メタルヘッド小説

   TECHNICAL FRESH

「必要ないって」
 ラバーソウルの足音が止まるとともに告げられた言葉に、ルーレルはうなずき返した。
「まぁ、そうだろうな。おれはあいつと話したことはないけど、きっとそう言うと思ってた」
 大きな製図台の傍らに立ち尽くし、エンジュが首をうなだれる。
 使った形跡のない洗車用具一式を持って彼がガレージに下りて来た時点で、ルーレルには事の経緯が推測できていた。
 いつもコンピュータで遊んでばかりいて、車になど縁のないネットライナーのエンジュが突然、洗車用具を貸してほしいと言ってきたのは三日前のこと。何か思いつくと嬉々としている様子が隠せないエンジュは、その時も尋ねもしない内から事情を話してくれた。
 事の起こりはさらに数日を溯る。
 ネオ=アップル・ワシントンエリアの第一級保安区にある華僑資本のビルがテロリストに占拠されるという事件が、そもそもの発端だった。最上階で行われていたパーティに参加していた紳士淑女が屋上からヘリで救出された直後に、テロリストの仕掛けた爆弾でビルが倒壊するという、すべてのニュース・チャンネルが特番で伝えたほどの大規模な事件だ。しかし、マスコミで報じられたのが事件の全貌というわけでもない。
 そのパーティに偶然、身内とも言えるレイファたちが招待されていたために、《オフィス・ジョーカー》では独自に救出作戦を展開していた。
 エンジュもそれに参加し、ビル地下のコンピュータ・ルームからアビスたち実動隊をサポートする連絡役兼状況把握係を担当していた。それが敵に感知され、危うく生き埋めにされそうだったところをホークとシリウスに助けられたのだという。
 いつも一緒に仕事をしているホークはもとより、未だエンジュたちをハンター仲間と見なしていない孤高のハスラー・シリウスまでが助けに駆けつけてくれたことが、エンジュには相当嬉しかったらしい。
 なにか恩返しがしたくてエンジュが考えついたのが、シリウスの愛車・MAX−7を磨いてやることだった。
 そんな事情を長々と説明された後、道具を貸してくれと頼まれたルーレルは何も言わずに洗車用具一式をエンジュに渡した。エンジュはそれを持って、ジョーカーのオフィスでいつ会えるかわからないシリウスをずっと待っていたらしいのだが、今朝になってようやく姿を見せたシリウスは、ルーレルの予想どおり、エンジュが愛車をいじるのをきっぱりと遠慮したのだそうだ。
 シリウスの拒否は妥当な選択だと思う。おれだってエンジュに車を任せる気にはなれない。
 エンジュもネットライナーなら、手間暇のかかるネット検索の代行やデータ整理の手伝いを申し出ればいいのに、何故わざわざ不得意な肉体労働などを言い出したのだろう。自分にとって簡単すぎることでは礼にはならないと思ったのかも知れないが、別にエンジュが苦労を買って出ても誰も嬉しくはないのだ。まだその辺りがわかっていないらしい。
 話を聞いてもらいたいのか、それとも恩返しするつもりが当てが外れて考えあぐねているのか、エンジュがまだ立ち去る様子を見せないので、製図台の前から立ち上がってルーレルは声をかけた。
「ちょうどいい、よければおれの車を洗うのを手伝ってくれないか?」
 エンジュはとたんにはじけるような笑顔になってうなずいた。
 小柄な体格と落ち着きのない性格、おまけにサブマシンガンのようなおしゃべりのせいでいつも「坊や」扱いされているエンジュだが、皆が言うほどには天邪鬼でもないというのがルーレルの評価だ。協力という形で対等に物を頼めば、エンジュはたいてい喜んで引き受けてくれる。物は言いようなのだ。他のメンバーもその辺を心得ればもっと巧くエンジュと付き合えるのにと思うのだが、それがわかっているのは今のところブローカーであるジョーカーだけのようだ。一番逃げ切れない相手に手綱を操る術を悟られているとは可哀想に。
 ルーレルの苦笑の訳も知らず、エンジュが寄ってきた。
「ねえ、どの車洗うの」
「あっちにある車さ」
 ルーレルは手招きし、ワンフロアぶち抜きの広いガレージの隅にエンジュを連れていった。防護シートの下で自己主張をせず、静かに休んでいるのは私用にだけ走らせて仕事では使わないことにしているルーレル個人持ちのコミューターだ。
「この前、雨に降られちまったから、ワックスを塗り直すんだ。まず洗剤で雨の有害な成分を洗い落としてから…どうした?」
「ふうん…」
 エンジュがしげしげと車を眺めて、複雑な表情を見せた。
「僕、あまり車のこと知らないんだけど…なんかすごい…普通の車なんだね」
 ルーレルはエンジュの婉曲的で素直な感想に微笑した。
 搭載火器を満載したアヤコの真紅の野戦ワゴンや、シリウスのプレミア付きの特殊バギー・MAX−7を見た後では、この車がいかに平凡でしかも弱そうに見えるかは充分承知している。
「おれが車ってものに本気になって初めて買ったやつなんだ。実際にはかなりの年増だよな。外見はどうあれ、大事に使えばそれでも充分もつってことさ」
「ふうん…」
 専門家であるルーレルの言うことを疑っているわけではないのだろうがどこか淡泊なエンジュの反応に、柄にもなく初恋の相手の自慢をしたくなってルーレルは愛車のロックを外した。
「出掛けよう」
「でも洗車は?」
「こいつが洗ってもらう前におまえに乗ってほしいって言ってる」
 手動式の扉を押し開けてやると、エンジュはそれ以上逆らわずに助手席に乗り込んで来た。
 いまどきデジタル表示でない計器類を珍しそうに眺めている。
「シートベルトをしとけよ」
「うん」
 四点式のシートベルトに戸惑いながらエンジュが準備を終えると、ルーレルは車を発進させた。
 加速はなめらかに、振動も少ない。わかる人間ならそれだけでこの車の良さが理解できるところだが、残念ながらエンジュには何の感慨も呼び起こさないようだ。そんな期待もしていなかったが。
 一般道でまごつくことはせずに、ルーレルは軽くステアリングを切ってハイウェイに駆け上がった。
「どこに行くの?」
「行きたい所はあるか? なければこのまま気の向くままに走らせるってのもいいもんさ」
 他意のない素っ気なさがルーレルの性格なのだろう。運転しながら雑談で賑わそうとするわけでもないし音楽もラジオもかけていない。ルーレルにとって運転そのものの他に気晴らしなど必要ないのだった。
 何故連れ出されたのかもよく理解できていないエンジュは今はまだおとなしく座っている。
 ハイウェイでは防音壁に遮られて景色を見ることもできないので、普段は注目することもない周囲の車を眺め回してみた。車の型など流行と好みの多数決なのだろうが、何げない大衆車でもスマートに見えてしまうほどルーレルの愛車は型が古い感じがする。おまけに洗車前だ。すれ違った運転手の何人かが場違いなものでも発見したかのような目付きでルーレルの車を眺めていったのにエンジュは気づいた。なんとなく恥ずかしい。
 ハイウェイはいまのところスムーズに流れていたが、いつ事故になっても不思議はないほど無謀な運転が横行していた。ブースターギャングやロードラッシャーの活動も含め、最近のハイウェイの走行マナーの悪さは問題になっている。
 今もエンジュの視界をものすごいスピードで走り抜けて行った白いスポーツカーが無理な車線変更で目の前に割り込んで来た。突然ブレーキをかけてスピードを落としてくる。ぶつかると思ったエンジュは思わず身を縮めたが、ルーレルは平然と走り続けた。
「あの人、運転下手だ。気をつけてね」
 エンジュが言うと、ルーレルは片笑みを浮かべた。
「まったくだ」
 白いスポーツカーをかわして前へ出る。すぐ後ろにつけたスポーツカーがパッシングで威嚇してみせた。
「ねえ、後ろの車ライトをチカチカさせてるよ」
 エンジュが報告すると、ルーレルは微かに声を立てて笑った。
「エンジュ、サンルーフを開けるから手を振って答えてやりな」
「ん」
 エンジュがシートベルトを外してシートの上に膝乗りになる。サンルーフから頭を出して、ライトを指さしながら両手を振り回した。
「電気壊れてるよー」
 ルーレルは右手をギアから放して、ハンディカメラをエンジュの脇腹に押し付ける。
「カスティン社の新作スポーツカーだ。記念に撮っておこう」
「うまく撮れるかなあ」
 エンジュが言われたとおりにファインダーを覗く。あまり扱ったことのないハンディカメラで上手に被写体を写そうと一生懸命になっているエンジュを見て、ルーレルは思わず笑みをこぼした。頃合いを見計らってシャツを掴み、中に引きずり戻す。
「どうしたの?」
「もういいだろう、ちゃんとシートに座りな。来るぞ」
 カメラを胸に抱えたままシートに腰を落としたエンジュは、今になってようやくルーレルが何を意図していたのか気づいたようだ。
「挑発してたの?」
「先にあっちがパッシングしたんだ、答えてやらなきゃ失礼だろう。それに前に割り込んできたのだってわざとだ。こいつを化石と思って馬鹿にしてる奴にはきちんと礼をしないといけないからな」
「やっぱり皆そういうの好きなんだ」
 車に乗るたびに何か事件に巻き込まれているらしいエンジュは観念したように言った。
 誤解があるようだが、まあいいだろう。
 ちらりとエンジュを見て、ルーレルはカーチェイスに専念する前に一言だけ言った。
「シートベルトはしとけ、ぶつかったら空を飛んでっちまうぞ」
 そして、横に並びかけ、車体を寄せてきた白いスポーツカーに後足で砂をかけるように加速する。ギアチェンジとフットブレーキで巧みに車の間を擦り抜け、時には追いすがってくるスポーツカーの進路をわざと妨害してやる。邪魔な車のいない直線では思い切りアクセルを踏み込んだ。
「嘘っ、この車速いっ!」
 エンジュにもようやくわかったらしい。ついさっきまで怖がってシートの上で身を縮こませていたのが一転して歓声をあげる。
「すごい速いよ。信じられない。スポーツカーが全然敵わないよ」
「大切なのは外見じゃないってこと。何事もね」
「うん! こっちの方がずっと素敵!」
 あまりに素直に絶賛されて照れ臭くなったのか、ルーレルはトレードマークのアポロハットのツバを目深に下ろした。カーチェイスをしながらそんな余裕さえ残している。
 スポーツカーが何度もスパートをかけてくるが、ルーレルは一度も並ばせない。かと言って引き離してもしまわないのだ。完全な挑発。
 それもそうだ。初恋の君を馬鹿にされればいつも温厚なルーレルだとて黙ってはいない。
 スポーツカーの運転手が喚いているのがバックミラーに小さく映っている。そうとう気がたっているようだ。骨董品のような旧型車にスポーツカーが簡単に押さえ込まれては当然だろう。
 左回りのカーブに差しかかったところでスポーツカーは内角に鋭く切り込んで来た。こうなれば接触を厭わない覚悟らしい。
「馬鹿だねぇ。純粋に走行テクニックだけで勝負できないのか」
 車を故意に傷つけるようなアクションを望まないルーレルは衝突を回避しようとした。軌跡がわずかにふくらむ。
 白いスポーツカーはインコースに陣取り、圧しかぶさるようにして車体を寄せてきた。壁に擦りつけるつもりらしい。アウトコースな分、距離を食うがそれでもスピードを上げて振り切ろうとしたルーレルの前方を鈍色の野戦ワゴンが塞ぐ。
 ルーレルが初めて舌打ちしてみせた。
「こいつらグルだな」
「ぶつかっちゃう」
 助手席にいるせいで外壁により近いエンジュが不安げな声をあげた。
 幾分、脅えてはいるが、取り乱していないのはルーレルを信用してのことなのだろう。
「心配しなくていいよ」
 ルーレルはミラーに視線を走らせて周囲の状況を確認した。
「1、2の3でブレイクするぞ」
「ブレイクって何!」
 エンジュが慌てて叫んだ。
「急減速のことだ。身構えろ。1、2の…」
 エンジュが両手で頭を抱えた。
「3!」
 ルーレルの掛け声と同時にいままでと逆のGがかかる。
 当然ながら、このスピードで単にブレーキを踏んだだけでは車体がスピンしてしまう。ルーレルはクラッチを思いっきり踏み込み、ギアを1速下に叩き込んだ。即座にクラッチを元に戻す。
 エンジンが低いうなりを上げた。エンジンブレーキだ。
 自然の成り行きで身体が前にもっていかれてしまうが、ルーレルの視線は前方を見据えたまま揺るがない。
 いきなり目標に擦り抜けられたスポーツカーは酔ったようにぐらつき、ワゴンにしなだれかかった。接触の衝撃にワゴンもハンドルを失いかける。
 このごく僅かな間に行動できたのはルーレル一人だった。そのままの状態でアクセルを踏み込み、一瞬にして追いついたルーレルはインコースをキープして立場を逆転させる。だが、相手を恐慌状態に陥らせるほどには車を寄せず、軽くハザードを瞬かせて鮮やかに抜き去った。
 相手にその意図があったとはいえ、お返しに故意に事故を起こさせるつもりはない。ここはメタル・コロッセオやアタック・サーキットではないのだ。
 相手もこれで勝負は捨てたようだったが、それでもルーレルはしばらく火器で攻撃されるのを用心してアクセルを踏み続け、充分に距離をあけてから傍らのエンジュの安全を確認した。
「どこかぶつけたか」
「ううん、平気」
 エンジュは水気を切ろうとする子犬のように頭を振った。
 シート越しに後ろを振り返る。
「もう追っかけてこないみたいだね」
 ルーレルは苦笑した。
「あいつらは、な」
「え?」
 向き直った前方のパーキングエリアで黒い影がふわりと立ち上がり、青い回転灯が目を覚ます。
「HiPの待ち伏せだ。さぼってたのかも知れないが」
「どうするの」
「一日に二度もブレイクはさせないことにしている。車に負担がかかってあまりよくないんだ」
 スピードを緩めようとしないルーレルに、当然のことをエンジュは告げた。
「このままじゃぶつかるよ」
「ホバイクだ。避けて飛ぶだろう。どかなきゃ進路妨害でこっちが訴える」
 HiP隊員が手で停車を指示してきたが、ルーレルは無視して突っ込ませた。HiPのホバイクは煽られたように斜めに流される。
「僕、飛んでるホバイクって近くで見たことなかったんだ」
 エンジュは喜々として報告する。
 走行中のホバイクに近づいても圧縮空気の噴射で吹き倒されるのがオチだとわかっていればエンジュもそんなことは考えないだろうと思いつつ、ルーレルは黙っていた。
 エンジュは後方に置いていかれたホバイクを興味深げに目で追っている。
「ホバイクってあんなに高く飛ぶんだあ」
 ルーレルはミラーでちらとだけ確認した。
「改造車だよ。普通はあんなにパワーはない」
 軽く肩をすくめて再びアクセルを踏み込む。
「なんて警官だ。あれ相手じゃ遊んでもいられないか」
 その言葉の語尾にサイレンの音が重なる。HiPが本気になったらしい。
 加速のGがエンジュの体をシートに押し付けた。
「ん…う」
「ちゃんと座ってろ。しゃべると舌を噛むぞ」
 あまりのスピードに、衝撃吸収シートでさえ背骨に食い入るようで痛い。そんな中でもルーレルの操作は安定している。高G下の運動に慣れているのだろうが、それでも大変なことだ。
 コンピュータに作業を分担させればいいのにと思ったところで、遅まきながらエンジュはこの車がある意味『生身』なのに気づいた。事故回避の安全操縦装置や目的地への経路選択誘導システムといったコンピュータ制御機器がいっさい搭載されていない。純粋にルーレルのテクニックだけで操縦されているのだ。こんな時代に、信じられない。
 リアウィンドウに一瞬、影が落ちかかったと思ったらHiPのホバイクが運転席側につけて来た。高度を落としてウィンドウをノックする。
「もう追いついたのか。化け物だな、こいつは」
「なんか言ってるみたい」
 黙っていろと言われても長続きしないエンジュは声を絞り出した。
「ホバイクの騒音はとんでもないからな。窓をあけてもどうせ聞こえやしないさ。そもそも警官なんてマニュアルどおりの台詞しか言えないんだから、聞いてやる必要もない」
 ルーレルは車体を鋭角にすべらせてホバイクから離れた。
 カーチェイスのシーンにおいて、電気エンジンの欠点はパワーがないということに尽きる。だが、ルーレルは四輪のすべてに設置した独立駆動システムを生かした機動性でそれを十二分にカバーできた。
 前方を確保したところでギアを叩き落としてアクセルを踏み込む。瞬間的にエンジン回転数が跳ね上がり、あっと言う間にホバイクを引き離した。
 電子制御されていないヴィークルならではのテクニック。エンジュには説明するだけ無駄だろう。
「どこまで逃げるの」
「さあ」
 ルーレルは肩をすくめた。 
「少し…寝てていい?」
 妙なことを言い出したエンジュを横目で見て、ルーレルは緩やかにスピードを落とした。手近な避難帯に車をすべり込ませる。
 当然ながら瞬く間に追いついてきたHiPのホバイクが、この後に及んで素直に停止指示に従った相手をいぶかしみながら、ルーレルの進路を塞ぐ形に降り立つ。
「車から出ろ」
 ルーレルがドアを開けて立つと、HiPオフィサーはルーレルの頭から足元までをスクロールするように眺めた。バイザーに組み込んだセンサーで武器の有無を確認したのだろう。ルーレルが丸腰とわかるとオフィサーはある程度の距離まで近づいて来た。
「始めに止まれと合図したのがわからなかったか?」
「チェッカーフラッグを振っているのかと思ったよ」
「ここまでファイナルラップ?」
「ウィニングランだ」
「おめでとう。あいにくシャンペンはないぞ」
 調子を合わせて挨拶を済ませたオフィサーは車の方に顎をしゃくる。業務用の声に戻って言った。
「もう一人乗ってただろう。下ろせ」
「気分が悪いと言っている」
 オフィサーは車の中をのぞき込んだ。ぐったりしたエンジュを見て声をかける。
「大丈夫か?」
「うん…」
「念のために聞くが、誘拐されてきたわけじゃないな?」
 エンジュは微笑した。
「誘拐でも駆け落ちでもないよ」
「オーケイ。休んでていい」
 言ってからもオフィサーはしばらく車内を確認するように見回していた。
 特に怪しい積み荷もなさそうだ。もっとも密輸車はHiPの指示で停車したりはしないものだが。
 オフィサーは車から体を離してルーレルの方に向き直った。警官の標準装備であるIDアナライザーを取り出す。サイバーウェアとして左手の指先にインプラントされているアクセス・ファイバーの記録を読み取って犯罪歴や手配の有無を確認する道具だ。警官がIDの提示を求める行為は法で認められている。
「手相を拝見」
「無駄だよ。アクセス・ファイバーは埋めてない」
「何?」
 オフィサーがバイザーの奥で渋い顔をしたのがわかった。この街において、市民権たるアクセス・ファイバーを持っていないということは難民かアウトローと主張しているに等しい。オフィサーの態度が硬化するのも当然と言えた。
「キャッシュで払えるのか? 罰金300ドルだぞ」
「俺が何かしたのか?」
「ハイウェイをサーキットと錯覚した。認識障害ってとこか。時速150マイルで目の前を駆け抜けたのがS型イオニアに見えたときは俺の方が認識障害を起こしたかと思ったが、どうやら本物だな。整備もあんたが?」
「当然だろ」
 ごく控えめにルーレルは答えた。
「音と性能からしてエンジンは積み替えてあるようだな」
「さすがにオリジナルが残っているわけがないよ。ランダムKT−Uだ」
「ブレーキはどうしている」
「前後輪連動パワー・アシスト付き対向ピストンの四輪ディスク、アンチロックシステム装備だ」
「イオなんてしおらしい名前はやめてミノタウルスに改名したらどうだ?」
 オフィサーはつい職務遂行を失念して車の方へ一瞥を投げかけた。彼もヴィークル・マニアの類らしい。HiPの連中はたいていそうだ。中にはやたらと違反車を没収したがる警官もいると聞く。
「よくイオニアを基にそこまで改造できたな。こんなクラッシックを走らせていたら、かえってちょっかい掛けられないか?」
「今しがたもね。ウィニングランだと言ったろ」
「やっぱりハイウェイをサーキットだと思っているな? 残念ながら才能と犯罪は別問題だ。調書に同意するか?」
 ルーレルは悪びれた様子もなく答えた。
「認識障害は言い過ぎだな。サーキットならもっと走りやすく整備されている」
「失礼。俺にはタイヤで走る感覚はわからない」
 オフィサーは背後のホバイクを指さした。確かにホバイクなら凍結路だろうがオフロードだろうが関係ない。
 電子ペンを備えた違反チケット台紙を取り出す。
「アクセス・ファイバーがないなら別の身元証明を提示してくれ。何もないと身元が確認できるまで署にお泊まりいただかなくちゃならない」
 ルーレルは拒否した。違反の承認すらも。
「俺に落ち度があれば素直に認めよう。だが、まだ誰にも迷惑はかけていないぞ」
「俺の仕事を増やしたことを除けばな」
 オフィサーもへらず口では負けていなかった。
「教えてほしいんだが、ハイスピードで走ることのどこが罪だ? おれが何か問題を起こしたのか? HiPといえども、問題を起こす前から逮捕する権利があるとは思えないな。あんたらが本当に逮捕すべきなのはもっと別の人間だろう。本当に罪を犯している奴らだ。
 無害なヴィークル乗りを追い回して権威をひけらかすような真似は卒業したらどうだ」
「言うね」
 オフィサーの唇が不敵に歪む。ルーレルはバイザーで隠されたオフィサーの目を正面から見据えて反らさない。
 ふたりの言い争いを心配してエンジュが窓から顔をのぞかせた。
「ルーレル…」
 まるで鏡像のように対称的な動きでふたりが振り返る。オフィサーが耳打ちするように言った。
「何が無害だ。可哀想に。あの子、真っ青だぞ。180も出すからだ」
「180出ていたか?」
「もっとだ」
 オフィサーは肩をすくめて電子ペンをブーツに挟んで背を向けた。
「もういい。病人に免じて厳重注意にて閉廷。早く連れ帰ってやれよ」
「違反キップをくれ」
「なに?」
 オフィサーが大声を出すのも当然だった。
「おまえ、今…」
「違反スピードが記録されてるんだろう。記念に残しておきたいのさ」
「だあっ、このひねくれ者が!」
 大袈裟に騒いでみせてから、オフィサーは手帳型ポケット・コンピュータで違反キップを弾き出した。
「ほら、HiP公式文書の違反記録だ。最高時測定スピード時速184マイル。俺の直筆サイン入りだ。プレミアが付くぞ」
 ルーレルは半券に違反を認めるサインして返した。オフィサーのサインを見て微笑する。
「あんた《俳優》さんだったのか。スタントマンかと思っていたよ」
「どうでもいいが、スピード認定料300ドルよこせよ」
「一分だけ時間をくれ」
 ルーレルは言って、エンジュを呼んだ。
「さっきのカメラ持ってきてくれ」
 エンジュが言われたとおりにすると、ルーレルは避難帯に設置されている緊急連絡用端末のところにエンジュを連れて行った。
「少し無理してくれるか? さっきの車のデータを引き出したいんだが」
「いいよ」
 エンジュはハンディカメラの映像端子を端末に接続する。そしてHiPオフィサーが持っているポケット・コンピュータよりコンパクトなマイクロ・デッキをホルスターを改造したポケットパックから取り出すと端末の別のコネクタに繋ぎ、左手をスリットに当てたまま右手だけで画面を操作した。
 車種、塗装、タイヤの溝紋、オプション機器と検索値を狭めていく。
 短い電子音がして、コンピュータはたった一台の車を特定した。
「やっぱり盗難車だろ」
「うん。おまけに傷害事件をおこしてる手配車だね。乗員込みで賞金は550ドル」
「おい」
 画面を覗きこんでいたオフィサーが戸惑ったような声をあげた。
「それは本庁の犯罪データベースの記録じゃないか。なんでお前がそんなとこにアクセスできる…」
 エンジュはオフィサーを振り仰いだ。
「いいんだもん。ちゃんと許可もらってるもん」
「誰にだよ」
「ギルド」
 ぽつりとルーレルが告げた。
「ギルドって…おまえらハンターか?」
「そうだよ」
 きっぱり答えるエンジュの横でルーレルも控えめにうなずいてみせる。
 アクセス・ファイバーのないアウトローとアクセス・ファイバーを持たないハンターでは存在理由がまったく違う。
「ハンターね」
 オフィサーは肩をすくめてみせた。
「司法取引といかないか、アクター」
 画面を示してルーレルが言う。
「300ドルの代わりにこいつを譲るよ」
「確実な情報を持っているのか?」
「ああ」
 ルーレルはハイウェイ本線に目をやった。
「後一分ってとこかな。事故を起こしてなければの話だがね」
「買った」
 オフィサーは手元の罰金請求書をちぎって捨てた。エンジュには軽く手を上げて挨拶をし、ホバイクの方へ駆けていく。
 エンジュは口に手を当てて叫んだ。
「気をつけて。あっち、仲間のワゴンがいたよ」
「オーケイ。こっちも仲間を呼ぶ」
 オフィサーは喜々として答えた。
「ルーレル、250ドルの借りになったな。次回の違反は見逃してやるよ」
「それならプルトニウムでも密輸しよう」
 ルーレルのつぶやきは、すでにホバイクのファンをかけていたオフィサーには聞こえていなかっただろう。オフィサーは旋回の間際に敬礼をして去って行った。
 ルーレルは違反キップをエンジュに渡す。
「HiPのお墨付きスピード認定書だ。いるかい?」
「うん」
 エンジュはソフトケースに違反キップを大事そうにしまいこんだ。
「悪い警官じゃなくてよかったね」
 ルーレルは肩をすくめた。
「元は同類だからね」
「ルーレル、あの人知ってたの?」
「さあ。人違いかもしれない。顔見せてくれなかったし」
 ルーレルはゆっくりと愛車の方へ歩きだした。エンジュもデッキ類をとりまとめて後を追う。
「気分、大丈夫か?」
「うん。平気。コンピュータいじってると直るの。ドライブもおもしろかったし」
「ほう」
 エンジュは一生懸命ルーレルと足並みをそろえた。
「もう帰るの?」
「捕り物が始まったら渋滞になりそうだしな」
「帰ったらさあ」
 エンジュがルーレルの先回りをして笑いかけた。
「僕にこの車、洗車させてね。丁寧にやるから。僕、この車好きになったよ」
「よろしく頼むよ」
 エンジュはこくりとうなずいた。なおも口を開いてしゃべりかける。
「それからね、お願い」
 エンジュははじけるように笑った。
「また今度乗せて!」
「ああ」
 ルーレルは答えて、照れを隠すようにキャップのツバを目深に下ろした。
「いいとも」

 そしてふたりを乗せたオールドカーはなめらかに滑り出した。

     (完)