
ちゃんとだいじょうぶだったよって、みせてあげました。
お兄さんはたしかめて、それから、ぼくに「でも、道路で遊ぶときは、もう少し気をつけよう」と言いました。
おこってたんじゃなくて、ちゅういしたのでもなくて、ぼくといっしょにかんがえてくれたんです。
お父さんときめるやくそくとおんなじです。このやくそくもぼくはまもります。
やくそくをしたあと、お兄さんが、ぼくのお父さんにようがあってきたのだと言いました。
お兄さんがお父さんのとこにきてくれてぼくはうれしいです。
きょうはお父さんはしごとにいっていて、まだかえってきていないけど、お母さんがいるからせつめいしてもらえます。
お兄さんの手をひっぱると、お兄さんは立ちあがりました。
「ありがとう、坊や」と言われたので、なまえをおしえてあげました。
「ありがとう。トビア」
お兄さんはもういちど、言いなおしてくれました。
ぼくとお兄さんはうちまで手をにぎってあるきました。ぼくはゆっくりあるきました。好きだったからです。
げんかんでピンポンすると、お母さんがこたえてくれました。
ぼくはじぶんのカギをもっていないけど、お母さんがいつもうちにいるからだいじょうぶです。
おきゃくさまがいることを言うと、お母さんがすぐにそとにでてきました。
いつもうちのなかのテレビでそとがみえているので、お母さんがこんなにすぐにでてくることはすくないです。
お兄さんがぼくの手をはなして、お母さんのところへいくように言いました。
ぼくが言われたとおりにすると、お母さんはぼくのかたに手をおきました。その手がぎゅっとつよかったので、お母さんがなにかしんぱいしていたのがわかりました。よくないことだったらいやです。
お兄さんとお母さんがおはなしして、そのうちにお母さんがあんしんしたのがわかりました。
お兄さんがもんをとおってうちに入ってきました。
ぼくがお兄さんのところへもどっても、お母さんはこんどはしんぱいしていませんでした。
「トビア。お母さんは今からお茶の支度をするから、その間、お客さまのお相手ができるかしら」
お母さんはぼくにできないおてつだいはたのみません。だから、ぼくはできると言いました。
お母さんはお兄さんにも言いました。
「トビアにお願いしましたわ」
「トビアなら」
ぼくは立っていただけだけど、からだのまんなかがあっつくなりました。
お兄さんはぼくでもできるんじゃなくて、ぼくならいいと言ってくれます。
だから、ぼくがちゃんとやります。
ぼくはお兄さんをひくいテーブルのへやにあんないしました。ソファのあるおきゃくさまようのへやです。げんかんのそばにあります。
お兄さんがソファにすわったので、ぼくもとなりのソファにすわりました。ソファにすわると、ぼくは足がつきません。
すわってお兄さんのかおをみたら、お兄さんもぼくをみて「その車をかしてみせてくれないか」と言いました。
ぼくはわたしました。こわくはありませんでした。
お兄さんはなにかむずかしいことを言って、それから手でかっこうをしてみせました。すぐに、うんてんのそうちのことだとわかりました。
ぼくはうんてんのそうちももってきてわたしました。
うんてんのそうちをつかっても、はしらなくなってしまったのだけど、お兄さんはしっているようでした。
「修理の道具があるかな」
お兄さんがいいました。ぼくはうちのどうぐばこをはこんできました。
お父さんもやってみたけど、こしょうのげんいんがわからないと言っていました。げんいんがわかったら、きっとなおります。
ぼくはソファにすわらないで、クッションにすわりました。ゆかにすわっていたほうが、よくみえます。
お兄さんはいっしょうけんめいしらべてくれました。ぼくもずっとみていました。
チッチッという小さなおとがするたびにどきどきしました。
お兄さんもぼくもいっしょうけんめいにしていたので、お父さんがかえってきたのに気がつきませんでした。
お父さんがへやに入ってきて、ぼくをよびました。
ぼくがかおをあげたとき、お父さんがいま、とってもおどろいているのがわかりました。
まえに、お父さんのたんじょう日に、ぼくとお母さんでつくったプレゼントをあげたときみたいに。
ぼくは、お父さんがおどろいたのは、お兄さんがいたからなのだとわかりました。
お父さんがぼくに「おいで」と言いました。
立っていこうとしたら、お兄さんがぼくをよんで、車をかえしてくれました。お兄さんはなにも言わなかったけど、ぼくにはこしょうがなおったんだとわかりました。
ありがとうと言うと、お兄さんがうなずいたから、ぜんぶなおったのだとおもいます。
お父さんのところへいくと、お父さんはいつもみたいにあたまをなぜてくれて、それからぼくに、お母さんのてつだいをしてほしいと言いました。
きっとたいへんなおはなしをするのです。お父さんのしごとはたいへんなしごとだからだとおもいます。まえにもしごとのおきゃくさまがきて、ぼくがねたあとまでおはなししてたことがあります。
ぼくはお父さんがお兄さんといっしょにおはなしできるように、お母さんのところへいきました。
車をテーブルのうえにおいて、おてつだいのじゅんびをしました。
はこぶおてつだいをしました。
ぼくはどうぐばこをかたづけていなかったけど、お父さんとお兄さんがすわってはなしあっているので、あとでかたづけることにしました。
キッチンにいって、お母さんとおかしをたべました。お母さんのつくったおかしです。ぼくもときどきてつだいします。
ごちそうさまして、それから車をはしらせてみました。
なおっていたのでお母さんがおどろいていました。でもよろこんでくれたので、ぼくもまたうれしくなりました。
そとにいってはしらせたいとおもったけど、そうするとお兄さんがぼくのいないあいだにかえってしまう気がしました。大きい車もくると気をつけないといけません。
だから、げんかんのすぐそこではしらせることにしました。
ずっとうんてんしていなかったので、ちょっとわすれていました。ちゃんとできるまでれんしゅうしていたら、お父さんとお兄さんがでてきました。
かえっちゃうみたいです。
お父さんはいつもとおなじでした。おしごとがたいへんだとおもってたけど、だいじょうぶになったみたいです。お父さんもお兄さんもだいじょうぶみたいでよかったです。
お兄さんはぼくのあたまをなぜていってくれました。
お父さんがしゃがみこんで、ぼくの車を手にとりました。
お父さんは、いま、ぼくの車がなおっていることに気がついたみたいです。
お父さんは車をもったままふりかえって、なにか言いかけたけど、ぼくはお兄さんがもうかえってしまったのをみていました。
お父さんはぼくのほうにむきなおってすこし笑いました。
ぼくもうなずいて笑いました。
お父さんもお母さんもお兄さんが好きでよかったです。
お兄さんにあえてよかったとおもいました。
◇ACT−6 ジョーカー
デュークが帰ってきた。
その知らせを、私ほど複雑な思いで受け取った者もいないだろう。
六年だ。
私にとっては、執行猶予にも似た六年だった。
いつかは必ず来る審判の日を、私はかすかな不安とわずかな期待と、そしてひとつの確信をもって待っていたように思う。
デュークが帰ってきた。
知らせを受けて出向いたが、すれ違いになって会えなかった。六年を経て、まだ私はシシュポスの失望に捕らわれている。
坂の上に丸い岩を留めておこうとする地獄の亡者の伝説。叶うはずのない望みを諦めることもできず、永久に虚しい努力を続けている。転げ落ちる岩のスピードに追いつくことができれば、その前に身を投げ出すこともできるだろうに。
身を焼く焦燥。
デュークがこんなに近くにいるのに、会えない。
人に託して、私は彼に現住所を伝えた。
私たちが平和で幸せな時間を過ごしたあの家に、私がもう住んでいないことを、彼はどう受け止めただろうか。
私がこれだけ迅速に彼の帰還を察知したことを、彼はどう感じただろうか。
ともあれ、彼が私に連絡を寄越さなかったことだけは確かだ。
おそらくは、故意に。
その翌日の夜、私は彼に会った。
彼は麻薬のプラント工場を炎の下に沈め、その中からひとりの少女を助け出してきたところだった。少女を救い、激しい戦いを終えて、傷つき倒れていた。
私がその場に現れることは彼の計算になかっただろう。わかっていたら、気を失った無防備な姿など晒さなかったに違いない。
それが、私にとって六年ぶりの再会になった。
目覚めていれば、六年の歳月と、そしてそれ以上のものが彼を変えていることが知れただろう。
だが、彼の目はかすかな憂いをにじませたまま、夜に対して閉ざされていた。
だから私は、昔のままの彼に触れることができたのだ。最初で最後の恩恵のように。
三日後、彼が私のオフィスへ訪ねてきた。
彼にとっては、それが六年ぶりの再会だった。
彼の知らない六年間を生きてきた私と、その私が経営するハンターオフィス。
そのどちらも彼に誇り得るものではない。
そして、私たちは契約を結んだ。
ハンターとブローカーとしての、正式な契約を。
契約! あの私たちが、もはや契約という形でしか対等に向き合うことができないとは。
事実として突き付けられたときは、さすがに胸が痛んだ。だが、覚悟はしていたのだ。
六年前のあの日から、彼が私を許した日はないはずだ。
だから。それしか方法がないのなら、彼を私につなぎとめておくためなら、契約でも宣誓でも、どんなことでもしよう。私はそう決めたのだ。
あなたの目的のために私を利用してほしい。私をいくら憎んでも手放せないほど、有能になってみせるから。私はそのために六年間、準備と努力をして過ごしてきたのだ。そのためだけに、と言ってもいい。
あなたを助けたい。あなたに認められるだけのものを私は手にしてみせる。
あなたの欲しがる切り札を。
そう自負する心のどこかで、私は怯えてもいた。
彼はいつだって、やすやすと私の思惑を越えてしまう人間だった。毒にも薬にもならないと宣言されて、無視されることを私は恐れていた。
それゆえに、『B』に関する作戦を打診されたとき、私は内心、焦がれるような歓喜に痺れていたのだ。
彼が私を引き入れた。彼の戦いの幕開けに。
彼らのための復讐の、その始まりに私が参加していること。
彼がその意味を思わなかったはずはない。
私の、彼らへの行為を許したわけではないのはわかっている。
彼は作戦の効率的処理と私への柵を比較して、私を利用する方を選んだのだ。
だからこそ、私は全力をもって作戦の成功に努めるだろう。
ただ私が彼を欲するゆえに、私は彼のために働くのだ。彼が私を利用しようとするように、私はこの事態を利用する。
これは、彼らの想いに殉じることができなかったことへの償いではない。デュークの許しを請うためでもない。私は過去には縛られたくない。
できうれば、デュークにもわかってほしい。
私が諦めてはいないということを。
あなたの心を取り戻したい。
私は六年、待ったのだ。
何かが変わらなければ私たちの関係も変わらないことはわかっている。その「何か」が「過去」ではないことを私は祈りたい。
『そっちの動きはどうじゃ』
前触れもなく、無線がクリアな音声で伝えてきた。
《ワイルド・ギース》の怪老だった。
ふいに自分がどこにいるのかを思い出す。
また「あのこと」に心を奪われてしまった。作戦の最中だというのに。
眉間が痛い。私はきっと、自分でも嫌いな表情をしていた。
面と向かっているならまだしも、無線を通して私の表情がわかるはずもないのだが、思わずスピーカーから顔を背けた。
当人がいないとわかっていても安心できない気がするのは、この老人相手の場合、根拠薄弱な錯覚とも言えない。
「北米最高の情報屋」と敬称を奉られた小さな巨人。
彼はデュークとは昔馴染みだった。そう、必然的に私とも。
あの小さな店のスツールに座ったこともある。あのときはショーンが私たちふたりを連れていってくれたのだったか。
デュークが街を去ってからは疎遠になった。その程度の関係、といえる。
彼らのいないあの店に自分から足を踏み入れる気にもなれなかった。行ってみたところで、オールドギースの方にも私を歓迎する気持ちがないのは先日わかった。
だが、デュークを介して私たちはふたたび会いまみえた。
デュークが情報屋として、作戦の助言者として、そして彼の長い闘いの語らない証人として、オールドギースを選んだからだ。
デュークの帰還を待ち侘びていた私の目先を擦り抜けて、彼はオールドギースを頼ったのだ。
それだけでも、私にとってはどれだけの痛手だったろう。
今も昔も、デュークは「オールドギース」に全幅の信頼をおいている。
私の「腕前」を信用するように。
私とデュークとオールドギースの関係を端的に言い表すと、そういうことになる。
デュークは私に作戦の一端を担わせた。だが、私は情報を解析し提示するだけの存在で、彼は決して私と共に戦ってはいないのだ。
わかっている。本当の意味で、彼と私が共に戦うことなどできないのだと。それはすべて私のせいだ。
彼に作戦の支援を要請された瞬間でさえ、喜びの底にさす影があった。心のどこかで私は不安だった。
彼が私を許したのなら、私の「あの行為」を容認したことになる。私が自分を許せないでいるあの行為を。
あの行為と共に許されるのは、きっと「私」ではない。
私は許されたいと思いつつ、あの行為を責められなくてはならないという自己矛盾を抱えている。
私はいつだってふたつの思いに引き裂かれてきた。
事情を理解して選んだはずの「最善の道」がいまも私を悩ませる。納得したことと望んでいることは違うから。
だが、結局どちらを選んでも、私はもうひとつの叫びを無視することができないだろう。
それがデュークと私を根本的に分けたものかも知れない。私は結果を選び、彼は生き方を選んだ。
それがすべてだ。
いくらか長すぎる間をあけてしまった。まだ無線が繋がっていることを確認する。
いつもの調子でオールドギースに応えた。意図的にしているわけではないのだが、言葉の完璧なイントネーションが、かえって感情をベールの奥に隠して聞こえるらしい。
だが、つかみどころのなさでは相手もいい勝負だった。
『あまり余裕はないぞ』
そう言ってよこしたオールドギースの言葉に、不安はみえない。
私にも不安はない。作戦に対する不安は。
だから私は応えなかった。応えず、首を巡らせた。
車の中から見える建物。ネオ・アップルに生まれ育った者なら誰でも知っている建築物だ。
警察庁舎。
デュークは、今夜の作戦遂行のために警察を動かすと言った。そのためにひとりの警官の協力を仰ぐと。
私には、彼が警察を利用する、ましてや協力を頼むなど信じられなかった。
あのデュークが、だ。
彼の中では何が重要なのか、ときどきわからなくなる。目的のために手段を選ばないように思えてしまうことがあるのだ。
相手が警官ということで、私は過敏になってしまっているのかもしれない。
過敏? むしろ、嫉妬かもしれない。
外気を受けて冷たいウィンドウに手のひらを触れてみた。
かろうじて雲を零れた薄い日差しは、路上にたどりつくころには死に瀕している。ぬくもりを感じるなど無理だ。
目の前を一瞬、視界を遮って車が走り抜け、門をくぐっていった。
車種、ナンバーに記憶がある。
「彼はHiPの巡査長(サージェント)に協力を依頼すると言っていませんでしたか」
『違いない』
「その方のスピード違反を確認しましたよ」
もう一度、庁舎を見る。サージェントを見送るためではない。私が待っているのは、別の警官だ。
やはり、作戦に「協力」してくれるであろう一人の警官。
デュークの「サージェント」と会わせるわけにはいかない。
「協力」者のデスクの電話に、匿名で情報を流してやったのはもう五分も前だ。
どんなに物分かりの悪い男でも、自分の内通がばれたことは理解したはずだ。すぐに逐電しなければ破滅だということも。
彼は私の予測通りに動いてくれるだろう。
予定外なのは、あのサージェントだ。デュークの見込んだ相手が優秀すぎて作戦の足をすくうようなことにならなければいいのだが。
今、ラディンがサージェントに逮捕されては困る。うまく抜け出して来い。
事の成否が、自分の手を離れたところにあるという状態はもどかしい。さすがに警察のコンピュータに侵入して、大々的に脱走の手助けをするわけにもいかない。
かすかな苛立ちを感じかけたとき、ダッシュボードの受信機が反応した。
猛スピードで飛び出してゆく車がある。発信機をつけたまま。
「いらっしゃったようです。こちらも動きます」
『うむ』
追っ手があればまずそちらの対処をしなければならならない。だが、今のところまだその気配はない。
警察無線は随時、傍受していた。警察が使っているのと同じ受信機を入手してあるので、盗聴防止のスクランブラーは問題にならない。
発信機の有効範囲内で怪しまれない程度に距離をおいて、尾行を開始した。
警察にいられなくなったラディンは、タルカルコスを頼って身を隠そうとするはずだ。むろん、タルカルコスはラディンを見捨てるだろうが、タルカルコスの隠れ家まで案内してもらえれば、私の方も彼に用はない。
相手がかなり後方を警戒しているだろうことを考慮して、途中でオールドギースの車と尾行を交替する。
私は一旦、《ワイルドギース》のあるクライスラーズビルに戻り、地下駐車場で車をかえた。
輸送会社の偽装を施したカーゴだ。
今夜の作戦に必要な機材がすべてそろっていることをもう一度確認してから、私はドライバーズシートについた。
ドアを閉めた瞬間に、いつの間にか助手席に乗り込んでいた相手に気づいた。
不意をつかれてまる一秒は動きが止まる。
「出さないのか」
「いいえ」
我ながらつまらない返事だ。
エンジンを始動させてカーゴを発進させた。
デュークは腕を組んで目を閉じたまま、何も言わない。
それは今のところ、計画の進行に何の問題もないということだったし、今夜の作戦に彼の愛車が必要ないことも、ブリーフィングのときに告げられていた。それでも、彼が私の隣に座っているということが何か異常な事態に思えてしまう。
そうなのかもしれない。
我々の計画で唯一うまく機能していない部分があるとすれば、それは私とデュークの仲だろう。
私のアンヴィバレントな感情。デュークの頑なな思い。
私は、彼が闘い、傷ついて戻ってくる度に、その姿を苦痛に思って見つめることになるだろう。
彼の痛みを思って感じる苦痛。彼がその傷にもかかわらず、あくまでも闘い続けようとする理由がわかってしまう苦痛。そして、彼がどんなに傷ついていても、私の腕を拒むことの苦痛。
断ち切りたい。
あなたと私とをでなく、私とあなた以外のすべてのものを。
もし今、すべてを無に戻すことができるのなら…シシュポスの岩を放り出すことができるのなら。
その方法があるのなら。
ふいに腕をほどき、デュークがハンドルを掴んだ。
ビルの壁がミラーをかすって遠ざかる。すんでのところで衝突を回避し、車は道路の中央に戻った。
「できないのか」
低く押さえられた声が私の心臓を鷲掴みにした。
何が、と心が訊きたがっている。
まともな運転? 作戦の遂行? それとも、ふたりで死のうとしたこと?
「大丈夫です」
小さく囁いて、カーゴを運転しつづけた。二度と危険な仕草は見せなかった。
麻痺している心の片鱗も。
◇ACT−7 ジュゼッペ
僕たちはビリヤードルームにいた。
サイドテーブルの上にはつまみと合成酒、それに灰皿があったけれど、僕が手にしたのはキューだけだった。
煙草は母さんが嫌がるから吸ったことがないし、酒は飲めないことはないのだけれど、まだ大人たちが言うようにおいしいとは思えない。
もちろん、誰もドラッグはやってなかった。僕の父の家でそんなことをする者はいない。
今夜ここに集まったのは、ファミリーの友人たちだった。
専属弁護士の息子ニコラや、母方のまた従兄弟バルトロメオ。ナイフで斬られた傷を、皮膚移植もしないで残している集配人のミゲル。父が僕につけたボディガードのカンザスとドレイク。
私立学校でのいわゆる「血統のいい」学友たちとは別に、僕がいわば身内の彼らと付き合うことを、父は歓迎している。僕が理想を口にするだけの実のない男にならないための、それが一番の近道だとわかっているのだろう。
父さんは僕にとってひとりきりの、尊敬に値する父親だ。だが、父さんはファミリーみんなの父親でもある。あの人はそれを忘れることはできないし、僕も忘れない。
時折、叔父やファミリーのソット・カポたちに将来のことを聞かれる。あんたは大学へ進むそうだが、マフィオーゾは嫌いなのか。
僕は「マフィアになりたい」とは言えない。だが、父さんのような男にはなりたい。
父になにかをしてもらったという思い出は少ない。けれども、父は偽らない自分を見せてくれた。与えられなくても、僕はそこからいくらでも学ぶことができた。
僕は自分の父を誇りに思っている。誰にいつ問われても、僕はそう答えられる。
「ジュゼ、あんたの番だ」
ミゲルがサスペンダーをはじきながら言ってよこした。
僕は自分のキューを持ち、テーブルを回る。
グリーンの上に伏せるように身をかがめて、白いボールを狙う。
その瞬間だった。
ふいに照明が落ちた。
「ちっ、また停電か」
「磁気嵐が近づくといつも…」
ニコラがくわえたタバコの火だけが魔法の棒のように灯っている。
僕はテーブルに片手をかけたまま、かすかな違和感を感じていた。
この屋敷には停電に備えた蓄電設備がある。もう補助灯に切り替わってもおかしくない時間が経過している。
「カンザス…」
様子を見にやらせようとしたとき、ガラスの割れる派手な音がした。
すぐ上の階。
つづいてこの部屋のガラスが砕けた。
なにかとてつもなく大きなものが飛び込んで来た、それだけは視認できた。
とっさに座り込んでテーブルの陰に身を潜ませる。
かすかな悲鳴と椅子の倒れる音を聞いた。続く誰何の声も銃声もせず、作り物めいた沈黙がおりる。
どうなっているのか。なにがあったのか。襲撃側の人数も、こちらの状態もいっさいわからない。わかっているすれば、それは相手がプロだということだろう。襲撃される心当たりは僕にはなかったが、マリオ・ヴェツィーニの息子としてなら話は別だ。
僕は部屋の中の配置を思い出してみた。ドアまでたどりつけるだろうか。たどりついても逃れ出ることができるだろうか。手にしているのはビリヤードのキューだけだ。
息を殺して相手の気配をさぐる。
かすかに軋る音。一体どこに----
不意に肩に重さがのしかかった。堅い感触。機械の指。
顔を上げた。
闇に慣れた目に、窓の外から差し込む薄明かりの中、かすかに浮かび上がった直線的な人型が見えた。
フルボーグかオートプロテクターか識別できないが、全身を鋼で鎧った姿だけはわかった。
不気味な無反射レンズが顔の部分にあって、僕を見下ろしている。熱源探知機、IRビジョンの類だろう。
咄嗟に手の中のキューを突き上げ、そのレンズを砕いた。床に転がってドアの方へ身を投げかける。
考えてとった行動ではない。ただ、流されるように身体が動いた。
ノブへ延ばした手のすぐ側で何かが弾ける。銃弾か。
身を引く。
敵はいったい何人いるのか。
いらだたしいような焦りを感じた。僕はこんな場面に慣れていない。どうして自分の力で切り開くことができる?
側面に聞こえた物音に、僕はキューをふるった。動かなければもたない、そんな焦りがあった。
キューが椅子を突き倒す。そして僕の首筋に金属の筒のような感触が触れた。
銃口、と思った直後、僕の感覚は弾け飛んだ。
多分あれはスタンスティックだったのだろう。そう気づいたのは裸電球の吊るされた部屋で目覚めてからだった。
首筋が引きつるように痛かった。電撃のせいというよりは不自然な姿勢のせいだと思う。
僕は背もたれのついた金属製の椅子に、後ろ手に縛り付けられていた。
固定された窮屈な姿勢で肩越しに振り向くと、バルトロメオとミゲルがいるのがわかった。自由のきく範囲が限られているので見えないが、僕の真後ろにいるのがニコラだということもわかった。四人が背中合わせに縛り付けられているのだった。
カンザスとドレイクの姿はない。僕は彼らのことを心配した。
部屋はあまり広くはない。窓は見当たらない。地下室なのかも知れないと思った。空気が湿った感じがするからだ。
僕は三人の名前を呼んだ。二度目でバルトロメオが応えた。今、目を覚ましたところらしい。それではこの事態に関する情報ももっていないだろう。
バルトロメオは正気づいて狼狽したのか、すすり泣き始めた。
「うるせえな」
ミゲルが言いながら頭を起こした。ニコラも意識を取り戻したらしい気配がする。
「皆、無事か」
僕はできるだけ冷静に尋ねた。
「殴られたときに内臓がどうにかなってなきゃあね」
ミゲルが床に唾を吐いてつぶやく。
「口の中、切ったかも」
「ドレイクが…」
バルトロメオがまだ泣き止まずに言った。
「俺の目の前で…フルボーグが大きなナイフでドレイクの首を…」
沈黙が落ちた。
バルトロメオが泣き出した理由がわかる。元から気の弱い彼のことだ。ひどいショックだったろう。
「少なくとも、おれたちを殺さずにここに連れて来たということは、何らかの意味があるはずだ」
ニコラがいつもの重々しい口調で告げた。
ニコラはこの中では一番年上で、いくらか理論主義なところを除けば頼れる参謀だ。
「ここに連れてこられるまでのことで何か覚えている?」
僕は尋ねた。
「いえ。あっと言う間に当て身をくらって…」
「奴ら、ロープを伝って窓から下りたんだ。オレたちを肩に担いで」
ミゲルが苛立たしげに椅子を揺らしながら言った。
「下で車に乗せられた。バンみたいな車だったと思う。オレも朦朧としてたし、ものすごいスピードで飛ばされて、気分が悪くなって後のことは覚えてない。
だけど、奴らの狙いはジュゼ、あんただぜ」
「暗い室内で判別がつかなかったから、とりあえず年の若いのを皆さらってきたというところかな」
ニコラの言葉に、バルトロメオが震える声で聞いた。
「俺たち、ドレイクみたいに殺されるんだろうか」
僕には答えられなかった。ニコラは不安な憶測を口にしないだけの分別があった。
「いきなりジュゼを手にかけたりはしないさ」
ミゲルがつぶやく。
バルトロメオがその言葉の意味を理解する前に、ドアの向こうで金属的な音がして、鍵が開けられた。太った男が顔を出す。続いて二人の男が部屋に入ってきた。
ひとりは作業衣らしいつなぎを着ていたが、あとの二人は柄物のシャツだった。ひとりはサイバー化した腕を見せつけるように袖を半ばまでまくっていた。黒い肌と銀色の腕がどちらも作り物めいて見える。
僕たちをさらってきたのは彼らではないと直感した。
こいつらはただのチンピラだ。僕たちの部屋を急襲したのは、戦闘部隊、それも対テロ訓練を受けたSWATのようなチームだった。
父は僕に仕事の話はしようとしなかったが、今、父が敵にしているのがとても強大な組織なのだと検討はついた。
ここも厳重に守られたアジトなのだろうか。
今はとにかく情報が欲しかった。自分たちが置かれた状況を正確に把握して、対処を決めたい。
だから僕は昂然と頭を上げていた。
彼らには挑発的ととられたかも知れない。
男たちが近付いてきた。
僕はひとりの男の腕時計を見た。それで時間を知ることができた。
日付が変わっている。数時間、意識を失っていたらしい。
「坊ちゃんたち、なにか御用はないかね。よろしくお相手しろと言われてるんだよ」
金属腕がやはり金属質の耳障りな声で話しかけてきた。
「ていねいなご挨拶をどうもありがとう。ボウイさん」
僕はわざと気に障るだろう言い方をした。
彼らが僕を父に対する人質にするつもりなら、僕を殺しはしない。だから、彼らの興味が他の三人に向かないよう、僕が一番目障りな存在にならなくてはならない。
「随分、強引な客引きだったけど。このロイヤルルームにいつまで泊まっていればいいのかな」
「部屋代はこちらもちだ。心配しないでいていいぜ」
太った男が答えた。
「そう。ところで、僕はホテルの部屋に通されたら、一番に必ずすると決めていることがある」
「何だ?」
「非常口の確認だ。どこから外に出られるのか教えてくれないかな」
「おもしろい坊主だな」
金属腕が笑った。底に怒りを隠した不穏な笑いだ。
「ここには従業員用の出入り口しかないんだよ。残念ながら」
僕らをからかうのに飽きたのか、三人の見張りはそれぞれ好き勝手なことをしはじめた。
作業衣の男は大きなナイフを丹念に研いでいた。バルトロメオは彼がいつそれを自分たちに向かって振るうつもりなのかと脅えていたが、男はサディステックな笑みをこちらに向けてナイフをかざすだけで、実際に手は出してこなかった。それで僕は、彼らには僕らを傷つける権限は与えられていないのだとわかった。けれど、僕が完全に自由でも、あの金属腕に力で勝つことはできないだろう。僕はそれを悔しいと思うべきなのか。
男たちはたまに交替しながら、誰かしらふたりは部屋に残っていた。僕らは秘密の相談をすることができなかった。たわいない世間話でもすることができれば、気が紛れたかも知れない。でもバルトロメオは恐怖のために、ニコラは騒ぎを望まないために、ミゲルは苛立っているために、そんな気にはならないようだった。
今、僕にできることはあまりなかった。縛めが解けないものかと試してもみたが、十五分ほどで諦めた。
僕は眠る努力をすることにした。外の時間はもう夜中になっているはずだ。これから何があるかも解らない。休めるときに休んでおいた方がいい。
だが、これは見張りの男たちに邪魔された。
僕らを眠らせない、というのは彼らの任務に含まれることらしい。
そんな状態で何時間か、十何時間かもわからない時間が過ぎた。
見張りの男たちは、特に何をするということでもないのだが、じっとしていないで動き回っている。他に動くものもないので気になることは確かだ。
バルトロメオは相変わらず泣き言を言っていたし、ミゲルは椅子を揺らしたり、罵りの言葉を吐き捨てたりして、じっとしていなかった。それが気に障らなかったと言ったら嘘になる。どうして彼らはもっと落ち着いていられないんだろうと思った。時間が経つに連れ、彼らへの苛立ちも増した。時折聞こえるニコラの深いため息さえも僕の神経を逆なでした。
なぜ僕がこんな目に会うんだ、と疑問を投げつけたい気になった。父さんを恨むわけじゃない。父さんの仕事を否定するわけじゃない。だけど…!
父やその周囲のたくさんの人たちの顔を考えつつ、唇を噛んでうつむいたとき、ひとりの面影に僕の思いは立ち止まった。
父の友人のひとり。だけど歳はずっと僕に近い。
あまり言葉を交わしたことはない。無口という印象はなかったけれど、多くを語らない人だった。物静かでも穏やかな人柄でもなかった。そういった資質とは何かが違っていた。なんと言ったらいいのだろう。ただ----そう、彼は昔からそういう人だったわけではないと聞いたことがある。彼のあの落ち着きは、たくさんの激しい感情の上に成り立った静けさなのだと。
いつでもそこにある山の存在みたいに、無視することのできない静けさ。彼はそんな雰囲気をもった人だった。僕は今、その人のことを思い出していた。あの人の静けさを。すべてを乗り越えてきたその強さを。
自分の中で、何かが沈んでゆくのがわかった。
見張りは相変わらず目の前を行き来している。バルトロメオはすすり泣いているし、ミゲルは腹を立てている。だが、今はそれが苛立たしくはなかった。
ここへ連れてこられてから、食事はおろか、水の一滴も与えられていない。身体を伸ばすことも、眠ることも許されない。そういったことが僕を疲れさせ、周囲の出来事に過剰に反発を感じさせているのだと気づいたからだ。バルトロメオもミゲルも、ニコラだって同じように苦しいんだ。それを忘れて、ここで怒りを爆発させてバルトロメオたちをなじったりするのは、僕の負けになる。自分のことばかり考えているような男じゃ恥ずかしい。
僕はゆっくりと深呼吸をして、三人の名前を呼んだ。
「みんな、もうずっとこんな状態でつらいね。今、僕たちには待つことしかできない。だけど、自分を責めるのはやめよう。僕らは充分な試練に立ち会っている。全員でそれを乗り越えよう」
弱いが確かな答えがあった。それぞれの試練に立ち向かうために僕らは口を閉ざした。それでも心は繋がっていた。
それからまた何時間が経過したかわからない。
見張りが僕らに手を出してこないことから僕は、彼らは僕らを殺す気はないと判断した。しかし、どうもそれも怪しいと感じるようになった。彼らは僕らに食料を与えていない。敢えて殺す必要はなくても、ずっと生きながらえさせる気もないということだ。
そして、運命の扉は叩かれた。
焦ったようなノックが見張りたちの注意を引いた。朦朧としかけていた僕の頭にも、それはよく聞こえた。
僕が顔を上げ、それから数秒の間に起こったことを、僕はうまく説明できない。確かに僕は極度に疲労していた。だけど、よく見ていなかったわけじゃない。よく見えなかっただけだ。それがあまりに素早く起こったので。
ひとりは部屋の奥、ひとりは歩きながら、もう一人はドアの真下で。
彼らは死んだ。
ナイフとワイヤーとで見張りを殺したのは、天井からぶら下がった黒いオートプロテクターだった。
平然と床に降り立ち、その人はまず自分の武器を回収した。死体からナイフを抜き、血を拭う。
僕らは麻薬中毒患者が注射針を見つめるように、その切っ先に視線を吸い寄せられていた。あの切っ先にかかるなら、僕の身体は何の抵抗もなく刃を受け入れてしまうだろう。
黒い戦士は僕たちに手を上げようとはせず、自分の首を外した。フルカバーのヘルメットを。
その身にまとったプロテクター同様に黒い髪をしたその人は、いつものように無言で僕たちの鎖を解いてくれた。
僕は立ち上がった。けれど、長い間、固められていた手足が思うように動かず、僕はよろめいてしまった。彼が支えてくれたから、僕はなんとか倒れずに済んだ。
彼の腕に掴まった僕の上に、短い言葉が降ってきた。
「よく頑張ったな」
僕は、ようやく束縛が解かれたのを感じた。張り詰めていた心の束縛を。僕は自分が急に小さな子供になったような気がした。
自分でもどうしようもなく涙が溢れた。声は出なかった。悲しい涙ではなかったから。
何も言葉が出せなくて涙を拭うと、彼は僕の目を見てうなずいてくれた。
わかってくれたんだと感じた。僕が怖くて泣いているのではないこと。助けを感謝していること。そして、僕たちがひとつの試練を乗り越えたことまでも。
彼は僕ら全員を解放した後、簡潔に脱出の手順を説明してくれた。そして、同行できない自分の代わりに、銃を渡して言った。
「その銃はやるわけじゃない。生きて帰って、責任もって俺に返せ。お前たちが自分で、だ」
僕らのうちの誰ひとりとして、射撃の名人はいない。それでも、この銃は武器以上の強い力を、前進する支えを僕らに与えてくれた。
いつか僕は、本当の意味で、この銃をあなたに返せるような人間になるつもりです。
シリウス。
◇ACT−8 セルゲイ
豪華な応接間とはほど遠い場所だった。
自らを飾り立てることが好きな自称「政治家」の肉塊までが、ありきたりなパイプ椅子に腰掛けて、自分と向かいあっている。
尋常でないだけに、かえってその重要さをあからさまにしているような会合。
それでも、なおかつこれは茶番だった。
自分が演出した茶番だ。
ステイツ・コネクションという組織が書くシナリオの中で、目の前の政治屋に、まともな役などつとまるはずもないことは、とうにわかっていた。
コネクションが提示した、ドラッグの新規開拓共同計画。それに名乗りをあげた時点で、タルカルコス・グループはコネクションの傘下に入ったも同様だった。
同じ犯罪組織にしても、レベルが違いすぎるのだ。タルカルコス・グループは食い尽くされ、政治屋としてのパイプラインが有効な間だけ、ロドリスの豚野郎は生かしておかれるだろう。
それは自分の知ったことではない。そういった組織の運営は自分の管轄ではないのだ。タルカルコス・グループがゆっくり解体されていく頃には、自分はもう、別の仕事をしているだろう。いつものことだ。
豚野郎が何か言った。ここ数日、労を惜しまず動き回り、どれだけの成果をあげたかという戯言だ。
どれだけよく舌が回ろうと、こいつが大マヌケだということはもうわかっていた。
あらかじめ検問の情報を得ていたにも関わらず、こいつは、見本として回してやった『B』を警察に押収されるというヘマをやらかした。内通者によってすぐさま回収されたというのだが、それがなんだというんだ。組織にとって、かけらもプラスになっちゃいない。
奴の方は、そのヘマの代償に、警察に目をつけられてしまったこの倉庫を今夜のうちに爆破することになった。人質にしてあるヴェツィーニの若僧を生け贄にそえて。
そんなショーに期待なんかしていない。
上部からプロジェクト続行の指示がなければ、自分は早々にこいつを見限っていただろう。息子を誘拐した相手に対して、オープンコントラクトを出したというヴェツィーニ・ファミリーを相手に、戦争をやっていた方がよっぽど楽しい。
いいかげんにうなずき、豚のお喋りをやめさせるためにアタッシュケースを開いた。
ドラキュラも羨むほど真紅のドラッグ『B』。
奴が何も言い出さないうちに畳み掛けた。
「第一回目の取引分。コネクションの方針として、代価はいただかない」
思惑どおり、奴は黙った。
「50ドルでの売却という件、お忘れなく」
奴がその利益を計算して唇を湿らせる。すぐさま、ふたたび己を売り込みにかかった。
聞き流した。
あまりにも安価なドラッグ。だが、間違いなく『B』は売れる。その安さゆえでなく、精神的依存性の高さゆえに客がつく。
やがて値は跳ね上がり、利潤は莫大なものになる。だが、そのころには、タルカルコス・グループなどというものは消滅しているだろう。その存在だけでなく、自分の記憶の中からも。
奴には何も感じなかった。だが不意に、アルコールが欲しくなるような喉の渇きを覚えた。
タルカルコスの背後から突き刺さってくる視線のせいだ。
ムサバ。タルカルコスのボディガード頭。
鉈で彫り付けたような面構えをしたニガーだ。甘ったるいミルクチョコレートの色なんかでなく、ナパームで焼き焦がしたみたいに真っ黒な南ア特有のブラックだった。
奴は俺のことを毛嫌いしていて、これっぽっちも信用しない。コネクションのハッカーが盗聴した電話で、奴が俺のことをハイエナと呼んだのを、しっかりと聞かせてもらった。
要は勘のいい男なのだろう。タルカルコスが豚なら、ムサバはまだ野性の猪だ。黒くて大きな猪だ。そういう奴は嫌いじゃない。そいつが俺を信用していないとなれば、なおさら気が楽でいい。
楽しくなった。ヤクもやってないのに気分がハイだ。自分は笑って、豚の演説を邪魔してやった。
気分を害されたにしろ、豚はまだ己の役にしがみついていた。
「それでは、我々の今後について話し合おうじゃないか」
かき集めた威厳で、豚は会合の主導権が己にあるよう取り繕っている。自分はぞんざいに手を振って、言ってやった。
「商売の話は、まだ出来る段階ではありませんな。その前に片付けるべき問題が残っている」
そして、ムサバを見た。ムサバだけを見た。
豚なんかどうでもいい。ここで興味のある返答が期待できるのはムサバだけだ。
ムサバは俺を無視した。奴にとって俺は、まがりなりにも「ボスの客」だった。口出しする権利はない。
だから自分は畳み掛けた。豚野郎を嬲る口ぶりで、その実、挑発していたのはムサバの方だった。
自分が視線でさえ相手をしてやっていないタルカルコスが、なおも自己主張をしようとしたとき、ようやくムサバが応えた。ボスを無視して、直接、俺に答えた。
自分はひどく楽しげな顔をしたのだろう。
俺の挑発に乗ってしまったことに気づいて、奴の黒い顔が一瞬歪んだ。だが、後は俺が引きずり出したボスへの侮蔑を隠そうともせずに、完全にタルカルコスから主導権を奪って、ムサバは俺とだけ話をした。
すでに開始された、ヴェツィーニ・ファミリーとの抗争方針を奴から引きずり出す。奴は、短い言葉で応えた。自分は風をたててやった。
「言うほどには、簡単にゆかないだろう」
「わかっている」
俺の同意など必要としなかった。奴はただ宣言した。
「それでも、叩き潰す」
ゾクゾクする。スナイパーがスコープの中に、スナイパーライフルをもった同類を見つけたときのような高揚感だ。
「抗争は、彼に一任されて間違いはないでしょう」
自分はタルカルコスの豚に言ってやった。
他の奴にやらせてみろ。つまらなくて欠伸がでる。
豚野郎は俺の提案に難色を示した。
「しかし、そううまくいくだろうか…? やつらには、得体の知れない男がついているという話も聞いている」
知っているとも。そいつの名前も、正体も。
自分のまわりには、なんてたくさんの地雷が埋まっているんだろう。そのひとつひとつが、俺を殺したいと思っている人間の意地なんだ。自分は奴らが大好きだ。
「知っているのかね? 『狼』を」
ああ。抱きしめて、そのまま地獄まで堕ちたいくらいにシビレる野郎だ。きっと、地獄の炎より、あいつの執念の方が熱く俺を焼き尽くすだろうから。
ぴったりと自分の後をつけてくる、そいつの名は死に神。いや----
「彼が、《シリウス》と名乗って闘っていることは」
灰の味を噛み締めながら囁いた。
目の前のおいしそうな地雷を忘れさせるほど、自分を駆り立てるひとりの男。
その名を口にしたとき----
「その名前、地獄に堕ちても忘れるな」
空気をきらめかせながら、言葉が落ちてきた。運命のピースのように正確に、それははめ込まれた。
はははっ。俺は死に神を呼んじまった。とうとう奴を目の前に呼び出しちまったんだ!
奴の声が聞こえた瞬間、そう気づいた。
照明が撃ち抜かれ、にわかにおりた闇の中で、パニックが起きた。俺だけを嵐の目に残して。
そして、誰もいなくなる。闇に次いで、静寂が訪れる。
そのとき、高い金属音を立てて、何かが足元に落ちた。危険かどうかも考えずに、無意識に手を伸ばしていた。
指先に触れる凹凸。目を細めて、その起伏を縁取るわずかな光をとらえた。
後足で立ち上がった奇形の獣。生まれたときから地獄にいた幻獣の意匠。
「ケルベロス…」
これは奴の名刺だ。あるいは最後通牒。
おまえはとうに死に絶えたはずの者の姿で、俺の前に現れるのか。
予想外だった。自分の心が凍えるのを感じるとは。
それはどうしようもない生理的な反応だった。
いいだろう。認めるとも。俺は恐怖している。奴に。奴が抱いているのものに。
だが、いつまでも捕らわれてはいない。
この凍えた身体を暖めるには、おまえの死体を焼く火が一番だ。
そう。俺はおまえを求めて進む。追い詰められたからじゃない。おまえを追っていってやる。
ナイフを抜いた。行動を始めた。
滲み出すようにゆっくりと。
暗闇の中で身体が際限なく大きくなっていく気がする。感覚の触手を闇の中に広げてゆく。
コンテナの壁を這うように進む。舐めるように。
どれだけ進んだのか、距離でも時間でも計れない。
倉庫の外の腐った川とは違う湿り気を、わずかに露出した肌に感じる。
腰を低くして、床の影を読んだ。ふたつの人間の身体----死体。ひとつはコネクションから連れて来た夜魔部隊の男だ。五人のうちの誰なのかはどうでもいい。
もうひとりは、影と同じくらい黒い肌の男。ついさっき記憶したムサバの逞しい身体とは違う。
俺は微笑した。目の前の死体がムサバではない、それだけのことが楽しかった。
俺はムサバのことを考えたぞ。こんな時にだ。俺が死ぬとき、おまえのことを考えているとは限らないぞ。シリウス。
ジャケットを脱いで、コンテナの取っ手にかけた。できることなら古代ギリシアの競技選手たちのように丸裸にでもなりたいくらいだ。なにもかもから解放されて闘いたい。
さあ、俺の匂いを嗅ぎ付けてこい。犬畜生。
じっとりと汗ばむようなスピードでそこから離れる。だが、焦ってはいない。
ここにたどりつくまでに六年かかった奴はどうだろう? 奴に焦りはないのか?
空気の温度の変化を、首筋に感じた。
誰かがいる。何人かの気配。発情した獣のようなせわしない息遣いも。
なっちゃいない。豚野郎の生きている証拠か。見えない敵に脅えて、ただ脅えている。
今、俺が小石でも投げてやれば、それだけのことで奴は発狂するかも知れない。
…投げてやればよかった。シリウスが奴の首を引き寄せる前に。
屠殺された豚の悲鳴の前を、何かがよぎった。その一瞬だけ、俺は奴の姿を聞いた。ただシリウスというだけの影を。
後は静寂。
俺は空気の塊を口腔にかみ砕いた。
背後でくぐもった声がした。誰かの最後の吐息だ。わかる。
神経を張り詰めて待った。
何も起きない。やって来ない。
本当にいないのか。それとも…
意識の空白に陥る。空間の認識感覚さえ失いかける。俺はまだ正気か。
我思う、故に…いや。俺が在るのは生きて、動いているからだ。
腕を伸ばした。背中を、足の筋を伸ばす。関節が乾いた音をたてた。
それから俺は歩き始めた。
血が身体を巡り始めるのを感じる。恐れはもうない。そんなものは熱が溶かしてしまった。
俺はここにいる。
叫んでやったっていい。
数歩もいかなかった。向こうから歩いてきてくれた。
俺と同じく、気配を隠すことをしないまま。黒い肌。ムサバだった。
奴の目が俺を捉えた。それは思いもかけず素直な眸だった。
奴が何か言おうとした。俺の名を呼んだように思った。だが、声は聞けなかった。
ムサバは倒れた。
俺はムサバを見下ろした。
もう死んでいた。
背骨が折られている。惰性でここまで歩いてきたのか。
奴とはまだこれからだったのに。
それから顔を上げて、直前までムサバのいた場所に立っているシリウスに視線を向けた。
奴は、なぜこの瞬間に俺を殺さなかったのだろう。自分が奴の姿を見もしない内に、殺すことぐらい簡単にできただろうに。それとも、俺にムサバの死を確認させたかったのか。おまえが奴を殺したことを。
そう。ならばおまえは俺の仇になるのだな。同じ領域で闘ってくれようというのだな。
上等だ。
シリウスの手にはナイフだけがある。俺にはナイフと…ケルベロスのレリーフ。それをかすかに奴に示してやった。
取り戻したいか、これを。
プロテクターの奥に隠された目も唇も、何も応えなかった。だが、奴の身体が応えた。
低く、沈んだ。
不意は打たれなかった。奴のナイフが見える。同時に振り抜いた。
返す刃。
届かない。
奴のナイフが触れた場所で皮膚が弾ける。
浅い。いける。
奴が高性能の動力甲冑を着て、自分がなんの装甲もなしでいることに不平はない。奴は動く棺桶に入っているだけだ。
棺桶の継ぎ目を狙う。金属の上を鋭い音をたてて刃が滑った。
奴のナイフは音をたてなかった。俺の肌を愛撫していく。筋肉が横に裂かれる感触。
短く息を吸った。
真新しい傷から飛んだ血が唇に触れた。口に含んだ。その行為に出所の知れない高揚がある。
シリウス。おまえを殺したら必ずその血を啜ってやる。もっといいはずだ。
半歩下げた右足にムサバの身体が触れた。見なくてもわかった。
俺は無造作にそこを避けて移動し、再び足場を確保した。俺に連動している機械のようにシリウスが向きを変えるのを目にし、俺は突いて出た。
ナイフとナイフが触れた。力で押し切った。オートプロテクター相手に? 馬鹿なことだ。奴が力をそらしたに決まっている。
肩と肘と手首。それが同時に伸長したかのような勢いで奴のナイフが俺の内側に滑り込んできた。防御の内側。肉体の内側に。
奴の肩の関節に左手を叩きつけた。刺さらない。その手にはもうナイフがなかった。いつの間に落としたのか。俺のナイフ…
腹腔を貫いた奴のナイフが捩られ、そのままの勢いで引き抜かれた。引き抜かれたのだろう。無意識に押さえた傷口には、あふれかけた生暖かな感触しかなかった。
どこかで鐘が鳴っている。鳴り響いてうるさい。鎖骨のあたりで脈打ったものが頭でゴングになる。引きずりまわされる。
腹を庇うように俯せに身を伏せた。痙攣が走ったと思ったら、何かが緩み、それから内臓が流れ出した。軽くなった。
動ける。まだやれる。まだだ…
身体を起こして後ろのコンテナに寄りかかる。腰が鈍い痛みを訴えていたが、苦しくはなかった。苦しいという程度の痛みではなかったのだろう。頭が理解を拒んでいる。
右手を見た。ナイフがあった。
ああ、そうだ。俺は右手でナイフを握っていたんだ。左手は…左手にはケルベロスのレリーフが…
レリーフはなかった。
奴がもっていた。
取り戻したんだな。
六年前、俺たちに奪われた仲間を今度は…おまえが…
雨がふっていた。あの雨の中で、俺たち…
戦った。
戦って、死ねる。
そうなんだ…な。
そしてまだ、おまえは歩き…つづけ…る…か。
あの雨の中…暖かい…血の、 道 おまえ… が
見えた
◇ACT−9 ファーマー
時間とは相対的な感覚に過ぎないものだと実感する。
麻薬が隠されているという倉庫を突き止めたのが今朝のこと。強制捜査の手配で、昼前はまったく暇なしに忙しかった。
午後にはデュークという名のハンターが我が家を訪れ、警察署内の内通者の存在を知らせてくれた。わたしはすぐにその内通者・ラディン部長の動きを牽制しようと本庁に戻ったのだが、ラディンは行方をくらませてしまった。だが、そのことからも強制捜査の手順が敵方に筒抜けになったことは確かだった。上申の結果、強制捜査の延期が決定し、相手の動きを睨んだ監視警戒態勢に切り替わった。
そのすべてがたった半日のうちに起きたのだ。
そして今、対岸でおきた爆発の名残火をわたしは眺めている。
我々が踏み込む予定だった倉庫が爆発炎上したのだ。
デュークのもたらした情報どおりだった。強制捜査を決行していたら、多くの警官が巻き込まれることになっただろう。
だが、我々を殺すはずだった炎は今、誰のために燃えているのか。
ただひとりだけの名を、わたしは心に思い浮かべている。
デューク。無事でいてほしい。
彼が何のためにそこへ行ったのかはわからない。わたしは彼のことをほとんど何も知らないのだ。ただ、彼がそこにいることだけは、あの炎よりも明らかにわかる。
あの青年は敵を求めていったのか、それとも、あえて死中に活を求めにいったのか。
目的を果たし、生きているならば。
あの戦場を生き延びているのならば。
彼はここに来る。
倉庫街の対岸、このひとけのない暗い河原に。
そう思うからこそ、わたしはここにいる。
目の前の川の水面は静かだ。
何の気配もない。
だが、ここにしか道はない。あの倉庫街へ通じるすべての通路はHiPが押さえているし、RPも出動している。AHPはコンピュータを経由するあらゆる情報に目を光らせている。そのすべてを擦り抜けて脱出するのはまず不可能だ。
警官を巻き込むのを嫌って、わたしに忠告をしにきた彼のことだ。検問を強硬突破するとも思えない。
だから。ここにしか彼の道はない。
この川を渡ってくるしか。
まだ、水面は静かだ。
川にばかり気を取られていたせいで、背後の大きな物音に不意をつかれた。
思わず反射的に振り返ってしまう。
そこに、街の灯を背にした人影を見つけた。
「デューク?」
それは、わたしの期待が口にさせた言葉だったのだろう。
彼ならば、わたしに気取られずに川岸に上がり、ここまで来ることもできるはずだという、奇妙な安心感すらあった。
ロングコートのシルエットが動く。
斜めに差した光が顔の輪郭をとらえるまでもなく、それがデュークでないことはわかった。
だとしたら、わたしはもっとも不都合な言葉を漏らしてしまったのかも知れない。なぜだかわからないまでも、デューク、あるいはシリウスという名のハンターのことは、秘密にしておかなくてはならないという気がしていた。そうしなければ、どこかで巡り巡って彼を傷つけることになりかねないと。
ことに相手が相手だった。
デュークがわたしに伝えた情報で失脚したラディン部長。犯罪者グループに情報をリークしていた警察官。
一度は同じ班で任務についたこともあった。そのときの彼は、すすんで仲間を裏切るような人物には見えなかった。デュークが内通の証拠として提示した会話のレコードからも、ラディンがなんらかの理由で、犯罪者たちに協力させられている消極的な態度が読み取れた。
だからわたしは、彼を追い詰めるのではなく、婉曲的に事を収めようとしたのだ。
だが、本庁内で接触しようとしたところ、どういう経路でかラディンは内通がばれたことをを察知していて、わたしが声をかけると、威嚇射撃をして逃走した。近くにいたアクターとオネストが追ってくれたのだが、同じ制服の人込みで見失った。庁舎内で銃を抜いたために、オネストの方が間違って同僚に包囲される始末だった。そのまま、強制捜査計画の変更の慌ただしさのために、本格的な追跡ができないまま行方を掴み切れなかった、その本人がここにいる。
彼が警察の内部情報を提供し続け、そして庇護を求め得たタルカルコス・グループの本拠地は、今、対岸で燃えている。
彼はそれを眺めにここへ来たわけではないだろう。
わたしはそんな偶然を信じない。
「やはりな」
沈黙を破って、ラディンがつぶやいた。その言葉があまりに唐突だったので、わたしには脈絡がつかめなかった。が、ラディンは続けた。
「貴様は『狼』と繋がっていたんだ。あの狂ったハンターとな。ふたりしてオレを破滅させた」
狂ったハンター? 狼?
デュークのことだろうか。
ラディンはデュークを、あるいはシリウスというハンターネームでの彼を知っているようだ。
それがわたしにとって有利になるのか不利になるのかはわからない。だが、少なくとも対話の余地はある。
「わたしの弁解を聞いていただけませんか、ラディン部長。
わたしとデュ…シリウスの間にはいかなる共同関係もありません。あなたを告発するつもりもなかった。あなたが応じて下されば、話し合って穏便に解決したかったんです」
そのことを知っているのはデュークだけだけれども。
「嘘をつけ! 貴様らは故意にオレを逃がしたんだ。その上、お前は、奴が好き勝手できるように手入れの中止までお膳立てしてやったんだろうが」
「誤解です。わたしもむしろ彼に利用された口だ」
ラディンを激高させないために、わざとそんな言葉を使った。
「わたしが強制捜査の延期を要請したのは、その計画がすでに相手にばれていて、迎撃されるという情報を受けたからです。
まさか、そう知らせてくれた本人が、戦闘準備が整っているのが明白な敵陣に乗り込むつもりでいるなんて、思いもしていませんでした」
つい失笑した。本当にわたしは、デュークのそんな行動を予想もしていなかったのだ。
彼はわたしを利用した。我々でなく彼自身を危機に晒すために。
そこには何か極めて強固な理由があるのだろう。
わたしはそれを知らない。知らないが、わたしはデュークの行動を非難しない。
そのとき、聞き覚えのある金属音がした。
拳銃の遊底を引く音。
ラディンの手の中のハンドガンがこちらを狙っている。
彼は先刻もわたしに向けて銃を撃った。それは威嚇射撃だったけれども、今度はそうではないだろう。
互いの距離とその間の障害物。照明の位置。
あまり有利な条件はない。
わたしは先に彼を撃つべきだろうか。それが可能だろうか。
「御託は充分だ。
貴様はジプシーの孤児を引き取って育てているような男だ。『狼』の遠吠えを聞いていたたまれなくなったのも解るさ」
そう言って、彼は薄く笑った。
極秘にしてきたわけではないが、トビアの素性が知られていることに、いや、あの子がそんな言い方をされたことに憤りを覚えた。それにデュークは、なにかを背負っているのは確かなのだろうけれど、それをわたしに告げたりしなかった。トビアと同じく、寡黙に歩み続けていた。
わたしはラディンを見つめた。敵を見る目で。
「銃を収めてください。早くここを退去した方がいいでしょう。非常事態警報を流せばすぐにも警察がやってきます」
ラディンは腹の奥で笑うような声を出した。
「来るかな? いいや、そんなことはないだろう。貴様は助けを呼ばない。呼べないんだ。
奴とここで落ち合う予定なんだろう? そこに警官がいたら奴も逮捕される。奴はあれだけの騒ぎを起こした張本人なんだからな」
それは事実だった。デュークは倉庫を爆破した容疑者なのだ。先日のハイウェイでのように、この場にいる理由を用意してあるとも思えない。
ラディンはまだ笑い続けていた。
「奴はここに来る。だが、奴がやって来たとき、残念ながら待っているのは貴様でなくてオレということになる。ひと仕事終えた後だ。お仲間が待っていると思って油断しているだろうな。奴を殺せば、オレにもチャンスはあるんだ。
さあ、邪魔者は消えていてもらおうか」
「チャンスは、ありません。あなたの後ろ盾は壊滅しました」
「奴の死に報酬を払ってくれる組織は他にもある」
どうやらそれは嘘ではないらしい。彼が危険だという認識が、なぜかそのとき、わたし自身の身の危険より胸を騒がせた。
掲げられた銃口が正面に見える。
「どうだ? 銃弾を食らって痛い思いをするのがいやだったら、回れ右して、自分で飛び込んでくれてもいいんだぞ? その方がこちらも手間がはぶける」
汚染された川に入るということ。それがどんな死を意味するのか、ラディンは理解して言っている。
彼はもう二度と警官にはなれないだろう。彼の精神は越えてはいけないラインを越えてしまった。その矜持を失ってしまった。
銃口から目をそらして、川を見た。正確には、水面の動きを。
こちらへ近付いてくるかすかなうねりを認めた。静かに泳ぎ寄るひとつの存在を。
もう川岸で何が起きているかはわかったはずだ。それでもこちらへ近付いてくる。
いけないほどの安堵を感じた。背後を守られているということの安らかな依存。
彼はプロだ。こちらが銃を構えるより先に結果は出ている。
どちらにしろ、わたしにできることはない。
わたしはラディンに視線を返した。
その瞬間、金属のきらめきが空を裂いた。わたしの頬の側を風が突き抜けていったのを感じた。
その行方を視認したときには、ラディンの喉奥深くまで、刃の厚いナイフが刺し貫いていた。 血が彼の背後に吹き出した。刃が貫通したことがわかる。それでもまだナイフの勢いをころしきれなかったかのように、ラディンの身体は仰向けに泳いで倒れた。
わたしは目をつぶった。短い黙祷。
それから振り返った。
この川を泳いでくるからには、なんらかの装備が必要なことは理解していたのだが、彼のシルエットにはそれでも馴染めなかった。
全身を隙間なく覆うオートプロテクター。警察でもRPなど突入部隊を中心に実戦配備されているが、それとはまったく別物のオートプロテクターだった。専門知識のないわたしにでも、それが彼のためだけに作られたものであることがわかる。
汚染された川から立ち上がったシルエット。戦いのためだけの機能的なフォルム。
少しもぎこちなさを感じさせない動作でヘルメットを外す。
汗に黒髪を湿らせたデュークの顔が現れた。今日の午後、我が家にきた青年の顔。
ヘルメット内のエアフィルターも限界だったのだろう。冷たい夜の風を深く吸い込む気配が伝わってくる。その呼吸は、わたしよりもむしろ穏やかですらある。
しばらくわたしたちはそのままでいた。
それから彼が初めてこちらに顔を向け、視線を合わせる。
トビアにも似た、あくまでも深く黒い眸。その目を見るたびに、わたしは黒い光というものも存在することを思う。
「妙な場所でHiPのオフィサーに会うものだな」
彼の口調にはどこかかすかな苛立ちがある。それと同時に、高揚した気持ちを無理に押さえようとしているところも。
「君を待っていたんだ」
わたしは告げた。
「令状は?」
むろん、デュークはわたしが彼を逮捕しにここへ来たのではないことはわかっているだろう。
言葉と言葉の合間にも、彼の身体がコンディションを整えていくのがわかる。彼がすぐにここを離れるつもりでいることを告げるように。
「君はここへ来ると思った。確信するほど自信はなかったけどね」
「で? 俺にうまく利用されて、麻薬密売組織を検挙しそこねたことの恨みでも言いにきたのか」
オートプロテクターを外しながら、こちらを見もしないでデュークは尋ねた。
相変わらず無愛想な口調だ。だけど、もうそこには苛立ちも不用意な構えもなかった。わたしも笑みを見せられるほど、余裕ができていた。
「君との会話を思い出してみたが、君は嘘はついていなかった。わたしが君の本当の意図を読みきれなかっただけの話だ。恨み言をいう筋合いはない。
ここに来たのは、ひとつ言いそびれた礼があって、それを伝えようと思ってなんだが…今はふたつになったな」
デュークは何も言わずに黙々と作業を続けた。
わたしはその背中に声をかけた。
「わたしとラディン部長の会話を聞いていたかい?」
「いや」
「ラディン部長は君のことを『狼』と呼んでいたよ。何故だろう」
わずかな間があった。
「大犬座α星『シリウス』を『天狼の目』と呼びならわす地域がある」
デュークのコードネームはシリウスというのだった。
もっとも光度の高い星。もっとも強い輝きで地上を見下ろす天の狼の目。
似合っている、と言おうと思った。だが、『狼』という響きにはどこか哀しいものがあって、口にするのがためらわれた。
プロテクターを外し終えたデュークは、もうこの場を立ち去ろうとしていた。
わたしは思わず呼び止めた。
わたしがここへ来た目的を伝えなければならない。なのに、デュークの唐突な行動にまたリズムを崩されて、説明もなしに言ってしまった。
「カゼルIIという車がわかるか?」
突然の意図不明な質問はデュークを振り返らせた。
「わたしの愛車はそのガゼルIIなんだが、セイフティをかけ忘れたまま、その辺りに停めて来てしまったみたいだ。たぶん誰かに乗って行かれてしまうだろうな。
ありふれた車種のありふれた白い塗装だから、検問のオフィサーの気を引くことはないだろう。少なくとも、オートプロテクターを運んで徒歩で行くよりかはね」
警官であるわたしが、表立って容疑者の逃亡を手助けするわけにはいかない。わたしにはこんな方法しか思いつかなかった。
デュークはわたしを正面から見つめた。その援助を受けることで、わたしに危険が及ばないのか確かめるように。
「明日は非番だから、出勤に車は必要ない。アクターたちに怪しまれることもないだろう。
昼過ぎにグレイス・ショッピングセンターに買い物に行くつもりだ。乗り逃げ犯が良心的なら、ガゼルIIはそこの駐車場に乗り捨てられていると思う」
彼は何も言わないままだったが、その目で、彼がわたしの提案を受けてくれたことを知った。
うなずきつつ、わたしは、本当は自分で彼を送っていきたいと思う気持ちと戦っていた。
彼に助けを求められたのなら、全力でそれに応えたい自分がいる。それがいかに困難な、危険なことであっても。
けれど、そんな条件では、彼が絶対に助けを求めないこともわたしはわかっている。だから、わたしはあくまでも自分や家族、仲間たちを第一にする。それらを傷つけない範囲で彼を助けたいという意思表示であれば、彼は受けてくれるだろう。
彼に対するこの親近感はどこに由来するものなのだろう。初めて会ったときには、わたしは彼に拒絶されたように思っていたのに。
心の中で反芻していた疑問が、ふいに口をついた。
「君はもしかして、かつて警官だったことが…」
デュークは振り返らなかった。
彼の背中はかすかな動揺すら示さなかったが、わたしは答えを知った。
だからといって、わたしにどうすることができるだろう。
今、彼は彼自身の道を行っている。自分の敵と闘っている。
その邪魔はできない。彼の望まない援助もしない。
ただ、彼がその闘いを離れた場所に目を向けたとき、キリエの紅茶とトビアの笑顔とが、いつも手に届くようにしたい。
いつでも君の友でいたい。
それがわたしの決意だ。
◇ACT−10 シリウス
風が匂う。
淀んだ水と爛れた大地の腐臭。そして、この身体にこびりついた血。
死の匂いだ。
はじめて人を殺したとき、死はどこからかやってきて、相手にだけ訪れるものだと思っていた。
今は違う。
死が俺の後ろにいるのがわかる。俺にはその匂いがわかる。
これからもまだ俺たちは共にゆくのだろう。
死を撒き散らしながら、この復讐の闇の中を。
振り返り、対岸の炎を見た。
闇を焦がす篝火。俺の復讐の狼煙だ。
低く垂れ込めた雲が赤く灼けている。
炎は何も浄化しない。死があの地に満ちている。俺のもたらした死が。
数えてはいない。たぶん何十人か。
殺した。
後悔はしない。
あのとき、ただひとり生き残ってしまったこと。そのことも、もう。
これからも死体は積み上げられてゆく。戻る道を塞ぐ。
復讐の荒野を、俺は拓くしかない。
何度も問われた。
「復讐が何を生むのか。彼らがそれを望むだろうか」と。
答えは決まっている。
彼らは死んだのだ。死者は何も望まない。
復讐を求めるのも、復讐を果たすのも、すべては生きている者がすることだ。
俺はまだ生きている。
これは俺の復讐だ。彼らのためではない。
六年、たった。
六年、考えた。
そして、結論を出した。
これは為さねばならないものなのだ。
そう思ったから、始めた。
復讐は虚しいと人は言う。だが、復讐も望まない心はもっと虚しい。
俺の行為がいくつの死をもたらそうと、いかなる悲しみを生み出そうと、投げ出すことはできない。
あの日、俺を逃そうとして死んでいった彼らも、残された俺の気持ちを考えてはくれなかった。それでも、彼らは決意を貫いた。
俺も同じだ。俺はこの復讐を遂げる。
彼らが生かしてくれたこの心を、俺は殺すわけにはいかない。
他に、理由はいらない。
俺が、やる。
俺は、どこまででもやれる。
ここには、俺しか残っていない。
ひとりで歩く他はない。
堤防を越えると、白い車が見えた。
言われたとおりの姿で、闇の中、浮かび上がっていた。
こんな場所では「ありきたりな白い塗装」がよく目立つ。
六年前、「あたりまえのこと」が俺たちのスタートだった。それは、ちょうどこんな風に、奴らの目についたのだろう。
奴らはケルベロスを吹き飛ばした。
だが、奴らの「力」をもってしても、なにひとつとして変えることはできなかった。
ケルベロスの目指したもののなにひとつ。
俺の中にいる彼らの、なにひとつ。
生きていくことが、常に変化を伴うものならば、奴らは不変のものを俺に与えたのだ。
最高の仲間たちとの、最高の時間。そこで断ち切られた記憶を。
もう戻れないことを、俺は知っている。
進むことは、つらくはない。
闇の中で待つ車に乗り込んだ。
セイフティは解除されている。
差し込まれたままのキーを回し、すぐさま搭載AIの回線をカットした。
運転記録を残しておくつもりはない。
走らせる前、習慣のようにチェックをした。
HiP隊員の車だけあって、整備は申し分ない。
普通に走らせる分には信頼していいだろう。あの男を信じたように。
ミラーの位置を直そうとしたとき、気がついた。
サンシェードに写真が止めてあった。彼の家族の写真。
トビィが、あの子らしい控えめな笑みで見下ろしている。
今日の午後、わずかな時間を共にしただけだが、俺は生涯忘れはしない。
あの真摯な眸。
この子の笑みが教えてくれる。
俺が復讐だけでは生きられないことを。
こんなにも健気な存在の生きる世界に俺はいるのだ。すべてを憎めるわけがない。
為さねばならないことを、俺はやるだろう。
だが、為さねばならないことだけがすべてではないと、示してくれる人間がいる。
死んでいった仲間のためにしてやれることはない。だが、生きている彼らのためにできることはあるはずだ。
俺ひとりでも、してやれることが。
死ぬ訳にはいかない。
闇の中へひとり、アクセルを踏んだ。
END