急に君が夢に出てきて焦った。
見慣れた天井が薄く歪んでいることに眉をひそめながらも、それが自分の目のせいだと気付いて再び瞼を落とす。何度か瞬きをすれば視界もクリアになるだろうと考えて、初めて目尻が濡れていることに気付いた。
眠っている間に泣いてしまう、この情けない癖をどうにかしたい。
今見た夢を忘れようか忘れまいか、そんなことを考えながら体を起こす。彼女の夢を見ることは初めてではないけれど、こう何度か現れられると逆に、自分はあちらの夢に出たりはしないのだろうかと、わかりもしないことを思った。
窓の外を見れば、夜が明けたばかりなのかまだ空は薄赤い。仕事の依頼が数件入っていた事脳内で確認して、顔を洗うために肌寒い廊下へとパーカーを着込み扉を開ける。
木造のうたかた荘は寒さにはめっぽう弱い。おもしろいことに、ここに住んでいる霊達も同じように寒さを感じるようで、冬の間だけ暖かい場所に出かけていく物好きもいるくらいだ。彼女が居なくなってから途端に明るさの半減したこの家は、一番暖かかった季節を3年継続したせいで反動のように冷えてしまったような気さえした。
「…次の春がきちまうな…」
卒業と同時にこの街を去った彼女。
あの、春の柔らかい日差しの下で見た最後の背中。
背中だけを、何度も夢に見る。
夜明けと共に覚めていく全てに、自然と脳内も現実に意識をシフトしていく。朝食代わりのカロリーメイトを口の中に放り込みながら、仕事道具の確認をする頃にはすでに夢のことなど頭の隅の方へ追いやろうとしていた。消すことは、出来ないのだけど。
生きている住人は、来てもすぐに去っていく。
考えてみれば彼女が自分に次いで二番目に長く住んでいた生身の人間だったのだと今更気付いた。もう居るのが当たり前な程馴染んでしまっていた生活が、これほどアッサリと終わりを告げるのかと間の抜けた顔をして見送った日が懐かしい。
「さて、行くか」
準備を終えてサングラスをかけると、自分を待つ依頼者の元へうたかた荘を後にする。緊張してばかりではやってられないけれど、それでも危険が無いわけでは無いこの仕事。案内屋として動いている時の自分は、それなりにスイッチの入った状態なのだろうと最近姿を見ないハンマー野郎の台詞を借りて考えた自分に笑った。
緊迫した空気の中に身を投げることで、少しだけ彼女を忘れられる気がする。
「ひめの」
口に出す。音にする。耳に馴染む、その名前。
もう呼ばなくなって随分と経つのに、なんの不自然さもなく空気に溶ける音の羅列。舌に乗せて発した途端、ただそれだけで体の奥から波打つように震えた。思考がここではない何処かへ奪い去られるように、空へと吸い込まれていくように、たった三文字のその名前を呼んだだけで、あの頃の毎日に心だけが旅立ってしまうようだった。
いつまであの温もりを求めて気持ちが宙ぶらりんのままいるつもりなのだろうと、自分でそう思うのも、今が初めてではない。
仕事の帰り道にわざわざ遠回りをして、彼女が通っていた高校の前を通った。家から学校までの距離を自分も何度か彼女と一緒に歩いたし、別段普通に通ることもある通りなのだから、珍しいものなど何もない。
一瞬に、鮮明に思い出せる風景。自分の隣を彼女が並んで歩く光景。走馬燈などという縁起の悪い例えをするのも不本意だが、きっと自分が死ぬ間際思い出すのは、師匠と過ごした日々か、あの3年間なのだと思う。くだらない考えに口元に苦笑さえ浮かべながら、見覚えのある道を辿って、目を閉じたままで一人歩いた。
昔に戻りたいわけじゃない。やりなおせるかどうかなんて、そんなことはどうでもいい。ただ、今彼女が何をしているか、それが気になって仕方ない。
あの最後に見た背中が小さくなって見えなくなった時、初めて感じた後悔という名の感情など、自分勝手以外の何物でもないのだから。ただ、時々無性に、その勝手極まりない自分を抑えられそうになくなる瞬間がある。
振り向いた彼女の表情を思い出そうとする度、それはひどくなった。幻聴でも、夢の中でも、記憶の再生でも、なんでもそう。君の声が聞こえる度、頭の中が熱くなって、言葉になりきれないものが、胸を張り裂こうとしている。
本当は、本当はあんな別れを望んでいたわけじゃない。
さよならと小さく言った彼女が、笑おうとして失敗した時、あの時自分は気付くべきだったのだ。電車の時間が迫っているのに、なかなか背を向けようとしなかったあの小さな肩を、まだ掴める距離に自分は居たのに。
もう少し一緒にいたかった。彼女は明神以外の人間に対して初めて、温もりを分け合えた存在だったのに。自分の過去を乗り越える時も、傷つきながら必死で立ち上がろうとした時も、側に居てくれた。こんな弱くて情けない男を叱咤しながら、いつでも笑って帰りを待ってくれていた。上手くやれるような気がしたんだ。彼女となら、きっと、ずっと、これからも。
ああ、でもそんなことはどうでもいい。
夢に見る背中。振り向こうとする彼女。
お願いだから、お願いだから笑っていて欲しい。
もう一度自分の前に現れるのなら。
だって、そうでないと、自分はずっと彼女の顔を思い出すのが怖くて、それが出来ない。
情けない思いで背中を丸めながら、ただそれだけを願う。
ただもう一度、
会いたいんだ。
姫乃、姫乃。
君が笑ってくれれば、僕の世界は救われる。
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