ブライトネス
なんどもなんどもみた そらにきえるひかりのむれ
あのひとはなにをおもってかれらをヒカリにかえすのだろう
朝起きて最初に考えること。
今何時だろうか。天気は晴れだろうか雨だろうか。授業の準備はちゃんと昨日のうちに終えていただろうか。そして、今日も住人のみんなは元気だろうか。
「あー…雨だ…やだな」
窓を打つ水音に顔を顰めながら、姫乃は布団の中でもぞもぞと体の向きを変えた。雨の日はいつもより登校に時間がかかる分、家を出る時間を早めなければいけない。
気合いを入れて体を起こし、少し肌寒さに怯みながらも枕元に置いておいた着替えを手に取る。髪を整えて制服を着込んでカバンの中身をチェックしたところで、やっと外の景色に目を向けた。
窓からのぞく風景は遠くに四角い建物の建ち並ぶ、未だに自分の住む街としては見慣れないもの。けれどもう、数えるのもバカらしい程見慣れたもの。少なくともあと二年と少しの間、ここから学校へと通う毎日は変わらずに続いていく。
何事もなければ。
「さて、今日は何処で寝てるかな…明神さん」
そんな心配をしながら、でも実は楽しみでもある管理人の寝相を思い浮かべる。一度としてまったく同じ場所に居たことが無い明神は、いつだって姫乃の予想とは違う場所にいた。
階段を降りながら下を見る。どうやら今日はここには居ないらしい。廊下を見渡す限りその姿がみえないので、もしや外にでも出てしまっただろうかとさすがに不安になった。リビングへ入った所でやはり何の変化も無いので、慌てて玄関から外へ出る。
「わっ…」
風にのって舞い上がったしぶきが顔に当たった。そういえば外は雨だったと思い出して、さすがにこの天気の中道路や庭で寝ていることは無いだろうとため息をつく。そういえば玄関の扉は閉まっていたではないか。
「おかしいなぁ」
首を傾げながら中へと戻り、もう一度視界をぐるりと回した時、突然管理人室の扉が開いた。
「あ、れ?」
「ん?」
かき回したようなボサボサの頭と、寝不足なのかいつもより細い目で明神が振り向く。そして玄関に立ったままの姫乃にぎょっとしたような顔をすると、何故か二、三歩後ずさりをしたあと、一気にリビングの窓の辺りまで後退した。
「が、学校は?!ひめのん!?」
「へ?これから行くけど」
「なんだ…玄関閉まる音がしたから…てっきりもう出たのかと…」
ひっくり返った声に、傍目にも動揺しすぎな様子。あまりといえばあまりのその朝一番の反応に、姫乃の表情が曇った。
「私が学校に行ったと思ったから、部屋から出てきたの?」
「…っ」
明らかに「失敗した」と顔に書いてあった。明神はサングラスのかかっていない顔が落ち着かないのか、右手で額を覆って俯いている。
間違いない。彼は自分に会いたくなかったのだ、と姫乃は理解して、床に放り投げてあったカバンを持った。朝食をとっていないことも、誰一人として他に住人に挨拶をしていないことも、彼が管理人室から一歩も外へ出ていなかったことも、どうでもよくなった。
「じゃあご希望通り学校へ行きます。二階の廊下雨漏りするかもしれないから気をつけて下さい。いってきます」
感情をなるべく込めないようにわざと敬語で述べると、傘を掴んで外へ続く扉を開ける。ドアが閉まる一瞬前に、ぽつりと小さく明神の声が聞こえた。
「あ…いってらっしゃい…」
その声は、あまりに控えめだった。
*
雨上がりの夕暮れ、学校帰りに偶然公園に居るアズミを見つけた。姫乃は周囲に明神の姿が無いことを確認してから、野良犬にかまっているアズミへと近づく。
「アズミちゃん一人?」
「あ、ヒメノおかえり!」
ぱっと顔を上げて笑った顔に、朝からの不機嫌も消えていった。足下に寄ってきた野良犬を軽く撫でたあと、姫乃はカバンを逆の手に持ち替えてアズミを見下ろす。
「明神さん一緒じゃないの?」
「明神はおしごとだよ。だからアズミ一人で遊んでたの」
「ふぅん…エージ君は?」
「エージは野球みにいったよ」
犬にも彼女がみえるのだろうか。ひらひらと手の平を顔の前でちらつかせるアズミに、落ち着かない様子で視線を動かしている。そういえば動物は人間よりもそういう系統の気配に敏感だということを思い出して、霊という存在が生きている人間に認識されている以上に、確かなものだという事を姫乃は改めて知った。
触ることは出来なくても、彼らにとってみればこの世に存在するという点においてのみ自分たちと何も変わらないのだ。
明神はその事を、どう考えているのだろうか。
「明神さん、何処へ行くとか言ってた?」
「うんとね、おっきなお家を作るところでおしごとだって言ってたよ」
大きなビル。開発中の団地の方だろうか。
所狭しと建物の建ち並ぶ都内の中でも、ここは比較的自然の残っている地域だった。それでも次々家は建つし、人の手が入らない場所は減っていく。住み着いている霊などが居れば、開発という名目は体のいい厄介払いだ。たとえ誰かに迷惑をかけてこなかったとしても、関係する人間誰か一人でも傷つける可能性があるならば、排除の対象になってしまう。それが陰魄であるなら、案内するほうが彼らの為なのかも知れないけれど。
「ああ、ダメだ色々考えても私にはまだわからないや」
「?どうしたのヒメノ」
「ううん、帰ろうかアズミちゃん」
幼いアズミに話す事でもない。まして、霊という存在に関して自分が思いを巡らせていることがあるなんて、話す事ではない。
だいたい、忘れているのだ。普段はそんなこと。きっと今日は朝から余計な事を考えすぎて脳内の思考パターンが狂ってしまっているのだと、ムリヤリに夕食の事に考えをシフトして姫乃は公園を後にした。
灯りを点ける者の居ないうたかた荘は、日が暮れると途端に近寄りがたいものになる。人影はないのに人の気配がするし(実際姫乃が知らないだけどきっと他にも住人は居る)、すきま風が生み出す音はお化け屋敷にも負けない効果音を出すし、ざわざわと庭の木々が囁く葉音は気持ちまでざわつかせる。
仕事がある日は別として、大体明神は姫乃が帰る時間きちんと灯りを点けて待っていてくれたし、ただいまという声には必ずおかえりという声が返ってくる。今日はそれが無いことを寂しく感じながらも、今朝の明神の様子を思い出して無理もないかと思った。
昨晩自分の言動が彼を追いつめてしまった事は、間違いがない。特別おかしなことを言ったつもりはないけれど、自分の求めた何かが彼に対するタブーだったとしか思えない。
(嫌われてるワケじゃ、ないんだろうけど)
明神の行動は、嫌悪とは違う気がする。
玄関とリンビングと、廊下の電気を点けながら歩き、アズミに着替える事を告げて部屋に入る。真っ暗なままの室内でカバンを落とし、制服のリボンを解き、朝と同じように窓の外の風景をぼんやりと眺めて、姫乃は遠くに立ち並ぶ四角い建物に眉を潜めた。あの近くに、明神は居るのかも知れない。
「今日中に帰ってくるのかなぁ…」
もそもそとTシャツに着替え、制服をハンガーにかけたところで扉の方からノックとは違う音が聞こえたのに気付いた。叩く音だけれど、人の手が生み出す音ではない。
「もしかしてガクリン?」
「もしかしなくても俺だよ?ひめのん」
「やっぱり…ちょっと待ってね」
明神の居ないうたかた荘で、物理的な音をたてられる住人を他にしらない。ハンマーでドアをノックするなんて器用なことをしてみせるあたり――彼らは壁なんて在っても問題にしない筈なのだから――、ガクが自分に対して気づかいを持ってくれているのだとわかってありがたかった。
「お待たせ…どうしたの?」
扉を開けると目の前ではなく、廊下の壁に寄りかかるようにしてガクが立っていた。姫乃が近寄ったのに合わせてゆらりと壁から離れると、軽く首を傾げて彼は薄く笑った。
「おかえりを、言ってなかったと思って」
「ああ、そうだね…ただいま」
「おかえりひめのん。今日は宿題、無い?」
「うん。これからご飯作らないと…明神さん帰ってくるのかな」
知っている筈は無いだろうと思いつつ、そう訊ねると意外な答えが返ってきた。
「夕食は要らないって言ってたな」
「明神さんが?」
「ああ。遅くなるから留守番頼むってな。まったく気に入らない。ひめのんの居るうたかた荘なら俺が守るだろうと思って、勝手な事抜かしやがった。頼まれなくても守るけど」
キシッと鳴る床板を踏みしめながら、後をついてくるガクに曖昧な返事をする。遅くなるということは、日付が変わらなければ帰らないのだろう。というより、ガクにそこまで言うからには、もしかしたら何日かかかるような仕事なのかも知れない。詳しいことを何一つ知らないままで、ただ待つのはゴメンだと前にも言ったはずなのに。
「留守番頼むって、ガクリンに言ったんだ?」
「そう。ツキタケが出かけたいと行ったから、俺も出るつもりだったんだけどな」
ああ、それでいつも側に居る少年の姿が無いのか、と納得する。
キッチンで一人分の夕食を作り、絵本を眺めるアズミの横で食べ、片付けをしてからリビングでアズミの為のお絵かきを始める。アズミの希望通りの絵を描くのはなかなか難しかったけれど、エージとの遊びでは普段出来ないことをやっているせいか、始終アズミは楽しんでくれていたようだった。
そうして遊び疲れたアズミがテレビを見ながらぼんやりしてきたので、一度部屋に戻り、姫乃は自分の読む本を持って再びリビングに戻ってきた。
「ただいま…明神居ないのか」
玄関に増えた人影に、姫乃は手を振って答える。
「おかえりエージ君。明神さんはお仕事だって」
「そっか。おいツキタケ!次はぜってー下町ライガーズの勝ちだかんな」
「へへっ負け惜しみすんなよ?横町シャークズは無敵なんだよ」
観に行った野球に関しての議論なのだろうか。意外に仲の良さそうな二人を眺めながら、後にいるガクリンに訊ねる。
「一緒に野球観に行ったの?あの二人」
「そうらしいな」
短く答えて、それ以上何も言わない。ガクは何をするでもなく、先ほどからずっと姫乃の側に居た。食事の間も、アズミと遊んでいる間も、何も面白いことなんて無いだろうに、ずっと側に居た。いつもとは少し違うその様子に、疑問を感じて姫乃はガクの方を振り向く。
「ガクリン今日はどうしたの?なんかいつもと違う気がする」
姫乃の言葉に、またガクは首を傾げる。傾げすぎてやや上半身まで傾いているけれど、普段から彼は傾いて歩いている事が多いのであまり気にしない。
「なんとなく?」
「…そ、そうですか」
疑問符がつくということは、特に自覚症状はないのだろう。それ以上何も教えてはくれないだろうと肩を落とした時、不意にガクが姫乃の名前を呼んだ。
「?」
「雨、降ってきた」
「え」
パタリ、パタリと窓に水滴が増えていく。
朝から雨を降らせていたのとは違う雲だろうか。もしかしたら通り雨かもしれない。この雨の中、明神はまだ何処かもわからぬ場所で陰魄退治をしているのだろうか。怪我はしていないだろうか。寒くはないだろうか。雨に打たれて困っていないだろうか。
もうすぐ日付が変わるという時間になっても、雨は止みそうになかった。眠ってしまったアズミの側に居るエージと、見もしないテレビと、ツキタケが戻ってきて多少多弁になったガクの間で、姫乃は明神の事を考える。
「明神さん、大丈夫かなぁ…」
「さぁな。場所がわからねぇんだから、帰ってくるの待つしかないだろ」
「雨結構降ってるのに」
「傘なんてアイツには要らないよ…風邪引いたの見たことねぇもん」
「そんな…」
エージはいつものことだと言わんばかりに、心配する姫乃の言葉を一蹴する。自分よりもずっと明神の事を理解しているかもしれない少年に、確かに自分が心配することに意味など無いのかも知れないと、そう思いもしたけれど。
「やっぱり傘持って探してくる」
「はぁ?ヤメロってお前。だったら俺が行くよ濡れないんだし」
「エージ君じゃ傘持っていけないでしょ?」
「あのなぁ…」
さすがにあきれ顔をして、エージはため息をつく。だが姫乃は落ち着かなかった。このまま明神が、もしかしたら帰ってこないんじゃないかなんて、有り得ないだろう事を考えてしまう。
(だって私のせいかもしれない)
自分が居るから、もしかしたらうたかた荘に帰りづらいのかもしれない。そのことで、何か無茶をしているかもしれない。思い上がりかも知れないけど、そう考え始めたらいてもたってもいられなくなって。
その時、立ち上がろうとした姫乃をガクが制止した。ツキタケが何も言われていないのに、玄関の方へ向かう。ガクは別段感情のこもっていない表情で視線を斜め上に彷徨わせた後、抑揚の無い声で言った。
「ひめのんが行くことない」
「ガクリン?」
「ツキタケ、行くぞ」
「へーい」
呼び止めようとした姫乃に、ガクが僅かに振り向いた。
「…いってきます」
「え?あ、いってらっしゃい」
反射的に答えると、少し照れたようにガクが笑った。
「アニキそれを言われたかっただけでしょ」
「うるさい行くぞ」
ツキタケとガクが玄関から消えた。姫乃はしばらくボーッと2人の行ってしまった後を見つめていたが、自分にすることが無くなってしまったので仕方なくソファに戻った。エージは何故か顔をしかめている。
「エージ君、私なんか変?」
「別に変じゃないけど、確かに明神が遠慮すんのもわかるな…と」
「遠慮?」
思ってもみなかった言葉に、姫乃は目をむく。彼のあのおかしな態度は、遠慮などという言葉で片付けられる類なのだろうか。
「多分、ヒメノは干渉しすぎなんだ」
「…どういう意味、それ」
「あ、別に悪い意味じゃねぇけどさ。明神は…今まで案内屋として俺達みたいなのしか相手にしてこなかっただろ?管理人としては、生きてる住人たって…長居したこと無いし。だからきっと、ヒメノとの生活が長くなってきて段々調子狂ってんだ」
「…それはつまり私が迷惑ってこと?」
「んー」
言いたいことがまとまらないのだろう。顎に手をやりながらしばらく考えた後、エージは「そうじゃなくて」と首を振った。
「明神にとってヒメノが、どんどん大事になってるってことさ」
だって、お前は明神にとって唯一の温もりだから。
エージは、笑っていた。少しだけ寂しそうにもみえたけれど、優しく笑っていた。
姫乃は明神が彼ら霊に対して、どんな想いを抱いているかなんて具体的には知らない。生きている人間に対して、どんな見方をしているかなんて知らない。自分が、彼にどう見られているかなんて、考えたこともない。
案内屋である彼にとって、生きている人間も彷徨っている陽魂も、どちらも守らなければいけない大事な存在なのだと、それはわかる。そうして自分も偶然守られた一人だし、何人もの霊を導いている姿を、かれこれ数ヶ月は見ている。今だって、長くうたかた荘にとどまっている霊を住人として受け入れている。
それはきっと、これからも変わらなく続く彼の人生、生き方そのもの。
じゃあ、私は?
「…ヒメノ?」
「あ、ごめん、何泣いてるんだろう」
前触れもなく溢れた涙に、あわててごしごしと目を擦る。
彼の話してくれた過去や、実際に自分で見つめてきた今。そして、見られるかわかりもしないこれから先の未来。姫乃が高校を卒業しようが、大人になろうが、うたかた荘の事を忘れてしまおうが、覚えていようが、明神の生き方は何も変わらない。彼は死ぬまで案内屋として生きて、そして死ぬのだろう。
そこに自分が居る保証なんて、何処にも無い。
「お前さぁ…自分で気付いてないのか?あんだけ甲斐甲斐しく明神の事構っておいてさ」
「な…にが?」
じわじわと浸食されるように、胸の奥が切なさで縮こまっていく。とりあえず涙だけは止めなければと目元を押さえながら、姫乃はエージの言おうとしていることに耳を傾けた。
「お前、明神の事が好きなんだろ?」
「…へ?」
「自覚は無いかもしれないけど、明神もそれを感じてんだよ。だから最近落ち着きがねぇんだ。嬉しいのに、受け取る皿を作れねぇでオロオロしてんだ」
「私が…明神さんを…?」
好き?
「そっそんなこと…!!!!?」
カァッと頬が一気に紅くなった。心臓が先ほどまでの切なさも何処へやら、元気に血液を送り出したので全身まで熱くなってくる。苦笑いを浮かべるエージに言い返したい事が色々とある筈なのに、口は金魚のようにパクパクと空気を食べるだけだった。
「お前も明神も、鈍いよなぁ」
生意気な口をきいて、少年が肩を竦める。どれほど霊を長くやっているかはしらないけれど、明らかに自分よりも年下のエージにここまで言われて、姫乃は悔しくて仕方がなかあった。だけれど、明神を好きだと指摘された事に対しての否定が、自分の口から出てこない。
“違う”という簡単な、たった一言が、何故か出てこない。
「俺はヒメノに頭があがんなくて、アタフタしてる明神好きだぜ。俺達に対して優しい時とは、少し違うから。ああいう情けない明神は見てると面白れぇしな」
「…それって褒めてないよ」
「ははっまぁいいよなんでも。俺アズミ寝かせてくるからな。ガクの奴が帰ってきそうになかったら、寝た方がいいぞ」
「エージ君、やっぱ生意気」
負け惜しみの一言に、エージは大きく破顔した。アズミを静かに抱え上げると、恐らく姫乃の部屋の隣、2号室へと消えていった。
姫乃は未だに落ち着かない心臓を押さえながら深呼吸をして、顔の赤みを引かせる為に手の平でパタパタと顔をあおぐ。予想もしない程に動揺してしまった自分に驚きながらも、言われてみると案外簡単だった答えに拍子抜けもしていた。
好きかどうか。それがレンアイかどうかは正直解らないけれど。
「…惹かれてたんだ。なるほどね」
朝一番で明神の顔を見れば、一日元気に頑張れるような気がした。お帰りと言って迎えてくれる笑顔が、学校から帰った時のその一瞬が楽しみで仕方なかった。だからこそ必要以上に側に居たいと思ったのかも知れない。仕事の帰りを待ってみたり、食事を一緒に作ってみたり、掃除をしてあげたり。
思えば、随分と彼の生活に首を突っ込んでいる。
「………そっか、それで明神さん最近おかしかったんだ」
踏み込みすぎた。それを警戒されたのだと、姫乃は明神の挙動不審を自分に納得させた。
かといってこれから姫乃は明神に対する態度を変えるつもりは無いし、今更よそよそしく生活するなんて、考えられなかった。管理人としての彼も、命の恩人としての彼も、ただの一人の男としての彼も、今の姫乃を形成する無くてはならない存在だった。
明神の居ない毎日なんて、考えられなかった。
時計を見ると、もうガクが出て行ってから数時間が経っていた。いつのまにかテレビには砂嵐が映り始めていたし、雨は勢いを無くして今はむしろ風の音が聞こえている。カーテンを開けて外を見てみると、雲間から月が見えた。
「ひめのん、開けてくれ」
「ガクリン?!」
玄関の外から聞こえた声にカーテンを閉め、慌てて玄関へ走る。ツキタケがにゅっと扉から顔をだして、早く早くとドアノブを示した。
「明神さん…!」
扉を開けるとずぶ濡れの明神がガクにひきずられていた。リビングにひとまず寝かせ、タオルを取りに風呂場に向かいながら、何度か転びそうになる。どうやら眠っているだけのようだったので、顔色も悪くはなかったのだが。
「体冷えちゃってるよ…っ」
「何してたんだかな。とっくに仕事なんて終わってんのに、雨の中座り込んでた」
「…なんでそんなこと」
やはり帰ってくるのが嫌だったのか。濡れた頭と顔を拭いながら姫乃は眉根を寄せた。重くなったコートを脱がせ、とりあえず拭ける範囲を全て拭いたところで、明神の瞼がぴくりと震える。
「…ん?あれ、なんで俺うたかた荘に居るんだ」
「俺が連れてきたんだ。ありがたく思え」
「は?なんでお前が…って、ひめのん!?」
顔をのぞき込んだらものすごい勢いで飛び退かれた。姫乃はいっそ見事な程のこの避けっぷりを見て、少しだけムカムカとする自分に気付く。
「こんな雨の中、ボーッとしてるからいけないのよ」
「いや、ゴメンその、昨日寝てないもんだから…眠くて…」
「寝てない?」
あの後、ずっと?
「あっそのっ…わ、悪い俺着替えて寝るっ…!」
「みょ、明神さん?!」
昨晩を思わせるような勢いで管理人室に転がり込んだ明神に、姫乃は腹立たしさが増してきた。いくらなんでも、あの態度はひどくないか。それどころか彼は自分を運んでくれたガクに、礼の一つも言っていないではないか。
持って行くのを忘れたのか、置き去りにされた黒いコートを持ち上げて、姫乃がガクの方を向いた。後にいたツキタケが一瞬小さく悲鳴を上げたので、少し形相が怖いのかもしれないと姫乃は思う。
「ガクリン、ちょっと、私、明神さんにお説教してきます」
「…はい」
素直に頷いたガクに明神の代わりに礼を言い、管理人室の前に立った姫乃は乱暴に扉をノックした。
「明神さん!入るよ!!」
「え?!いやまっ、待ってくれちょっと!!」
ドタバタと動き回る音と、衣擦れの音がする。恐らく着替えているのだろう。しばらくして静かになったところで、恐る恐る明神が顔を出した。
「あの、なんでしょう?」
「コート、忘れてる」
「へ?ああコートねコート。いやごめんはい」
姫乃の手からコートを受け取ろうとして手を伸ばしたが、明神の手をひらりとコートはすり抜けていった。姫乃が一歩下がったのだ。
「ひめ、のん?」
「話があるんだけど」
「え」
「ちょっと、入っても、いいよね」
笑おうとしたけど、恐らく睨んでしまった。口元を引きつらせている明神に姫乃は心の中で小さくざまーみなさいと呟きつつ、強引に部屋に押し入るとコートをハンガーにかけ、畳の上に正座した。そして目の前の畳を指さして言う。
「座ってください」
「は、はい」
扉を閉めて振り向いた明神が、畳に正座して小さくなる。姫乃は腕組みをして一つため息をつくと、キッと視線を強めて明神を睨んだ。
「明神さんが、私を避けるのは明神さんの勝手だけど」
「…へ」
「連れて帰ってきてくれたガクリンに、御礼も言わないで、ましてずぶ濡れのまま外で寝ちゃったりして、帰ってこないし。いくらなんても、ちょっと勝手だよ。そんなに気まずいの?私が居るうたかた荘って。ここには他にもたくさん明神さん帰ってくるの待ってる人が居るんだよ?アズミちゃんだって明神さんが帰ってくるの、本当は待っていたいんだし、エージ君だって、口では何て言ってても心配してるだろうし」
「…ひめのん、ストップ」
俯いたまま明神が力なく右の手の平を姫乃の方へ向けた。それからサングラスを外し、何度か目を擦るとカリカリと頬を掻く。
「心配かけたことはゴメン、謝るよ。ガクにも後でちゃんと礼を言っておく。でも、俺にだって外で自由にする権利はあるだろうし、その事をいちいち…」
「今話してるのって、そういう話なの?!」
思わず言葉を遮る。まるで言いたいことが伝わってないのだろうかと、イライラした。姫乃は正座していた足を伸ばして膝で立つと、明神の方へ身を乗り出した。
「何してようが、明神さんの勝手だよ、わかってるよ!でも、でもね、それが私のせいだっていうならちゃんと言ってよ!外で考え事したくなるような、家に帰りたくないような理由があるならそう言ってよ!!明神さん何も言わないんだものわからないよ!わからないから心配するんだよ!?今まではそんなこと無かったじゃない!!」
一歩前へ出ると、その分明神が体を引いた。これでは昨日と同じで埒があかない、姫乃はそう思って掴みかかるのを我慢しながら、胃の辺りにあったムカムカが胸の方へ移動しているの感じて目を閉じた。
「明神さんが変なの…私のせいなんだよね…?」
また泣くことだけはしないように、瞼に力を入れた。少し涙ぐんでしまうかもしれないけれど、下を向いていればわからないだろう。言いたいことがぐるぐると頭の中を巡ってしまって上手く言葉に出来なかった。
「私っが…明神さんを好きだから…いけないんだよね…っ」
「えっ…?」
言ってしまってから、後悔はしなかったけれど焦りはした。先ほどの今で、何を告白しているのだろう自分は。エージに言われるまで考えもしなかったのに。
けれど、一度気付いてしまった切なさは止まりようが無くて、どんどん胸を締め付ける。恋慕でも親愛でも、名前なんてどうでもいい。ただ明神の事を、自分は心配したい。干渉したいのだ。気になって、気になって仕方がないのだ。
「ひ、ひめのん…俺のこと好きなの?」
「…そうみたい」
「そうみたいって…なん、だよ…それ…」
狼狽える明神を盗み見ると、彼も顔を赤くしていた。目を大きく見開いていると、まるで自分と大して年の違わない子どものようだと姫乃は思った。落ち着こうと心がけて小さく震える息を吐き、涙が浮かんでいないことを確認してから顔を上げる。明神は姫乃の視線が上がったことにビクッと脅えたような表情を見せたが、先ほどよりはずっと、空気が柔らかいものに変わっていた。
「明神さんが迷惑なら、私にだって考えあるよ」
挑みかかるように言う。考えなんて、本当は無かったのだけれど、強気な態度で今でなければ、もうこんなに胸の内を曝せる機会などないような気がした。そんな姫乃の言葉に何を察したのか、明神がさっと顔色を変える。
「それって、ここを出て行くって…事?」
なるほどその手があったか。思いつきもしなかったあたり、その選択肢は姫乃の中に存在しなかったということになるが、明神にとってはそうでも無かったようだ。神妙になった顔つきに何故か笑ってしまいそうになるのを堪えながら、姫乃も負けじと真剣な顔のまま唇を噛む。
「だって明神さん、私と一緒にここに居るの、嫌なんでしょ?」
「そんなこと言ってないだろ!?」
「だって帰ってくるの嫌で雨の中ずっと外に居たんじゃない!!」
「それがどうしてひめのんが嫌とかそういう事になるんだよ!」
「最近ずっと避けてたでしょ!そういう事じゃない!」
「どうしてそうなるんだよ!?勝手に決めるなよ!!」
「じゃあちゃんと説明しなさいよ!!勝手なのはどっち!?」
勢いに任せて姫乃が思い切り畳を平手打ちした。じりじりと手の平が痛んだけれど、おかげで驚いた明神が黙ったのでよしとする。姫乃は姿勢を正してもう一度正座をすると、もう一度ゆっくり言った。
「私のせいなんでしょ?」
明神は小さく、低く唸りながら歯を噛みしめていた。そして観念したように肩を落とし、前髪をかきあげながら顔を上げる。姫乃の方を見ながら、二、三度言葉を言い淀み、そして口の中で何かをブツブツと呟いたかと思うとため息をついた。
「あのー…」
「だってさ、ひめのんが俺を好きとか、知らなかったし…」
「そういう意味でわたしのせいなの!?」
告白していれば問題無かったとでも言うのか。何処まで勝手なのだと姫乃はもはや何処に突っ込みをいれたらいいのかわからなかった。
「りょうおもいとか、俺なったこと無いし…そもそもそういうの苦手だし…」
「…イマドキ中学生でも言わないよそんな事」
「自信無かったんだよ!怖かったんだよ!しょーがないだろ?!」
「そこ怒るとこなの!?!」
数分前の真剣な表情は何処へやら、二人して顔を真っ赤にしてにらみ合っている様子は滑稽以外の何物でもなかった。さすがに必要以上に近づくことはしなかったけれど、姫乃はいっそこのまま飛びついてしまいたいようなそんな気分に駆られる。
「もう、心配して損した…!!」
「わぁっ!?」
感情に正直になって、姫乃は明神に飛びついた。受け止め損ねた明神が、そのまま後へ倒れて強かに頭をぶつける。大丈夫だ、ここは畳だから。そんな風に姫乃は考えて、押し倒してしまった明神が呆然としているのに構わず強く抱き締めた。
両思いなんて、そんな言葉じゃ絶対に許さない。
いつかちゃんと「好きだ」と言って貰う日がくるまで、自分の好意に目を白黒させていればいいのだと思う。こんなちっぽけで、狭い人間一人に振り回されるようでは明神だってこれから先苦労するに決まっている。だったらいっそのこと一番側で、その背中を押してあげようじゃないか。
あれこれ考えたって仕方が無いのだと、思い知ればいいのだ。生きている限り、人生の時計を刻んでいる限り、魂(ココロ)は輝きを変えていくのだから。
特別だと感じる心は、理屈ではないのだから。
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