ヴォイス
 
 
 
 


 僕の名前をよぶのは 誰?
 
 
 
 

 サングラスをつけないで寝た日は、決まって悲しい夢をみた。
 朝起きて目元が濡れている情けない思いをしたことも数知れず、そのたびに明神は自分が何処に寝ているか、周りに誰かいないかを確認しなければならなかった。
 幸い、今日は部屋から玄関にかけての廊下までの移動で済んだようで、特に誰かの足下の邪魔をした様子もない。袖でゴシゴシと顔を拭うと、顔をまず洗おうと洗面所に向かった。

「あれ?明神さん」
「あれ?ひめのん」

洗面所へ続く廊下の突き当たり、共同リビングから制服姿の姫乃が不意に姿を現したことに、明神は自分の顔がいつも通りだといいと思いながら「おはよう」と挨拶をする。同じように返してきた姫乃がそのまま明神の横をすり抜けようとして、一端は止めた歩みを再開した。
 明神もその道を開けようと廊下の片側に無意識に移動したのだが、どうやら方向が悪かったらしい。ちょうどいいタイミングで前に立ちはだかった障害物に向かって、当然というか必然というか、避けきれずに姫乃はぼふっと顔をぶつけた。
「………あのー」
「あ、すまんっ」
 鼻っ柱をさすりながらジロリと見上げてくる姫乃の顔は、普段の穏和な顔からは連想しにくい程気が強そうに見えた。姫乃にしてみれば、たとえ服越しとはいえ筋肉質の男の胴に顔をぶつければそれは痛いだろう。屈強とは言い難い外見とは裏腹に、実は明神の体はとても硬質だった。
「何ぼーっとしてるの?顔洗うんでしょ?」
「おおそうだった」
 指摘されて自分がここまで歩いてきた理由を思い出す。というか忘れていた訳ではないのだが、短い間とはいえ姫乃の顔を見つめたまま立ちつくしていた姿は可笑しなものだったのだろう。
 調子の出ない朝は食欲もわかない。わかないけれど、腹は減っているから虫は鳴くし、何より習慣として朝食を抜くことだけはどんな時もしない。冷たい水で顔を叩くようにしてあらったら、若干はっきりとした顔が鏡の中にうつった。
 ああ、なんて顔をしているのだろう。
 クマとまではいかないけれど、少しだけ寝不足をあらわす目の周りの肌の色。夢をみてうなされるだなんて、格好悪いことこの上ないとずっとずっと思っているのに。

 遠くから近くから、空からさえも聞こえるようなあの声が、今も耳に残っている。

 随分長いことそうして洗面台の前にいたように思えたが、顔を上げてタオルで拭いて扉の方を振り返ると、まだそこに姫乃はいた。
「あ、れ?ひめのん学校は?」
「うん行くよ。行くけど…」
「行くけど?」
 もごもごと何か言いたそうに、――だけどそれはとても不本意そうにも見えた――視線を彷徨わせて続きを言い出せないでいる様子に、明神は茶化すことも促すことも出来ずに黙って待つ。姫乃の動きにあわせてふわりふわりと揺れる頭のてっぺんの髪の毛が、まるで猫じゃらしのようだと、そんな下らないことを考えながら。
「帰ってきたらでいい」
 そう短く言い放つと、何があったのかぷいっと顔を背けると姫乃は玄関の方へスタスタと歩いていってしまった。怒っているのだろうか?それとも自分が何か気に障るような態度をとったのだろうか?と明神は若干慌てながらも、学校へ行く後ろ姿を毎日と同じように小さく笑顔を浮かべて見送る。
「いってらっしゃい」
「…いってきます。今日は早く帰ってくるから、出来れば家に居て」
 意外な言葉に返事を返す間もなく、姫乃の姿は大陽の下にとけていってしまった。玄関から差し込む朝日は、丁度逆光になっていてひどく眩しい。
「えーと、うんわかった」
 誰もいない玄関に向かってそんな返答を返す明神に、二階から様子をみていたエージもあずみも顔を見合わせたのだった。
 

   *
 

 
「昨日ヒメノの部屋で、あずみと夜しりとりして遊んでたんだけどさ」
「は?なんだ突然。ていうかエージ、お前夜中に女の子の部屋に邪魔するなんて…」
「だーーーっ論点はそこじゃねぇんだよ!!」
 持っていたバットをぶんぶんと上下に振る仕草はまるで子供が駄々をこねる時のようで、明神は笑ったら怒るだろうな、と思いつつもへらっと口元の筋肉を緩ませて「わかったわかった」と頷いた。
「ちっ…まぁいいや。その後、当然ヒメノは寝たんだけどさ…お前、ヒメノの家の事なんか知ってるか?」
「いや…詳しくは何も。家って、実家がどうかしたのか?」
「…ん、実家っつか…あいつが、寝言で『帰りたくない』って…泣きやがるから…さ」
 ばつの悪い思いをした。
 エージの顔は罪悪感と心配が入り交じっていて、姫乃のその姿を見てしまったことを後悔しているようにみえた。確かに姫乃が涙を流す姿なんて見たら、明神も狼狽えてしまうことは間違いないだろうと思う。
「まぁ…気になるのはわかるけど、ひめのんが何も言わないなら詮索すべきじゃないな」
「わ、わかってら!そんくらい!!」
「よしよし、エージは優しいなー」
「ガキ扱いすんなよ!!?」
 がしがしと頭を撫でてやると、僅かに照れたような表情でエージは明神から距離をとった。その様子さえ微笑ましく、明神は自然と笑顔になる自分の顔を好ましく思う。
 笑いたい時に自然に笑える喜びだけは、忘れてはいけない。
「じゃあ俺今月の決算するから、しばらく邪魔すんなよ」
 くるりと背を向けて、椅子にどかった座りこんだその態度の変わりように呆気にとられたエージだが、仕事を邪魔するつもりはないので文句を言いながらも部屋を出る。
 明神は姫乃が心配ではないのだろうか?
(俺は…あの顔一瞬見ただけでもう、その場になんて居られなかったのに)
 それが大人と自分の違いなのかもしれないと、エージは悔しさを持ちもしたが、むしろ帰ってきた姫乃にどんな顔を合わせたらいいのかが問題だった。素振りでもしていれば忘れられるかもしれないと、取りあえず思いつきで外に出る。
 日が傾いてから落ちるまでは、この季節とてもとても早い。

「ただいま。眠い」

 第一声はこんな声だった。
 姫乃が帰ってきたのだと管理人室から顔を出すと、予想に違わず靴を脱いで玄関を上がっている姿が目に入った。
「おかえ…り?眠い?」
「もー眠くて眠くて授業大変だったよ明神さん!!」
「え!?俺のせいかよ?!?」
 鞄を軽くぶんっと振り回して、まるで眠いことが明神のせいであるかのように姫乃は頬を膨らませている。
「いや、そんな膨れ面されても…?」
 面白い顔になるだけだぞひめのん、と冗談を言いそうになって、今言ったら本気で鞄が飛んできそうだったのでやめた。入学したての学生の鞄なんて、教科書やノートやそのた諸々で必要以上に分厚いに決まっている。
 姫乃はそのまま足音も荒く階段を―――途中まで上がってから急に足音を静かなものにかえた。丁度、その段は踏みつけると嫌な音の鳴る危険な場所。思い切り踏み抜けば、きっと階段に埋没することになるだろうと、引っ越してきたばかりの時に注意したことを今でも律儀に守っているらしい。
 別段、姫乃に怪我さえなければ階段の一つや二つ、直してしまうから構わないのだけど。
「あー、ひめのん、俺部屋にいるからね?」
「え?何?」
「いや、なんか話…ほら朝の。あるなら、部屋に居るから、呼んで」
 階段を上がりきってしまったので、明神の場所から姫乃の姿は確認できない。聞こえなかっただろうかと首を傾げてみたが、管理人室のすぐ真上にある姫乃の部屋でバタバタと歩き回る音が聞こえたかと思うと、すぐに私服に着替えた姫乃が階段を降りてきた。
「眠い…」
「いや、だったら寝なよひめのん」
 苦笑いを浮かべてそう言うけれど、返事はない。仕方なく明神は姫乃の頭を軽く撫でると、子供を宥めるようにして柔らかく言う。
「…寝られないのか?」
 エージの言葉が、不安の種を植えなかった筈が―――無い。
 本当は、この少女が泣いている姿なんて想像もつかないし、したくない。まして、見たくもないのが本音だ。
 けれど、彼女の心境に何かしら良くないことがあるならば、それを払拭してやりたいとも思う。自分に出来るかどうかは、正直自信など皆無に等しいのが情けないが。
「うん、あんまり寝られなくて困ってるの」
 眉根を寄せて、床を見つめる。
 姫乃は自分の頭に置かれた手の平を掴むと、一つため息をついてから両手でぎゅっと握りしめた。
「明神さんは、寝られないことってないの?」
「ん?いや、そりゃあるさ…たまにはね」
 頻繁だなんて、さすがに言えない。ここ数年そうでもなかったのだが、色々と思い出す事が多い最近はやはりひどかった。
「そういうときってどうするの?」
「うーーーん、難しいな」
 自分の場合はサングラスが留め金のような役割を果たしている。あれ自体に特別な術式が施してあるわけではないが(実際の所は元来明神の私物ではないので知らない)、不思議とつけている時は夢をみなかった。レンズを割ることはないけれど、実は時折フレームが曲がっている事があるから本当は寝ている時くらい外した方がいいことは、よーくわかっている。
「とりあえず立ち話もなんだから…書類あと2,3行だから片付けちまうよ」
「じゃ、待ってる」
 眠いのを我慢しているようにも見える微妙な姫乃の表情が心配ではあったが、ここは玄関で、外から丸見えで、ご近所の皆様に目撃される可能性もあった。
 ともかく部屋に戻ると、ついてきた姫乃に座布団をすすめ、自分は椅子に座らず中腰のまま最後の部分にペンを走らせる。
 今月の支出と収入なんて、どうして計算しなければならないんだろうと、そんなどうしようもない事が頭をよぎったが、まず今は姫乃の事が先だった。紙を簡単にそろえて引き出しにしまうと、すぐ後ろに座っている筈の姫乃を振り返る。
「お待たせ………あれ、ひめのん?」
 そこにあった筈の顔がない。
 と、いうよりも、予想したよりもっとずっと下の方に、ころんと姫乃は頭を寝かせて転がっていた。
「うあ、寝てるよこの子は…」
 じーっと顔をのぞき込むが、余程眠かったのか眠りに落ちていく速度は異常に速かった。軽く肩を揺すってみたが全く反応も無く、名前を呼んでみても身じろぎもしない。
 眠れないというのは、思っているよりずっと深刻なのだろう。
「とりあえず風邪ひかれたら困るなぁ…」
 二階へ運ぼうかとも思ったが、以前に同じように寝こけた姫乃を部屋に連れて行った時、勝手に中に入るなと翌日軽く怒られたのを思い出す。まだ夜中ではないので、夕食時に腹でも減れば起きるだろうと、そのまま寝かせることにした。
 そして自分はどうしようとハタと気付く。
 このまま部屋に居ても落ち着かないし、夕食にはまだ早い。散歩をするにも姫乃を放って行くのは忍びないし、今この建物には庭で遊んでいるはずのあずみ以外、自分達の他に誰も居ない。
 眠っている姫乃の顔をのぞき込んでいたら、なんだか自分まで眠くなってきて明神はサングラスをとって目を擦った。欠伸が追い打ちをかけるように出て、心なし体温も高い。いつもの倍の人間を収容して、部屋の温度が若干高いのだろう。
「あーくそ…俺も眠い…寝るぞ…俺は悪くない…悪くない…」
 自分の布団の方へ歩いて行こうとして姫乃が畳の上だということに気付く。素肌になるべく触れないようにその小さな身体を持ち上げると、布団の中央より右寄りに寝かせる。上掛けを掛けるのを忘れずに、明神はその隣にゴロンと転がった。
 きっと2,30分寝れば目が覚める。
 その時はそう思って、眠気に任せて瞼を降ろした。
 
 
 

 明神と呼ばれるようになって、もう随分経ったような気がする。
 だけれど未だに自分は半人前で、彼の足下には及ばない…及べる気もしない。
 彼のようになりたいと、ずっと願って生きてきた、この数年。
 だけどわかったことは、絶対に彼には成り得ないという事実だけ。

 あるべき自分の姿を、本当は知りたかった。
 たくさんの人を守る“案内屋”としての自分じゃなくて、人として生きる自分の姿を。

 探していたと思うのだ。
 ずっと、本当は。
 忘れたふりをして。
 気にしていないふりをして。

 大事なのは、自分で見つけた答えを信じられるのかどうか、それだけだと彼は言っていたのに。
 
 
 

「………んさん…みょうじんさん」
「っ…」
 誰かに呼ばれたような気がして、薄く目を開ける。眩しくはなかった。
「明神さん…なんで泣いてるの?」
「…え?」
 顔をのぞき込んでいるのは姫乃だった。
 明神の頬に手をあてて、まるで自分が泣いているような顔をしている。
「どうして、そんな顔してるの?」
(ああ、そんな悲しそうな顔をしちゃだめだひめのん…)
 泣いていたせいか、寝起きだからかはわからない。
 明神は頭の奥がずきずきと痛むのを感じながらも、ただ自分に触れる小さな手の優しい感触がそれ以上に感じ取れる事に小さな驚きを覚えた。
 自分のすぐ側に寄り添っている体を緩慢な仕草で抱き寄せ、胸元に頭を抱える。
「なんでもないよ」
「…でも」
「なんでもない…ひめのんがいるから、大丈夫」
 そんな理由にならない台詞を言って、意味があるのかはわからないけれど姫乃はそれ以上言及しなかった。ただ明神の心臓の上に耳をのせて、規則正しく響く鼓動に大人しく目を閉じている。
「…ねぇ明神さん」
「うん…?」
 腕の下から小さく聞こえた声に、少しだけ首を上げるとこちらを見ようとしている姫乃と目があった。
 小さな唇が何度か震えて、やがてぽつりと、本当にぽつりと呟く。

「このまま、今日寝てもいいかな?」

 薄暗いので顔色まではわからない。けれど触れている腕が随分熱いから、きっと顔は赤いのだろうと明神はぼんやり思った。そして、言われた意味を理解して、さすがに驚いて体を硬直させる。
「いいかなって…ひめのん…」
「ダメなら、戻るけど」
 断る理由が、何処にあるだろう。
 明神は返事の代わりに、のぞき込んでいた体勢のまま抱き締めてしまっていた姫乃のからだを、一度離して自分の横に寝かしつけた。そして、そのまま抱きすくめる。
「いたた…髪の毛挟んでるよ明神さん」
「おっと、ごめん…っ」
 慌てて髪の毛を掬い上げてやって、姫乃の頭を腕の上にのせる。枕が一つしかないので、とりあえずこれでしのいで貰う為に。
「…腕枕なんて初めてして貰うよ?」
 くすっと笑って言った姫乃に、明神は「あー」とか「うー」とか低く唸ってから姫乃の前髪に鼻先を埋めた。
「俺だって…こんなのしたこと…無いよ」
 恥ずかしさで顔を見られたくない一心だったけれど、おずおずとシャツに伸びてきた細い指がしっかり自分に捕まったことで、明神は早く眠りが訪れることをひたすら祈った。

 こんな状態、長く続けていられるほど大人ではないんだ…まだ、といい訳をしながら。
 

   *
 

「明神おきろーーーーーー!!」
「うお!?!」
 ぎゅーっっと髪の毛を引っ張られて、それがあずみの仕業だとわかるまで3秒。それから自分が自分の布団の上で眠っていたことに気付くまで10秒。そして、隣に人一人分のスペースがぽっかり空いていることに気付くまで、実に30秒かかった。
「うっ…おぉぉおぉ………」
 顔が熱くなるのを自覚して、明神は俄に頭をかかえて布団に突っ伏す。頭の上に乗っていたあずみが、その拍子にころりと転がった。
「朝ご飯できてるよって、ひめのんが」
 その単語にさえ、脳髄が揺れたような錯覚。重傷だ。危険信号が鳴っているのが、自分で自覚出来るようでは。

「あ、ひめのん!明神おきたよ」
「ありがとーアズミちゃん」

 心臓が、小さく跳ねる。
 小学生のガキじゃあるまいし、どういう動揺の仕方だと自分を落ち着けようと深呼吸する。やっと動悸が治まったところで、扉の向こうから制服姿の姫乃が顔を出した。
「明神さん、学校行ってくるよ」
「あ、ああいってらっしゃい」
「むー、ちゃんと起きてよー?」
「お、起きるっていうか起きてる起きてるっ」
 立ち上がって大げさに体を動かしてみせると、疑わしげな姫乃の顔が笑顔に変わった。
「よし、じゃあ私は今日も勉強頑張るぞー」
「おう!頑張ってこーい」
 いつもと変わらない姫乃に、明神は安心して、少し気が抜けた。いつものように見送る為に、玄関まで出て、ふと自分がサングラスをしていないことに気付いた。

 夢も見ないほど、ぐっすり眠っていたのに?

 ローファーの踵が、コンクリートを打つ音で我に返る。
 振り向いた姫乃が大陽を背にしたまま、ふわりと笑った。









 足下にアズミがちょろちょろとまとまりつくのにも構わず、明神は顔を押さえると「参った…」と呟いた。
 高校生の女の子なんて、放っておいてもこれからどんどん女性らしくなるじゃないか。
「ああ…参った………」
 もう一度呟いて、脳裏でついさっき見せた笑顔を思い出す。

 あんな大人びた顔を見せるようになってしまった彼女を前に、この情けない大人はどうすればいいのだろうか。

 気恥ずかしさや、情けなさ、それからワクワクするような色々な感情がこれほど自分の中に溢れていた事に気付いて、そのことが嬉しくて、でも少し恐くて。
 明神はアズミを抱え上げると、大陽の降り注ぐ庭にでて、大きく伸びをした。
 
 
 
 

おわり
  


わーーーーーーっっっっ(ゴロゴロゴロゴロ←転がっている
 

か、書いててすごいっすごい恥ずかしかったよ!?(じゃあ書くな
明神さんの照れ具合が半端じゃなくて、
なんだかとってもおかしなことになっちゃいましたよ?!

この、みえるひとの部屋にある文章は、
系列的に100のお題の方の2人とは異なると勝手に決めています。
あっちはあくまで未満な2人。
こちらはどんどん親密になって構わない2人………。

うわー!!親密だってっキャーーー(やかましい

別段他の話と繋がっているというわけではありませんが、
段々距離が確実に短くなっている気がする2人でした。

た の し か っ た で す … !! ( ̄ワ ̄;;;
 

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