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君が笑うととても嬉しい。 no your smile no my life. 君が楽しそうにしているのを見るのが好きだ。照れたように表情を和らげる瞬間が、何物にも変えがたいと思えるくらい、見ていたいとも思う。 「明神さん?私カオに何かついてる?」 「んあ?いやいや、ゴメンぼーっとしてただけだよ」 「ふーん。あ!またカップ麺食べようとしてるー」 「へ?おお、いつのまに!」 ぼんやりとリビングに居る姫乃が、アズミと戯れている様子を眺めていた俺は、指摘されて初めて自分の右手がカップ麺の容器をしっかりと掴んでいる事に気 づいた。台所に行ったところまでは覚えていたのだが、何故リビングに戻ってきてしまったのだろうか。 (…ああ、なんかでっかい笑い声がしたからだ) 姫乃の笑っている声がした。 ただ、それだけで足がここへ向いてしまった。 特に深い理由があるわけではないけれど、自分の目で見たいと思っただけだ。そして、目にしたらそこから離れられなくなっていた。踵を返して台所に即座に 戻るには、少しだけもったいない空間だったから。 「ご飯食べるなら私何か作るよ。おなかすいちゃったし」 「別に俺これでいいよ?」 「…ならせめて、野菜だけでも食べてください」 非難したいのかもしれないが、あまり強くは言わない彼女。それがどういう気分からくるものなのかはわからないけれど、こちらの今までの生活や、常軌を変 化させるつもりがあるわけではないのだということはわかった。 そのことはとても有り難い事だと思う。反面、それ以上踏み込んではこない事に軽い失望を覚えたりもするわけだが。 「じゃ、用意すっか」 「うん」 背を向けて共同キッチンへと向かう背中で、アズミとまた笑う姫乃の声がした。 * 最初に好きになったのは背中でした。 広くて大きな背中。 どんな恐ろしい存在にも、負けることなく立ち向かって、私を何度も助けてくれたその後ろ姿を、とても綺麗だと思いました。背中だけじゃない。少しだけ骨 張った大きな手も、低すぎない声も。 いつのまにかそれは、貴方自身への想いに変わって…。 いつのまにか、少しでも近い場所にいきたいなんて、そんな事を考えたりして。 「ひめのん?ひめのんは何食うんだ。まさか野菜だけじゃないだろ」 「うん?」 じっと背中ばかりを凝視していたら、突然彼が振り向いた。 一瞬話しかけられた事を忘れてその瞳に魅入ってしまったけれど、今自分がどこへ向かっているのかをすぐに思い出したので、咄嗟に考え事でもしているよう な振りをした。 「うーん、昨日の晩のおかずがあるから、あっためようかな」 「後で買い物にも行かないとなぁ。明日の朝飯なんもねぇや」 「私行ってくるからいいよ?」 「いやいや、荷物になりそうだから俺が行くよ」 「だって明神さんが行くとインスタントばっかり買ってくるんだもん…」 「うっ…。じゃ、じゃあ荷物持ちでいいよ」 反論出来ないというよりも、する気がないのだろう。わざとらしく肩を竦めて身を低くする明神に、気遣ってくれる優しさと暖かさを感じる。こうして気さく に接してくれるのは最初からだったけれど、最近はまた少し距離が縮まってきただろうか。 「ひめのんと買い物行くと、何故か薬局のおばちゃんが気前いいんだよなぁ」 「明神さん病院行かないんだもん。仲良くもなっちゃうよ」 それがたとえば、管理人と住人という関係でも構わない。ちょっとでも居心地良いと思ってくれるような気楽な存在になれたらと、心底思う。 「ホントいつも、世話になってるよなー。どっちが管理人だかわかりゃしねぇや」 「ああ、そうそう。二階の廊下の隅、昨日雨漏りしてたから宜しくね。管理人さん」 「はっは!!任せとけチクショー!!」 (好きだと、もし言ったならどんな顔をするのだろうね) こんな関係も悪くない。嘘じゃない。 笑っていて欲しいから。元気でいて欲しいから。 彼が幸せになれるなら、出来る限りの事をなんだってしてあげたい。 「変なの」 「ン?何か言った?」 「なーんにも」 明神さんのことなど、何一つとして知らなかったというのに。 生い立ちや今の仕事をしている経緯を聞いても、聞く前とそれほど変わらない気持ちだった。たぶん惹かれているのはそこではないのだろう。もしかしたら、 もっとずっと前、初めて出逢った時から何か惹かれる要素があったのかもしれない。 (知らないだろうなぁ) まだあの頃の明神さんにとって、世界の全ては大事な大事な誰かの為にあったのだから。他の人間が入る余地など全く無かっただろう。 考えもしなかったはず。 笑ってくれる度に、全然関係ない目の前の人間が、ずっと安堵してたなんて。 「晩飯何食おうかー」 「今からお昼食べるのにもう晩ご飯の話!?」 こんな他愛の無い会話が、日常が、愛しくて仕方ない。 それこそ、’痛いくらい’に。 * どんな小さな事でも良い。 どんなくだらない話でも良いよ。君が感じたこと思ったこと聞かせて欲しい。 全部を知りたいなんて無茶言わない。君を解れるなんて嘘でも言えない。理由は何でもいいんだ。君が気安くなれるなら。 もちろん、それすらも贅沢だって、よくわかってるけどね。 「だから、明日はみんなで残って練習するかもしれないんだ」 「なるほどなー。大変だよなぁ授業っていうのも。俺まともに学校行ってなかったからな」 「…あ、そっか」 「別に気にしないで話していーよ。そんで、先生がなんだって?」 「そうそう、先生がね…」 話題に困ると話すのは大抵学校の事。幸いなことに会話が途切れたりすることは無い程、普段話題には事欠かないのだが。 うたかた荘の面々は、毎日好きな事をして、好きな場所へ行く。だから住人である彼らと話しているだけでもずいぶんと話は弾む。二人きりになることの少な いあの家では、それほど過ごす時間で困る時は無かった。 困ることがあるとすれば、本当に、こんな些細な機会。 「今日ってなんか安売りしてたっけ」 「えっとね、確か牛乳が安かったはずだよ」 「ふんふん、じゃあ一本余計にかっとくかー」 「あ!明神さんそれ賞味期限短い!」 自分たちの会話に、すれ違った夫婦が小さく笑う。『ほほえましいわね』という言葉が聞こえた事に、自分たちがいったいどういう間柄に思われているのかを ふと意識した。 休日の夕暮れ時に、スーパーで買い物かごを下げ、晩ご飯について議論をしている赤の他人など居はしない。どう見てもそれは家庭という場所があってこその 会話だ。もしかしたらそれは、兄妹というくくりの認識かもしれないけれど、容姿からしてそれを連想する人は少ない。どう見ても他人。よくて親戚。 俺がうたかた荘の管理人で、彼女がそこの唯一の住人だということを知っている薬局のおばちゃんですら、『いつも仲が良いわね』なんて下世話な事を言う。 その度に分かっているのかいないのか、笑顔で応える姫乃を見て複雑な気分になった。 何を思って、あんな風に笑顔を浮かべるのだろう。 単なる愛想笑いなのか、それとも悪い気はしていないのか。言うまでもなく、俺の気持ちはもちろん後者だ。少なからず好意を持っている女の子と、誤解され て嫌だと思う程は枯れ果ててはいない。 自分の隣に居る時の姫乃が、何を考えているのか解ればいいのに。 「明神さん眉間にしわよってるよ?」 どうしたの?と見上げる姫乃に、まるで心を見透かされたような気分になる。 「あー、ちょっと明日の朝飯について考えてた」 「…あのねぇ、明神さん」 「ウソですゴメン」 呆れたのか、大げさなため息をつく姫乃。こんなわざとらしい嘘でも、示唆されることはまず無い。もしかしたらこちらの考えている事は、全て透けてしまっ ているんじゃないかと、時々怖くなることもあるのだが。 * ごめんね。困らせたいわけじゃないんだよ。 だからもちろん、今のこの距離を保とうと心がけている。 本当は…何気ない言葉一つで泣きそうになったり、嬉しくなったり、毎日ホントに飽きないよ。これだけでもきっと、幸せなことなんだと思うの。ふとした仕 草に一人で慌てたり、ワクワクしたり。ばかみたいだね。人を好きになるって。こんなくだらないことで毎日毎日振り回されてるんだから。 あの人は優しい人。 だからこんな私にも、とても暖かい。もし今のこの関係を、彼も心地よいと思ってくれているのなら、それを壊すかもしれない私の気持ちは障害でしかない。 好きになって、ホントにごめんね。 「そういえば、最近暑くなってきて食欲無さそうだったけど大丈夫なの?」 「………え?」 晩ご飯の片付けを並んでしていた時、突然明神さんがそんな事を言った。 「あれ、違った?」 「だって私そんなこと言ったっけ」 「言ってないけど、そんくらいは見てればわかる」 思わず目を丸くしてしまった。それからじわじわと頬が熱くなってくるのを感じる。 「だ、大丈夫だよ」 「そ?良かった」 ニッと小さく笑ったあと、また片付けの手を再開する。明神さんの手がお皿を次々と洗っていくのを見つめながら、言葉が出なくなってしまった口がただ震え るのを噛みしめて堪えた。 突然なんて事を言うのだろうと、恨めしい気持ちにさえなりながら。 「この家特に二階なんて暑いだろー。夜寝苦しくなったら、リビングで全員雑魚寝だな」 「リビングで?」 「俺の部屋より、ずーっとあそこのが涼しいしさ」 「へー、そうなんだー…」 口元が引きつってしまっているのは、気のせいではない。 なんとかふつうの表情を保とうとするのだけれど、顔は赤いままだし、たぶん笑いもぎこちない。 だって、嬉しい。 理由はどうあれ、見ててくれたこと嬉しかったし、気遣ってくれることに心底感謝したい。この思いやりを独り占めする夢は叶えられないだろうけど、たまに こんな言葉を言ってくれるだけで、本当に幸せ。 「私が田舎に居た頃は、居間に蚊帳を張っておじいちゃんと寝ていたよ」 「へ〜!イイナァそれ、一回やってみたい」 「じゃあリビングでやってみる?」 「うわぁ…結構壮絶な風景だよな」 想像してみて、ちょっと滑稽だと思った。笑っている明神さんが、楽しそうだったので私もやっと自然に笑えた。自分の言葉で彼が笑顔になってくれる。ただ それだけなのに。 ただそれだけのことが、私にとって全てに近い。 せめて少しでも、貴方の周囲を明るく出来たらいい。 もっともっと貴方が笑ってくれる機会増えればいい。 だって、他にはなんにも出来ないから。 * 君を見ている自覚はあるけれど。 「なぁ、明神ってさ、姫乃の事どー思ってんだよ?」 「は?なんだ突然」 「だってさ、やっぱ特別なんだろ?あいつは」 やっぱりこれはいけない事なんだろうか。 「…そう見えるか?」 「気づいてないのは、姫乃くらいだろ」 「そう、か」 咎められた気がするのは、後ろめたい気持ちがあるからか、それとも拒絶を目の当たりにするのが恐ろしいのか。 見てて解るもんか?とつぶやくと、残念ながらと言わんばかりにエージは眉を上げる。 「そりゃ、毎日一緒に居ればなー」 問題があるのかと問われれば、迷わず有ると答える。 絶妙なバランスで保たれているこの家の均衡は、そんな自分勝手な感情で壊してイイほど安いものではない。まして自分はこのアパートの管理人で、ここを守 る責任があって、受け継いだ指名があって、大事な住人たちの事を、何よりも考えなければいけない。 彼女だけを大切に思うのは、まるで彼ら他の住人を否定するみたいでとても嫌だった。 そう、考えられるのも嫌だった。 「そういやひめのん、ずいぶん風呂長いな」 「また風呂釜の調子でも悪くなったか?」 「一応、見てくる…」 何か困っている事が有ったとき、気づいてあげられるのが自分だったらいいと思う。 普段はなるべくなら、なんでもない顔をして。 そんなの自己満足だって、解ってるけれども。 「ひめのーん、まだ空かないかい?」 「みょ、明神さんっっムカデ!ムカデがっっっ」 「へ?なんだよ、呼べばいいのに」 「ちがっ…ふ、服が取れないのー!」 「うをい!?」 それはつまり、中に入るのも拙いということではなかろうか。 うっかりじゃあ今どんな状況なんだろうと考えそうになって、頭を振る。服を取ってやるにしても、ムカデを追い出すにしても、どちらにしても脱衣所には入 らなければならない。 「…ひめのん、入っても、平気?」 「ちょ、ちょっとまってねっ」 ガラガラと浴室の扉の音がする。おそらくそっちに避難したのだろう。少し遠めの位置から「平気だよー」という声が聞こえたので、幾分慎重に暖簾をくぐっ た。 「おお、立派なムカデだ」 「はははやくどっかやっちゃって!私他の虫ならともかく、ムカデは嫌いなのっっ」 「うーい、ちょっと待ってくれよ」 刺されてもつまらないので、軽く蹴ってやるとあっさりムカデは廊下へと出た。そのまま勝手口まで追いやると、いとも簡単に外へ逃がすことに成功する。肩 の力を抜きながら姫乃の所へ戻ると、既に彼女は服を着て、暖簾からおそるおそる顔を出したところだった。 「もう、居ない?」 「外へとりあえず出したよ。まぁ、また出るかもしれないけど…」 「…お風呂は勘弁して欲しいなぁ」 そりゃ同感だ。俺は役目を終えたので、早々にリビングに退去しようとして、不意にシャツの裾を引かれた。 「?」 「あの、ありがとね」 「…ああ」 申し訳なさそうに、眉尻を下げて姫乃は頭を下げた。 そして、安堵したように、柔らかく笑った。 「っ…風邪ひかないよーにね!」 「ん」 どすどすと足音を響かせながら、早足でその場を逃げる。 参った。 参ったホントに。 ああもうホントに勘弁して欲しい。あんな顔を見せられたら、自分でなくとも参ってしまう。お願いだからこれ以上、頭の中をかき乱すような表情をしないで 欲しい。 見ていたくなるのは手や腕や、仕草だけで十分だ。ただでさえ挙動不振にならないよう気を付けてるのに、更に悪化したら手が付けられなくなる。 「ああ…もう、なんだってこんな」 日に日にのめり込みながら、絶対に届かないって実感してる。 だって、彼女にとっての俺は、あくまで’案内屋’で、’管理人’なんだから。 ああ、なんて恋は理不尽なのだろう。 そうして今日も、僕らは互いに片思いをする。 fin
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