わたし と あなた と あなたたち と
日の出と日の入りを同じ場所で見届ける。
姫乃は布団から見ることの出来る限られた風景である、窓の外の様子を見ながら不思議な気持ちになった。
風邪をひいたのはいつぐらいぶりだろうか。
「…熱い…うーん、寒い…」
頭痛よりも、喉の痛みや咳よりも、じりじりと病原菌と戦う自分の身体が発する熱に姫乃は魘されていた。高熱になればなるほど、汗でもかいて早く治ってしまえば楽なのにと思う。枕元にあるスポーツドリンクに手を伸ばしながら、すっかりしゃがれてしまった自分の声に顔を顰めた。
「…ヒメノ入るぞ」
「エージ君?」
ぼんやりする視界でその姿を探す。扉の方から壁を抜けてきたエージが、アズミと一緒に心配そうな顔をしながら姫乃をのぞき込んだ。
「ヒメノ…だいじょうぶ?」
「大丈夫だよアズミちゃん…。心配かけてごめんね?」
「バカ、んな気使ってる暇があれば早く治せよ」
「うんそうだね…」
小さくため息をついて目を閉じる。熱に浮かされたままでキョロキョロと視線を彷徨わせるのは疲れるから仕方が無いのだが、二人にとってはその仕草がひどく不安にさせた。
「明神、いまかえってきたから、すぐくるとおもうよ」
「…アズミ、うるさくしちゃ悪いからいこう」
「ありがとうね、二人とも」
うっすらと微笑むと、エージがとても複雑そうな顔をした。
辛そうにしている姫乃を見るのは苦しいけれど、もうそうして病になることも無い自分の身を考えてしまうのも苦しかった。普段一緒に居て気にすることのないそういった差異を、改めて目の当たりにすると。
元気のない姫乃をみて泣きそうになっているアズミをゆっくり抱え上げ、エージは部屋を出た。唯一彼女を看ることの出来る管理人に、後は任せようと思う。
助けてやれたらいいのになんて、思うだけ虚しくなるのはわかっている。でもそう思えるだけまだ自分は大丈夫だ、とも思う。彼女がくれる暖かみや、明るさを、ちゃんと忘れずいるぞ、と胸を張れる。
「ひめのん…熱少しは下がった?」
ひやりとした手のひらが、額に触れる。それが外気によって冷えてしまったからなのか、自分の額が熱いからなのかはわからない。でもそれが明神のものだということだけは、疑いようのない事実だと姫乃は知っている。
「明神…さん」
薄く目を開けると、閉じたままでいいよ、というように額から降りてきた手が瞼の上を撫でた。
「リンゴすり下ろしたから、少し食べられるかな」
「ありがとう…」
普段は自分の為に自炊などしないこの管理人が、慣れない手つきで台所に立っているのは少し心配だったけれど、お粥も果物もそれほどの変貌を遂げることはなく姫乃の元に届けられる事が多かったし、もしかしたら本当は料理だって苦手では無いのかも知れない、なんてどうでもいいことを考えた。
口に運ばれるスプーンのペースも、隣で薬を用意する仕草も、何故か落ち着いて見えてしまって、姫乃は少し意外だった。
もう少し、慌ててくれるかと思っていたから。
「明神さん、うつったら困るからもういいよ?」
「そんな簡単にうつるほど柔な鍛え方してません。病人は余計な心配してないで、治すことだけ考えてればいいの」
「…むー」
「汗だいぶかいたな…着替える?」
「え?」
前髪を撫でて湿った頬に手の甲で触れた後、明神はそんな事を言った。
言われた意味を計りかねた姫乃が小さく問い返すと、自分の言った言葉の意味を理解して明神は少し焦った。
「さ、さすがに手伝えないから、起きて貰えないと困るけど」
「…そうだね」
自分で出来るから後で、というと、明神は軽く咳払いをして了承した。そして何を思ったのか姫乃の机の上に置いてあった携帯電話をとってくると、枕元に置いて納得したように頷いた。
「何かあれば、管理人室に電話するといいよ。普段だったら上から呼ぶだけでも聞こえるけど、そんな大きな声出せないだろうし」
本当は一晩中ついていてあげたいけど、さすがにそうもいかない。明神の心配を隠したような笑顔にそんな声を聴いた気がして、姫乃は不謹慎だと思いながら嬉しくなった。
「それから…」
「?」
ふと明神が姫乃から視線を外した。じっと入り口の方を見つめて、諦めたように片眉を上げる。
「廊下にガクが居るみたいだから、構わなければ入れてやって。うるさかったら追い出していいから」
「え、ガクリン?」
まるで呼ばれるのを待っていたかのようなタイミングで、顔だけが壁からにゅっと現れた。明神の姿を見つけて多少顔をしかめたものの、姫乃と目があった事で表情が一変した。
「…ひめのん、具合は?」
「うん、大丈夫。みんなに心配かけてるね、早く治すから」
「んじゃ、俺下に居るから。ガク、何かあればすぐ呼べよ」
「うるさい、お前はとっととひめのんの飯でも用意してろ」
しっしっとピコハンを持った手で追い払う仕草をされ、多少ムッとしたようだがそこは病人の前。明神はリンゴの入っていた器を持って立ち上がると、もう一度姫乃に「何かあれば電話して」と言った。
部屋に入ってきたガクの後からツキタケが顔を出す。いつものように一緒に歩いてくるのかと思いきや、ちらっと姫乃の方に視線を向けただけでそれ以上は近づいてこない。
「アニキ、俺も下にいますよ」
「ああ」
「ねーちゃん、お大事に」
短く、だけど表に出せる最低限の気づかいを。
自分に気を使ったのだろうか、それともガクに気を使ったのだろうか。計りかねた姫乃が「…ガクリンいいの?」と見上げると、ガクは小さく頷いて姫乃の枕元に座り込んだ。
「熱、下がった?」
「んー…うん」
「ホントに?」
「…ごめんなさい夕方からまた上がりました」
布団を鼻の上までかぶせて、申し訳なさそうに姫乃が謝る。ガクは知ってるとでも言いたげな表情をしたが、特に言及はしなかった。
「あ、そうだ着替えようと思ったんだっけ…」
「なら俺はもう行くから」
立ち上がろうとしたガクに、姫乃は小さく声をあげると手が届く距離にあったハンマーに触れた。
「?」
大した力はかけていないけれど、姫乃が触れているだけでやたら重量が発生する気がするのは何故だろう。そんな事を考えていたガクに、姫乃がぽつりと言う。
「また、来てくれる?」
「当然」
一瞬の間も置かずに返した返答に、姫乃は照れたように笑った。
いつもより、数段弱々しくはあったけれど。
「ひめのんが静かだと、この家って火が消えたみたいだから」
「えー…?それって私うるさいってこと?」
「違う」
再びしゃがみ込んだガクが、きょろっと動いた姫乃の視線を遮るように、瞼の上に手のひらで影を作った。
「ひめのんは、この家の灯火だから」
「…?」
触れることの出来ない額に、触れることのない唇を落とす。
感触が無い為姫乃には何が起きたのか把握出来なかったようだが、少しだけはにかんだガクに、何かを感じ取って頬を染めた。
「元気になったら、また日向ぼっこしよう」
今度こそ背中を向けて部屋を出ようとするガクに、遅いと思いつつも小さく返事。そのまま布団を頭まで被って、やたらと熱く感じる頬を他の熱と一緒くたにしてしまおうとする。さっきまで肌寒いくらいだったのに、どういうことか。
風邪をひくのは嫌いだし、自由に動き回れないのは不自由だ。
でも、それでも。
「…みんな、優しいな」
今この時だけはうたかた荘の中で自分が中心になっていることを、申し訳なくも嬉しく思う。心配してくれる人が居る、そのことが。
「…ひとりじゃなくて、よかったな」
余計な思考回路が動かない今だからこそ思う。
「私…幸せだよね…お母さん」
自分の幸せの欠片はいつでもすぐ側にあるのだと。
小さな喜びが、生きる糧になるのだと。
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