泡沫
夏が終わりに差し掛かる。
日差しはだんだんとその攻撃性をひそめて、空はどんどん高くなり、雲は若干厚みを減らしたようにみえた。
それでも暑いのが今の日本。
もう季節は秋と言ってもいいのに、半袖で歩き回れるくらいの気温の日がまだ訪れるのには昔の人も脱帽だ。
夏は嫌いじゃない。
でも好きでもない。
良い思い出も嫌な思い出も、いろいろあるから。
「ひーめーのーん」
「ん?ん?」
買い物を終えて帰ってきて、部屋に荷物を置いたところで突然そんな声がした。どこから声がかかったのか、一瞬わからずキョロキョロと周囲を見回す。
「こっちこっちー。上だよひめのん」
「上…?」
開いていた窓から身を乗り出して、上を見上げると不意に顔に影が落ちた。
「っきゃああ!?なんてとこから顔出してるんですかぁ!?」
「え?何?なんでそんな驚くの?」
屋根の上から、首だけをのぞかせて、窓から顔を出した姫乃の顔をのぞき込んだ明神がからからっとわらった。恐らくうつ伏せに寝転がって下をのぞいている
のだと思うけれど。
「お、落ちないでよっ?!」
「そんなぁ?まさかひめのんじゃあるいまいし」
そういって、明神はおかしくてたまらないといった風に笑う。
「ッ…!」
姫乃は窓をパシンっと閉めると、そのまま廊下へ飛び出して階段を駆け下りて、庭の端から屋根へとかかるはしごを猛然と駆け上がった。
「明神さん!!!」
「え?!わっびっくりした!」
さほどびっくりしていないように見えるのは姫乃の気のせいだろうか。
屋根の上にのんびりあぐらをかいて、風にそよそよと髪をゆらしている明神を見ていると、なんだか勢いだけで上ってきてしまった自分が馬鹿らしくなってき
た。
そのまま黙って近づいていって、すとんっと明神の隣に腰を降ろす。日差しがじりじりと背中を焼くのがわかったけれど、風は秋らしい穏やかな涼しいものが
吹いていた。
うたかた荘の屋根はそれほど高くない。
街が高台のように見下ろせるわけでもないし、かといって建物に埋もれているわけでもない。
ただ、住宅地ながら、庭に生えた木々が優しく囲んでいるような気はした。
「さっきね」
「え?」
無言の姫乃に、明神がぽつりと声を漏らす。
「さっき、ここから庭を眺めてたら、ひめのんが買い物から帰ってくるのが、あのへんから見えたんだ」
住宅街の塀が続く市道の、曲がり角の方向を指さしてから明神はくるっと姫乃を振り返る。見上げた姫乃には、逆光で――サングラスのせいもあるけれど――
よくその表情はみえない。
「今日は日差しが強いから、ひめのんが陽炎みたいにゆらゆらして見えたよ」
何が言いたいのか、ただそのことを言うだけに自分を呼んだのか、そのあたりを計りかねてじっと明神の言葉に耳を傾けていると、不意に大きな手の平が、日
を遮るように姫乃の頭に降りた。何度かその前髪を撫でたあと、片眉をあげて小さく笑う。
「消えちまうかと思って、ちょっとハラハラした」
ああ、だから。
職業柄、彼はそういったことに過敏に反応する。それは別に、大きな動揺とか、困惑とかそういうものを呼び込む感情ではなくて、何処か自分のことのように
意識を寄せてしまう感じだと思うけれど。
「…勝手に消さないでよ」
「うん、ちゃんと居ますね我が家のお姫様は」
「お姫さ…!?」
「あっいや違った貴重な収入源っ」
「明神さあああんっ!!?」
すくっと立ち上がって、座ったままの彼に向かって上から拳を振り上げる。殴るつもりは勿論なくて、威嚇するためにそうした姫乃に明神はまたおかしくてた
まらないといった風に笑った。
「ごめんごめん…いやぁ、そんなに怒らないで?」
相変わらず何を考えているのかわからないけれど、自分に対してこうして何かと構ってくれるのは正直姫乃には嬉しかった。
ここに来なければ、こんな風には暮らせなかったと思うから。
「別に…いいけどねっ」
さっきから怒りがどこか不完全燃焼を起こしてばかりだけれど、そこは大人しく拳を降ろしてまた隣に腰を落ち着ける。
昼下がりにもなると、大陽の傾く速度が一昨日より、昨日より早くなっているような気がした。
「…そういえば、ここのうたかた荘の、うたかたってどういう意味ですか?」
聞いたことはあるけれど、意味までは知らなかったのでそんなことを聞くと、それまで笑っていた明神の顔が、ふと表情をなくした。呆気にとられている、の
ほうが違いだろうか。
「え?なんか変なこと聞きました?」
「いやいや、そんなこたないけども」
答えないまま立ち上がった彼につられ、姫乃も立ち上がる。足下の瓦に足をとられないように気をつけたつもりだったが、若干バランスを崩してふらりと身体
がゆらいだ。
「あっ…わ!」
「おっとっと。こらこらひめのん?」
「う、すいません」
掬い上げるようにして支えられて、ものすごく自然なしぐさで体勢を立て直される。自分でも恥ずかしいほどに明神の腕をしっかりと掴んでいることに気付い
て離れようとすると、ぽつりと神妙な顔をして彼は呟いた。
「…落ちないでね?」
さっき姫乃が言った台詞だ。
「わ、わかってるよ!」
「はははっ…」
短く笑って、明神は離れようとした姫乃の頭を手の平で包むと、軽く自分の方に引き寄せてその後頭部をぽんぽんっと叩いた。
「ん、ちゃんと居る」
「…?」
なんのことかと聞くよりも早く、明神は姫乃の手をひきながらはしごの方へと向かって歩き出した。
その背中をぼんやりと見つめながら、姫乃は今頬にあたった服の感触や、髪を撫でた硬いけど優しい指先や、微かに残る体温に自分の頬が赤くなっていくのを
感じた。
大丈夫、今はもう日が傾いてきたから。
「明神さん、夕焼けになるよ」
「うん?ああ、日が落ちるのが早くなったなぁ」
そんな風に遠くを見つめる横顔も、同じように薄赤く染まっている。
知らないでしょう?
そうやって頭を撫でたり、簡単に抱き寄せたりするのは、他の子たちにしているのと同じようにやっているつもりだろうから。
さっき上から呼ばれたときに驚いたのだって、あんなに近くに貴方の顔があるなんて思わなかったからなんだよ。
ここはうたかた。
いつか去るその時までの。
泡のように夢のような場所。
終
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