ルミナス
ふわりとわらうきみのかおが
まるでひのひかりでふちどったようにキラキラとまぶしかった
朝起きてまず一番最初に考えること。
自分の手は温かいだろうか。自分の目は光を移しているだろうか。自分の心臓は音をたてて動いているだろうか。そして、太陽は今日もキチンと昇っただろうか。
「明神さん…そこに居ると、申し訳ないけど踏んじゃうよ」
「…う?」
廊下の側面にある窓から微かに差し込む朝日がちょうど顔に当たっていた。声の主の方向を見上げようとしたけれど、逆光でよく見えない。サングラスはしないで寝たようだ。
「もー…いい加減毎日廊下やら玄関やら日によって場所が変わるの止めて欲しいよね。どうせなら玄関かリビングか決めて欲しいよ…さすがに道路は困るけど」
口調や長い髪のシルエットから、見下ろす影が姫乃であることがわかった。明神は一言謝ってからそこをどこうと眩しさに目を細め、若干視界が確保出来たところで顔を上げようとした。
「飛び越えちゃうから、蹴られたくなかったら寝ててね」
「!」
声をかける間もなく、プリーツスカートが花びらのように広がって、細くて白いものが頭上を過ぎ去っていった。一瞬の出来事に思わず瞬きを繰り返す。
(…今、何が通った?)
姫乃はリビングに居るアズミとエージの方に向かって何事かを話している。そうしてしばらくボーッとしていると、くるりと丸い頭が振り返った。
「起きた?今日ってゴミの日だよね、明神さんの分は大丈夫なの?」
「へ?あ、ああゴミね、ゴミ…ええと、何ゴミだっけ?」
「…普通にもえるごみだと思うよ」
不審そうな顔をされてしまったので反射的に苦笑いを浮かべると、仕方ないなぁと言わんばかりに姫乃はため息をついた。「入るよー」という声と共に管理人室の扉を開けたので、さすがに慌てて飛び起きる。ゴミを持っていってくれるつもりだということはわかっているけれど、さすがにそこまでさせるのはいかがなものか。
いい大人が。まして管理人が。住人である少女に。
「ひ、ひめのんゴミなら俺出してくるから…学校遅れるぞ」
「全然大丈夫だよ。あーっまた机の下にパンの袋落として忘れてる!食べたあとはすぐゴミ袋かゴミ箱に入れる癖つけなよ!」
「すいません…」
まるで自分の方がこどもみたいだと思いながら、ゴミをまとめて口を縛る。姫乃が袋を持とうと手を伸ばしたので、思わず明神はその手を止めた。
「ちょっ…いいって。俺出してくるからさ」
「どうせ通り道だからいいのに…じゃあ新聞取りついでに一緒に行こうよ?」
掴んでいた手が、するりと抜ける。
それを追いかけようとして、不意に明神は手を止めた。
手でも繋ぐつもりなのか。
冗談だろう、そんなつもりは毛頭無い。離れた手を軽く握って、前を行く姫乃が玄関の扉を大きく開けるのを見つめる。
「良い天気だよ!明神さん!」
振り向いた姫乃の顔の向こう、反動で少し広がった黒い髪の毛の隙間、白い制服の袖の淵から、朝日が彼女を照らす。
「ああ…良い天気だねひめのん」
電話代の上にあったサングラスをかけて、明神はそう返し笑った。
あまりに眩しくて、直接彼女を見られなかったなんて情けなかったけれど、笑った。
*
寺の坊さんから正式な依頼を受けて、珍しく正式に仕事に向かう。十味からの依頼は高確率で収益が無いので――あったらあったで逆に不安だが――、こういった信頼のおけるクライアントの存在は貴重だった。だからといっていつもと仕事に対する態度が変わるわけではない。
「なんだ…図体でかいだけで大したこと無いな」
周囲一体の地主が荒れ放題だった先祖の墓地を整備しようとしたらしい。大げさな説明をされたからどれほど凶悪な陰魄かと思っていたが、単にこの場所を好んで住み着いただけの雑魚だった。見かけの大きさの割りには、攻撃は避ける気も起きないほど貧弱で粗末。
「ま、仕事だからな…悪く思うなよっと」
早くもない攻撃を、黄符の捲いてある左手でいなす。軽く顔面(と思われる場所)に拳を叩き込むと、飛び退き様に剄蘭を放った。足下で光がふくれあがって、シャボン玉が消えるように陰魄が消滅する。
「BOMB」
きらきらと消えようとする光をサングラス越しに眺めながら、彼女から見える光はあんな儚いものではなかったな、と不意に思った。陽の当たる場所に居なくても、例えそこに灯りが何もなくても、何故だか彼女が笑うとそこだけ明るくなる。
(…不思議な子だ)
脳裏で、ひめのがわらった。
「っ…どああああああああ?!!?」
着地した墓石が突然地面にめり込んだ。そのまま周りの土も巻き込んで、周囲の石も草も一緒に、大きく開いた穴に飲み込まれていく。当然、明神も。
カラカラと石ころが頭に落ちてくるのを避けながら、頭上にぽっかり開いた空間を見上げて嘆息する。これでもし起きてしまう魂が居るようなら、一晩かけて謝ってもたりないかもしれない。
「ヒメノ、もう寝ないと明日また眠い眠い言うんじゃねぇのか?」
「大丈夫だよ…それに、今勉強してるんだから、別に明神さんを待ってるだけじゃないもんっ」
「…いいけどな」
依頼が入ったのは姫乃が学校に行っている間だったので、内容について彼女はしらない。エージはそれほど心配することでもないだろうとわかっていたので、リビングで勉強する彼女の邪魔をすることも無いだろうと外へ出た。
日付は少し前に変わってしまったので、夜風はすっかり冷たい。昼間の暖かさからは一転した温度差に、凍えることのない体が少し震えた。門柱の上に立って周囲を見回すと、外灯の下を歩く白い頭が一つ。
「ん、帰ってきた」
道路に飛び降りて軽く手を振ると、それに気付いた明神が一瞬立ち止まる。そしてきょろきょろとエージの周囲に目をやってから、自分の服についた土埃や葉を落とし始めた。
「…何やってんだ明神」
「いや、お前が外出てくるって事は、リビングにひめのん居るんだろ?」
「ああ、勉強しながらお前待ってるぜ」
「寝てればいいのに…つーか部屋で勉強すれ…」
「服がボロボロだとあいつが心配するから…そんな慌ててんのか?」
サングラスを外して顔を袖で拭った明神が、ばつの悪そうな顔をして肩を竦める。
「だって大した事ねぇのに悪いだろ、心配させたら」
「心配したくてしてんだから、いいんじゃねぇの」
明神の姫乃に対する気づかいはとても優しい。エージはそれが自分にも同じように向けられているのだろうかと、少し不思議に思う。アズミや自分に対するのと同じように、姫乃に接するのは別段間違いではないけれど。
「お前が帰ってきて、一番喜んでるのは毎回ヒメノじゃねぇか」
自分たち陽魂が明神に対して抱く想いと、ヒメノが明神に対して抱く想いは同じではない。同じでは、恐らく有り得ない。
「エージ?」
「何に遠慮してんのか知らねぇけど…お前はもっと好きにすればいいんだ」
「は?」
ぷいっと顔を背けて、エージは屋根を飛び越え、闇夜に紛れて消えてしまった。明神はかりかりと人差し指で頬を掻きながら首を傾げる。
「…反抗期か?」
そんな突拍子も無いことを思いながら、姫乃の待つリビングへ続く扉に手をかけた。
「あ、お帰りなさい」
「ただいまー」
教科書顔をあげた姫乃が、灯りがついたように微笑んだ。同時に横に居たアズミが明神の方へ飛び込んでくる。
「おかえり明神!」
「おー、良い子にしてたかアズミ」
「うん、今ヒメノにエイゴ教えてもらってた」
アズミが指さした方向へ自然、顔が向く。明神は教科書やノートを揃えてソファから立ち上がった姫乃に「おわったの?」と訊ねた。
「終わったよ。明神さんお腹すいてない?」
「いや、大丈夫だよ。風呂入るから…ひめのんもそろそろ寝な」
「じゃあ、沸かしなおしてくるね」
小走りに姫乃が目の前を駆け抜けていく。長い黒髪が背中で跳ねてさらさらと流れた。明神は頭の上にアズミを乗せたまま靴を脱ぎ、真っ暗な管理人室に入ると、後ろ手に扉を閉めて大きく息を吐く。
「…明神つかれてる?」
「んー、そういう訳じゃないんだけどな」
アズミが心配そうに顔をのぞき込んできた。明神はその小さい頭を優しく撫でると、アズミは気持ちよさそうに目を閉じて笑う。
そうだ、ついこの間まで、彼女もこの子と同じだったのに。
笑えば頭を撫でてあげたくなったし、ふざけて頬を引っ張ることもあった。意図的では無いにしろ手を繋いだこともあるし、抱え上げて運んだことすら。
「…アズミ、俺は風呂に入るから、ひめのんに寝ろって言ってきて」
「わかった!」
ぴこっと結ばれた髪が揺れる。もう一度明神は頭を撫でてやると、嬉しそうにアズミは管理人室から出て行った。
風呂に入って、思い切り頭を洗って、全部全部お湯に溶かしてしまおう。そう思って明神はいつもより長く風呂につかった。
「みょーじーん…」
タオルを頭に乗せたまま、風呂場ののれんをくぐるとそこには何故かアズミが居た。眉尻を下げて困った顔をしているので、何事かと小さな体を抱き上げる。
「どした、寝ないのかアズミ」
「ひめのん、おきないの」
「………えぇ?」
裸足で廊下を歩くぺたぺたという音をたてながら、明神は恐る恐るリビングをのぞき込む。
「…ホントだ。寝てるよこの子は…まったく」
「明神をまってるんじゃないの?」
アズミの言葉に心臓が少し跳ねた。明神はそうじゃないと思うよ、と小さく言うと、ひめのを起こすためにソファに近づいた。
「アズミ、お前はもう寝て良いぞ。ひめのん俺が起こすから」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
アズミが消えるのを待って、明神はソファの前にしゃがみ込んだ。小さく寝息をたてながら眠っている姫乃の顔と、同じ高さに視線を置く。赤みのさした頬に、髪の毛がかかってくすぐったいのか少しだけ姫乃が身じろぎした。明神は無意識にその髪を後ろにすくってやろうとして、ふと指先を止めた。
最近いつもこうだ。
触れなければいけない理由が何も無いのに、何もそうしなければならない理由が無い時ほど、自分は彼女に手を伸ばしている気がする。褒めてやりたい時でも、慰めてやりたい時でも無い。何も、何もそうする必要は無いだろうに、自分は無意識に手を伸ばす。
「…なんだかな。やだなこれ」
自分の手を見つめて苦笑した。このおかしな癖は、直さないといけない気がする。何故かはわからないけれど、自分自身を追いつめる気がする。
「ひめのん、起きないと風邪ひくぞ」
声をかけて、姫乃が起きる気配はなかった。そもそも声をかけるだけならアズミにでも出来る芸当なのだから、それくらいで起きるならもっと早く起きてくれている筈だ。明神は途方にくれて床に座り込むと、しばらく悩んでから姫乃に手を伸ばした、今度は自分の意志で。彼女を起こすために。
まず肩を揺すろうとした。けれど、もうあと数センチの所で手が止まる。頭か顔の方が一度で起きてくれるだろうかと思い直し、また手を伸ばして、また止める。
「あ、れ…おかしーな」
指は、それ以上進めないかのように同じくらいの距離の所で近づくのを止める。明神は、認めたくない気持ちになりながらも動かない手に情けない笑いを浮かべた。
怖いのだ。自分は。寝ている姫乃に触れるのが。
「…触ったら殺すところだった」
「!?ガク!」
カーテンから顔だけのぞかせたガクが、全身を部屋の中に現す。コートの裾をふわりとゆらして、ガクは姫乃の寝顔をのぞき込んだ。
「…寝ているひめのんもいい」
「あのな、このまま寝てたら風邪ひくだろうが」
「でもお前がひめのんに触るのはむかつく」
「…むかつくってお前、仕方ないだろう俺しか起こせないんだから」
「気に入らない」
「…あのなぁ」
首にかけていたタオルを外して、顔をそれで拭うようにして覆うと、明神はため息を殺すように静かに静かに息を吐いて、目だけをタオルから出して姫乃を見た。
「まぁ…触れないから、どうしようも無いんだけどな…」
「?お前は触れるだろ…むかつくけど」
「そりゃ通り抜けはしないけどよ」
ガクの怪訝そうな顔に、またタオルで目まで覆った。その下で笑い顔とも困り顔ともつかぬ表情を浮かべながら、空いている手の平を握った。
「…なんでかね、触りたくないんだ。寝てるこの子」
「贅沢だな。ああ?お前何様だ生きてるだけのくせに。俺なんて…俺なんて…っ」
「あーあー悪かった悪かった。もうお前うるさいからどっか行け」
「なんだとお前…!!?」
ガクの手がハンマーを出そうとしたのに気付き、さすがに明神はガクの肩の辺りを掴んで思い切り窓の外へと弾き倒した。姫乃が起きる分には構わないが、まかりまちがって怪我でもしたらたまらない。とりあえず嫌だろうが何だろうが部屋に連れて行くしかないかと覚悟を決めた時、姫乃がぱちりと目を開けた。
「あ…うるさかったか?」
「ううん。途中から起きてた」
「へ?」
起きあがった姫乃が、髪の毛を軽くかきあげる。両腕を上げて伸びをしてから、曲げていた足を伸ばした。
「明神さん、私のこと嫌なの?」
「はぁ?」
さすがにそう言われることは予想していなかったので、思い切り顔をしかめてしまってから慌てて表情を取り繕った。
「な、なんでそうなるわけ?」
「だって最近よそよそしいんだもん。前はそんなことなかったのに。私何かした?」
「いや…何もしてないよ」
そう言ってから、自分がサングラスをしていないことに気付く。ああ、今自分は笑えているのだろうか。そんな事を考えて少し哀しくなった。
姫乃は明神の言葉を信用する気がないのか、じっと足下を睨み付けるようにして伸ばした足に手を置いていた。その細くて白い足が今朝自分の顔を飛び越えた正体だと気付く。
「明神さん、は」
「?」
顔を俯かせたまま、姫乃はゆっくり膝を曲げ、踵を体の方へ引き寄せた。
「明神さんは、生きているヒト苦手なの?」
「え、そんなことないよ」
「じゃあやっぱり私がだめなの?」
「…そうじゃ、ないよ」
薄く笑いながら返した言葉に、ばっと顔を上げた姫乃の鋭い視線が刺さった。立ち上がって距離をつめてきたので、思わず後ずさる。
「ほら、逃げる」
「だってひめのん顔が怖いよ」
「明神さんが逃げるからだよ」
いつのまにか背中に壁が当たって、後がもう無い所まで自分が後ずさったことに明神は驚いた。そこまで追いつめられている自覚も無かったけれど、どうやら自分で思っていたよりもずっと、姫乃の事を敬遠してしまっていたらしい。
「私のこと嫌いじゃないなら、逃げないでよ」
「…ひめのん」
「理由が、何かあっても、言ってくれなきゃわからないもん」
不機嫌そうな表情の中に、ほんの少しだけ、寂しそうな感情が交じった。明神はそれに少し胸が痛むのを感じながら、また自分の手が無意識に姫乃の方へ伸びようとしているのに気付く。ぐっと拳に力を入れてそれをとどめると、姫乃が気付いてまた眉間に皺を寄せた。その眉間の皺を伸ばしてやりたいのに、やはり手に止まれという命令を下してしまう。
明神は胃が縮まるような思いをしながら、これに似たような感覚を思い出す。初めて明神――自分ではない――に頭を撫でられた時の、嬉しいような哀しいような気持ちがこれに似ていなかったか。
誰かに対して何か、特別な感情を持ちそうになっている時の気持ちではないのか。
「明神さん…!」
黙ったままの明神に痺れを切らしたのか、姫乃が明神の腕を掴んだ。そして背伸びをして顔を下から見上げると、もう一度名前を呼ぶ。
「明神さん!」
「っ…!!」
眩しさに目を細めるように、明神は自分の瞼を震わせた。姫乃に触れている部分から血液の巡りが良くなるような錯覚さえ覚えて、いてもたってもいられなくなる。
抱き締めたくなる。
「みょ…」
腕に閉じ込めた体は、思っていたよりもずっとずっと細くて暖かかった。顎のあたりにあたる髪の毛からは自分の髪の毛と同じ香りがして。
心臓が爆発しそうに鼓動を主張していた。頬が熱いのも気のせいではないし、そもそもこうして人を抱き締めること自体、恥ずかしくて仕方のない行為で。
「っごめ…ひめのん…!」
我に返って体を離すと、目をまん丸くした姫乃と目があった。明神は床に落ちたタオルを拾い上げると、転がるようにして管理人室へと飛び込み、扉を閉めた。
全身に心臓があるみたいに、血液が音をたてて駆けめぐる。冷えたタオルを顔に押し当て、早く、早くこの動悸がおさまればいいと思った。
彼女に触れるのが怖かったのは、自分が彼女を特別だと思い始めていたからだ。
特別になってしまうのが、怖かったからだ。
「あーくそ…なさけねぇ…」
彼女が笑うとひどく眩しい。
そしてすごく切ない。
大好きだったあの男も、まるで太陽のような存在だった。暑苦しい程に暖かくて、大きくて、そして明るかった。一緒にいると、まるで照らされているみたいだった。
“明神”にだけ、そう思えたからこそ、“特別”だったのに。
扉の向こうで、床の軋む音がする。
姫乃が歩いている音だということがわかって、それが遠ざかってくれるように明神は祈った。段々と小さくなる足音につめていた息を吐いて、また大きく吸って吐いた。
彼女の与えてくれる安堵感や、染み入るような暖かさは本当に好ましく思っているのだけど。
「おれ、自信ない…みょうじん」
脳裏に浮かぶ父のような背中は、ただ振り向いて大きく笑うだけだった。
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