彼女は高校一年生。
学校に毎日行かなければならないし、課題を家でやらなければいけない日も多い。部活動には入らなかったようだが、それでも帰りは日によってまちまち。そ
れなりに楽しそうな様子を見ているのは、こちらとしても安心出来るというものだが、そうして自分の知らない彼女が、他の場所に居るのだと思うと少し寂し
い。
学校での彼女は、家にいる時とは違う表情を見せるのだろうか。
「あ、明神さん。明日から私林間学校だからね」
「は?」
洗濯物を並んでたたんでいた夕暮れ、突然姫乃はそんなことを言った。明神は“りんかんがっこう”が何を意味するのかしばし考えたあと、恐らく学校行事な
のだろうと見当をつける。
「二泊三日でキャンプに行くの。すっかり言うの忘れてたよ」
「キャンプかー…へーキャンプ…って二泊!?明日から!?」
「うん、明日から」
準備はもう終わってるんだけど、と言い忘れた事を笑って誤魔化しながら、姫乃は自分の分の畳まれた洗濯物を持って立ち上がる。そのまま部屋に戻ってしま
うのだろうと気付いて、慌てて明神はその腕をとった。
「ちょ、ひめのん、明日からって、キャンプって」
「学校からバスで行くんだよ。おみやげは忘れないようにするから…」
「おう、ありがとう…ってそうじゃなくて!!」
二泊ということは、二回外泊をするということだ。ということはつまり、三日間彼女はうたかた荘に居ないことになる。誰とも知らない同級生達と、山でキャ
ンプファイアーを囲んだり寝食を共にするというわけだ。
「そういうことは…早く言ってくれないと…」
「あ、ごめんね。もしかして明日のご飯の材料買った後だった?」
「いや、別にそういうわけじゃないんだけど…そうわけじゃないんだけどさ…」
きょとん、と目を丸くしている少女に、それ以上食い下がることが出来ない。行くななどと言うつもりは毛頭無いが、それでも突然何日も家を空けるような事
態に動揺はした。明神は小さくうなり声をあげたあと、掴んでいた姫乃の手を離し、ため息をついた。
「明日…何時に出て、明明後日、何時頃帰ってくるの?」
「えとね、明日の集合は学校に8時で、帰りは…確か学校に夕方5時くらいだったと思うよ」
ということはとどのつまり、うたかた荘を出てから帰ってくるまで実に58時間姫乃の顔が見られないということだ。果たしてそれが長いのか短いのか明神に
はサッパリわからないのだが。
「えーと、他に質問とか、聞きたいこととか?」
「へ?いやいや、ナイナイ。きをつけてイッテラッシャイ」
「あはは。出発は明日だよ」
まったく送り出す気など無い「いってらっしゃい」の台詞がなんとも白々しい。学校に送り出すように気持ち良く明日、彼女を送り出せるだろうかと不安に
なった。階段の方へその小さな背中が消えていくのを確認した後、明神は力なく肩を落とした。
「…はじめてのお留守番でもあるまいし」
大の大人が情けない、とでも言うように電柱の上の烏が嘲るように鳴いた。
○月×日 朝 とりあえず無事にひめのんを送り出す。顔引きつった。
昼 いつも通り仕事。いってきます。
夜 晩飯はカップ麺。久しぶりに一人で夕飯食べた気がする。
○月△日 朝 寝坊した。エージに呼ばれるまでじーさんからの電話に気付かなかった。
昼 突然TVが映らなくなったのでアンテナ修理。ついでに雨漏り修理。
夜 ひめのんから電話。時間が無いらしく、明日帰るとだけ。
あ、飯ちゃんと食えって釘刺された。仕方ないので野菜炒めを作った。
○月□日 朝 いつもより早く目が覚めた。寝てた方がよかった。まだ帰ってこないし。
昼 落ち着かないからその辺散歩にいってきます。
…さっきエージに真面目に日誌つけろって怒られた。今日は快晴。
散歩のコースはいつもと同じ。うたかた荘を出て、公園をぐるっと一回りして、馴染みの寺に居る墓地の住人に挨拶をして、街が一望出来
る小高い丘を通って、姫乃の通う学校を過ぎれば商店街を通過するだけ。
いつもよりゆっくりと、時間をかけて歩く。偶然そこを歩いているなら、何もやましいことなどありはしないはずだ、とそういう考えそのものがやましいとい
う事実に蓋をしながら。夕方の5時まであと少し。姫乃の学校までも、あと少し。
「ん、バスが居るな…」
校門を遠目に見ながら学生達がワイワイと集まっている様子を確認する。さすがに学生服の群れる中まで足を運ぶ気にはならなかった。逆に怒られかねない。
保険のつもりはさらさらないが、今日はサングラスもポケットにしまっているし、コートも着ていないからそれほど怪しい人物Xでは無いはずだ。明神は自分の
格好など今まで気にしたことも無いのに、と情けないやら恥ずかしいやらで眩暈がした。
未成年を好きになるということは、こういう事なんだろうか。
仮に相手が姫乃ではなく、同じ年くらいの女性であったならきっとこんな気づかいはしない。もっとも、そんな事態でさえおおよそ想像も付かない毎日をこれ
まで送ってきたのだけれど。
解散した学生達が、各々校門を出て家へと帰っていく。あの中に姫乃が居るはずだと、セーラー服を着た黒い髪の少女を捜した。
「…ダメだ、やっぱ帰ろう」
明らかに自分はおかしい。端から見ると、明らかにおかしいのだ。別段弟や妹を待つ父兄のふりをしていれば問題などないのだけれど、自分の胸の内にふつふ
つと湧く姫乃への熱が明らかにおかしい。いつもと違う。
危険だ。
姫乃が、ではなく、自分が。
踵を返して校門に背を向ける。商店街を通らずにこのままうたかた荘に帰ってしまおうと早足になったところで、背後から駆けてくる足音が聞こえた。
「明、神、さん!!」
「へ?」
振り返った先に、大きなドラムバック。
「ぬおッ!!?」
「あ、ごめん!!」
姫乃ではなく、バッグをしっかり抱きとめる。予想より若干重かったそれに、ぱちくりと瞬きをしながら頭一つ下に視線を向けてその顔を確認した。
「ただいま!迎えにきてくれたの?」
間違いなく、そこには姫乃。カァっと顔が赤くなるのを感じたので、慌ててバッグでを顔の前に持ち替えながら天を仰いだ。
「あ、いや、ぐ、偶然!偶然、ね!!」
「ふーん?偶然?」
「う、ええと、その、迎えにきました…」
「ふふふ…ありがとうー」
上を向いたまま、姫乃に背中を押されて歩き出す。バッグを右肩にかけ直して、左手でかりかりと頬を掻いた。姫乃がその手を取って、顔をのぞき込んでく
る。
「ねぇ、まだおかえりって言って貰ってないよ」
視線を合わせないように、でも近くにある筈の彼女の足を踏まないように、意識を散漫なものにしながら明神はかろうじで返答する。
「そ、そうだっけ?」
「うん、私ただいまって言ったのに」
「ごめん…じゃあ、おかえり」
「じゃあって…明神さん、おかしーよ。それになんで顔みて言わないの?」
「だあーーー勘弁してくれよっ」
詰め寄ろうとした姫乃を、逆に引き寄せて腕に抱く。3日ぶりに触れた髪や背中、ただそれだけで心臓がはじけ飛びそうだった。右肩にバッグを抱えていな
かったら、そのまま抱き上げてしまったかもしれない。
「みょ、明神さん?!」
「顔見れないの!よくわかんねーけど、今ひめのんの顔、見れない!無理!!」
「な、何それ?こういう事は出来るのに???」
「ここここれは弾みだっっ」
思い切りどもりながら明後日の方向を向いたまま、明神は姫乃を抱いた左腕の力を緩めた。触れたいとは思っているけれど、でも実際弾みでもなければ彼女を
抱くことなんて滅多にしない。その滅多がたまたま今だっただけだと、気恥ずかしさで死にそうになりながら柔らかい熱を離した。
つもりだった。
「…明神さん、この微妙な手を、どうにかして貰いたい…かもしれないんだけど」
「す、すいませ…ん…離したくないみたい…です?」
「私に聞かないでね…」
抱き締めるほどの強さは無く、でもしっかりと腰に手を当てて、姫乃の身体は離れることも出来ないまま胸の中にあった。頭では恥ずかしいと思っているの
に、どうにも体は一度触れてしまった暖かさを貪欲に欲していた。
会えなかった分少しでも長く触れていたい。
「…ごめん、ひめのん…なんか、情けねぇけど…もうちょっと…こうしててもイイデスカ」
「いいけど、ここ学校近いって事忘れないでね…?」
「う、すいませ…っ」
思えばここは道ばただった。
幸いにも通行人は殆ど居ない大通りからは外れた路地だけれど、全く人が通らないわけではない場所でのこういった行為は、ご近所様の手前――この場合学校
だろうか――あまり好ましくない。というかむしろ通報されたら困るのは明神だ。
「もー…しょうがないなぁ?」
「ひ、めのん?」
すっと延びた細い指が、赤く染まった明神の頬を撫でた。ドキドキと高鳴る胸と、期待に膨らむ本能の波に促されて、目線を姫乃の方へ合わせる。そのまま首
の後の方へ回った手に、自然と明神の顔も屈み込んでいって―――
「いでーーーっっ!!!?」
「ホラ帰るの!」
「いだいっ痛いってひめのんっ耳っ耳痛い痛いっ」
アズミがエージにされているように、思い切り耳を引っ張られて思わず飛び跳ねそうになる。その拍子に外れた腕に、姫乃はスタスタと歩き出した。当然耳を
掴んだまま。
「ひ、姫乃さん、あの、耳、すっげー痛い!痛いから!なぁ!!マジで!!」
「知りません」
「マジでーーー!??!」
ずるずると耳を引っ張られるおかしな体勢のままうたかた荘への道を歩き出す。右肩のバッグだけは落とさないようにと気にしながらも、掴まれた左耳が痛く
て泣きそうになった。
「ひめの〜ん…しくしく」
「家まで我慢しなさい」
「ちょっこれ家までなの!?」
「着いたら離してあげるよ?」
にっこりと笑った顔が、赤く染まっていたのに気付くはずもなく。
「悪かったってばーーーっ」
情けなさを一杯に身に纏わせたまま、明神は姫乃の居る日常へと戻れる幸せだけを胸に、あと数分続くであろう耳の痛さに悲鳴をあげた。
本当は、家に着いたら続きしてもいいよ、なんて。
姫乃が言おうとしていることにも気付かないまま。
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