例えばこんな日常
かりかりとシャーペンの先で頬をかきながら、姫乃は目の前にある数字の羅列をなんとか読み取ろうと何度も瞬きをする。授業のノートを何度となく捲りながら、小さく唸ったり、足を揺らしてみたり、おでこに手をやってみたり。
「…ダメだ。最後の問題全然わかんない」
計算以外の数学なんて本当に将来役に立つんだろうか、と今まで幾度となく繰り返した疑問を浮かべつつ、残り一問となった宿題を前にとうとう姫乃はペンを置いた。
「息抜き息抜き…はぁ」
長時間座っていたせいで、腰が痛い。姫乃は大きく伸びをすると、ぐいぐいと体を動かしながら扉の方へ歩いて行く。
何か飲み物でも持ってこようと廊下に出た途端、ふと視界が何かおかしいことに気付く。
「…あれ?」
向かいの窓が、何かで遮られているような、そんな視界。もしやと思って一歩部屋の方へ後ずさりしてみると、その何かが顔を抜けて目の前にはっきり見えるようになった。
「…君から胸に飛び込んできてくれるなんて、とても嬉しいよ」
「っっー?!」
もしや、と思った通り、どうやら姫乃は部屋を出ると同時にどちらさまか定かでは無かったが、陽魂に重なってしまって――明神と違ってぶつかれないので――いたらしい。言わずもがな、どちら様とはガクだったわけだが。
「ガ、ガクさ…ごめんなさいっまさか扉の外に居るとはっ」
「いや、構わないよ…ひめのん」
さいごに名前を呼ぶときに少し恥じらいが見えるのは演技だろうか。いや本気なのだろうと思う。
姫乃はどうガクに対応したらいいのか、未だによくわからない。出逢った瞬間に強烈な求愛をされるようになって以来、まともに会話をしたことが無い気がする。
「こ、こんなところで何を…?」
扉の外に居たのだとしたら、もしかして部屋を訊ねてきたのだろうか。そんな事を考えて姫乃は恐る恐る訊ねる。すると、意外な事にガクはじっと姫乃を見たかと思うと、その向こう、姫乃の部屋の奥にある机を見やった。
「勉強は、終わったのかな」
「え?あ、宿題ならまだ一つ残ってるけど…?」
「そうか、じゃあ邪魔はしないよ」
アッサリと立ち去ろうとするガクに、呆気にとられる。会話が成立したことよりも、どうして宿題の話なんてしたのだろうか。
「宿題なら今、ちょっとわかんなくて休憩しようと思ったから、別に邪魔とかいうことはないですよ?」
「…そうなのか?」
「というか、もしかして勉強の邪魔をしたくないから扉の外に居たんですか?」
「…だと思う」
首どころか上半身そのものを傾けながら、ガクはぼんやり返答する。姫乃はその仕草がとても奇妙だと思いながらも、彼なりに気遣ってくれているのかと、そのことは少し嬉しい事だと思った。
「勉強の邪魔をされる辛さは、知ってるから」
ぽつり、とガクが言う。
姫乃はそれ以上言及する気もなかったが、いつもよりも若干静かな――まともに会話が交わせる――ガクに、自分の警戒心が引いていくのがわかった。奇想天外な事さえ言わなければ、もしかしたら案外、普通の人なのかもしれないと思って。
「えっと、ガクさんは勉強嫌いなの?」
「好きではないけど」
「私は好きだけど、あんまり得意じゃないからなぁ」
勉強そのものは嫌いではない。ただ、少し努力をしないといけない自分の頭の程度もよくわかっている。ただ、数字が絡む事は特に苦手意識が強いので、克服出来そうな気はしないのだが。
「…数学、やってたのか」
「うん、でも最後の問題だけわかんなくて」
「教えようか?」
間。
「へ?」
「高校の数学ならわかると思うけど、教えようか?」
今度はちゃんと首だけ傾げている。いや、そこは特に問題ではないのだが。
「ガクさん…数学得意?」
「…普通」
「あ、そう」
あまりに予想外な展開で、思わずどうでもいいことを聞いてしまってから後悔する。そんなことよりも、勉強を教えてくれるという申し出の方が今は問題なのであって。
じーっと姫乃の反応を待つガクに、断るのも気が引けて姫乃は覚悟を決めた。これで宿題が片付いてしまうなら、それでいいじゃないかと言い聞かせる。
「じゃ、じゃあ飲み物取りに行くついでに、リビングで…お願いします」
「わかった…待ってる」
ふっと階下に沈んでいく姿を見届けて、姫乃は部屋にノートと教科書を取りに戻った。やっぱり意外に普通の人なのかもしれない、とガクへの認識を改めながら。
*
「…何やってんだアレ」
エージの質問に、ツキタケはつまらなそうに呟いた。
「べんきょー」
「いや、そりゃ見ればわかる」
目の前のリビングに広がっている光景は、異様というよりも異常という方が正しいだろうか。そもそもガクが他人に対してまともな言葉を言っていることを、初めてエージは聞いたかもしれない。
「あいつ頭良かったのか」
「まぁ、兄貴は結構おぼっちゃんだからな」
「おぼっちゃんと関係あるのか…?頭の善し悪しって」
「一流大学に入ったとか入らないとか、聞いたことあるぜ」
「…へー」
椅子に座って説明を聞く姫乃に、ガクは取り乱す事もなく教科書を指さしながら何やら淡々と説明をしている。ペンを持って書くという作業は出来ないから、説明は全て口頭だ。勿論話している内容はエージにとって、習うことのなかった勉学の内容なわけだが。
「たーだいまーっと」
黒ずくめの管理人が、仕事を終えたのか帰ってきた。玄関の扉を後ろ手にしめている所に、エージは飛びつくようにして迎える。
「おおっ明神おかえり…じゃなくて!すげぇぞ滅多に見れない光景だぜ」
「あ?何が…って」
指さされた方向を見て、明神はしばらく絶句した。
そこにはようやっと問題が解けて満面の笑みを浮かべている姫乃と、それに対して未だかつて無いほどに満ち足りたような感動を覚えているガクの姿だった。
「な、なんのホラーだコレハッ」
「珍事だろ?俺も驚いたけどさ」
玄関を上がることも忘れて呆然としていた明神の姿に、姫乃が気付いて手を振った。
「あ、お帰りなさい明神さん」
「…た、ただいま?」
隣で睨み付けてくるガクはいいとして、何故姫乃がそこまでガクに対してうち解けているのか、その一点のみがひどく気になる。
「なに、してんの?」
「今ガクさんに宿題見て貰ってたの。終わった所だよ」
「宿題…?」
「うん、数学」
あいつ勉強なんて出来たんだ…と思わず呟いた言葉に、エージが「俺もそう思った」と大きく頷いた。とりあえず終わったという事は本当なのだろう。ノートや教科書を抱えて立ち上がった姫乃は、もう部屋に戻るつもりで居る。
「ガクさんありがとう。助かりました」
「これくらいなんてこと無い。何故なら俺はいつでも君のことだけを考…」
「じゃあ私これ片付けてきますから!」
台詞の途中だったにも関わらず、姫乃はぱたぱたと階段の方へ駆けていく。とりあえずうち解けてはいるものの、特にそれ以上は無いことはわかって明神は無自覚に詰めていた息を吐いた。
当のガクはしばらく広げた手をそのままにしていたが、既に姫乃が目の前に居ない事に気付いて何事もなかったかのよう姿勢を元に戻した。
「ツキタケ、結婚式の日取りはいつがいいかな」
「とりあえず仏滅避ければいつでもいいんじゃないっすか?」
「いつ了承取ったんだよ…っ」
そんな突っ込みを入れてしまってから、明神は自分が胸の辺りを押さえていることに気付く。何やらモヤモヤというか、じりじりとして気持ちが悪い。
ああ、これはあれか、所謂あれなんだな。
相手がガクというあたり、ものすごくげんなりしながら明神は管理人室に入るとコートを脱いで、サングラスを取った。大きく深呼吸をして頭に酸素を送り込むと、薄汚れてしまったシャツを脱いでパーカーに着替える。
「了承なんかさせっか…くそっ」
正直、とても、面白くなかった。
くだらないヤキモチだと、自覚があるだけマシだろうか。明神は机の上にあったケースを取ると、管理人室を出てリビングを突っ切り、階段を上り始めた。後でまだ結婚式について会話しているガクにまた少しムッとしたが、それよりも先に、何より言いたい事があった。言いたい相手が居た。
階段を上がってすぐの部屋、三号室のドアをノックせずに開ける。驚いたように振り向いた姫乃が声を発するよりも早く、扉をしめて近づくと、椅子に座ったままの姫乃の後に立って、屈み込む。
「みょ…」
ふわりと、包み込む程度に頭を抱えて、抱き締める。
抵抗も文句も言わない姫乃に、自分がキチンと受け入れられていることを確認して明神は離れた。
「明神…さん?」
不思議そうな顔をして、だけど決して嫌がっては居ないその顔の向こうに、にっくき数学の教科書。
A5判のそれをひょいと手に取ると、ケースに入っていた眼鏡をかけてぱらぱらとページをめくる。予想通りこの程度なら自分にもわかる問題ばかりだ。
「ひめのん、これくらいなら俺に聞きなさい」
「へ?」
「いいから、今度からは俺に聞きなさい」
有無を言わせず、そう言い含める。逆に少し必死すぎやしないかと自分で不安にもなったけれど、姫乃の関心はそことは違う場所にあった。
「明神さん、眼鏡なんかかけるの?」
「ああ、視力が高すぎて、逆に近くのもの見にくいんだ」
「…へぇ、そんなことあるんだ」
あるんですよ、と嘆息すると、明神は教科書を机に置きながら、離れ際に姫乃の頬に唇を掠めた。
「!」
「あんまり、ガクと仲良くしないでくれよ」
「え?あ、うん」
「心配だし、俺も嫌だからね」
まるで、拗ねているような表情をしているだろうと情けなくなった。けれど、姫乃はそんな様子を目を丸くして見ている。頬を、染めて。
「明神さん」
「あーっもう何もコメントしなくていいっどうせ俺は今ものすっごく情けないっ」
「そんなことないよっ!だって、心配してくれたんでしょ?」
「そうだけどっそれだけじゃなくて…っていうかもうダメだ俺忘れて」
「やだ忘れない!」
「忘れろ!」
「忘れない!!」
ぐっと姫乃に腕を引かれて、そのまま体を傾ける。驚いて顔を向けた所に、姫乃の顔が重なった。
「っひめのん…」
「…嬉しかったから、忘れないもん」
顔が赤いのは、お互い様で。
姫乃が嬉しそうなので、とりあえず良しとすると、明神は数学の他に机の上にあった教科書を取って順に眺め始めた。
「明神さんて、勉強得意なの?」
「ん…得意な訳ではないけど、別に出来た気がする」
「学校の成績よかったの?」
「まぁ、あんまり行かなくても内容は理解出来たしね」
「………」
仕事をする上でも力推しではどうにもならない場合がある。師は特別勉学を重んずる人だったわけではないけれど、その知識の量や経験から得た博識さは憧れに充分価した。馬鹿にはなりたくなかったので、最低限の事も学んだ。
さすがに専門的な分野になるとそうは行かないが、入学したての姫乃のレベルならまだ教科書を読めば問題は解けそうだった。
「明神さんて、実は凄い人?」
「何、突然」
「ううん、なんでもない」
姫乃は椅子の後にいる明神のお腹に、自分の顔をぽすっと埋めた。
土曜日の昼下がり、うららかな休日、例えばこんな日常。
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