MAY'
「ただいまー…」
しばらく待ってみたが、どの方向からも返事は無い。
住人が誰も居ないというのも珍しいと、少し寂しい思いを感じながらも肩を竦めて靴を脱ぐ。正直サングラスの下で泣きそうな顔をしながら、口元だけは笑っているというのも難しいので、今この瞬間だけは一人が楽だと思ってしまった。
管理人室の鍵を取り出そうとズボンのポケットに手を入れる。いつも入っている筈の場所に目的の物が見つからず、パタパタとコートのポケットを叩いてみるが何処にも無い。
「あれぇ?」
もう一度ズボンのポケットを探る。やはり無い。もしやと思って扉のノブに手をかけると、あっさりとそれは開いた。
「…はぁ、何やってんだか」
熱いお茶でも飲もうかと、部屋に入るのをやめて給湯室へ足を向ける。すると、離れたのを見計らったかのように、背後で電話のベルが鳴った。
新しい仕事の依頼だろうか。それとも今日の仕事のクレームだろうか。なんにせよ、必要が無ければ鳴ることのない電話だ。入居の問い合わせだと困るので、小走りに部屋へと戻る。
「はいはい、うたかた荘です」
誰に会話を聞かれて困るわけでもないので、扉を開け放したまま受話器に話し始める。実を言うと給湯室に行くことをまだ諦めたわけではなかったので、体は半分扉から出ていた。柱に寄りかかるようにしながら耳をすますが、電話の向こう側からは返事が無い。
「…もしもーし?」
いたずらだろうか。そんな考えが頭を過ぎった時、小さく咳払いをするような音が聞こえた。
『あの、明神さん…?』
控えめな、少女の声。
いや、正確にはもう、少女ではない、彼女の。
『えと、スミマセン突然。もしもし?聞こえてる?明神さん』
ついさっき、脳裏を横切った。
『…姫乃です、けど…』
彼女の、声がした。
「ひめのん…?」
『あれ、聞こえてるの?明神さん』
「う、ん…ひめのんなのか?」
『ひめのんみたいだよ?』
変わらない、明るい声音にじわりと胸の奥がうずいた。大事なものでも抱えるように、今自分と彼女を繋ぐ受話器を持ち直して、自然と神妙になる声で再び問う。
「本当に、ひめのん?」
『嘘なんてついてどうするの…間違いなく姫乃だよ。オケガワヒメノ。明神さんボケちゃった?』
くすくすっという笑い声が耳を擽る。どうしよう、無性に叫びたくてたまらない。胸を掻きむしって震える唇を噛みちぎって叫びたい。でもこの細い細い電話線を伝って聞こえてくる彼女の一挙一動、息づかいさえ聞き逃したくないから押さえ込む。息を潜めて耳をすませて、彼女の存在を無機質な受話器の向こうに感じ取ろうとする。
「ひめのん…」
『久しぶりだね?元気?』
「うん、まぁ元気だよ」
『他のみんなは?』
「他のみんなは…」
一瞬、「ひめのんが居なくなってから寂しがってるよ」と言いそうになって口を噤んだ。「うんまぁ、相変わらず」そんな無難な答えを返して笑う。彼女が出て行ってしまったことを、心なし責めてしまいそうになる情けない自分が、何かの拍子に出てしまったら困るから。
『相変わらずかー。今誰も居ないの?』
「うん、俺だけだね」
『もしかして寝てた?』
「いや、仕事からちょうど帰ってきた所だったよ」
『あ、そうなんだ。お疲れ様。お帰りなさいかな?』
「…え、あ、ただい…ま」
何気ない、一言なのに。
おかえりなさい、と彼女が自分を迎え入れていた頃が、ひどく遠い。
ただいま、という言葉を口にした途端、喉の奥がきゅうっと熱くなった。目の縁に集まった熱が、泣いてしまえと言わんばかりに脳内を支配していく。
『でも電話するにはタイミング良かったみたいだね』
自分でも無意識に胸の少し上、喉のしたあたりを手で押さえながら曖昧な返事を返す。聞こえる声はこんなにも近いのに、一体彼女がどれほど遠い場所からこの電話をかけてきているのか見当もつかない。
『居なかったらどうしようと思って。ホラ、留守電もナイでしょ?』
ああ、もっと気の利いたことを言いたいのに。
何か伝えたいことがあった筈なのに、まるで頭が働かなくなってしまった。今朝見た夢のことも、仕事の内容も、今日の天気も、明日の予定も、何もかも何処かへいってしまう。頭の中に他のことを入れたくない。もし記憶の引き出しというものを自分で選んで使えるならば、今この耳に聞こえる彼女の声のトーンや、一言一句、会話の間の全て残さず記憶してしまいたい。いっそレコーダーにでもなれたらいいのにと思う。
『もしもし、聞いてる明神さん?』
「あ、ああ、聞いてるよ」
『元気ないね、大丈夫?』
「うん、大丈夫」
『ホントに?』
「ほんとほんと」
『んーーーなんか嘘っぽいナァ』
「あはは…そんなことないよ」
ホントかどうかなんて、この姿を見れば一目でわかるのに。
でも彼女がそれを出来ないことはわかっているので、ここぞとばかりに眉毛を八の字にして、なきそうになりながら笑みを浮かべた。気遣ってくれる優しさが嬉しくて、幸せで、切なくて、苦しかった。
顔を見ることもないなら、無理に笑顔を作ることもないと、わかっているのに声に暗い感情が表れそうでつい顔を取り繕ってしまう。
一年前は、こんなことする必要なかったのに。
『明神さんがホントに元気かどうかなんて、すぐ解っちゃうよ』
「えー?なんだよそれ…」
『嘘だと思う?なら、玄関に出てみてよ』
「は?玄関?」
言われるままに振り返る。
扉のガラス窓の部分に、人影が一つ。
「え………?」
まさか。
まさかまさかまさか。
「…うそだろ」
『嘘じゃないよ』
頭のてっぺん、ピンと跳ねた髪の毛。
ゆっくりとドアノブが回り、キィッと音をたてながら古ぼけた扉が開いて外の光を差し込ませる。
そんな、まさか。
「ほら、ね?すぐ解っちゃうって言ったでしょ」
こんなことが。
「ひめ…」
名前を呼ぼうとしたら、何故か声が詰まった。強く受話器を握りしめたままなのも忘れ、ふらりと玄関へ足を踏み出す。携帯電話を耳に当てていた彼女が、通話を終了させてそれをしまうと、目を細めて笑った。
ほんの少し、困ったような顔をしながら、でも、はにかんだような、いつもの笑顔で。
「泣き虫明神さん」
「―――っ…!」
視界が、涙で溢れて前が見えなくなった。そのまま泣き崩れるように膝をついてしまった事に、慌てたように彼女が駆け寄ってくる。
ダメだ。もう、言葉にならない。
「ずっと連絡しなくて、ごめんね…明神さん」
首を横に振る。彼女が謝る理由なんて、何処にもない。
「泣かないでよ…私まで泣きたくなっちゃうよ」
「…っ…ひめの…ん…」
「なぁに?」
やっとの思いで顔を上げる。心配そうに屈み込んでこちらを覗いていた姫乃と、目があった。情けない。喉がつまったように、息をすることも忘れたように、溢れるのは想いと涙ばかりで。
「………きだ…」
「え?」
カチカチと音がなりそうなほど、歯が震えている。
でも言葉は意識とまったく関わりのないところで、苦しい喉の締め付けを感じながらも、それでも言葉は、身勝手に口をついて、この情けないほどの感情を吐露する。
「ひめのん…っが…、すきだ…」
「明…」
「寂しかった…ひめのんが居なくて、寂しかった…っ」
「明神、さん」
「会いたかったんだ…ッ」
だって、夢になんて出てくるから。
あの目が、口が、声が、記憶の中で繰り返し繰り返し、愛おしさを増していくものだから。
こんなにも、好きなのだと、思い知って。
「私も、夢に明神さんが出てきたら気になっちゃって」
「…へ」
「会いに来ちゃった。突然ごめんね」
「夢…に?」
「うん、夢に」
ああ、そんな偶然がもし起こったのなら。
「ひめのん…」
「うん?」
「ひめのん…ひめのん…」
「何?明神さん」
もう一つくらい、奇跡を起こしてくれても、よくはないか。
「もう一度、ここに住まない…?」
驚いたように、姫乃が目を丸くする。
それから、まじまじと大きな目を見開いたまましばらくの間言葉を失っていた。
「あ…ごめん俺何言って…」
「え?ううん!違うの…びっくりして…だって、明神さん私が言う前に言うから」
「?」
「私が考えてたこと、先に言うもんだから」
「…じゃ、じゃあ…」
今度は、目を丸くする側が逆になった。信じられない思いで泣いていたことも忘れてしまった、ものすごく間抜けな顔を目の当たりにして、姫乃が思わずと言ったように破顔する。声を上げて笑ったあと、満面の笑みを浮かべたまま頷いた。
金縛りがとかれたように、体が軽くなる。体だけじゃない、心にあった何かが枷を取り除かれたように軽くなった。意味もなく大声で叫びたい、この言い表せない気持ちを。
叫ぶ代わりに大きく息を吸って、天を仰いだ。そうしてから、両腕でしっかりと姫乃の体を抱き締める。触れることに対して怖がったり、戸惑ったりしている暇はない。そんな、そんな勿体ないことを気にしている場合ではない。
今抱き締めて、閉じ込めて、縋り付かなければ消えてしまうかもしれない。
そんな考えが伝わったのか、細い腕が慰めるようにして背中を軽く叩いた。不安と喜びの入り交じる気持ちが、それによって少しずつ宥められていく。
何を、何を言おう、一番言いたいことはなんだろう。
そう考えて、思いついた言葉は一つしかなかった。
「ひめのん…おかえり」
「うん、ただいま」
君の帰る場所が、俺の腕の中になればいいと、そんな夢見たいなことが夢じゃなくなる。
これを奇跡と呼ばずしてなんと呼ぼう。
ああ、今君と再びまみえた奇跡に心から感謝を。
終
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